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日本の城 から
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和歌山県 和歌山市 ④
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訪問日:20--年--月-旬
和歌山県 和歌山市 ③ ~ 市内人口 34.5万人、一人当たり GDP 411万円(和歌山県 全体)
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本願寺 鷺森別院山門(鷺ノ森道場、鷺ノ森御坊。石山本願寺から退去した顕如が隠棲)
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中津城跡(雑賀城や弥勒寺山城の 前線基地の一つ)
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粟村城(土橋氏屋敷)跡、安楽寺
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平井城跡(平井中央公園)、平井歴史資料室(平井城の復元模型あり)、平井遺跡
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蓮乗寺(伝・鈴木孫市の墓あり)、大谷古墳、朝鮮出兵に参加した「沙也可」の故郷
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梶取の 古城(総持寺)
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中野城跡、車駕之古址古墳、釜山古墳、茶臼山古墳
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木ノ本城跡、木本八幡宮、木本八幡宮 公園(権殿、大鳥居。旧・芝原八幡宮)
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加太港の 旧市街地(旧加太警察署、迎之坊、加太春日神社、淡嶋神社)
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由良要塞跡(加太砲台跡、田倉崎砲台跡、友ヶ島)
JR和歌山駅
西口を出て、すぐにあるエスカレーターを降りた地下に「観光交流センター」がある。 まずはここで情報収集を進めてから、あわせて、
同センターにて レンタサイクルを申し込んだ(9:00~18:00、終日 600円、要身分証)
。
もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。
和歌山県立博物館(和歌山県下の 文化財、歴史的文物を展示)・・・・和歌山城のすぐ南側、紀州徳川神社も近い
和歌山市立博物館(和歌山市の 歴史全般、資料、映像など)・・・・南海線& JR線「和歌山市駅」から南西へ徒歩 5分
紀の川市歴史民俗資料館(紀伊国分寺に特化した 展示、解説)・・・・ JR「下井阪駅」から徒歩 15分
九度山・真田ミュージアム(真田昌幸・幸村の蟄居地に関する資料館)・・・・南海高野線「九度山駅」から徒歩 10分
なお、本来なら海南市を訪問するので、地元海南市の郷土史などを学ぶべく「海南市歴史民俗資料館」も見学したかったが、 立地があまりに悪いため断念せざるを得なかった。
今回は、和歌山市の 北~北西部一帯を巡ってみた。駅前より西へ直進すると和歌山城跡に行き着く。 その城跡からまっすく北へ進路を取ると、間もなく「和歌山市立伏虎義務教育学校」の綺麗な校庭脇を通過する。 この北隣に「本願寺 鷺森別院山門」が立地していた。下地図。
