BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬


奈良県 天理市 ② ~ 市内人口 4.8万人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)


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  桜井市立埋蔵文化財センター、旧・奈良上街道
  芝遺跡(弥生時代の集落遺跡)
  芝村陣屋跡、旧城下町エリア、慶田寺(藩主・織田家の菩提寺)
  箸墓古墳(大市墓)
  渋谷向山古墳(埋葬された景行天皇は、日本武尊の父と伝承される大和王権の大王の一人)
  行燈山古墳(埋葬された崇神天皇は、大和政権の創始者で初代大王と想定されている人物)
  黒塚古墳(柳本城【楊本城】跡、柳本陣屋跡)、天理市立黒塚古墳展示館
  唐古・鍵遺跡 史跡公園(弥生時代の集落遺跡)、唐古・鍵考古学ミュージアム
  森屋城跡(村屋坐彌冨都比賣神社)
  十市城跡
  戒重陣屋跡(春日神社、敏達天皇・訳語田幸玉宮 推定地)
  谷城跡
  龍王山城跡(北城 / 南城)



奈良県は特に手ごろな価格帯のホテルが多いが、 今回は連泊特典のある天理駅前の「ビジネス旅館やまべ」に 4連泊してみることにした(一泊 4,000円、トイレ風呂は共用)。 ホテルでママチャリ自転車が借りられるし、近くにはスーパーマーケットもあり、長期滞在にはありがたい宿泊先であった
さすがに 4~5日連続で自転車を借りられない場合は、天理駅前桜井駅前(近鉄線)田原本駅前 でもレンタルできるので、臨機応変に対応したい。

いちおう、今回は天理市南部エリアを見学して回るということで、JR桜井線(万葉まほろば線)で「桜井駅」まで電車移動し(下地図)、ここで自転車を借りることにした。近鉄サンフラワーレンタサイクル(桜井センター)にて、1日 900円(9:00〜17:00)。土日祝日は 1,000円。

天理市/桜井市

早速、桜井駅前から国道 169号線を北上しつつ、途中途中で史跡見学を進めることにした(上地図の黄色ライン)。
大和川を越え「三輪」の集落地に入ると、道路沿いに「芝運動公園総合体育館」などがある「芝運動公園」があり、 その一角に「桜井市立埋蔵文化財センター」を発見する(上地図)。 桜井市内各地からの出土品を紹介する展示収蔵室があるというので、立ち寄ってみた(入館料 200円。毎週月曜&火曜日休館)。

退館後、再び国道 169号線に戻るわけだが、この博物館正面から東西に枝分かれしているので、 その東側の住宅街道路を北上することにした。ここが「旧・奈良上街道」であり、すぐに「芝遺跡」という解説板を発見する(上地図)。 弥生時代の 集落遺跡(竪穴住居跡や 掘立柱建物、土坑、ピットなどが出土)があった場所とのこと。

桜井市

さて「旧・奈良上街道」をさらに北上し、芝地区の旧市街地に至ると、そのまま東へ進路を変える。 この旧市街地こそが芝村藩の城下町エリアだった場所である。上地図。
とりあえず「芝公民館(上地図)」を目指していると、 その傍に溜池があった。これは陣屋南面の水堀跡で、ほぼ完全な形で残されていた。上地図。
東端まで行ってみると、大きな溜池が別にあった。東面の水堀が加工されたものと推察できた。

その溜池から北へ進路を変えると、間もなく「織田小学校(奈良県桜井市芝 1177)」の正門にたどり着く(上地図)。 ここがかつての「芝村陣屋の御殿跡地」ということで、当時の石垣に使われていた石材と土壁を用いたお城のようなデザインの校門脇に、 解説板が設置されていた。
さらに小学校脇をぐるりと廻る形で北上し、北西端にあった「弁天池」に到着する(上地図)。 かつての北面の水堀が改変されたものである。

そのすぐ北側を流れる纏向川沿いを少し西進すると、国道 169号線と交差する辺りに「慶田寺」がある(上地図の左端)。 ここは、江戸期から 藩主・織田家の菩提寺とされ、現在の 山門(正門)は、この 陣屋門(長屋門)を移築したものという。 また墓地内には、初代藩主の 父・織田長益(有楽斎。信長の実弟)の 墓標(分骨)も現存する。

