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宜蘭県 宜蘭市
訪問日:2016年12月中旬
台湾 宜蘭県 宜蘭市 ~ 市内人口 10万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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宜蘭劇場(旧宜蘭座)と 植民地時代から続く 公営市場
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当地最大の祠堂である 昭応宮と 天后宮
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西門(総安門)跡地と 宜蘭河の河川敷、現在の 西門吊り橋
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宜蘭酒工場 と 日本式旧家屋(清代や日本時代の軍駐屯所)
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舊城南路沿いに残る 外濠跡
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宜蘭設治博物館
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月光ショッピングセンター(旧刑務所)と 中山公園の 忠霊碑、防空壕
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南門の跡地と 古城地区の メイン・ストリート「中山路」
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城隍廟 と 楊士芳紀念公園
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北門の跡地と 大繁盛の 肉団子スープ店
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清代の宜蘭庁の行政庁舎跡地 と 陽明大学付属病院
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孔子廟 と 東門の跡地
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東門夜市の 時間差定点観測
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宜蘭市の 歴史
当地には、
台北
からの都市間バスで到着した。 午前中に台北を出発し、正午前には 宜蘭バスターミナルに到着した(129 TWD。1時間強)。下写真左は、台北バスターミナル 4F乗り場。
台北からはすごい山岳地帯を延々と越えて、最後にかなり長い草嶺トンネルを出た 瞬間(10分以上!)、眼前に一気に平野地帯が広がる(上写真右は、バス車窓から見た礁溪温泉郷)。
その風景ギャップは、まさに圧巻だった。
山岳エリアでは、山裾にへばりつくように建つ、古民家群を眼下に見下ろしながらの移動で、 とても興味深かった。日本の温泉郷にも似る、その山間部の集落は、どこか懐かしい感情を抱かせてくれるものだった。
宜蘭バスターミナルは宜蘭鉄道駅の東側にあり、ここから鉄道駅まで 200 m歩き(上写真)、改札の駅員に反対側の改札へ出るチケットをもらって(下写真左)、線路下の地下道を移動した。そして、改札を出るときに、チケットを返却すると、傷害者用のゲートから出られる。
下写真右は、宜蘭駅構内で掲示されていた、日本の山陽電車の 亀山駅(
兵庫県姫路市
)との同名駅を記念したパネル。
さて、反対側の改札を出ると、すぐ左手にある観光センターで地図をもらった。また、自転車で行けるルートを質問してみたが、羅東鎮まで行くにも、直線距離で 9.8 kmもあり、鉄道かバスで巡る方法を進められた。