ここは、浄土真宗本願寺派の寺院で、本山西本願寺の別院という格式の高い古刹という。 室町時代後期に当地に引っ越しされて以降、現在まで存続しており、
特に戦国期に織田信長と 10年に渡って死闘を繰り広げた大坂本願寺の顕如が、 和議により大坂を退去後に当地へ移住したことで知られる
。
もともとは、1476年10月に 紀伊国冷水浦(今の 和歌山県海南市冷水)に開設されていた「冷水道場(今の了賢寺)」を前身とし、 応仁の乱で畿内が荒廃する中の 1486年3月、8代目宗主・蓮如(1415~1499年)が紀伊国へ下向した際、この「冷水道場」に投宿している。以降、 本願寺勢力の紀州における中心拠点として発展することとなる。
その後、1507年に
名草郡・黒江(今の 海南市黒江にある浄国寺)
へ、1550年に
和歌浦・弥勒寺山(弥勒寺山城跡)
へ、 さらに 1563年に現在地である 雑賀荘・鷺森に移転するに及び、「鷺ノ森道場」と称されるようになる。
1580年3月には、石山合戦の和議により
大坂本願寺
を出た 11世目宗主・顕如が、 雑賀衆に護衛される形で紀州入りし、まずは弥勒寺山に匿われるも、大規模に軍事城塞化されていたことから、 信長に再挙兵を疑われる恐れがあったため、無防備な状態だった平地の「鷺ノ森道場」へすぐに引っ越し、 ここに定住することとなる。
以降、「鷺ノ森道場」から「鷺ノ森御坊」へ改称され、浄土真宗本願寺派の中心寺院となるも、 1583年7月に本能寺の変後に台頭した秀吉の招聘により、顕如が 貝塚本願寺(今の願泉寺)へ再移住すると、 「本願寺 鷺森別院」へ降格される。この時、秀吉は畿内の反対勢力の懐柔に腐心しており、反秀吉の強硬派だった雑賀衆と根来衆に、 一向一揆の 指導者・顕如が担ぎ上げられるリスクを回避したかったためとされる。
その後、雑賀衆や根来衆連合軍は、秀吉勢力圏下の
岸和田城
や
堺
、
大坂城下町
などへの襲撃を繰り返したため、 小牧長久手の戦いを切り上げた秀吉は、1585年3月に 10万もの大軍を動員し紀州征伐に乗り出すこととなる。 この戦役で雑賀荘や 根来寺、粉河寺は焼き討ちにされ、秀吉に庇護された顕如の息がかかる「本願寺 鷺森別院」のみが戦火を免れたのだった。 しかし、新たな領主となった豊臣秀長の下で、徹底した検地と刀狩りが行われ、 本願寺直営の荘園や門徒宗までも順次、解体されていったため、寺勢は大いに弱体化されていく。
こうして宗教勢力の非武装化を進めつつ、一方、貝塚本願寺にあった顕如をさらに懐柔すべく、 同年 8月に大坂城下町の天満本願寺へ招聘し、ここを本山に定めさせたのだった。
以降、地元信者らに支えられて何とか持ちこたえた「本願寺 鷺森別院」は、江戸時代を通じ
和歌山城下
にあって存続し続けるも(上絵図)、 1945年7月9日の米軍による和歌山大空襲によって伽藍が全焼してしまう。 1948年に再建された本堂も、1994年10月に建替えられて現在に至る。
ここから国道 26号線を北上し、紀ノ川を渡る手前にある JR紀勢本線「紀和駅」に向かうことにする(下地図)。
かつて、この 駅前一帯(南側の西覚寺までの範囲)に「中津城」が築造されていたという。 信長(1577年)、秀吉(1585年)の紀州征伐軍を食い止めるべく、
雑賀城 や 弥勒寺山城
の前線基地として配置された城塞群の一つであった。
その名称から、かつて紀ノ川内に形成されていた中州上に立地する、水城であったと考えられる。
再び国道 26号線に戻り、いよいよ紀ノ川を渡る。渡河後、河岸エリアは緑地公園となっており、 いったんそちらを目指して川辺を東進する(上地図)。川沿いに公衆トイレがあったので利用させてもらった。
