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ベトナム ダナン(峴港)市
訪問日:2016年4月中旬 『大陸西遊記』~
ベトナム ダナン(峴港)市 ~ 市内人口 100万人、 一人当たり GDP 4,200 USD (全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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マーブル・マウンテン(五行山)
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チャンバ博物館 と ミーソン遺跡
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ベトナムも頑張って「南沙諸島」領有権を アピール中!
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ダナン教会 と ダナン市場
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ダナン歴史博物館 と ディエンハイ要塞
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ハイヴァン峠 と 城塞・戦争遺跡
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Tien Sa(仙沙)地区と フランス・スペイン連合軍の 戦没者共同墓地
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アンハイ要塞
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世界でも稀有!ダナン空港の 到着ロビー
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ダナン市の 歴史
午後 14時、
ホイアン
のホテルでタクシーを呼んでもらい、
ダナン
ヘ移動する。30万ドン。約 40分。
途中に、マーブル・マウンテン(五行山)が見えてくる。下写真。
ちなみに、この山はダナン空港を離発着する際、飛行機の窓からでも見えた。 海沿いの平野部に忽然と立つ孤高の岩山がそれである。
ダナン市内のホテルに 15時前に到着し、少し休憩してから、 近くの チャンバ博物館(閉館は 17:00)を訪問した(入場料 40,000ドン)。
チャンバ(占婆)王国の神殿跡地である
ミーソン遺跡
(ダナンの南へ約 65 kmにある)に関する解説が詳しく施されていた。
インド方面のヒンズー教や仏教の教えが混在した、特殊な宗教世界が発達していたようである。
また、神殿の門番役として設置されていた石像は、 日本の東大寺南大門を護持する金剛力士像を彷彿とさせられた(下写真左)。
875年、チャム族国王の インドラヴァルマン 2世が、当時、王都としていた Trà Kiệu(現在の クアンナム州の Duy Xuyen区。ホイアン市の南西部)から 30 km西にある盆地に、神殿群の建造を開始する。当地をチャンパ族の仏教聖地と定めた(Dong Duong と命名)。
実際には、すでに 4~5世紀に初期的な祭事施設が建設されていたことが分かっているものの、現存する最古の遺跡は 7世紀に設置されたものという。
一部に中国やインド文化の影響が見られるも、当地の石像群はチャンバ族独自の世界観が大いに繁栄された文化遺物となっていく。高さ 28 mにも及ぶ 聖殿タワーも建設されていた(下写真)。
石や煉瓦による立像や建造物は全部で 70以上もあったという。下は発掘現場一帯の模型。