桜井市


織田信秀(1511~1552年)の十一男として誕生し、信長とは 13歳離れた弟であった 織田長益(有楽斎。1547~1622年)は、信長の死後、 秀吉の御伽衆として近侍しつつ、姪の 淀殿(1569~1615年)の庇護者として厚い信頼を得、鶴松出産にも立ち会ったほどの関係を築いていた。 秀吉死後も淀殿に近侍して 大坂城 で生活を続け、秀吉から与えられた 摂津国島下郡味舌(現在の 大阪府摂津市)2,000石を領有した。

1600年9月の関ヶ原合戦に際しては、徳川方に組して 長男・長孝(?~1606年)と共に兵 450を率いて参戦し戦功を挙げたことから、 長益は大和国内に 3万石を、長孝は 美濃国・野村に 1万石を追加して与えられる。

大坂の陣に際しては、終始、穏健派として立場を貫きつつ淀殿に近侍するも、 1615年の夏の陣を前に、主戦派が大勢を占める 大坂城 から自主的に退去し、 そのまま隠居を願い出る。この時、自身の隠居料 1万石をキープしつつ、 大和国内の残りの所領のうち、1万石を 四男・長政(1587~1670年)に、さらに 1万石を 五男・尚長(1596~1637年。柳本藩を立藩)にそれぞれ分知したのだった(最終的に 1622年12月13日、京都 にて 75歳で死去すると、自身の 1万石は江戸幕府に収公されることとなる)。

以降、この織田長政を祖としてスタートした「戒重藩(後の芝村藩)」であるが、 父・長益の元々の 領地・摂津国島下郡味舌(現在の 大阪府摂津市)の 2,000石も継承し、実際には 12,000石を領したのだった。 当初は「戒重陣屋」を居城に定めていたが、領地の外れに立地したことから 年貢徴収&搬入が非効率であったため、 4代目藩主・織田長清(1662~1722年)が、陣屋を戒重から領地中央の「岩田村」へ移転する旨、幕府に願い出て許可を得る(1704年)。 しかし、財政難からなかなか新陣屋の建設工事が進まない中、1713年、幕府の命により「岩田村」が「芝村」へ改称されると、 7代目藩主・織田輔宜(1732~1799年)の治世下でようやく陣屋が完成し(1745年。下絵図)、「芝村藩」と称されるようになったわけである。

桜井市

以降、「芝村陣屋」を拠点とした芝村藩は、この 7代目藩主・輔宜の頃から幕命によって 幕府領(天領)の代理管理を任されるようになり、 1746年には預かり地が 9万石近くに達し、つづく 8代目藩主・織田長教(1733~1815年)の代になると総計 9万3,430石を受け持つようになっていた。 当初はその管理手腕を称賛された芝村藩であったが、逼迫する藩財政立て直しを目的に年貢増税策を進めたことから、 1753年末より預かり地における百姓一揆が頻発するようになり、さらに芝村藩役人の不正までも発覚するに及び、 藩主・長教をはじめ藩要人らは処罰され、預かり地も全て幕府に召し上げられてしまうのだった。

以降、ますます借金苦にあえいだ芝村藩であったが、幕末の 11代目藩主・織田長易(1824~1873年)の代まで何とか生き抜くこととなる。



桜井市

再び旧城下町エリアに戻り、「旧・奈良上街道」をさらに 300 mほど北進すると、「箸墓古墳」に行き着く(上地図)。 歴史の教科書で何度も目にした、あの「箸墓古墳」である。

古墳時代初期(3世紀前半)の中でも最古級とされる前方後円墳で、 その規模と出現時期から邪馬台国の卑弥呼、もしくは同時期に成立した大和王権の初代大王を埋葬したもの、 という説が唱えられている。
いちおう、宮内庁により 第7代・孝霊天皇の皇女である「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」の 陵墓「大市墓(おおいちのはか)」と治定されおり、現在、一般人の立ち入りが禁止されている。「大市墓」の別称が「箸墓古墳」とされる所以は、 百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命したという逸話が基になっているという。

とりあえず、周囲を一周回ってみて、拝所に参拝しておいた。 築造当時は空堀が周囲に巡らされていたというが、纒向川の氾濫や長年の風雨の中で水堀化したようである。 この「箸中大池」対岸からの撮影写真は、非常に有名だ。上地図。

天理市

さらに「旧・奈良上街道」を 1 kmほど北上していると、東側に「渋谷向山古墳(景行天皇 山邊道上陵)」の小山が見えてくる。 国道 169号線沿いにあるので、ここから国道を進むことにした(上地図の黄色道路)。