この北側に広がる住宅地内に「安楽寺」がある。
ここが「粟村城(土橋氏屋敷)」跡とされる場所で(上地図)、かつて雑賀衆内で No.2 の勢力を誇った土屋氏の居城だった場所である。 約 125 m四方の平城で、現在、寺門前を流れている用水路は往時の堀跡と考えられている。
紀ノ川北岸に立地したことから、 畿内より攻め入る 織田信長(1577年)、豊臣秀吉(1585年)らの紀州遠征の度、真っ先に取り囲まれては戦火に包まれてきたが、 平時においては、本貫である雑賀荘土橋の立地条件は最高で、西の根来寺と密接な関係をキープしつつ、 雑賀衆の海上交易団に加わっては利益を荒稼ぎし、地元の紀州湊から陸揚げして根来寺と商取引するという中継主体としても荒稼ぎしたと考えられる。
戦国期に当主を務めた 土橋春継(?~1582年)は、
石山合戦
において雑賀衆リーダーだった 雑賀孫一(鈴木重秀)らと共に、織田軍を苦しめる存在であったが、 その後、親信長派に鞍替えした鈴木重秀と対立し、1582年1月に暗殺されることとなる。そのまま粟村城は鈴木氏によって攻め落とされ、 胤継の 子・土橋春継(生没年不詳)は城から脱出して亡命を余儀なくされる。同年 6月、今度は本能寺の変により信長の後ろ盾を失った 雑賀孫一(鈴木重秀)が紀州から亡命すると、土橋春継らはすぐに粟村城に再復帰を果たし、
太田党を率いた太田左近
らとともに、雑賀衆を反信長へ一気にまとめ上げていくこととなる。
以降、畿内の信長遺領を引き継いだ秀吉と対立し、度々、
岸和田
や
堺
、
大坂城下
などを襲撃したことから、 1585年3月に 10万もの秀吉軍の侵攻を受けることとなり、雑賀衆、根来衆は壊滅する。この戦火の中、 粟村城を落とされた土橋春継は海路で 土佐・長宗我部元親を頼って亡命していくこととなる。 その後、関東まで落ち延びて北条氏政に仕え、小田原征伐による北条家滅亡後は毛利家に仕えたとされる。
そのまま国道 26号線(和歌山北バイパス)を北上し、和泉山脈の山裾にあったという「平井城跡」を訪問することにした。
その山裾沿いに「粉河加太線」の大通りがあるので、ここを西へ入る。 3つ目の信号交差点まで直進すると、北側に「和歌山市立 平井歴史資料室(月曜~土曜日 9:00~17:00、見学無料)」があった。下地図。
平井城に関する復元模型や、雑賀鉢兜、火縄銃の レプリカ(試用可)などが展示されていた。 また、近くの 平井遺跡(弥生~鎌倉時代の集落遺跡)と 大谷古墳(5世紀末~6世紀初頭に築造された前方後円墳)で見つかった、 古墳時代の 埴輪窯(移築)や副葬品なども見学できる。
ここから住宅街を少し北上すると、「蓮乗寺」にたどり着けた(上地図)。静かな境内を奥へ進んでいくと、 鈴木孫市の墓と伝わる五輪塔と墓石が保存されていた。戦国期に活躍した鈴木重秀のものかどうかは不明という。 雑賀鈴木氏の当主は代々、「雑賀孫一(市)」「鈴木孫一(市)」などと称してきたため、 何代目の「孫一」のものかが分からないためだ。
そのまま高台へ向かって北上すると、「平井中央公園」のグラウンドがあった。ここが城館跡地とされている(上地図)。
城館の規模は小さく、丘陵斜面上に造営されていたようで、 先の資料室にあった模型通りであれば、大軍で攻められると、ひとたまりもなかったことだろう。 1577年2月に織田信長の大軍が紀州へ攻め込んでくると、 まずは中野城が攻略され、そこに 信長、信忠が本陣を構えると、続いて孫市が籠る平井城などが攻撃を受け、 落城したとされる。
この後方には平井峠への道が続いており、途中に 乗馬クラブ「ライディングクラブ・グリーンオアシス」があった。 道路標識に「馬」マークが表示されていたのがユニークだった。