1902年秋、フランス極東研究所の建築学者 Henri Parmentier(1871~1949年)と 写真家 Charles Carpeaux (1870~1904年)により発掘調査が進められ、貴重な遺跡群が世界に発表されることとなった。
しかし、第一次インドシナ戦争(対仏独立戦争)および、第二次インドシナ戦争(対米ベトナム戦争)を通じて、この歴史的な遺産は壊滅的な打撃を受けてしまう。
なお、本博物館はひたすら
石像群
が展示されているわけで、あまり見るところがない。見学は 15分前後で終わる。
その博物館横には、古代ベトナム王朝の地図や清王朝の地図などが掲げられていたが(上写真右)、これは「南沙諸島」がかつては古代中国の領土下にあったとする中国の主張は誤りで、古代ベトナムの領土であったことを示す古地図の資料展示であった。どうして、ここにあるのか不思議だったが。。。
この全く同じ展示物が、
フエの 王宮(皇城)
にもあった。
要は、外国人観光客らにアピールする目的で設置されているようで、特に、中国語で記されているのは、中国人訪問客に読んでもらいたいものなのだろう。
そのまま徒歩で、
ダナン教会
(1923年建造)へ移動してみた。教会では、大規模なミサが行われていた(この日は日曜日だった)。下写真左。
その斜め東向かいにある
ダナン(ハン)市場
(上写真右は、ハン市場の古写真)から、バイクタクシーにて 15,000ドンでダナン歴史博物館へ移動した。
このダナン歴史博物館は、ディエンハイ要塞 (Thanh Dien Hai) を改修して開設されている(1988年~)。博物館の入場料 20,000ドンで、17時閉館という。
館内は、一帯に生息する魚介類のホルマリン漬けから展示が始まる。 さすが大陸の河川だけあって、なかなか巨大で奇怪な魚類が多い。
先史時代の地形などの解説を経て、中世、近世、近代、ベトナム戦争時代の展示が続いていく。実に 3階分、まるまるが歴史展示となっており、非常に内容が濃く満足した。
【 ディエンハイ(Dien Hai)要塞 】
もともとは、ベトナム阮朝・初代皇帝の 嘉隆帝(阮福暎)により、 1813年に、国内 11ヵ所目となる水軍拠点が設けられたことに端を発する。当時は、 現在地よりもさらに 600 m 北に位置し、ハン川のより河口部に接近しており、ダナンの港町を 監視・防衛する役割を担うものであった。
また同時に、半島の先端部分に位置する Hai Dang 岬にも、小さな軍港が設けられていた。
続く 2代目皇帝・明命帝(Minh Mạng)の治世下の 1823年、軍の駐留拠点が現在の場所に移転される。そして 1834年、 阮朝の建国時からの後見人として影響をもったフランス流を導入し、 現在に見られるような稜堡式城塞が本格的に建造されることとなる。一個營団(500名)の部隊が常駐した。
しかし 1858年、フランス・スペイン連合軍によるダナン侵攻の折、攻撃初日(9月1日)のうちに占領されている。
現存する城塞は、周囲 550 m に高さ 5 m の城壁と深さ 3 m の堀が囲む四角形となっている。下絵図は、フランス占領時代の 1888年当時の要塞付近の様子。要塞の城門は、南側に一カ所だけであったことが分かる。
下写真は、現存する要塞の正門跡。目下、事務所ビルの敷地に埋もれ、見学することはできない。
正方形の要塞は、その四辺に バスティオン(稜堡)を有しており、その形状はそのまま保存されていた。城壁は低いわけであるが、ハン川と海岸側の城壁は異様に厚みが加えられていた。
バスティオン(稜堡)の一角には、1975年3月29日、北ベトナム軍の総攻撃により、 ダナンの街が完全占領された際、ダナン空港で接収された米軍の軍用ヘリ UH-1が展示されていた(上写真右)。
ちなみに、ディエンハイ要塞からハン川を挟んで対岸にも要塞が築かれており、 An Hai 要塞といった。これは残念ながら現存していない。