なお、この日、
台北
では雨が降っていなかったが、山岳地帯から宜蘭平原にかけては、パラパラと雨が降り注いでいた。ちょうど午後には、雨が止み、曇り空のみとなった。
まずは、荷物を置くべく、ホテル探しに入る。
駅前のメイン通りから一本入った、路地の方が値段もリーズナブルだろうという目算の下、康楽路沿いのローカルな民宿っぽい旅館を数軒、交渉してみた。この狭い通りには、3軒のホテルがあり、どこも 700~1,000 TWDぐらいだった。
最終的に康楽路 15号の 福星旅館に決定した(800 TWD)。
肝心な質問である、自転車を無料で貸してくれ、という質問に、オーナーらしき女性が OKを即答してくれた点が大きかった。筆者の訪問時期がオフシーズンで平日だったこともあり、値段交渉も自由だった。しかし、インターネット環境は不安定だったが。
昼食後の 12:50ごろにホテルを出発した。
福星旅館ホテル沿いの
康楽路
から旧市街地へ入ってみた。
古城エリアは、舊城東路、舊城北路、舊城西路、舊城南路の円形で囲まれた一帯で、この環状道路ラインが、かつての城壁と外堀跡を示す。
この康楽路沿いに、廃墟となっている宜蘭劇場の無残な姿が晒されていた(上写真左)。ここは、日本の植民地時代に宜蘭座として開設された劇場跡という(下古地図)。
また、下の古地図に記されている公営市場は、今日でも健在であった(上写真右)。
そして、古城(カバラン【噶瑪蘭】庁城)時代の南北のメインストリートであった
中山路
に至ると、そのまま北上してみる。すぐ右手に 昭応宮(1808年創建。旧天后宮)があった(下写真)。
海の 女神「媽祖」が祀られており、旧市街地で最大の廟所となっている。
そして、文昌路から西へ進んでみると、文昌廟(1818年創建)があった(下写真左)。
その裏手には、岳飛とその母が聖母として祭られている碧霞宮もあった(城隍廟通り。上写真右)。
1895年、日清戦争に勝利した日本が台湾島を接収するに及び、当地の 進士(科挙合格者)楊士芳や 陳組疇らが 呼びかけて、漢民族の 英雄「岳飛」を祀る本廟所が創建されたという(1899年)。
そのまま文昌路と
舊城西路
の交差点まで行きつく。ここがかつての 西門(総安門)跡である。下絵図。
そのまま、すぐ外側に流れる宜蘭河の河川敷を遠望してみる。ここには吊り橋が車道用の陸橋の横に添えられており、なかなか珍しい作りになっていた(下写真)。排気ガスにさらされずに道を歩ける、世界でも珍しい陸橋遊歩道である。
再び、古城エリアに戻り、
舊城西路
を南下すると、宜蘭酒工場(1909年創業。台湾最古の近代酒造工場)が見えてくる(下写真左)。中は博物館も兼ねており、自由に出入りできる。
その横には、日本の昭和の香り漂う洋館があった(上写真右)。これは 台湾菸酒(宜蘭酒廠)の事務所棟らしい。
その向かいに、古い日本式家屋が放置されていた。
いったい何なのかは不明だが、清代は武営所として守備隊の駐屯地だったエリアで、日本の植民地時代も軍隊の駐留施設として再利用され、軍病院も併設されていた。その一部の残骸であろうか???
この旧家屋と 舊城南路との間に、わずかながら残る、古城時代の
外濠跡
が小川公園として整備されていた(下写真)。
ここの向かいに
宜蘭設治博物館
がある(下写真左)。
周辺には日本式家屋が 3~4軒、残されている。 一つは官舎として建設されたもので、後に 農業学校(現在の国立宜蘭大学。当時、台湾では二つ目の農業学校で、校長職は高級官僚並みのポストだった)の校長用の官舎となり、現在は文学館になっている(2004年再建)。
その裏手にある、和洋折衷の建物が宜蘭設治紀念館である(もともとは庁長官の宿舎として建設され、20数代の長官が居住した。1997年再建)。入場料 30ドルを支払う。
これら建物は、西郷菊次郎(1861~1928年。西郷隆盛の長男)が建設を計画し、その 退任(1903年)後の 1906年に完成したという。庭園を含めた総敷地面積は 800 坪。