付近に設置されていた解説板には、この信長による攻城戦には触れられておらず、 伝説上の 人物「沙也可(上絵図)」の存在とその故郷ということが解説されていた。
「沙也可」とは、
秀吉による朝鮮出兵の際
、鉄砲部隊を率いた一団のリーダーで、日本軍による非道な行為に反感を覚え、 朝鮮側に寝返って義勇軍として戦ったと伝えられる人物である。戦役後はそのまま半島に住み着き、 朝鮮朝廷より「金」姓を下賜されて「金忠善」と改称し、土地を与えられて土着化したとされる。 現在も、大邱市達城郡嘉昌面友鹿里にその子孫らが集まって生活しているという。
続いて「梶取(かんどり)の古城」を目指す。上地図。
南海本線「紀ノ川駅」を横目にさらに南進すると、駅南側に「梶取」の住宅街が広がっている。 その中央部にある「総持寺」一帯が城域であったとされる。この境内には、和歌山市指定文化財という「総持寺 玄関」が保存されていた。
城主が興三大夫左衛門だったとの伝承が残されるのみで、詳細は全く不明。 南側には水路が流れており、かつての堀跡と考えられる。
そのまま西進を続けると、国道 7号線に出た。これを北上して「南海加太線」や土入川を渡ると、 先程の 大通り「粉河加太線」に合流する。これを西へ進んでいくと、「スーパーセンター・オークワ・パームシティ」の広い駐車場前を通過する。 この駐車場を横切る形で北上し、北隣にある「和歌山市立貴志南小学校」を目指す。
すると、「スーパーセンター・オークワ・パームシティ」と小学校との間にある民家前に、 「中野城跡」に関する記念碑と案内板を発見できた(上地図)。
この民家に使われている土台の石垣は当時の石材が転用されており、 また石垣前にある幅 5 mほどの 土砂部分(埋められている)はかつての堀跡ということだった。 今でも周囲よりもやや高台になっていた。
大阪平野から続く「孝子越(きょうしごえ)街道」、および、紀ノ川の北岸エリアを東西に貫く「淡島街道(旧南海道)」の交差点に立地し、 紀ノ川へと通じる 土入(どうにゅう)川を使った水運の便もあったことから、古くより交通の要衝として栄えたエリアであった。 その交易集落の中でもやや微高地だった場所に、ここを支配した領主の城館が造営されていたと考えられる。
南北朝時代、薗部庄などの地頭職を担った貴志朝綱の子孫と考えられる貴志教信が、在城していた記録が残されているという。
戦国期に入ると、
海洋交易と鉄砲の戦闘力で力をつけた雑賀衆が、紀ノ川南岸の 雑賀荘・十ヶ郷を拠点に台頭し
、 北隣の和泉国南部へも勢力を広げていく中で、その中継拠点だった中野城は特に重視され、紀州内の北の前線基地として活用されていくこととなる。
そして 1577年2月、織田信長の大軍が紀州へ侵攻してくると(第一次紀州征伐)、 この中野城が真っ先に攻撃を受けることとなり、落城後はそのまま 織田軍総大将・織田信忠の陣所として転用される。 対する雑賀衆は、
紀ノ川河口にある弥勒寺山城と雑賀城に本陣を構え
、周囲に支城網を展開して対抗し、 徹底したゲリラ戦術により織田軍を翻弄し続けるも、翌 3月に入ると、双方で戦疲れが見え始め、 雑賀衆は降伏を願い出る形で遠征は終結されるのだった。
織田軍の撤退後、中野城は再び雑賀衆の城となるも、最終的に、秀吉の 紀州征伐(1585年)により 雑賀衆、 根来衆が壊滅させられると、各地の城塞群とともに中野城も解体され、 同年より着手された
和歌山城 建設
のための資材として転用されていったと考えられる。
1980~1981年の小学校建設時に行われた発掘調査で、堀跡と見られる大溝が発見されており、 他にも多量の 瓦、朝鮮半島から輸入された 白磁、鉄器片なども出土している。
続いて「木ノ本城跡」を目指す(下地図)。
