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ベトナム クアンチ省 クアンチ町
訪問日:2016年4月中旬 『大陸西遊記』~
ベトナム クアンチ省 クアンチ町 ~ 町内人口 3.3万人、一人当たり GDP 4,200 USD(全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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クアンチ要塞の 西門
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クアンチ要塞内にいた ”ヤシの実”泥棒たち
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クアンチ(広治營)要塞の 歴史
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ベトナム戦争の 大激戦地
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銃痕生々しい、クアンチ要塞の北門
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クアンチ要塞の 南門
クアンチ町(Quang Tri)は、クアンチ(広治)省の省都
ドンハ市
から南へ 12 kmの地点にある。国道 1号線を
フエ
へ戻った 12.5 kmの地点である。下地図。
朝 10:30、ホテルからタクシーで、
フエ市
の王城の北西側にある アンホア(An Hoa)・バスターミナルまで移動する。 市内からかなり距離があった(20分)。10万ドン。
ここから、11:00発の ドンハ(Dong Ha)行きの都市間バスに乗車する(下写真)。 だいたい、20分に一本ずつ運行されているようだ。運転手横の助手席に座らせてもらった。
この都市間バスだが、3人がけ × 4列のミニバン形式で、道中で人の乗り降りがある。出発時間ギリギリまで積極的に乗客を勧誘した後、11:00にガラガラのままバスは出発した。途上で、何度か乗客の乗り降りがあった。
出発から 55分ぐらいで、クアンチ町に到着する。幹線道路の
国道 1号線
上で下車する(下写真)。
ここから炎天下、徒歩 20分を歩く。クアンチ町の中央市場のあたりに、この町唯一の信号機を目にした。
さらに直進すると、右手に堀らしきものが見えてくる。そのまま右に入ると、それが「クアンチ要塞跡」だ。
ちょうど西門あたりに到着したが、いちおう、閉鎖されていた。下写真。
クアンチ要塞だが、堀と 城壁、稜堡(バスティオン)の外壁がきちんと保存されており、 またに下の航空写真にある通り、きれいなフランス式城塞そのままが姿を現した。
西門
こそ閉鎖されていたが、崩れた 城壁の横から普通に入れるので、そのまま要塞内へ入ってみた。
要塞跡は公園となっており、バナナやヤシの木がたくさん生えている。そこで、ヤシの実泥棒たちが見えたので、西門から自由に出入りしても、大丈夫なんだと確信した次第である。
下の阮朝時代の地図では、ここに
広治營
が設置されており、また東西南北に配された現在の要塞跡の城門から推察してみても、 当時から一定の巨大集落があり、その中央部に要塞が建造されていたことが分かる。
ただし、要塞は南門が最も立派に建造されていたので、旧市街地に対峙した正門として 機能していたのであろうと推察できた。タクハン(Thach Han)川沿いから、要塞の西門と南門にかけて、 主な集落地が広がっていたに違いない。
そもそも、クアンチ要塞(広治營)自体は、2代目皇帝・明命帝の治世下の 1824年に建造され、 肇豊府、登昌県、海陵県、明霊県の一府三県を統括する地方行政の拠点とされた。
西山党(Toy Son)の農民反乱の平定後に建国された阮朝は、その建国過程からフランスの協力を 受けており、その後も政治的、軍事的に多くの影響を与えられていく。この要塞も、 最初からフランス流の稜堡式城郭スタイルで建造されている。
下の絵図は、1886年~1889年当時の様子を示す。すでにフランスによりインドシナ植民地に併合されていた時代である。
ベトナム戦争時
、当要塞に立てこもる北ベトナム軍を、南ベトナム軍が 81日間に わたって猛攻を加えたエピソードは有名だ。下絵図。
1972年春、南ベトナムに侵攻していた北ベトナム軍は、 イースター攻勢と呼ばれる一大攻勢を南ベトナム全土で展開する。 これにより南北国境にほど近い 城砦都市クアンチは陥落し(下地図)、北ベトナム軍はここを拠点に更なる侵攻を始めんとしていた。
これに対し南ベトナム軍は同年夏より第 1軍団および機動部隊のほぼ全ての戦力をクアンチに投入し、 奪われた要塞の奪還を目指すこととなる(クアンチの戦い)。 同時にアメリカ空軍も 大空爆作戦 "ラインバッカー作戦" を決行し、以後 3ヶ月に渡る壮絶な戦闘の末、 南ベトナム軍は多大な犠牲を払いながらもクアンチ要塞の奪還に成功する。
その際、要塞は廃墟と化したわけであるが、その時の生々しい銃弾の痕跡が
北門
に残されていた。下写真。
要塞内には、一部の軍事施設跡も現存していた(北門の手前)。下写真。
現在、この北門を含め、東門と西門が閉鎖され、
南門
のみが出入り口となっている。
下写真は、現在と戦争前後の南門の様子。
上の古写真は、南門の近くにあった 2階建ての歴史博物館に展示されており、 その他、戦争時代の遺物や写真が数多く保管されていた。
また要塞公園の中央には慰霊塔が建てられ、中に太鼓が設置されていた。自由にたたける。
上写真左は、南門上から城壁と堀を眺めたもの。
要塞を囲んでいた防壁は、煉瓦が崩れはがれた状態で、所々に部分的に残されていた。上写真右。
そのまま南門を出ると、ちょうどタクシーが待っていたので、これに乗って、
ドンハ市
まで行くことにした。
直線距離 12.5 km 、20分、17万ドン(途中、都市間の検問所あり。検問料 20,000ドンは運転手負担で、タクシー代金への上乗せはなし)であった。
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