下は、フランス 占領時代(1889年以降)のディエンハイ要塞。要塞内には 病院(Hopital)が、要塞すぐ外には 教会(Eglise)が開設されていたようだ。
17:30ごろから徒歩で帰路につき、Nguyen Chi Thanh通りの南下の途中、韓国料理屋で飯を食べた。シ―チキンサラダと寿司で、136,000ドンだった。
そのまま、さらに南へ歩を進めると、日本料理屋を発見した。
カレーライスが 115,000ドン、ラーメンが 95,000ドンぐらい。ちょうど、Nguyen Chi Thanh 通りと、Hung Vuong 通りの交差点付近だった。
周囲には、マッサージ屋やカラオケ店がひしめいていた。
その他にも、ダナン市内では各所に日本料理屋が見られた(ハン川沿いの Bach Dang 通りなど)。
夜食は屋台で食べたが、全く腹に当たることはなかった。30,000ドンや 38,000ドン、40,000ドンで、ご飯は自由におかわりでき、下痢にならない程度の衛生環境が保たれているのは、大陸中国では考えられないレベルだ。ひと通りの 定食(お茶、スープ、ご飯、魚 or 鶏肉、サラダ)が食べられ、味も十分に満足で、 コスト、質、サービスともにすばらしかった。
なお、ダナンでは、韓国語の看板や自動車などを度々目にした。韓国人の出張者や滞在者が結構、いる様子だった。
翌朝は、騒々しいメガホンの声で目が覚めた(月曜日)。
ホテルの近くにあった地元の学校の先生による朝礼みたいだった。もう 6時半には、校庭に生徒が集合し、7:00前には体育の授業を始めていた。
日中が暑いこの国では、早朝の時間に体育や外回りの行事を片付けるのであろう。
お昼過ぎにホテルを出発し、昨日と同じダナン教会と ダナン(ハン)市場の交差点から、 バイクタクシーをチャーターする。ハイヴァン峠から、Tien Sa地区までの往復で、30万ドンで交渉成立できた。
ハイヴァン峠
へ向け、片道 45分、ひたすらバイクは走る。最初は平坦な海岸線沿いの道を、後半戦はひたすら山道を登った。
山道も半分を過ぎたころには、空気の質が変わるのを実感できる。冷たい空気が山頂から吹きおろし、明らかに平地部の空気と違うのである。とても涼しい。下写真左は、そんな冷涼な山風を受けて白く変色している木々と、山裾に広がる海岸線。
途中、自然のままのビーチや山崩れの跡などを目にしながら、バイクは約 15分の登山ルートを登りきる。
登山中、ヤギの群れや、水牛の群れに何度もすれ違った。 峠道は、巨大なトレーラーも何台も通行しており、彼らは皆、こうした放牧中の家畜をよけて通行する(上写真右)。
眼下に広がる山と海岸線が織りなす絶景は、筆舌に尽くしがたいほど見事だった。
【 ハイヴァン 峠(Hai Van Pass) 】
ここは、ベトナムの西側国境を縦走する急峻なアンナン山脈が海岸まで張り出し、海岸線沿いの陸路が存在しない地域となっている。
ベトナムの歴史において常に戦略的な要地であり、北の大越国と 南のチャンパ王国の国境線を成していた。
ベトナム戦争時には、南ベトナム軍の戦略的要地でもあった。当時、米軍によりレーダー基地とミサイル発射台が建設されていたという。
かつての阮朝の城壁資材は、ベトナム戦争時の 米軍・南ベトナム軍用のトーチカなどへ転用されていたようで、関所城門とともに、この戦争遺跡も残る。
遺跡の駐車場には、飲食屋さんやお土産物屋が並ぶ。その中にトイレがあったが、 これも米軍のトーチカを利用して設置されているものだった。
かつて存在した関所の長城部分は破壊されてしまい、現在は関所の城門跡が 2ヵ所、残るのみである。
残された城門には、南面に「明命 7年吉日 天下第一雄関」の、北面に「海雲関」の文字が彫りこまれていた。
つまり、阮朝 2代目皇帝・明命帝(Minh Mạng)の治世時代の 1826年に建造されたものということだ。阮朝時代、順化省と 広南省の境界線を成していた。
