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日本の城 から
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奈良県 大和郡山市
≫
訪問日:2018年6月中旬 『大陸西遊記』~
奈良県 大和郡山市 ~ 市内人口 9万人、一人当たり GDP 290万円(奈良県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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JR郡山駅から 郡山城へ ~ 外堀緑地公園
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郡山城の 城下町エリアを歩く
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中堀を超えて、城下町から 三ノ丸へ入城する ~ 大和郡山市役所 と 三ノ丸公園
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三ノ丸から 二ノ丸へ進む ~ 鉄御門 と 陣甫郭(現在、城内に羨ましい住宅地あり!)
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100万石の豊臣秀長 統治時代の 郡山城 全容 ~ 本丸、二ノ丸、三ノ丸
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本丸二の郭を構成する常盤郭 と 玄武郭へ進む ~ 追手門 と 櫓群
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本丸と内堀が 織りなす見事な 石垣美!!
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郡山藩の政庁 と 藩主御殿があった 二ノ丸屋形 ~ 現在は 県立郡山高校が 占有中
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【豆知識Ⅰ】郡山城の 歴史 ~ 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛、藤堂高虎の 入城 ■■■
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【豆知識Ⅱ】郡山城の歴史 ~ 徳川譜代大名の 栄転の地 ~ 徳川秀忠・家光の訪問 ■■■
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筒井城の地形 と 縄張り図(東西約 500m × 南北約 400 m) ~ 佐保川の水運 と 街道支配
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筒井城の主郭跡地(東西約 120 m × 南北約 100 m)と 内堀
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外堀の惣構えで 農民や 水田、町屋、そして 吉野街道 を取り囲んでいた!!
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筒井順慶の 墓所 ~ 重要文化財指定の 五輪塔覆堂
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小泉城跡
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大納言塚 ~ 1591年、郡山城内で没した豊臣秀長の墓所
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羅城門跡と西市跡、十条大路跡(奈良時代の都城・平城京の遺構)
JR関西本線で
奈良駅