この「渋谷向山古墳」であるが、そのまま地元の地名が冠された命名となっている(渋谷町字向山)。
「行燈山古墳」に続いて造られた大和王権の大王の陵墓で、築造時期は 古墳時代中期(4世紀後半)で、 前方後円墳(上の 山古墳)、円墳、方墳、各 1基の陪塚が配されていたという。 初代大王墓とされる「箸墓古墳」からは数代後の大王のものと考えられており、目下、宮内庁により第 12代・景行天皇の墓陵に治定されている。 なお、この景行天皇は 日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝承される人物である。

さらに 400 mほど北上すると、東側に巨大な水濠を有する 前方後円墳「行燈山古墳(崇神天皇陵)」が出現する(全長 242 m)。上地図。
地元の 地名(字行燈山【あんどんやま】)から命名された古墳で、 埋葬された第 10代・崇神天皇は、大和政権の創始者で初代大王と想定されている人物である。 同じく宮内庁が管轄しており、立ち入り禁止だった。

天理市

さらに国道 169号線沿いを北へ 1 km北進すると、 天理市柳本町の集落地に到着する。
この西側に「(国指定史跡)黒塚古墳」と「天理市立黒塚古墳展示館(9:00~17:00、月曜休館。入館無料)」があったので、 訪問してみた(上地図)。展示館内では、復元された竪穴式石室の実物大レプリカがあり、内部を体験できる。

続いて公園部分を散策してみると、全長 130 m、後円部の高さ 11m の前方後円墳は公園として整備され(上地図)、 普通に見学無料だった。 33面の三角縁神獣鏡が、ほぼ埋葬時の配置で出土したことで注目を浴び、国史跡に指定されている。

そして戦国時代末期には、この古墳高台と水堀が城塞へ転用され、「柳本城(楊本城)」が築城されたわけである。 江戸時代には「柳本陣屋」へ転用され、織田家が代々、駐在したのだった。


中世に発生した地震により、古墳の石室が崩落したため、 造営時のままの遺構が現在まで保存され得た稀有な古墳遺跡である。鎌倉時代に大規模な盗掘に遭うも、 石室の天井石が崩落していたため、主要部分が荒らされることなく副葬品類が守られたのだった。

そして室町時代を通じ、このエリアを支配したのは 在地土豪・楊本氏であったが、 室町時代も末期の頃には、西隣より勢力が伸長させてくる十市氏の脅威が増したことから、 黒塚古墳の墳丘を利用して「城塞(柳本城、楊本城)」を造営したり、南大和の 覇者・越智氏 と協力関係を築くなど防衛体制強化を図っていく。 しかし 1471年、筒井氏と組んだ十市遠清に攻められ、当主・楊本範満は敗死に追い込まれることとなる。

天理市

以後、十市氏の持ち城となるも、楊本氏や筒井氏の残党は何とか旧領回復を図ってゲリラ戦を展開し続け、 畠山氏配下の 有力家臣・木沢長政が 隣国・河内国を支配すると、これを頼って大和侵攻を斡旋し、 最終的に越智氏を圧倒して大和国を再占領する。このタイミングで一時的に旧領に復帰するも、 1542年3月、木沢長政が太平寺の戦いで敗死すると楊本氏も没落し、 旧・楊本領は完全に十市氏の支配地に再編入されてしまうのだった。

その後、大和国に三好長慶配下の松永久秀が侵攻してくると、瞬く間に大和国の大半を占領するも、 筒井党ら大和武士団はゲリラ戦で抵抗を続けていく。そんな中、信長の勢力退潮を見計らった松永久秀が信長包囲網に参加し挙兵するも、 すぐに降伏し再び信長配下に組み込まれる(1573年末)。 以降、大和国守護から 信貴山城主 へ降格されると、代わりに 塙直政(?~1576年)が大和国守護として派遣されてくる。 このタイミングで久秀のライバルだった 筒井順慶 も信長に拝謁し臣下となっており(翌 1574年春)、 長年、死闘を演じてきた両者は同舟異夢の中で、大和国内で共存していくこととなった。

しかし、引き続き野心の強かった久秀は、1575年、奈良盆地東端の巨大山城を本拠地とする 十市氏(家中が松永派と筒井派に分裂し、 最終的に松永派が主家を継承していた因縁もある)に接近し、両者は姻戚関係を結ぶと、松永軍の手により十市氏の持ち城だった「柳本城(楊本城)」にさらなる補強工事が加えられる。 翌 1576年に 本願寺攻めの際、塙直政が戦死してしまい大和国は再び守護不在となったため、 野心家の久秀が再び反信長包囲網に参画し 信貴山城 で挙兵すると、久秀は 長男・久通をこの「柳本城(楊本城)」に配置させることとする(この時、姻戚関係を結んでしまった十市氏勢も籠城軍に加担したと考えられる)。