その切り立った山脈には常に雲が立ち込め、また上には真っ青の空が、真下には真っ青な大海原が広がっており、そこから海雲嶺と命名されたという(標高 496 m)。
阮朝の王都
フエ
は、ここから北へ 70 kmである。
【 Tien Sa(仙沙)地区 】
さて下山を始め、そのまま、50分かけて半島に突き出た Tien Sa(仙沙)地区を訪問する。
下写真左は、ダナンの海岸沿いにあった小山。かつて、阮朝により海岸線の防衛拠点の一つが設置されていた。
ダナン中心部を横目に大橋を渡り、
ティエンシャ地区
を目指す(上写真右)。
上写真は、大橋上からダナン市街地を臨んだもの。このハン川の河口部を、 1858年、フランス・スペインの海軍が侵入し、艦砲射撃を加えたのであった。
さてさて、コンテナ・ターミナルがある海岸地帯を北上し、 多くのトレーラーと行き交いながら、道路の最終地点まで目指す。
途中、海軍学校があった。この学生寮が道路沿いにあり、学生らがベランダでくつろいでいたり、 洗濯物を並べている姿が生々しく、微笑ましかった。
このエリアは物流施設、および海軍学校関連施設以外は、住民は皆無のようだった。
この最終地点の道路脇に、フランス・スペイン軍の戦没者 共同墓地(Nghĩa trang I-pha-nho)があった。下写真。
1858年の フランス・スペイン連合軍によるダナン上陸戦に始まり、 1860年までの一連の作戦において戦死した兵士らを埋葬した墓地である。
小さな教会風の小屋と複数の墓標が建てられており、フランス語で「多くの戦死者、この丘に眠る」と記されている。
フランス・スペインによって造られた墓地としては、ベトナムで唯一の墓地遺跡となっている。
また、この半島の山の頂上には、かつて狼煙台があった。 さらに高地の山頂には、米軍基地(レーダー)もあった。ここからダナンを一望できるはずだが、 バイクタクシーにはもう夕方で時間も遅いということで同行を
拒否
された。
【 An Hai 要塞 】
仕方ないので、市街地へ戻る道中、アンハイ要塞の跡地を訪問してみる。
ベトナム阮朝 初代皇帝・嘉隆帝(Gia Long)がその 在位(1802~1820年)期間中に、海岸防衛ラインの構築の一環として建造したという。
1858年9月1日、フランス・スペインの連合軍がダナン一帯のベトナム側の防衛拠点に艦砲射撃を加える。わずか 30分足らずの射撃でベトナム軍は大損害を被り、そのまま フランス・スペイン軍の上陸を許してしまうこととなる(下地図左)。
下絵図右は、阮朝時代の兵士の様子。
直後に フランス・スペイン軍はダナン港一帯の軍事施設を占有するも、1860年には軍拠点を南のサイゴンへ移転することとなり、阮朝時代からの要塞や水軍拠点はそのまま荒廃していくこととなった。
現在、その海岸防衛ラインの一角をなしたアンハイ要塞跡は全く残っておらず、おそらく、中華風の廟や旧家屋が立ち並ぶ一帯に埋もれてしまっているに違いない(上写真)。しかし、An Hai という名前を冠したショップや路地などを目にした。地名にはしっかり息づいているということだろう。
下絵図は、1859年5月9日に描かれたもの。この当時は、まだアンハイ要塞跡が残っていたのだが。。。
ここで、バイクタクシーとおさらばした。
ここまでで 2時間半を要したので、バイクタクシー運ちゃんには、 30万ドンの他に 3万ドンもチップであげておく。かなりの距離をご苦労様でした。
ダナン空港に到着し、ベトナムへの 入国(日本との時差は 2時間)のため、イミグレ検査を受けると、
「前回はいつベトナムに来ましたか??」 と質問された。
同じ質問を、航空会社カウンターで搭乗チェックンする時もされた。