から郡山駅まで移動した(160円)。
郡山駅東口すぐにある「大和郡山市 市民交流館」 1Fに入居していた
市観光協会
で資料をもらう。
複数名いたスタッフの方は一律、不愛想だったが、郡山城に行くので資料を欲しいと伝えると、一番若手の男性が 10種類ほどのパンフレットを手渡してくれた。2015年9月~2016年1月、天守台石垣の解体工事があったらしく、その時に発見された数々の新情報が満載の資料だった。かなり読みごたえがあった。
その内容は、
『郡山城天守台展望施設整備事業 紹介動画』
でも見ることができる(60分)。
再び駅構内に戻り、反対側の西口方面に出る。駅前ロータリーを出て、すぐに右折すると、 UR都市機構郡山駅前団地群が連なる。その道路向かいが 外堀(常念寺浦濠)跡地で、現在、緑地公園となっていた(下写真)。
下写真左は外堀緑地公園に設けられた、妄想の「北門」。かつて城下町内には、このような冠木門スタイルの 木戸(番所)が町境ごとに合計 57カ所(1724年当時)も設置されており、通行人らの監視が行われていた。
城郭時代、この場所には本来、城門はなく、延々と外堀と高さ 2.7 m近い土塁が連なり、 柳や桜の木が植えられていたという。
外堀公園の周囲は城下町の風情が残る街並みとなっており、その風流漂う異空間は日常の喧騒を忘れさせてくれる(下写真左)。外堀内にあった常念寺の脇の細い路地から出て、そのまま西へまっすぐ直進してみた。道路脇の側溝が旧市街地の雰囲気を いい具合に醸し出していた(
下写真右
)。
すると、正面にやや広い 自動車道路(県道 108号線)が現れる。この交差点には「綿町」の案内版があり(下写真左)、城下町時代には綿花や繰綿などを扱う商人らが集積しており、大和国の名産「郡山繰綿」の一大出荷市場を形成していたという。
他にも城下町時代の町割りの名残を残す地名としては 堺町、茶町、雑穀町、材木町、豆腐町、紺屋街、車町、北大工町などが存続中で、現在の町名にしっかりと受け継がれていた。
下写真右は「柳一丁目」の交差点に立地する、老舗茶菓子店「菊屋」本店。その社歴は 400年以上もあるという。
ちょうどここまでのルートを城郭時代の 地図(1640年代)でたどってみると、下記の通りとなる。
さらに直進すると、大和郡山市役所(
下写真
)にたどり着く。ここはちょうど中堀があった場所で、枡形門(柳御門と頬当門の二重構成だった)の石垣が残されていた。この城門から入ると、柳郭という三の丸を構成する一曲輪で、かつて家老たちの 邸宅(五軒屋敷)が並んでいたエリアに至る。
この柳郭は中堀と五軒屋敷池の堀で囲まれた一角で、現在、五軒屋敷池の一部が埋め立てられて近鉄線と 三の丸緑地公園(下写真左)となっている。特に見るべき城郭遺構もなく、単なる緑地公園だけだった。時折、真横を走る近鉄線の電車が通り過ぎて行く。
下写真右は近鉄線の踏切から撮影したもの。右側の森林部分が三の丸緑地公園、左側は二ノ丸にあたる。この線路部分が、かつて蓮池堀という中堀の一部だった。
三の丸緑地公園
の北側まで行くと、線路を渡る踏切がもう一つある。かつて五軒屋敷池の堀をまたぐ鉄御門があった場所で(下写真左)、ここは二ノ丸の一部を構成する陣甫郭に入るゲートとなっている。
陣甫郭は 内堀(下写真右)と五軒屋敷池の堀に挟まれた、非常に細長い空間で、城郭時代は単なる広い砂地エリアとなっており、練兵場や武者溜として利用されていた。現在では民家が数軒建ち並び、どうやってこんな一等地に住宅地として入り込めたのか、その経緯が知りたいぐらいだった。
気になる、その住所は「奈良県大和郡山市城内町 2丁目 6~7番地」。
ちょうど近鉄線に乗車して、車窓から見える郡山城の 石垣や堀、櫓、民家群はこの曲輪にあたる。
ここまでのルートを城郭時代の地図でたどると、
下記
の道筋となる。
ちなみに、ちょうどこの左京堀、鰻堀池、 鷲堀池に囲まれた 本丸、二ノ丸、三の丸の縄張りが、そのまま豊臣秀長時代のものという。郡山城主を継承した
増田長盛
により(1595年入封)、城下町を取り囲む外堀も整備され(1596年)、いよいよ惣構えスタイルの大城郭が完成を見るのだった。