しかし、翌 1577年10月に信長軍により久秀が敗死に追い込まれると、久通のいた「柳本城(楊本城)」も落城する。 以降、いよいよ筒井順慶に大和国支配が委ねられることとなり、1580年には信長の命により、 大和国に点在していた諸城の破却が進められるのだった。この時、「柳本城(楊本城)」も解体されたと考えられる。

天理市

時は下って 1615年夏、 大坂夏の陣 を前に、主戦派が席巻する大坂城内にあって、 数少ない穏健派だった信長の 実弟・織田長益(有楽斎)が大坂城から自主的に退去し、 そのまま隠居してしまうと、関ケ原合戦 の軍功として下賜されていた大和国内の所領 3万石のうち、 1万石を自身の隠居料としてキープしつつ、 1万石を 四男・長政(1587~1670年。戒重藩【後の芝村藩】を立藩)に、 さらに 1万石を 五男・尚長(1596~1637年)にそれぞれ分知したのだった(最終的に 1622年12月13日、 75歳で 京都 にて死去すると、自身の 1万石は幕府に収公されることとなる)。

こうして織田尚長がこの 柳本(楊本)の地を支配するようになると、当初は、地元の庄屋邸を借り上げる形で政庁を設けていたが、 寛永年間(1624~45年)に「楊本城跡地」に柳本陣屋を造営し、柳本藩庁を正式に開設する。 陣屋敷地内にはそのまま黒塚古墳を取り込み、その水堀を転用して石垣も装備されたという。 以降、この陣屋が幕末まで継承されることとなる(最後の藩主は 13代目・織田信及【1843~1889年】)。

1998年調査で、古墳の後円部分に長方形型の本丸が造営され、その周囲には幅の狭い平坦面の帯曲輸を巡らせ、 前方部に向けて段々に複数の曲輪が設けられていたことが判明している。 そして前方部の一番低い箇所に幅 6.8 m、深さ 3.4 mの堀を新たに掘削し、防備が固められていたという。

このように、室町時代後期から 近世・幕末まで、 武家以外が黒塚古墳に自由に立ち入れなかったため、その後の盗掘を防いだという指摘もある。
明治期に入り、陣屋跡の大部分は天理市立柳本小学校の敷地となると、陣屋屋敷は解体され、 付近の民家に陣屋門が移築されたり、さらに御殿建物は橿原神宮の文華殿として移築され、今も大切に保存されているわけである。 また、南側に立地する専行寺が 藩主・織田家の菩提寺だったことから、 その北東奥に初代藩主の 父・織田長益(有楽斎)の 供養塔(分骨)が設置され、今も現存している。


桜井市

ここから、まっすぐ水田地帯を西進する。その途中、後方を振り返り、 東側にそびえる龍王山の遠景を写真撮影しておいた。この山頂に「龍王山城跡」があったわけである。

さらに西へ進むと、国道 24号線に行き当たる。 この道路沿いに「唐古・鍵遺跡 史跡公園(上絵図)」と「唐古・鍵考古学ミュージアム」があったので、訪問してみる(9:00〜17:00、200円)。


今から約 2,000年前の弥生時代、奈良盆地の中央に相当するこの場所に、日本最大級の環濠集落が立地していた。

その環濠内部は約 42万 m2(甲子園 10個分)もの面積を誇り、弥生時代前期から後期までの約 700年間もの間、 途切れることなく巨大集落として存在し続けていたことが分かっている。

発掘調査により、幾重にも掘削された 環濠(外周部は、直径 400 mにも及んだ)や 大きな 建物遺構、土器類などが出土し、 それらが日本各地から運び込まれたことが分かっている。こうした遺物から、弥生時代には既に広域交流が行われていたことが判明したのだった。
磯城郡

この特徴から、この環濠集落は当時、近畿エリアのリーダーとして機能した王都か、 首府ではなかったかと考えられている。こうした歴史的背景と出土品の価値が評価され、1999年に国史跡に指定されることとなる。

現在、遺跡公園には高さ 12.5 mの楼閣や環濠の一部が復元されており、 それらの地下には、今でも弥生時代の遺構が保存された状態となっている。 付属施設では、勾玉作り体験や土器づくりなどもトライできるという。