西郷はその在任期間中、度々洪水を引き起こしていた河川の堤防工事や 架橋工事、学校開設等を手掛け、宜蘭地区の人々にとっては同地の近代化の礎を築いた人物として、高く評価されている様子だった。 県長官職を依願退職した後、翌 1904年10月、西郷は 2代目京都市長に就任し、 6年半、執政している。ちょうど、この京都市長時代に、県長官の 宿舎(現在の宜蘭設治紀念館)が完成した一報を、風の便りで耳にしたに違いない。
この宜蘭設治紀念館の庭園は日本式の枯山水でデザインされ、現在の 桧木(ひのき)はすべて当時、太平山(蘭陽平野の南西部)から移植されたものという。特に、その中庭に残るクスノキは、樹齢 100年を越えるものらしい(上写真左)。
1919年6月、宜蘭庁が宜蘭郡へ改編された際、 その初代郡守に 楊基銓(1918~2004年)が選任されたことは、地元台湾人らの誇りとされている。楊基銓は
東京帝国大学
を飛び級で卒業した秀才で、当時、23歳4ヵ月の若さであったが、台湾出身者の上司を面白く思わない日本人の警官や官吏らの圧力もあり、1920年8月に離任している。
日本植民地時代の官舎や政府庁舎等は、日本の撤退後、国民政府が接收し、引き続き、そのまま利用され続けた。
この
宜蘭設治博物館
の横には、もう一つ和式の家屋があり、現在は芸術会館として使用されていた。
その横に、かつては警察署と監獄が設置されていたが、現在は、巨大な月光ショッピングセンターに改修されてしまっている。今では、監獄署の事務所棟だけが保存されており、内部はレストランになっている(上写真左)。
さらに、月光ショッピングセンターの東隣に中山公園があり、日本植民地時代に建立された石碑が残されていた。
上写真左は、1936年に古城エリアの南西部にあった軍駐屯基地内から、宜蘭公園(現在の 中山公園)へ移築された忠霊塔という。当初は、鳥居、石灯篭、石畳みの通路が設けられており、靖国神社の関連施設として、当地で死去した軍人ら 13名が供養されていた。
また、その向かいには、大戦中の1943年に海軍により建造された地下壕タイプの通信室が残されていた。他にも複数、市内に地下壕が造られたが、この海軍通信施設が最大級を誇ったという(15名が常駐)。
このもう少し南側に、宜蘭大学と 国立蘭陽女子高級中学が併設されており、かつての農業学校と 蘭陽高等女學校が前身となっている。
この蘭陽高等女學校の体育教師だった中野ユキヱ先生の 体験手記「中野先生戦中日記」が有名だそうで、台湾の宜蘭飛行場から出撃した、若き特攻隊員との交流を記録したものという。特攻隊員らから「母ちゃん」と呼ばれ慕われた日々が生々しく記述されているらしい。
彼女はもともと西郷菊次郎が県長官時代に鹿児島から招聘した教師で、以後、30年もの間、夫婦で当地に住む着くこととなる。
日本はその植民地時代、城壁の撤去後、旧古城エリアの南側を主に開発し、行政府、県長官の 居館、農業学校、校長住居、警察署、刑務所などを設置していったわけである。
さて、舊城南路沿いを中山公園から少し戻って、
中山路
(下写真右。古城時代の南北メインストリート)との交差点エリアに復帰する。ここは、かつての 南門(離順門)があった場所である(下写真左)。
ここから旧古城エリアに入ったばかりの地点に、郵便局がある(下写真左)。これは日本の植民地時代に開設されていた郵便局が前身となっており、全く同じ位置にある。
その向かいはかつて守備隊の駐屯基地があった。今は、全面が駐車場になっている。
路地名の武営街には、色濃くかつての名残が刻み込まれていた(下写真右)。
このままメインストリートの
中山路
を北上してみる。
そして、東西メインストリートの 文昌路(新民路)を超えて次の通りが城隍街である。そう、城郭都市の守護神を祀る城隍廟がある御前通りだ(下写真左)。当地の城隍廟は他の廟所と対して変わらない扱いを受けていた。
その裏手に、当地出身の最初の 進士(科挙合格者)楊士芳を記念する公園があった(上写真右)。現在は芸術創造の森、みたいな公園に整備されている。