下は、「
本丸二の郭
」を構成する常盤郭と玄武郭へと続く 追手門(梅林門)と多聞櫓。
下は追手門を取り囲むように配置された追手向櫓と追手東隅櫓。
先に展示資料館を見てみようと、柳沢文庫保存会の資料館を訪問してみた。
藩主・柳沢家
に関する詳しい解説が古い日本家屋の一間を利用して展示されていた。ここは「本丸二の郭」の一部を構成する毘沙門郭にあたり、そのまま本丸へ白沢櫓橋を渡って移動できる。
本丸
と本丸二の郭との間の内堀と石垣が、ちょうど修繕工事のまっただ中だった。
上写真の鉄パイプの足組みあたりには、かつて極楽橋という城門橋が架かっていた。
工事現場では石垣の外面石材の内部に詰めあわされた小石群が見える。中央部は土塁で形が設定され、周囲に小石群を ちりばめ(水はけ機能と地震の揺れ吸収材として)、外枠のみ大きい石材を組みあげていた。下写真は工事中の白沢櫓跡。
ちょうど石垣工事中で堀の水位も下げられており、堀底を直接、目にすることができた。
大きめの外面石垣のすき間に埋め込まれていた間詰め石や土砂、埃などがゆっくりと崩落して堀面に体積した様子は、とても新鮮な印象を持たされた。長い年月が過ぎ去った、その時間を体感させてくれる瞬間だった。
100%近代工具により整備されきっていない、手つかずの城郭遺構がここにはあった。
本丸と天守台を見学後、
柳澤神社
(
江戸幕府大老を務めた 柳澤吉保
を祭神とする)の正面から延びる竹林門から二ノ丸へ出てみる。ここには江戸期、郡山藩の中枢となった藩主御殿と政庁があった場所だ(二ノ丸屋形)。
現在、二ノ丸一帯は、県下第 3位の進学校・県立郡山高校(偏差値 68)の校舎やグランドとなっており、四方を水堀で囲まれた要害の高校となっていた。
そのまま東へ直進し、再び鉄御門跡の踏切を渡って、市役所前の道を南へ進み、近鉄郡山駅まで歩いた。
郡山城
戦国時代が幕開けした 1500年前後、地元豪族の小田切春次により、西ノ京丘陵南端の尾根上に砦が築城されたという。
戦国時代末期の 1573年、織田信長の傘下に加わった
筒井順慶
により、大和国に進駐していた
松永秀久
が排除され、1576年、そのまま大和国の統治を委ねられると、 順慶は 1578年から西ノ京丘陵の砦跡の拡張工事を開始する。信長により先祖伝来の拠点だった筒井城の放棄が命じられると(1580年の信長による一国一城令)、1580年11月12日、この郡山城に本拠地を移すこととなった。このとき、大和国内の城郭群はことごとく破却され、あわせて地元で徹底的な田畑の検地が行われている。
1583年には天守閣や本丸などの主郭部分の完成までこじつけるも、翌 1584年に筒井順慶が死去すると、翌 1585年9月、伊賀上野へ 20万石で転封された筒井定次に代わり、豊臣秀吉の 実弟・羽柴秀長が
大和
、
紀伊
、和泉の 3か国 100万石を統治する大名として郡山城に入城する。秀長はすぐに家臣の
藤堂高虎
に命じて、城郭のさらなる拡張工事に着手させる(
和歌山城
の築城工事も同時並行で進められた)。
1591年2月に秀長が死去すると、その養子の 豊臣秀保(1579~1595年)が郡山城を継承するも夭折していまい、 1595年には豊臣政権の五奉行の一人・
増田長盛
(1545~1615年)が 20万石で入封する。この 10年間、城下は大いに繁栄し、人口も 1万人を超えていたという。多くの武家屋敷が建設され、これにあわせて商工業者も多く集結していたため、外堀で城下全体を囲む必要性が生じていた。
外堀は、東面では
秋篠川
の流路を東に向けて
佐保川
と直結させ(奈良口の川違え)、旧河道を堀に利用した。南面、西面は丘陵の断崖や溜池を巧みに利用し、北面は谷地に添う堀をめぐらした。その外堀の総延長は約 5.5 kmに及んだという。ただし、外堀の大部分は素掘りで、内堀や中堀のように石垣を積むことはなかった。掘削した土を堀の内側に盛り上げて土塁(土居)を作っていた。土塁の高さは 2.7mから、高いところでは 4.5 mにもなっていたという。外堀の完成で郡山城の 規模(惣構え)が定まり、最終形態として完成を見たのだった。下絵図。