磯城郡

見学後、東へ進んで大和川沿いに入り、南進していくと「蔵堂」の集落地に到達した。 その左岸側にうっそうと茂る雑木林があり、ここが「村屋坐彌冨都比賣神社」であった。上地図。
ここに、かつて「森屋城」があったとされているわけだが、現在、全くその遺構は残っていない。 神社に隣接する広場に、この蔵堂地区や 在地土豪・森屋氏に関する解説板があり、 その中で城館について軽く言及されている程度だった。

史書の記述からも、もともと森屋氏の城館が開設されていたことは分かっており、 松永久秀が大和へ侵入してきた 永禄年間(1558年〜1570年)に、その城主が秋山氏や十市氏へ入れ替わり、 さらに松永軍に直接占領されたりと、盆地中央部に立地したことから常に戦火に晒されていたことが伺える。

橿原市

ここから少し西へ進んだ後、水田地帯をまっすぐ南進していくと、県道 14号線(桜井田原本王子線)と交差する。 さらに水田地帯を南進し、寺川を目指していると「十市町」の集落地に到着できた。
ここに、かつて「十市城」があったわけである(上地図)。

この城跡遺構は現在、全く残っておらず、完全に水田地帯と化した中にある微高地の 畑部分(約 70 m四方)が城跡の一部と伝えられており、 石碑だけが設置されていた。一帯は完全に平野のど真ん中といったロケーションで、交通や農業には適しているものの、 防衛には全く不向きな土地柄に見えるが、地図をさらに俯瞰してみると、西面と南面には寺川が、東面には大和川が接近して流れており、 両河川をうまく外堀として転用していた構図が伺える。
1987~88年にかけて主郭部分の発掘調査が行われており、幅 2~7 mの大溝や 土橋、 中国製の陶磁器類などが発見されているという。

城域自体は東西約 430 m × 南北 550 mという巨大さで(上地図)、 室町時代に大和四家を成した十市氏の城館とあり、同時代の 盟主・箸尾氏の箸尾城や 筒井氏の筒井城 より規模が大きかったようである。 その内外では小字として 唐堀、古市場、大門、的場、下殿口、中殿内 などの地名が伝承されている。


南北朝時代の 1347年に記された興福寺の資料に、興福寺大乗院の国民の一角として 十市新次郎(入道)の名が言及されており、 十市郡・小垣内と 常磐庄の二郷の荘官を務めていたことが記録されている。 これが史書における十市氏の初めての登場であり、以降、大和国十市郡十市に構えた「十市城」を拠点に、 大和国史に何度もその名を刻んでいくこととなる。

特に 永享の 乱(1438年)以降、筒井党傘下の有力国人として台頭し、当主・十市遠忠(1497~1545年)の時代に最盛期を迎える(1550年代)。 この時、奈良盆地東部にそびえたつ龍王山に巨大な山城を造営し、6万石もの領地を支配したとされる。下地図。

橿原市

その後、畿内の有力大名らが度々、大和国へ軍事介入するようになり、 大和全土は常に戦火に晒されることとなるも、織田信長によって松永久秀や筒井順慶を含む大和諸勢力が支配下に組み込まれていくと(1575年)、 ようやく落ち着きを見せるようになる。しかし、これに反比例するかのように十市氏は弱体化の一途をたどり、 最終的に一族は松永派と筒井派に分裂して、領地の大部分を筒井氏と松永久秀によって押領されてしまい、 最終的に筒井順慶の斡旋で布施氏から養子が迎えられ、十市新二郎が当主となって筒井家の配下に収まっていくのだった(1579年)。

1584年に順慶が病死し 実子がなかったことから、分家筋だった 慈明寺順国(筒井順国)の 次男・定次が筒井家当主を継承すると、 翌 1585年、秀吉による配下武将らの領地替え改革があり、筒井定次には伊賀国への転封が命じられる。 家臣団となっていた十市新二郎もこれに従って伊賀へ移住するも、最終的に筒井定次が徳川家康の不興を買って改易されると(1608年)、 新二郎ら大和武士は郷里の奈良盆地へ戻り、帰農することとなる(以降、十市氏は上田姓へ改名したとされる)。



桜井市

続いて、少し南を流れる寺川まで移動し、この川沿いを南進していくと、近鉄線の高架前に行き着く。 この手前から住宅街を西へ入ると、うっそうと茂る雑木林内に「春日神社」が鎮座していた。上地図。