最初は、なぜこんなことを質問するのだろうか?と疑問に思ったが、要は若い女性との付き合いで、何度も入国を繰り返す外国人をチェックしているのだろう。特に韓国へ嫁いだ若いベトナム人女性らが、現地で家庭内暴力を受け、大いに苦しめられているといい、ベトナム政府は 20歳以上の年齢差のある結婚は原則、禁止する法令を発令したという(2016年現在は韓国人との結婚の場合のみ)。
ベトナム旅行中には、大いに年齢差のある白人男性を同伴する
ベトナム人女性
を、やはり何組か目にした。
そんなことを考えながら、イミグレを通過し、税関で荷物を検査機に通した後は、到着ロビー ! なわけだが、なんと既に屋外であった。今まで旅した中で、唯一のパターンだ。
世界のどの空港でも、到着ロビーまではクーラーが効いた屋内になっているはずだが、ダナン空港はもうすでに屋外であった。外の風が吹き抜ける中で、数軒の店舗が並んでいた。
空港に到着して荷物回収したら、とっとと空港から出て行ってください、と言わんばかりの環境だった。
【
ダナン(峴港)の 歴史
】
秦朝滅亡に伴い、中原が乱世の渦中にあった紀元前 203年 に建国され、南シナ海一帯の南海貿易を独占し、巨大な経済力を背景に独立を保ってきた 南越国(本拠地:
広州
)も、ついに紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により攻め滅ぼされてしまう。
武帝は南越国の旧領を 9郡に分割する ― 南海郡、蒼梧郡、郁林郡(鬱林郡)、合浦郡、珠崖郡、儋耳郡、交趾郡、日南郡、九真郡(郡都は 胥浦県城【現在の ベトナム・タインホア省の 省都タインホア市から北西へ 5 km】)である。
この時代、前漢王朝は、現在のダナン市の北に横たわる急峻な 山脈地帯(
ハイヴァン峠
)までをその版図とした。下地図。
光武帝(在位 25~57年)により後漢朝が建国された(25年)ばかりの 40年3月、交趾郡を地盤とした地場豪族らにより、独立運動が勃発する。世にいう 徴姉妹(徴側と 徴弐の姉妹) の乱である。
合浦郡、九真郡、日南郡一帯の諸県や諸豪族たちも合流し、巨大勢力が結集される。
姉の徴側は自らが 女王「徴王」となり、自身の故郷である峯州 麋冷県(ベトナムの 首都ハノイ市メリン県)城内に宮廷を建造し、独立政権の本拠地とした。前漢時代以降、麋冷県城には 交趾郡都慰(軍本部)が設置されており、交趾郡都の羸𨻻県城とともに、交趾郡の中心都市を成していた。下地図。
これに対し、後漢の光武帝は 41年、建国の功臣で絶大な信頼を置いていた 馬援(後漢末期の三国時代に活躍する 馬騰・馬超親子の祖先)を伏波将軍に任命し、 2万の兵士から成る南征軍を送り込む。
洛陽からの遠路と、ベトナムの高温多湿に苦しみながらも、ようやく 42年4月、馬援の率いる朝廷軍は交趾郡入りを果たす。そして、浪泊の戦いで徴姉妹の南越反乱軍を徹底的に撃破し、徴姉妹は共に捕縛され、処刑される。
引き続き、馬援は残党狩りを実施し、中部ベトナムの
ハイヴァン峠
を越え、原住民らが跋扈するダナン以南の征服を試みる。
しかし、ベトナムはさらに南へ広く、馬援はいちおうの区切りとして、自身の征服地の最南端の地に 2本の銅柱を立て、ここを後漢王朝の南の国境線としたと伝承されている。
同時に、ハイヴァン峠以南の占領地を統括すべく、 最南端の県役所として 象林県(現在のクアンナム州 Duy Xuyen区。
ホイアン
市の南西部)を新設する。下地図。
しかし、象林県城は援軍要請が難しいハイヴァン峠の南側に位置したこともあり、孤立無援の中、原住民らの反乱に度々襲われ、何度も官舎を焼き払われたという。
そして、ついに後漢末の 194年、象林県の 人事局長官(功曹)の子であった 区逵(別名:区達、区連、釋利摩羅)をリーダーとする反乱軍が象林県長官を殺害し、当地を完全占領すると、 直後に 旧象林県城(現在のクアンナム州の Duy Xuyen区)を王都とする 林邑(ラムアップ)国を建国し、完全に漢王朝の支配から脱することとなる。