内堀、中堀、外堀が同心円状にめぐらせた 近世城郭・郡山城であるが、城郭中心部は内堀と中堀で囲まれ、丘陵地帯にあたる 北、西、南側には武家屋敷地が、平地が広がる東側には町割を実施された城下町が配されていた。そして、城下全体を外堀で囲み、城外へ通じる主要街道と外堀との接点には 九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の四門を設けたのだった。
しかし、
1600年の関ケ原の戦い
の際、増田長盛は西軍に味方し、
毛利輝元
と共に
大坂城
に入っていたため、西軍の敗北により、高野山に追放されてしまう。
この時、
増田長盛
の配下として、本拠地・郡山城を守備していたのが 猛将・渡辺了で、
9月15日の関ケ原本戦で西軍が負けた後に
、
藤堂高虎
、本多正純らの軍が郡山城を包囲し城を明け渡すよう迫るも、「主君の許可無しでは開城せず」の一点張りで、籠城を続けたとされる。
最終的に、藤堂高虎は高野山に謹慎中の増田長盛に一筆したためさせて、ようやく渡辺了は郡山城を開城したのだった。
戦後、その武勇と忠義心を高く買った藤堂高虎は、浪人であった渡辺了を高録で臣下に迎えることとなる。
大坂
・
京都
に隣接する重要拠点だった郡山城は徳川方に接収され、藤堂高虎(本領は四国であったが、飛び地として管理)の預りとなり、そのまま取り壊される。このとき、城内の建物すべてが
伏見城
に移され、秀長時代に構築された 100万石を領する巨大城郭は。完全に喪失されてしまうこととなった。
その後
、廃城となった郡山城の跡地には大官役所だけが開設され、引き続き、外堀で囲まれた郡山の城下町を統括した。その城番役は当初、
大久保長安(1545~1613年。家康お気に入りの 敏腕プロ官僚)
が、続いて 山口直友(1544~1622年。徳川家旗本)が担当した。この過程で、ますます城郭遺構の荒廃が進んでいったという。
1608年、藤堂高虎は四国から伊勢・伊賀へ移封されると、本拠地を伊賀上野城に定め、その城代を新参の家臣・渡辺了に委ねている。この時以降、郡山城跡の大官役所には 筒井定慶(
筒井順慶
の養子)が配された。
1614年、
大坂冬の陣
が勃発すると、藤堂高虎は 10月25日、奈良平野の西端に位置した郡山城跡地に着陣し、国境警備にあたるも、大坂方の侵攻を受けることなく、大阪城下まで軍を進める。そして、真田丸の攻防戦に従軍するのだった(12月3~4日)。最終的に 12月20日に和議成立。
翌 1615年4月、大阪夏の陣が起こると、大阪方は城内に籠城かなわず、戦線を外に拡大すべく、大和国境を侵して郡山城跡地にまで侵攻してくる。
このとき、城番の任にあった筒井定慶は多勢に無勢であったため、戦わずして 福住村(現在の奈良県天理市福住町)まで逃亡してしまう。続いて大阪方は
奈良寺社領(今の奈良市街地)
の占領も試みるも、徳川方の先鋒を務めた
猛将・水野勝成(1564~1651年)
が大和国に入るや否や、そのまま大坂城へ撤退してしまう。
5月8日、大坂落城を知った筒井定慶は、敵前逃亡を恥じて切腹して果てたと伝承されている。
また、隣国の伊勢・伊賀藩主だった
藤堂高虎
隊は、 この戦いで大坂方の 主力・長宗我部盛親と激突し、大きな損害を受けることとなる。 この時の軍事作戦を巡って高虎と渡辺了は関係が決裂し、渡辺はそのまま藤堂家を出奔してしまうのだった。
大坂の陣
後、全国的に大規模な大名再配置が実施され、1615年、大和国の被害を最小限に収め、かつ最終日の真田軍の猛攻を防いだとして、
戦功第二と賞された 水野勝成(三河刈谷城主)が 6万石を与えられて、郡山に封せられる。新たに郡山藩の立藩となったわけである
(奈良寺社領は徳川直轄領として切り離され、
奈良奉行所
が設置された)。
大坂城
に近く、かつ豊臣秀長の元本拠地だったという豊臣方のシンボル的意義を喪失した郡山城は、ここに至り、ようやく再建工事が着手されることとなった。