ここが「戒重陣屋跡」とされる。寺川と栗原川が合流する地点の、やや高台に立地しており、 城塞らしい立地条件ではあるが、「敏達天皇・訳語田幸玉宮(天皇の皇居)推定地」に関する解説板が設置されるだけで、 戒重陣屋に関する解説は一切なかった。当時の遺構も全く残っておらず、神社参拝する形で見学を終えることにした。


大和国の城上郡戒重郷を領した 在地土豪・戒重氏は、もともと東大寺領の 長田庄・他田庄の庄官を務め、 また同時に同寺衆徒でもあった。この両庄は平安時代から存在しているものの、戒重氏がいつ庄官に任命されたかは分かっていない。

戒重氏の記録が最初に史書に現れるのは、南北朝時代初頭のことで、戒重西阿がその子 木工助・良円と供に南朝方に組し、 「戒重城」を守備したことが記録されている。この時、北朝方の細川勢によって落城に追い込まれたという(1341年7月)。 この他、管領・細川政元の命を受けた赤沢朝経が大和国へ侵攻した際も、「戒重城」の落城が言及されている(1506年8月)。

戦国期の戒重氏は 1,500石を領有し、越智党 に組して筒井党と対抗するも、一時的に松永久秀の軍門に下ることとなる。 最終的に信長に反旗を翻した松永久秀は敗死することとなり、筒井順慶 が信長により大和国の支配を公認されると、その家臣団に組み込まれる。

1580年に織田信長の命を受けた筒井順慶により、自身の 居城・郡山城 を除く大和国内すべての城塞群の破却が進められることとなった際、 戒重城主の戒重氏が強く反発したため、信長の裁定により自刃を命じられ、明智光秀が戒重城を接収し、 そのまま城の解体作業が執行されたと伝えられている。

桜井市

時は下って 1600年9月の関ヶ原合戦が終結すると、東軍に組した 織田長益(有楽斎。1547~1622年)は、大和国内に 3万石の加増を受ける。 織田長益は 淀殿(1569~1615年)の叔父にあたる関係から淀殿の信頼も厚く、自身は長く 大坂城 に居住し続けるも、 1615年の大坂夏の陣に際し主戦派が大勢を占める中、穏健派であった長益は居場所を失い、 自主的に城を退去することとなる。そのまま隠居を決意し、大和国内の知行地 3万石のうち、 1万石を自身の隠居料としてキープしつつ、 1万石を 四男・長政(1587~1670年)に、 さらに 1万石を 五男・尚長(1596~1637年。柳本藩を立藩)にそれぞれ分知したのだった(最終的に 1622年12月13日、 75歳で 京都 にて死去すると、自身の知行地 1万石は幕府に収公されることとなる)。
1619年、戒重藩を立藩した織田長政は「戒重城跡」に陣屋を造営する。

1704年、4代目・織田長清(1662~1722年)の治世下、陣屋が藩領のはずれに立地したことから兵糧運搬上の効率が悪いということで、 陣屋を戒重から藩領中心地の「岩田村」へ移転させることを願い出て、幕府に許可される。すぐに新陣屋建造に着手するも、 財政難だったため工事の進捗状況は芳しくなかった。そうした中で、1713年、幕命により「岩田村」は「芝村」へ改称されることとなる。
桜井市

そして、7代目藩主・織田輔宜(1732~1799年)の代に至り、ようやく「芝村陣屋」が完成すると(1744年)、 翌 1745年に政庁を新陣屋へ移転して芝村藩へ改称されるわけである。以降、幕末まで存続することとなった。



このまま近鉄線路沿いを東進し、「桜井駅」に帰着できた。

もし余力があれば、この駅南側にある「谷城跡」にも立ち寄ってみたい(冒頭地図)。
古くからあった「若桜神社」を改修する形で、分厚い土塁壁と空堀が築造されており、 この一帯を支配した 在地土豪・谷氏に関係する館城か陣城だったと考えられている。 40 m2ほどの小規模な主郭を守るように、深さ 4~5 m、幅 6 mの堀切などが現存し、 歴史エピソード的な関心というより、純粋に城塞遺跡を楽しみたい場合には絶好の城跡と言える。



 龍王山城(北城 / 南城)

標高 586 mの龍王山は、奈良盆地の東側に連なる山脈群の中では最も高い山である。 盆地全体を見渡せる好立地にあり、かつ、その城域は広大で大和国内で最大規模を誇り、 北城部分だけでも 信貴山城 に次いで二番目となっている。松永久秀が大規模補強した「信貴山城」、 筒井氏の 詰め城「椿尾城(椿尾上城。今の奈良市北椿尾町字城山)」と並び、中世大和の三大山城に数えられる。