そのまま舊城西路と 中山路との交差点まで行く。ここにかつて
北門
(坎興門)があった(下写真左)。
ちょうどこの交差点の舊城西路に少し入った場所に、大繁盛の肉団子スープ店があり(下写真右)、 たくさんの客がテイクアウトで列を成していた。
なお、東西のメインストリートである新民路沿いにある
陽明大学付属病院
であるが、かつてはここが清代、 宜蘭庁の行政庁舎が並んでいた官僚エリアであった。
その斜め向かいにある
崇聖街
との交差点にある巨大な駐車場こそ、かつての孔子廟跡である(下写真左)。現在は旧市街地の北側へ移転されてしまっているが。
そして、新民路と 舊城東路との交差点が、東門(震平門)跡となる(上写真右)。
せっかく東門跡地まできたので、そのまま
東門夜市
のエリアまで足を運んでみた。夕方 16:30ごろに回ってみたところでは、すでに開店している店もあれば、これから開店準備をしているお店なども、ちらほらあった程度だった(下写真左)。
元々は、線路をまたぐ陸橋道路の下に集まってきた違法屋台たちが、後付けで政府の公認を受けて、観光地化した、といった印象である。
夜にもう一度、夜市へ戻ってみたら、お店も訪問客も花盛りであった(上写真右)。
【
宜蘭市の 歴史
】
蘭陽平原はもともとは 噶瑪蘭(閩南語:Kat-má-lán、カバラン)、もしくは 蛤仔難(Kap-á-lān)と通称されており、それは当地に原住民として住み着いていた「カバラン族」(噶瑪蘭族)の名称に由来している。
カバラン族(噶瑪蘭族)
清代に、計 36社の集落地が確認されており、その人口は 1,200人余りで、蘭陽平原で最も早くに現れた
原住部族とされる。階級制度はなく、女性が祭司を司る母系社会である。
春、夏期、噶瑪蘭族の男たちはトビウオの漁獲や豊作を祝うために、海辺に集まり海祭を行う。2002年まで、
阿美族に含まれてきたが、独立系の原住民として認知された。古くから平原生活を営んできた。
カバラン族の歴史に関し、最も古い記録は、1632年に遡る。
曰く、
『1632年、スペイン人が乗り込む船舶が台風に遭遇し、「Kap-á-lān(卡巴蘭)、カバラン」の港に漂着する。 このとき、船員 50人が無断で原住民の土地に上陸したので、攻撃を食らうこととなった。これに対し、スペイン人と フィリピン人船員らは上陸して反撃し、原住民の部落を 7ヵ所を焼き払い、彼らのうち 12名を殺害した。
以降、蘇澳港より北側の海岸線一帯を「聖塔.卡塔利那」(Santa Catalina)、蘇澳港とその南側エリアは「聖.羅連索」(San Lorenzo)と命名した』という。
オランダが台湾島の南部を占領して、植民地統治を開始した頃、フィリピンのルソン島を拠点としていたスペイン勢力も台湾島への進出を目論み、1626年、台湾島北部の 鶏籠(現在の
基隆市
)を占拠する。続いて、西に 滬尾(現在の 淡水区)、南の「Kat-má-lán(噶瑪蘭)」(今の 蘭陽平野)への勢力拡張を模索している最中の出来事であった。最終的にスペイン勢力は 1642年、オランダにより攻撃され、放逐されることとなる。
以後、オランダ占領下の台湾にあって、蛤仔難(今の蘭陽平野)は未開拓のまま放置される。
鄭氏政権、清朝の統治時代初期もそのまま手つかず状態で放置されていた中、蘭陽平原は
台南府
下の 諸羅県(現在の
嘉義市
)の管轄域とされていたが、実際に官吏が派遣されることはなく、無法地帯のままであった。
1723年、台湾府下で新設された淡水庁の管轄エリアに組み込まれるも、その実態は同じく放置状態であった。
1768年、漢民族の移民である林漢生が 噶瑪蘭(カバラン)の平原を探索中に、 現住民らに殺害される。
1776年、林元旻が烏石港の北側の内陸河川を上流に向かって侵入し、原住民の集落地の一つであった淇武蘭地区を占領するも、間もなく撤退する。
1796年9月16日、漢民族の呉沙が火器を多用して、破竹の勢いでカバラン族らを追い払い、まずは烏石港付近の辛仔罕の 3集落地を占領して、後圖と改名し、そのまま南側の頭圍まで進出する。