しかし、城郭跡地は長年の放置で相当に荒れ果てていたため、石垣や堀の修築は家康の命で幕府から直接資金援助を受け、城内の本丸御殿や武家屋敷などの家屋建設作業のみ、勝成側の負担で進められたという。
その水野勝成も在城わずか 5年で備後福山城に移封されると(10万石に加増)
、戦後の
大坂城下町
の復興工事を任され、その手腕を高く評価された家康の 孫・松平忠明(上写真)が 1618年10月、12万石をもって郡山城主となる(1619年7月22日に正式入城)。
このとき、まだ城内には十分な建物も再建されておらず、急遽、諸門などの建造物が、
廃城・解体された伏見城
から再移築されることとなる。こうして、近世郡山城の復興工事が急ピッチで進むこととなった(豊臣秀長時代にはあった、金箔瓦による 4~5層の天守閣は結局、再建されなかったと考えられている ― 江戸期の城郭絵図に一度も天守が描かれたことがなかったため)。
1626年9月、2代目将軍・徳川秀忠と 家光父子が上洛し、後水尾天皇と謁見した後
、
大坂
を経由し、郡山城にも足を運んだ記録が残されている。
さらに
1634年7月には、3代目将軍に就任していた徳川家光が上洛した際
、そのまま
奈良
へも立ち寄っており、道中に郡山城で休息している。
当時、松平忠明は 1632年1月30日、死の床にあった秀忠の遺言により(同年 3月死去)、
彦根藩主・井伊直孝
と共に家光の後見人に任じられており、幕政において重要な立場となっていた。
そして、1639年には西国の鎮護を司るべく、播磨の
姫路藩
18万石に加増され移封されることとなる(1644年3月25日死去、62歳で死去)。南蛮の耶蘇宗の信徒が日本に潜入し、危害を与えようと企んでいる、という風説に対処するためであった。
直後より、郡山城には 本多正勝(1614~1671年)が藩主として入封する。
その後は本多家と松平家が交互に藩主につくも、1724年3月11日、8代目将軍・徳川吉宗にの命により
甲府城主・柳澤由里(江戸幕府大老を務めた 柳澤吉保の長男)
が 15万石に加増されて郡山城に転封されて以後、柳澤家が代々藩主を継承し、明治維新を迎えることとなった。
江戸時代を通じ、大和国の政治経済の中心都市として繁栄し君臨した郡山城とその城下町であったが、明治期に郡山城内の建物はすべて撤去され、 完全に廃城とされてしまったという。また、
幕府直轄領だった奈良寺社町
側に明治政府の奈良県庁も 設置されたため、現在、大和郡山市は奈良県 第四位の都市に甘んじている。
続いて
、筒井駅まで移動してみる(初乗り料金の 150円)。
下写真は、高架線路となる筒井駅附近から城跡エリアを眺めたもの。平野のど真ん中に築城されていたことが伺える。
この城跡から 200mほど後方に
佐保川
が流れており、
大和国の守護所「奈良町」
と河川交通で直結されていた。戦国期、
多聞城の松永秀久
と死闘を繰り広げた筒井城であるが、兵士らはこの川沿いを移動したものと推察される。また最終的に松永秀久の多聞城は破却されるが、その城郭を構成した石材が筒井城へ移送・転用された際も(1579年)、この河川交通が大いに役立ったはずだろう。
駅前の商店街を直進し、三差路を右折すると、筒井城跡の虎口門跡という路地前にたどり着く。
この虎口門跡は民家と民家との間に発生した普通の裏路地で、下調べしていないと全く気つかずに通り過ぎてしまうような平凡さだ。実際に路地に入ってみると、見事なぐらい折れ曲がっている。その出口に「筒井順慶城跡」の石碑が立つ。
後方には水田地帯が広がっており、城郭時代も外堀に囲まれた惣構え(東西約 500 m、南北約 400 mという巨大なもの)の中に村落や水田エリアがあったとされ(垣内と通称されていた)、その名残りと思われる。
この中央の農道を通っていくと、別の民家集落地にたどりつく。ここに
筒井城
の解説板があった(下写真。「シロ畠」という地区)。ちょうど、この民家集落地の一帯が筒井城の主郭跡(東西約 120 m、南北約 100 m)という。主郭の周囲には内堀(幅約 6 m、深さ約 2 m)がめぐらされ、中心部に城主が住む城館や宗教施設が設置されていた。近年の発掘調査で、城館に伴う大規模な 石組の井戸、素掘りの堀、鉄砲玉などが見つかっているという。