この北城が本城であり、これより前に造営されていた南城は出城的な役割を担っていたと考えられる。 両者は 60 mほどの高低差があり(下絵図)、南城がある龍王山山頂から北西に派生した尾根上に北城が造営されていた。 現在でも堀切や 土塁、畝状竪堀群、複数の曲輪遺構 が残っており、見ごたえ抜群の遺跡である。

ただし、基本的にこの山城見学には自動車利用が必須と言える。 もちろん、龍王山へ至るハイキングコースもあるにはあるが、時間と体力節約を考え、 龍王山城(北城)の入口近くまで通る自動車道と駐車場を利用し山頂まで行けると、 体力を十分に温存したまま城跡見学を堪能できるはずである。

桜井市

城主・十市氏の出自に関しては不明な点も多いが、南北朝時代の記録から大乗院方の国民であったことが伝わっている。
室町時代中期、筒井党に組した 当主・十市遠清(?~1495年)が勢力を伸長し、 東隣の 国人領主・楊本氏を圧迫するようになる。これに対抗すべく、 時の 当主・楊本範満(?~1471年)は黒塚古墳に「柳本(楊本)城砦」を造営したり、 南大和の 有力国人・越智氏 と結ぶなどの対策を講じるも、 1471年、十市遠清が本格的に軍事侵攻を開始すると、範満父子はそのまま敗死に追い込まれるのだった。 以降、楊本庄を併合した十市氏は、龍王山の山麓に至るまでの広大なエリアを支配ようになる。

ほぼ同時期、河内・紀伊・山城・越中 守護職の継承権を巡って、畠山家の相続対立が勃発し、 畿内各地で武力衝突が連鎖的に発生すると、そのまま応仁の乱として日本全国へ波及していく。 10年の時を経て 京都 での戦火は終結するも、その火種はそのまま全国に残り続けて戦国時代へと突入するわけだが、 畿内の 名門・畠山家の内紛は全く収まる気配を見せなかった。
こうした中の 1477年9月、畠山義就(1437?~1491年)が河内国に侵攻し、 反対派勢力(従兄弟の 畠山弥三郎・政長ら)を駆逐する中で、 これに組した 越智家栄(1432~1500?年)古市澄胤(1452~1508年)らも大和国内で軍事行動を展開し、 畠山政長派に組した 筒井順尊(1451~1489年)、箸尾為国(生没年不詳)、十市遠清(?~1495年)らを駆逐すると、 畠山義就は河内国と共に、大和国をも事実上、支配することとなる。
この戦役で、十市遠清は龍王山に 山城(南城)を築いて抵抗を続けるも、 1479年に 次男・遠為が敵方に通じたことからこれを処刑し、 内部分裂する家中をまとめ切れずに龍王山城を捨て、大和国外へと落ち延びていくのだった。

十市遠清はそのまま亡命先で死去すると(1495年)、1491年に 父・遠相を失っていた 孫・遠治(?~1534年)が家督を継承する。 まだまだ幼い当主だった十市遠治は、家臣団に支えられて攻勢を強め、 越智家栄・家令(?~1507?年)父子を高取城近くの壺阪寺で打ち破り、 大和国の旧領復帰に成功する(1497年11月)。

桜井市

その後も引き続き、対立が続いた大和国人衆らであったが、1505年2月に春日社の斡旋により和睦が成立し、 同年 8月に国人一揆を結成するに至る。しかし、 翌 1506年8月に細川政元の 重臣・赤沢朝経が 古市澄胤 の手引きにより大和国へ侵攻してくると、 大和国人一揆軍は敗北し、そろって国外へ落ち延びていくこととなった。 しかし、翌 1507年6月に永正の錯乱で政元が暗殺、朝経も丹後国で敗死すると、 再び大和国へ舞い戻り、それぞれに旧領復帰を果たす。

その後も十市遠治は、筒井氏と共に越智氏や外部勢力との戦いに明け暮れる日々を過ごした後、 長男・十市遠忠(1497~1545年)に家督を譲る。この遠忠は 筒井順興(1484~1535年。筒井順慶の祖父)の娘を正室に迎えており、 当初は筒井氏との連携を維持していたが、河内国より木沢長政が大和国へ侵攻してくると、 義兄弟だった 筒井順昭(1523~1550年。筒井順慶の父)はこれに臣従したため、対立することとなる。
1536年、大和平定を狙う木沢長政が河内国との中間地点に 信貴山城 を築くと、十市遠忠も対抗して「龍王山城(南城)」を改修しつつ、 新たに「本城(北城)」を築城し、大和国随一の巨大山城を出現させる。 そのまま、本拠地を「十市城(平野部にあった、先祖伝来の居城)」から「龍王山城」に移転させ、その山麓に居館を構えるようになる。