さらに宜蘭平原の奥地へと進出した漢民族らは、都度、原野や森林を開拓して農地化を進め、カバラン族らはその生活基盤であった狩場を喪失していき、伝統的な生活スタイルに変容を迫られたことを受け、大部分は漢民族に同化する道を選ぶこととなる。わずかに少数の派閥が、 同じ原住民系の アミ(阿美)族のテリトリーへと庇護を求めて南下していった。
漢民族らは宜蘭平原に集落地を新設していき、二圍、三圍、四圍、五圍と命名する。
この 五圍(現在の宜蘭市の旧市街地)には、もともとカバラン族の集落地があり、蛤仔灘(噶瑪蘭)社と通称されていたが、漢族らが占領してしまったわけである。上地図。
1810年4月4日、度重なる上奏を通じ、台湾府長官の 楊廷理(1747~1813年)は、宜蘭平原に簡易な行政監督庁の開設を許可される
。
すぐに、当時、最大集落地となっていた五圍内に、 台湾島の原生樹木である九芎を周囲に植樹しただけの簡易な 噶瑪蘭(カバラン)城の築城が開始される。
同時に、宜蘭平原を正式に閩浙総督府の所轄地とするよう、閩浙総督の方維旬が朝廷に上奏し、許可される。
1812年2月17日、噶瑪蘭(カバラン)城内に、住民戸籍や税務管理を司る戸部が設けられ、本格的な徴税行政が導入される。
同年 8月10日、台湾治府の楊廷理が、暫定的に 噶瑪蘭庁長官(通判)を兼務することが決定されるも
、同年 10月12日、楊廷理により 初代長官(通判)に任命された 翟淦(?~1817年。山東淄川出身。1808年に胡應魁に代わって 淡水撫民同知に着任し、 続いて嘉義県長官を務める。1812年8月に 噶瑪蘭庁初代通判に任命される)が、当地に赴任し、 清朝による蘭陽平野の直接統治がスタートされたのだった。
翌 1813年、翟淦は五圍の集落地に仮設されていた噶瑪蘭城内に、行政庁舎である噶瑪蘭庁署を設置し、城内の東街に、南向きの官舎を計 6棟、建設する。 以後、5年の任期中、翟淦は住民統治やインフラ整備に尽力するも、過労のため 1817年夏に現地役所内で死去する。 今でも宜蘭市住民から、楊廷理、陳蒸と共に「三大老」として崇められ、各地に廟所が建立されている。
以後も引き続き、城内の整備が進められ、噶瑪蘭(カバラン)庁城が蘭陽平原における 政治、経済、文化の中心として君臨することが決定付けられることとなった。 その後も、漢民族の移民は流入し続け、二城、礁溪、四城、壮圍などの溪北エリアの開墾が、順次、進められていくこととなる。
1875年には 噶瑪蘭(カバラン)庁は宜蘭県へと昇格され、新設された
台北府
の直轄下に組み込まれた。
日清戦争を経て台湾島を接収した日本軍が
、1895年6月22日、宜蘭県城へも進駐してくると、すぐに宜蘭県は宜蘭支庁へ降格され、台湾総督府下の台北県の直属地とされた(初代長官として河野主一郎が赴任)。
間もなくの 1897年5月、台北県から独立し、総督府の直轄下で宜蘭庁へ昇格される。その初代の宜蘭庁長官に就任したのが、西郷隆盛の長男、西郷菊次郎であった(1903年、自主退職し日本へ帰国)。
下の古城復元図は、1899年当時のもの。
1906年、宜蘭庁署、長官官舎などの 14棟の建物が次々と完成する。すべて古城エリア外側の南西部に集中していた。
1919年6月、その宜蘭庁も廃止され、台北州下の 蘭陽三郡(宜蘭郡、羅東郡、蘇澳郡)の一つに改編される。
日中戦争が激化する 1940年、宜蘭郡下の宜蘭旧市街地が台北州の直轄都市として宜蘭市へ昇格される。
なお、太平洋戦争中、日本軍は宜蘭に宜蘭南空港を建設し、神風特攻隊基地として使用することとなる。婦女を含む近隣行政区から住民らが集められ、南空港や 軍用道路、平野部の防衛網などが建設される。 特に、今の 進士里(進士路)沿いには、大量の飛行機格納庫が設置されたという。
第二次大戦直後、宜蘭地区は再改編された台北県に帰属されるも、1950年、宜蘭県として再昇格を果たし、台北県と同列都市となる。
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