網の目のように住宅街に張り巡らされた道を、とにかく北西方向へ進むわけだが、 まずは、その途中にある「車駕之古址古墳」に立ち寄ってみる。下地図。
この古墳は、5世紀後半頃に築かれた和歌山県内最大級の前方後円墳で(全長は 110~120 m。濠や外堤も完備されていた)、 発掘調査により装身具類や埴輪なども出土している。 中でも金製勾玉は目下、日本列島内では唯一、出土した事例となっており、朝鮮半島の新羅から持ち込まれたものと推定されている。
周囲には、他に釜山古墳と茶臼山古墳の 2基があり、ほぼ一列に並んで築造されていた様子が伺える。
そのまま脇の道をまっすぐ西進すると、「木ノ本聖地霊園」へと続いていた。この一帯が「城山遺跡」とされ、 かつて「木ノ本城」があった場所という(上地図)。
もともとは宮舞山から東側へ突き出た斜面先端部に築城されていたが、 現在は住宅開発と霊園開発にともなう土地造成工事のため、完全に地形が改変されてしまっていた。 なお、この時の事前発掘調査により、最大高さ 3 mもあったという大土塁に囲まれた、 単郭の城館跡の存在が確認されている。
城館時代の遺構は皆無だったので、とりあえず見学自体はすぐに切り上げ、さらに西進して「木本八幡宮」を参拝する(下地図)。
あわせて、山麓の集落にある「木本八幡宮 公園」も訪問してみた(下地図)。現在、「権殿(かりどの)」と 大鳥居が残されるのみだが、 かつて「芝原八幡宮」という由緒ある古刹があった場所である。古墳時代に神功皇后が三韓遠征を終え、 九州より畿内へ帰還した際、別の皇族らの反乱により 大和国(奈良盆地)へ直接、戻ることができなかったため、 一時的に紀ノ川を遡って紀州湊より上陸し、この地に仮の御所を構えたとされる場所で、その由来と歴史から、 古来より格式高い八幡神社として知られてきた。
「木ノ本城」の築城年代は不詳だが、もともとは平安時代後期より 紀伊国在田郡湯浅庄(現在の 和歌山県有田郡湯浅町&有田川町一帯)を支配した湯浅党一門衆の城館だった、と考えられている。
この一族は、藤原北家流・藤原秀郷(890?~958?年。平将門の乱鎮圧戦を指揮。下家系図)の子孫を自称していた 藤原宗永(下家系図)が、 父・藤原師重(下家系図)が 紀伊権守(紀伊国司の補佐役)として紀伊へ下向していた際に誕生し、 そのまま在地土豪らと婚姻関係を広げて、その 子・藤原宗重(下家系図)の代で「湯浅」姓を名乗るようになった、とされている。
藤原(湯浅)宗重は地元有力者らを束ねて権勢を振るい、1143年に山城だった 本拠地・広保山城(今の有田郡湯浅町)から平野部の湯浅城へ拠点を移し、平安時代末期における紀伊国最大の武士団を築き上げたわけだが、ちょうどそのタイミングで平治の 乱(1160年1月)が勃発し、 一気に歴史の表舞台へと駆け上がるきっかけを得るのだった。1159年末、
京都
で 源氏&藤原信頼らがクーデターを起こし、 後白河上皇の側近だった 信西&平氏の排除を試みる(平氏の 棟梁・平清盛が熊野三山への参詣のため、京都を留守にした時節を狙ったものであった)。この時、乱の 首謀者・藤原信頼は帰京する清盛も自動的に服従してくると考え、 特に追討軍を派遣しなかったわけだが、清盛は紀伊の地で兵を集めることを決意し、ここに湯浅宗重が活躍することとなるのだった。 最終的に清盛の勝利に貢献した宗重は、以降、平家政権下で大いに出世する。
しかし、清盛の 死後(1181年3月)、源氏が台頭してくると、棟梁を継承していた清盛の 三男・平宗盛(1147~1185年)は、安徳天皇を含む一族郎党を連れて
京都
を離れ西国へ落ち延びることを決意し、その道中で 一ノ谷の戦い(1184年2月)、
屋島の戦い(1185年2月)