その後、興福寺の依頼を受けた幕府仲裁により、十市遠忠と筒井順昭との和解が成立する(1540年)。 さらに 1542年には最大の敵だった木沢長政が太平寺の戦いで戦死すると、 後ろ盾を失った筒井氏に代わって十市氏の発言力が増すこととなり、 多くの与力を傘下に加えて、その勢力圏は大和国十市郡十市から 式上郡(今の 天理市、桜井市一帯)、 さらに伊賀国の一部までを包含する規模に至るのだった(推定石高は 6万石とされ、一帯は「十市郷」と称された)。下地図。
桜井市

ここに、筒井氏、越智氏、古市氏、箸尾氏 と並ぶ大和国五大豪族にまで上り詰めた十市遠忠であったが(上地図)、 1545年に死去して子の 遠勝(?~1569年)が家督を継承すると、再び筒井順慶と対立するようになる。 翌 1546年8月に 万歳氏(現在の 奈良県大和高田市一帯の領主)の籠る竹内城を攻めるも敗走させられ、 そのまま一族郎党は吉野へ落ちのびることとなった。
直後、居城だった「龍王山城」は万歳氏を支援した 筒井順慶(1549~1584年)に明け渡される。

その後、両者は和解したことから「龍王山城」は 十市遠勝(?~1569年)へ返還されるも、 1558年に三好長慶の 重臣・松永久秀が大和国へ侵攻してくると、 十市遠勝は筒井順慶や万歳氏らと共に戦うも敗れ、再び大和国外へ追いやられるのだった(1559年)。

以降、十市遠勝は 紀伊・河内国の 守護大名・畠山高政(1527/1531?~1576年)のもとに身を寄せ旧領復帰を図るも、 最終的にその目途が立たなかったことから、1565年頃に娘を松永氏へ人質として差し出し松永氏の軍門に下る形で、 ようやく旧領復帰を果たすこととなった。

その直後、松永久秀が三好三人衆と袂を分かって対立すると、十市遠勝は筒井氏と共に三好三人衆に組して反久秀で挙兵する。 しかし、久秀傘下の秋山氏の攻撃を受けて 居城「龍王山城」を失陥すると、旧本拠地だった「十市城」に逃げ込むこととなる。 そのまま追撃してきた松永軍配下の箸尾氏と秋山氏により苅田放火が行われ、十市郷一帯は荒廃する。 さらに攻勢を強める松永軍に対し、遠勝は「十市城」から「大西城」に移って籠城するも落城に追い込まれ、 再び遠勝は松永氏に臣従するのだった。

桜井市

十市遠勝の 死後(1569年)、十市氏は筒井派と松永派で家中対立を起こして弱体化することとなり、 東の 山岳地帯(今の 奈良県宇陀市)の豪族だった秋山氏が十市氏の旧領へ進出し、「龍王山城」をも占領してしまうこととなる。 松永派の十市氏残党は「十市城」へ撤退することとなり、さらに追い込まれて 1572年7月、「柳本(楊本)城砦」へ移るのだった。

その後、松永久秀は反信長で挙兵するも再帰順を許され、筒井順慶 と共に 新守護・塙直政の傘下に組み込まれると(1573年3月)、 係争状態だった十市郷一帯は 3分割され、塙直政、松永久通派の十市氏、筒井派の十市氏がそれぞれ領有することと裁定された。 再決起を図る松永久秀は、自派の十市氏との結束を強化すべく親族同士で姻戚関係を結ぶと(同年 7月)、 筒井派の十市氏一派を大和から追放して戦端を開くこととなる。しかし、間もなく松永久秀が立て籠った「信貴山城」で敗死すると、 松永派だった十市氏も壊滅に追い込まれる。

以降、筒井氏の庇護を受けた十市家一派が旧領に復帰し、順慶の斡旋の下、布施氏より養子が迎え入れ、 十市新二郎として家督を継承させることとなった(1579年)。
翌 1580年10月、信長の命により大和国内の城塞群破却が進められると、「龍王山城」も解体され廃城となっている。



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