三国時代に呉の孫権が華南を支配すると、日南郡の南部一帯はすでに林邑と通称されていたことが史書に記述されている。下地図。
248年、九真郡一帯の豪族らは 23歳の少女であった 趙嫗(趙氏貞)を 頭領「麗海婆王」に祭りあげ、結集して九真郡内の呉の勢力打破を図るも、交州刺史に任命され荊州から駆け付けた陸胤が鎮圧軍を率いて南下すると、半年に及ぶ激戦の末、平定されてしまうこととなった。
これにあわせ、呉は日南郡をも再併合し、再び、その勢力を
ハイヴァン峠
まで回復させている。
しかし以後も、林邑国は徐々にその勢力を北上させ、最終的に南北朝時代の 南斉朝(479~502年)のころには、日南郡全体を併合するに至る。
劉宋朝が建国された 420年、初代皇帝・武帝が交州刺史の杜慧度を派遣し、林邑国の征伐を企てると、林邑国はすぐに投降し、劉宋朝に朝貢するようになるなど、一時しのぎの服従を繰り返しつつの気の長い勢力伸長であった。下地図。
林邑国はバラモン教を国教とし、漢民族からは完全なる異民族として認識されていた。
そんな林邑国であったが、隋朝 2代目皇帝として煬帝が即位すると、劉方を大将軍とする南征軍が派遣され、ついに攻め滅ぼされてしまう(605年)。直後に、隋朝により林邑郡が新設される。管轄下には、象浦県、金山県、交江県、南極県 が配された。下地図の青ライン。
しかし、隋の占領軍はわずか半年で帰国してしまったため、林邑国の残党により、3年後、すぐにまた同王国が再建されることとなる。
唐代の 757年、林邑国は国号を チャンパ王国(占婆国)へ改称する。王都は、旧象林県城跡に開設されてきた Trà Kiệu(現在のクアンナム州のDuy Xuyen区。
ホイアン
市の南西部)がそのまま継承され、その王都は中国語で占城と通称されるようになる。
時は下って 10世紀に入ると、チャンパ王国の王都は、 現在のビンディン省クイニョン付近に遷都され、佛誓城(ヴィジャヤ)と 命名されたことにより(下地図)、以後、占城ヴィジャヤ王朝と通称される。
1306年、チャンパ王国(占城ヴィジャヤ王朝)は 対中国・モンゴル勢力の南下に備え、婚姻同盟を締結すべく、北ベトナムにあった大越国へ ハイヴァン峠以北の 地【現在の
フエ市
や クアンチ(広治)省の一帯】 ― 鳥州 Chau O と 里州 Chau Ly ― を譲渡し、代わりに大越国の上皇の妹を皇后に迎える。下地図。
大越国の版図下に組み込まれたハイヴァン峠以北であるが、翌 1307年、大越国(陳朝)により、鳥州と 里州(今の
フエ市
)は、それぞれ 順州(Thuan Chau)と 化州(Hoa Chau)へ改名される。
この後、北ベトナム地方から大量の移民が当地へ入植されることとなった。
しかし、富裕な土地柄を失ったチャンパ王国の不満が高まり、再び、大越国との間で、度重なる戦端が開かれることとなる。
最終的にチャンパ王国の要請を受けて、1407年に明の永楽帝がベトナム遠征を実施すると、ライバルの大越国はすぐに滅亡してしまう。その勢力圏はそのまま明王朝に併合された。
明朝の統治時代、両州は合併され 順化州(今の
フエ市
)が設置されるに至る。
しかし、間もなく北ベトナムの諸豪族の連合軍の反攻により明軍は撤退を余儀なくされ、そのまま北ベトナム地方は内戦時代に突入する。上地図。
この内戦時代を通じて、ベトナム中部には、さらに多くの移民が流れ込むこととなった。
最終的に、この政争に敗れた有力貴族の一派の阮潢が、 南部の辺境の地であった 順化州・広南州の長官として左遷されると、順化州城(今の
フエ市
)を本拠地とし、半独立政権(広南国)を樹立する。以後も引き続き、北ベトナムの有力貴族である鄭氏や 莫氏らと戦いながら、ベトナムを南北に二分する勢力圏を築き上げていく。
この頃から、(広南国)王都
フエ
