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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~
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鳥取城包囲戦の 諸将陣所図 ~ 前鳥取城主の 山名豊国の心中や、いかに
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鳥取城方の 補給ルート ~ 丸山城、雁金山城、鳥取城へ
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鳥取城方の 出城 ~ 丸山城
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秀吉方の 水軍基地 ~ 船大将・吉川平吉 と 松井猪之助の陣所跡
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【豆知識】丸山城 ■■■
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鳥取城下の 旧武家屋敷の名残が残る 栗谷町エリア
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鳥取城 城下町の 今と昔
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いざ、太閤ヶ平(本陣山)へ 登山スタート
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本陣山に残る 巨大な土塁、空堀の 遺構群
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日本史上、攻城戦最大の 野外城が建造された 背景
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太閤ヶ平(本陣山)と 鳥取城との位置関係
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高速道路沿いに そびえたつ 河原城跡の遠景
【
丸山城
】
下の絵図は、
鳥取城
の 包囲戦(1581年7月12日~10月25日)における、秀吉方の諸将の陣地群を示したもの。
吉川経家
が籠城していた当時、
鳥取城の左側の尾根続き上にあった雁金山城
には、すでに 宮部善祥坊(継潤)が占領して(8月上旬)、その名前が記されている。
そして、そのさらに左側には、
山名禅高(豊国)の名も見える。つい 1年前まで鳥取城主、かつ伯耆国の守護であった人物で、第一次鳥取城攻めで単独、降伏していた(1580年9月21日)
。この第二次鳥取城攻めでは、丸山城との正面向かいの要衝に配されていたことが分かる。この最前線にあって、かつての部下らの奮戦をどのような
心境
で眺めていたのであろうか。
上写真は、
鳥取城の 山頂(久松山)
から海岸線一帯を眺めたもの。ちょうど、久松山を頂点に、尾根続きで複数の小山が峰を構成していたことが分かる。
下絵図は、江戸時代の同じ尾根並みの様子を描いたもの。頂上部分には、総じて平坦な曲輪跡が残っていたようで、鳥取城攻防戦の当初は毛利方の砦だったが、最終的には秀吉軍により占領され、その包囲軍の陣地群へと再改修されていたと推察される。
毛利方は、まず千代川沿いの丸山城に食糧や武器類を陸揚げし、ここに保管して、夜間に紛れて、山脈の山裾から
雁金山城
の尾根を経由し、
鳥取城
へと物資を搬入していたようである。
羽柴軍がこの尾根上の交信・搬入ルートを遮断すべく、中継拠点の雁金城を占領し、丸山城と鳥取城との分断に成功し、兵糧攻めの包囲体制を完成させた直後の絵図と言える。
この
丸山城
は、3月18日に鳥取城に入城した
吉川経家
により、即席で築城が開始された簡易城塞であったが、幾度も秀吉方の攻撃を受けるも、ついに最後まで落城しなかった。
下写真左は、丸山城(鳥取市山城町)の全景。下写真右は、丸山城側から見た鳥取城と雁金山城。
丸山城は、完全に独立系の小山で、しかし、その斜面は急峻で、難攻不落の様相を呈していた。
現在、石切り場(上写真左)が大きく口を開けており、ここも花崗岩の岩山で、鳥取城の築城工事にかかわる石垣資材が切り出されていたことが推察できた。
下地図は、現在の丸山城下の様子。
現在、ここの 登山道(上地図)は草木に覆われ過ぎて、登山がムリそうな雰囲気だった(下写真)。。。周辺の住民の方に話を伺うと、マムシが出るので、登山は控えた方が良いと言われてしまった。。。。
下写真
は、江戸時代の鳥取城の周辺を表したもの。
秀吉の鳥取城攻めの際は、丸山城の北側に秀吉方の水軍基地が設置されていた。現在の 濱坂弁天社(鳥取市浜坂)がある、やや小高い丘になっている場所だ(下地図の白丸)。毛利水軍による武器兵糧の搬入ルートの阻止をねらった布陣であった。
この水軍基地に、秀吉方の船大将・吉川平吉と松井猪之助が陣所を構築していた(一番最初の古絵図参照)。
なお、吉川平吉(もとは伊勢神宮の門前港町として栄えた 大湊の船奉行)は、この鳥取城の支城であった防己尾城の攻城戦で戦死してしまう。その後、弟の吉川平助が織田方の船大将を引き継ぐこととなった。
下写真は、
鳥取城(久松山)
から湖山池と防己尾城を眺めたもの。
吉川経家は 1581年3月18日に鳥取城に入城すると
、
すぐに