と連戦連敗していく(下絵図)。この屋島からの敗走時、 清盛の亡き 長男・平重盛(1138~1179年)の 六男だった 平忠房(1167?~1186年)がひそかに平家陣営を抜け出して紀伊へ渡り、 平家方の有力武将だった湯浅宗重を頼って潜伏してくることとなる。
1ヶ月後の 1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡すると、源頼朝は全国規模で平家残党狩りを行い、 湯浅宗重にも捜査の手が及ぶこととなった。最終的に宗重は平忠房を匿って湯浅城に籠城するも、3ヶ月にわたる攻防戦の末、 「平重盛には旧恩があり、その息子は助命する」という頼朝の偽りの降伏勧告を受けて開城する。平忠房は
鎌倉
へ送られて頼朝と面会後、京へ送還される途上で
近江国勢多
で斬られたとされる(1186年1月。享年 11~12歳)。 対して、湯浅宗重はそのまま 所領(本貫の 紀伊国在田郡湯浅荘)を安堵され、地頭職を追認されることとなった。以降、 宗重の子孫はその血統と勇名を活かして紀伊国内で勢力を 維持&伸長し、「湯浅党」と呼ばれる一大勢力を形成させたのだった。上家系図。
最終的には宗重の 玄孫・宗保(上段家系図)の代に紀ノ川北岸の木ノ本荘まで領有するに至り、 この木ノ本の地に「木ノ本城館」を築城すると、そのまま木本宗保を称したと伝えられる。
こうして紀伊国の大勢力となった 湯浅一門衆(湯浅党)であったが、南北朝時代に入ると、 家中で南朝方と北朝方に分裂してしまい、没落していくこととなる。 これに対し、
(旧)紀ノ川河口部を根城とした雑賀衆が台頭してくると
、 戦国期には雑賀衆の国境拠点として「木ノ本城館」跡も活用されたと考えられる。
そして 1577年2月、織田信長の大軍が紀州へ侵攻してくると、最初に攻撃ターゲットにされて落城し、 織田軍の中野城攻めの陣城として転用されることとなる。 また 1585年3月の豊臣秀吉による紀州征伐に際しても、秀吉軍の陣城として活用されたと考えられている。
なお、この紀ノ川北岸エリアは古代より水運と街道が交錯するエリアであり、また北隣に文明の先進地である奈良盆地を擁し、 さらに紀ノ川の河口部にあって天然の良港として機能したことから、古代より集落や土地開墾が進んでいたと考えられる。 特に、和歌山県下でも最大級の 前方後円墳「車駕之古址古墳」は 古墳時代中期(5世紀)に造営されたもので、 紀伊国を支配した首長の陵墓と推定されている(国内で唯一、金の勾玉が出土している)。
また、北に連なる 宮山、権現山、宮舞山には、大年神社、安楽神社、北山大権現、木本八幡宮 など、 神道系の神廟が数多く現存、継承されており、こうしたことからも紀ノ川北岸一帯が古い土地柄であることが伺える。 特に「木本八幡宮」は、古代日本の大豪族で初代紀国造とされる天道根命が、八咫鏡と共に鋳造した日像鏡を橿の木の根本にお祀りした地ということで、 木本宮(きもとのみや)が創建されたことに端を発しており、それが神社名や地名となって「木(ノ)本」として今日まで継承されているわけである。
その後、天道根命の子孫らは各地で在地領主として割拠することとなり、 奈良盆地へも派生して 伊蘇氏(伊蘇志)、楢原氏、滋野氏らへと繋がっていく。
199年、大和王権に臣従していた 朝鮮半島南部の
伽耶諸国
、
百済
、新羅(上地図)、そして九州地方の豪族らが不穏な動きを見せると、 第 14代目・仲哀天皇(生没年不詳。日本武尊の第 2王子)は畿内から大軍を引き連れて九州へ遠征する。しかし、その遠征先で仲哀天皇が病死してしまうと、随行していた 皇后・息長帯姫命(神功皇后)がそのまま大軍を指揮して九州反乱の平定戦を完遂し、 さらに渡海して朝鮮半島の混乱を鎮定すると(三韓遠征)、 帰国直後に九州で 誉田別命(後の第 15代目・応神天皇)を出産することとなる(翌 200年)。