そもそも筒井城は 14世紀中ごろに築城されたようだが、ちょうど東西方向に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる交差地点に立地し、交通の要衝となっていた集落地や市場を統括する目的であったと指摘されている。当時は、奈良街道沿いに交易集落地が発展していたという。
最終的に 城主・筒井順慶が新たに築城した郡山城(北へ約 3.5 km)へ本拠地を移すと(1580年)、これらの城郭資材はすべて郡山城へ移送され、さらに城下町や住民らも新天地へ移動を命じられたと推察される。こうして筒井城の遺構は破壊され、農地に埋もれてしまうこととなった。
民家集落地のど真ん中に、忽然と水路が現れる。かつての内堀跡という。
下写真左は専念寺。
この水路は、菅田比賣神社の脇を巡っていた(下写真左の緑地部分)。
その境内前を通る道路の三差路ど真ん中に、小さな祠があった。きっと深い由緒があるに違いない。
そのまま路地沿いを北上すると、地元スーパー「
オークワ
」の裏手に出る。ここで進路を西へ変えると、光専寺の裏手に水路が姿を現す(下写真)。かつての外堀跡だ。
ちょうど、この外堀の内側一帯に大型の邸宅遺構が発掘されており、当時、筒井家の重臣の館が立ち並んでいたものと推定されている。つまり、惣構えのうち、北側は家臣団の屋敷地、南側は農村エリアと町家や市場が形成され、「棲み分け」がなされていたという構図が見えてくる。
そのまま直進すると、最初の虎口門入り口がある県道 108号線に戻ってくる。通り沿いにあった地元の 公民館「北垣内集会所(下写真左)」の地名の由来も、ここに至ると、すぐにピンとくる。
この県道 108号線だが、かつての吉野街道である(下写真右)。時折、古民家が軒を連ねていた。
ちょうどここから南側一帯には、当時、農村集落(垣内)と水田が広がっており、そっくり城の惣構えの中に取り込まれていた。
そして、城外の南面を通る「奈良街道」沿いには、町屋や市場が形成されていたのだった。今でもその名残は地元の地名に色濃く刻み込まれている(下地図参照)。
下写真は、1963年当時の航空写真。上部に見える外堀跡の緑地帯、本丸内に位置した菅田比賣神社、道路ど真ん中に祠が設置されている三差路は、当時から変わっていないことが分かる。
また、上写真の左下隅に見える黒色の部分は、ため池「須浜池」。
現在も住宅街のど真ん中に現役で存在している(下写真)。周囲の民家や工場、郵便局(筒井局)などは、わざわざ水中に柱を立てて、水面の空中空間を利用して立地しており、ここまで非合理的な選択をしてでも、どうしても埋め立てできないこの須浜池の由緒も気になった。
さらに、筒井駅から南の
平端駅
へ移動する(初乗り料金の 150円)。
駅前から筒井順慶墓所までは一本道なので、比較的に簡単に到達できる(下写真左)。
墓所の周囲には一心寺や西方寺などが立地し、近隣住民の先祖代々からの墓石も周囲に集積していた(下写真右)。筒井順慶(1549~1584年)の御前にあやかろうと後から設置され出したのか、それとも元々あった村人らの墓地内に筒井順慶も葬られたのだろうか。
さてさて、筒井順慶の墓所公園だが、門が開いていないので立ち往生していると、通行人の方に門横の垣根の細いスペースをくぐって入るように助言された。。。。下写真左。
下写真右は、戦時中の 1944年9月5日に重要文化財に指定されたという 祠(五輪塔覆堂)で、1584年に郡山城内で死没した筒井順慶は当初、
奈良
の 円証寺(奈良県生駒市上町)に葬られていたが、後に改葬し、この地に埋葬された際に五輪塔が安置されたものという。
本来は、筒井駅から西へ 2kmほど歩いて JR大和小泉駅まで移動し、小泉城(小泉城館、小泉陣屋)跡の訪問も予定していたが、この日は午後から天気が崩れ、訪問範囲を縮小せざるを得ず、目標未達に終わってしまった。
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