に近い港湾都市として、ダナン市一帯は急成長を遂げる。明代前期に鄭和の大船団がアフリカ大陸を往復した際も、当地にも寄港したと推察されている。上地図。
ココ川により、ダナン港は
ホイアン港
と河川交通で直結されていた(下地図)。16世紀半ばまで、ダナン港はホイアン港へ至る前線の港町として、荷物の一部取扱いや船舶の修理などで寄港される場所でしかなかった。しかし、19世紀までにココ川で土砂が堆積し(下地図)、ホイアン港との河川交通が遮断されると、深い接岸港を有するダナンの重要性が一気に高まることとなる。
17~18世紀ごろまで、ホイアン港は当時のベトナムでの三大都市の一角を占めるほどに繁栄していたわけであるが、 1771~1802年に全国を揺るがしていた西山党 Tay Son の農民反乱で多大な被害を受け、その復興に手間取る間に、北のダナン港がその地位をとって代わったのだった。
広南政権を樹立した阮潢の後裔である 阮福暎(グエン・フック・アイン)が、ベトナム最後の 王朝・阮朝を建国すると(1802年)、王都フエにより近いということで、ダナンの 外交、通商上の港町としての地位は確固たるものとなっていく。
当時、ダナンには 2つの港湾エリアが開設される ー Tien Sha(仙沙)と ハン川の河口部である。
特に、
Tien Sa(仙沙)地区
は、今でも貨物ターミナル港として健在だ。
一方で、かつての 通商・外交港湾都市 No.1のホイアンは、ベトナムの歴史から忘れ去られることとなった。
なお、 ココ川経済系の 崩壊(上地図)以降も、中部ベトナム地方の中核都市として、 旧チャンバ王国(1471年滅亡)の王都跡であった 広南營(現在の クアンナム州の Duy Xuyen区)や、奠磐府(現在の ホイアン市)は引き続き、 存在し続けたようではある。下地図。
この時代、広南營の下には、升平府(醴陽県、河東県、濰川県)と 奠磐府(延慶県、和栄県)の二府五県が配されていた。
そんな阮朝時代後期の 1858年9月1日、ベトナム北部でのカトリック宣教師殺害事件を口実に、 フランスのナポレオン 3世が主導し、ダナン港が フランス・スペイン連合軍(戦艦 16隻、兵士 2,350名)に占領され、植民地化が開始される。
しかし、散発的な民衆反乱が度々勃発し、18か月半でフランスは当地の占領計画を放棄せざるを得なくなり、撤退に追い込まれている。
しかし 1889年5月24日、ダナンは再び、フランスのインドシア総督府の直轄地に指定され、大規模な開発投資が開始される。同時に、ダナンは 沱灢(Tourane)へ改称され、フランス租界が開設される。上地図。
以後、仏領インドネシアで ホーチミン(サイゴン)、ハイフォンに次ぐ第三位の港湾都市として大発展を遂げることとなった。
第二次大戦中には、日本軍も進駐した。1947年に再び、フランス軍が上陸するに至り、インドシナ独立戦争が勃発する(1954年にダナンより仏軍撤兵)。
独立戦争が共産主義戦争へと意味合いを変える中、1965年3月にはアメリカ軍も参戦し、ダナン港は大規模な 海軍、空軍基地として米軍により強化整備される(当時、南ベトナムで第二の巨大軍事基地となる)。上地図。
1968年6月には、高圧送電線によるマクナマラ防衛ラインが設置され、ダナン市街地は完全に郊外と遮断されることとなる。
1975年にベトナム戦争が終結すると、ベトナム海軍第 3沿海部隊の駐屯基地として再利用された。
1979年、ソ連邦の海軍がダナン軍港の使用権を獲得し、その軍事基地とした。
1996年12月、広南ダナン省が 分離・独立され、広南(クアンナム)省とダナン直轄市へ改編される。 こうして、翌 1997年1月1日より、ダナンは政府直轄都市となる。現在、ホーチミン市に次ぐ、ベトナム第二の港湾都市として、その地位を盤石にする。
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