その戦勝と新皇子誕生の報を受け取った大和王権内では、 異母兄だった麛坂皇子と忍熊皇子が自らの立場に危機感を強め、畿内の軍を集めて神功皇后らの帰京を阻んだことから(201年)、双方の間で武力衝突が勃発する。 こうした中で、神功皇后一行(乳児だった誉田別命や 重臣・武内宿禰らも含む)は紀ノ川から上陸し、 その北岸にあった地元の領主居館に入り、一時的に御所に定めたのだった(以降、「仮の宮=頓宮」と称された)。 その場所が現在、権殿(かりどの)が残されている「木本八幡宮 公園」とされ、反乱平定後に奈良盆地へ帰還するまで滞在していたわけである。 なお、当時は後方の 宮山、権現山、宮舞山(厳橿山)の 山麓ギリギリまで海岸線が迫っており、 「頓宮」の前面は干潟と砂浜が広がっていたと考えられる。下地図。
時は下って 562年、祖先の応神天皇らが「しばらく」滞在していた御所跡にちなみ、時の天皇、欽明天皇(第 29代目)が勅令により、 この場所に「芝原(しばはら)八幡宮」を創建したと伝承されている(祭神は、応神天皇と神功皇后)。 こうした由来から、全国に 数多ある「八幡宮」の中でも有数の歴史を誇る古刹となっている。 725年には
聖武天皇
が玉津島へ行幸した際、当宮に滞在して魚鳥を放ち、放生祭を催行した記録が残されている。
こうした全国有数の古刹であったことから、中世以降も両宮は木本庄の鎮守神として多くの寄進と崇敬を集めたが、 1585年に豊臣秀吉が紀州征伐を実施した際、 その戦火に巻き込まれて「芝原八幡宮」、「木本八幡宮」共に本殿等の 社殿、古文書などをすべて焼失し荒廃してしまうのだった。
江戸時代に入ったばかりの 1603年、両宮の仮神殿が再建され、1618年には「芝原八幡宮」を木本宮へ合祀する形で「木本八幡宮」として再興される(八幡宮の跡地には「権殿」が建てられ、今日まで継承されているわけである)。以降、「木本八幡宮」は地元の産土神として、一帯の氏子のみならず、 広く紀伊国内で尊崇を集めてきたという。なお、この江戸時代初期に再建された 三間社流造、檜皮葺の本殿は今も現存している。
幕末期の 1861年には孝明天皇による攘夷の祈願が奉納され、また明治 6年(1873年)4月には村社に列せられ、 同 8年10月に県社へ昇格されている。
参拝後、さらに西進し「加太港」を目指す。上地図。
加太の町は、縄文時代から続く古い町ということで、古い寺院などが街中に点在する。
当地の主な見どころは、旧加太警察署(中村家 住宅主屋。明治末期〜大正初期に建てられたとされる登録有形文化財。 昭和 39年まで警察署として使われ、現在は個人住宅となっている)、 迎之坊(向井家 住宅)、加太春日神社(安土桃山時代の建築スタイルを継承する社殿は、戦前まで国宝に指定されていたほどの建造物)、 淡嶋神社(婦人の守り神として知られ、多くの女性参拝客で賑わう)などが挙げられる。
続いて南側にそびえる「鉢巻山」に登ってみる。この山中には「加太砲台」、「田倉崎砲台」などの戦跡が保存されている。 現在、「加太砲台」の跡地は和歌山県立国際交流センターの敷地となっており、4つあった砲台のうち 3つまでもが破壊されているが、 第一砲座、両端の砲測庫 2基、右翼・左翼の観測所、そして 火薬庫、弾廠、厠、監守衛舎、門柱、 井戸 などの付属施設が現存する。「田倉崎砲台跡」の方は、砲座が 3基と弾廠などが保存されていた。
頂上部は「見晴らし台」が整備され、子供の遊具広場となっていた。 沖に 4島連なる友ヶ島や 後方の淡路島を一望できるロケーションだった。下地図。
紀淡海峡の 砲台ネットワーク「由良要塞」