防衛ラインの再構築にとりかかり、既に城内で不足気味であった兵糧の確保を進めるべく、毛利水軍の支援部隊による陸揚げ拠点として丸山城を急ごしらえで築造する。
そのロケーションから、鳥取城の出城と位置づけられ、守将として 山県左京進と佐々木三郎左衛門、但馬海賊集団の 頭領・奈佐日本助ら 500名の守備隊が配された。
8月上旬に
雁金山城
が落城し、城将の塩治周防守らが丸山城へ逃げ込むと、鳥取城との連絡ルートは、完全に寸断されることとなる。
その後も、度々、秀吉方から攻撃や降伏勧告が出されるも、丸山城兵らは一丸となって籠城戦を継続し、1581年10月25日に吉川経家が降伏し、鳥取本城が開城すると、丸山城方も降伏に追い込まれる。
このとき、吉川経家が自刃するとともに、 秀吉により守将の 奈佐、佐々木、塩冶らも切腹を命じられ果てている。
現在、彼らの慰霊塔が
雁金山城跡
の裾野に建つ(下写真左)。
丸山城
の訪問後、いったん鳥取城の正面通りを戻る形で、鳥取市歴史博物館「やまびこ館」を目指した。下写真左は、途上にあった
雁金山城
への登山ルート。正面入り口にあたる。
さらに、鳥取西高校の東側に広がる、旧武家屋敷の名残が残る エリア(鳥取市栗谷町)も通過した。家々の前を通る水路網や門構えが、かつての屋敷群の名残を感じさせてくれる(下写真右)。
鳥取市歴史博物館「やまびこ館」では、レンタサイクル利用者だったので、入館料が 300円→ 240円に割引された。
ここでは、簡単な鳥取の歴史、特に戦国、江戸期、近代以降に分かれて展示がされていた。さすが、
羽柴秀吉の鳥取城攻め
が有名なだけに、このエピソードにかなりのスペースが割かれていた。
下は
、江戸時代の
鳥取城
城下町の模型。
江戸時代が終結し、明治時代が始まると、武家屋敷群はことごとく破却されてしまい、かつての建築物が全く残らない状態になってしまうも、内堀内、特に山に近い部分は、市街地開発に巻き込まれずに済み、今日、日本で最も多くの石垣群を残す城郭遺跡となっているというわけである。
商店街や道路整備などにより、原型をとどめないぐらいに開発されてしまっている城下町であるが、現在でも街中に走る小川や用水路として、かつての中堀や外堀が現存している。
また、大工通り、大魚通り、川外通りなど、かつての城下町の名残を残す地名も健在であった(下地図)。
17:00
閉館ということで、5分前の 16:55に歴史博物館を後にした。
そのまま 樗谿神社(1650年に鳥取東照宮として 藩主・池田光仲が建立した神社)の上の 遊歩道(3,700 m強)を、太閤ヶ平(本陣山)まで自転車を押して登ることにした。ランニングや散歩で市民が日常的に散策できるようにきれいに整備されたアスファルト敷の山道で、非常に助かる。
実に、30分強かけて山頂に到達できた。途中、自転車に乗ったり、降りたりを繰り返しながらの行軍だった。
本陣山
に残る秀吉本陣の要塞跡であるが、今も巨大な土塁が威容を誇る。
要塞の周囲に巡らされた空堀と土塁は、 現在でも高低差 2~3 mは十分にある。
空堀跡が延々と周囲を巡らす(下写真)。
下写真左は、馬泊り(馬場)の跡地。当時、ここに大量の軍馬が留め置かれていた。
下写真右は、本陣の出丸跡。
下地図は、本陣部分の 土塁、空堀の配置図。
かつての 馬留め(馬場)広場の半分には、NTT Docomoの電波中継アンテナ基地が設置されている。
この本陣山は、もともと
帝釈山
と呼称されており、この地に秀吉が大規模陣地を構築して以降、本陣山、もしくは太閤ヶ平と通称されるようなったという。
建造当時の要塞本陣は東西幅 58 mにも達する広さを有し、高低差 4 m以上の土塁と空堀に囲まれ、複数の櫓台も併設していた。当時、このような 要塞(陣城)群は合計で 70ヵ所も設置され、その規模は鳥取城一つを囲むにはあまりに圧倒的過ぎた。日本史上、攻城戦最大の野外城と言われる。
このため、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための陣構えでもあった可能性が指摘されている。
また、
前年までの 2年近くを費やした三木城包囲戦では、たびたび籠城方や周囲の支城群からの奇襲に悩まされた秀吉や黒田勘平の経験から、真っ先に周囲の城々を各個撃破しつつ、ターゲットの鳥取城に対しても徹底的に油断を排除した体制を整えたものと考えられる
。
7月12日
に秀吉本軍が鳥取に到着して以降、8月上旬に
雁金山城
が占領されて、鳥取城の孤立化が決定付けられると、早くも同月下旬には城内の食糧が欠乏し出し、人肉まで食す地獄絵が広がり出すことになるのだった。
本陣山の山頂(太閤ヶ平)は木々が茂りすぎて、周囲の景色を全く見渡すころができなかったため、鳥取城との距離感が分かりづらかった。途中、六角展望台から鳥取城側を撮影できた(上写真右)。
下山では、自転車の威力を最大限に生かし、10分ほどで登山口まで戻って来られた。
鳥取市歴史博物館の先の駐車場にある公共トイレで汗を流す。日本はあちこちに清潔なトイレが設置されていて、助かる。
鳥取駅の駐輪所で自転車を返却した。上写真は、鳥取駅前から見た
鳥取城
と本陣山。
さらに、因播郡国庁跡や若桜鬼ヶ城跡、
河原城(本名:丸山城)跡
も訪問したかったが、今回は時間的余裕が残されていなかった。
上写真は、関西方面へ移動中に鳥取自動車道から見えた、河原城跡。千代川と八東川との合流ポイントの丘陵地帯に築城された城塞で、現在の模擬天守は地元の博物館という。
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