淡路島、友ヶ島、加太 と瀬戸内海の東端に連なる紀淡海峡の陸地部分に、総合的に配備された砲台ネットワークを「由良要塞」といい(下地図)、 大阪湾の南から侵入してくる敵船に対処すべく、日露戦争直前期に建造された軍事施設である(1889~1904年)。 27 ㎝カノン砲座が配置された 各砲台陣地(友が島に 5か所、加太に 5か所、淡路島鳴門・由良地区に 8か所。本部は 淡路島・由良に開設)は、 「加太砲台」、「田倉崎砲台」、「深山第 1砲台」、「深山第 2砲台」など個別の名称を有するも、だいたいの構造は似通っており、地下通路内に弾薬庫が配置され、それらが地下通路で連結されているパターンであった。これら多くの砲座は 360度回転が可能で、広範囲にわたる射程範囲が確保されていたという。
しかし、太平洋戦争を含め、一度も実戦使用されること無く、その役割を終えている。
その後、「加太砲台」の跡地に、和歌山市によって「少年自然の家」が建設されると、中央の第 2・第 3砲座が撤去されてしまい、 弾廠、厠は国有のまま和歌山市が借り上げて市営住宅の一部として使用されたという(1973年)。 2017年にはこの両施設は和歌山市が国から所有権を取得し、2017年~18年に保存修理を施して現状のように復元されたのだった。 2020年に「和歌山市立青少年国際交流センター」へ改編後、その展示物として活用されているという。
加太港の北側に配備された「深山第 2砲台跡」に至っては、「休暇村紀州加太」の建設にともない、弾薬庫以外すべてが撤去されてしまっている。 最北端の「深山第 1砲台跡」は観測所や 10門からなる砲台陣地が構築されていたが、 現在は砲台 1座のみが見学できる状態という。下地図。
加太港の歴史
和歌山市の北西端に位置する「加太」の町には、縄文時代以来、堤川沿いに集落地が営まれてきたことが分かっており、 この 河口部(南北約 500 m、東西約 550 mの範囲)から数多くの歴史的遺物が出土している。 特に、古墳時代~奈良時代に使用されていた 土師器、 須恵器、土錘、製塩土器 などが多数発見されており、漁業や製塩業などが盛んであった証とされる。
弥生時代以降、これらの土器に海水を入れて煮詰めて塩を作る製塩業が成立し、
奈良の平城京
などへ搬出されていた記録が残されている。 この頃、「海部郡加太郷」という行政区が割り当てられ、奈良盆地から 紀伊国、淡路島、四国へと連なる 街道ルート(南海道)が整備されて、 その中継拠点として「駅家(うまや)」が開設されていたという。江戸時代まで 海路~陸路へと連なる交通ネットワーク上に位置し、 四国などから多くの物産が加太港を経由していったわけである。
また和歌山の海岸線は高波に削り取られた絶壁や深い森林地帯が多く、古くから修験道の行場がたくさん開設されてきた。 現在、無人島となっている友ヶ島にも、5か所の行場が保存されている。
幕末期に入ると、沿岸警備が重視されるようになり、この紀淡海峡にあっては徳島藩により淡路島東端に「高崎台場」、 「生石台場」が整備されている。
紀州藩側では「雑賀崎台場」が設けられたが
、加太や友ヶ島には特に建設されていなかった。
明治期に入り、 1899年に紀州航路や淡路島の 洲本・由良を結ぶ客船が加太港を発着するようになると、 町はますます発展し、大阪湾の要衝の一角として注目されるようになる。 また同時期は建設技術も向上しており、それら土木技術を駆使して加太や 友ヶ島一帯に近代的な砲台陣地が築造されていったわけである。
第二次世界大戦に至り、淡路島側の由良要塞司令部の管轄区に組み込まれ、大阪湾防衛ラインの一角を成すこととされた。
自転車返却もあるので、17:00には帰路に就くことにした。 30分ほどのサイクリングで
JR和歌山駅
西口に戻ることができた。
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