BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月-旬


奈良県 天理市 ① ~ 市内人口 4.8万人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  奈良上街道(旧・伊勢街道)、庚申堂
  井戸城跡(石上市神社)、姫丸稲荷大明神、石上広高宮跡(石上市辺宮跡)
  別所城跡
  天理教 教祖・中山みきの墓所
  豊田城跡
  天理教の 本部(神殿、教祖殿)、天理大学キャンパス、善福寺(教祖・中村家の菩提寺)
  石上神宮
  内山永久寺跡(本堂池、松尾芭蕉 句碑)
  天理教 教祖・中村みきの 生家(天理教 三昧田分教会)
  大和神社、戦艦大和記念塔
  龍王山城跡(北城 / 南城)



大阪駅から 奈良駅 まで 50分強、 さらに奈良駅から JR桜井線に乗り「天理駅」まで移動する(210円、13分)。
奈良県下のホテルは特に手ごろな値段のホテルが多いが、 今回は連泊特典のある天理駅前の「ビジネス旅館やまべ」に 4連泊してみることにした(一泊 4,000円、トイレ風呂は共用)。 ホテルでママチャリ自転車が借りられるし、近くにはスーパーマーケットもあり、長期滞在にはありがたい宿泊先であった。
さすがに 4~5日連続で自転車を借りられない場合は、天理駅前や 桜井駅前、奈良駅前、橿原神宮前駅前飛鳥駅前 などなど、 各地にもピンポイントでレンタサイクルできるので、臨機応変に対応したい。天理駅前では駅西口にレンタサイクル屋さんがあった(終日 1,000円、8:00~20:00)


もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。

橿原考古学研究所 附属博物館(旧石器~室町時代までの出土品を展示)・・・・近鉄線「畝傍御陵前駅」から徒歩 5分
奈良文化財研究所 飛鳥資料館(飛鳥時代の 歴史、文化、遺物を展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」からバス 17分
歴史に憩う橿原市博物館(地元の郷土史、古墳の出土品などを展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」から徒歩 30分
天理大学附属 天理参考館(世界中の 民族、移民らの 生活文化、日本古代文化)・・・・ JR「天理駅」から徒歩 20分
奈良市立史料保存館(町屋を改装。古都奈良の模型、住民生活の資料館)・・・・近鉄線「奈良駅」から徒歩 15分
葛城市歴史博物館(葛城市の郷土資料館)・・・・近鉄線「忍海駅」から徒歩 5分


天理市

この日は、北側の「井戸城跡」、「別所城跡」、「天理教 教祖・中山みき墓所」、「豊田城跡」を見学後、 天理市中心部にある天理教の 本部施設(聖地「ぢば」、礼拝場、教祖殿、祖霊殿、 神殿を結ぶ全長 800 mの回廊から、内部見学できる。無料)や 天理大学を見学してみる。 途中で、軽く腹ごしらえした後、市街地南側にある「石上神宮」を参拝する。上地図。

さらに県道 51号線(天理環状線)を南進し、県道 267号線と交差すると(四つ角信号あり)、 進路を西へ変える。そのまま国道 169号線を渡ると、天理市三昧田町の集落地に至る。 この南西端に「天理教 三昧田分教会」があり、その敷地内に保存されている「天理教 教祖・中山みきの 生家(教祖誕生殿)」も見学したい。上地図。

余力があればさらに南進し、日本最古の神社の一つとされる「大和神社(戦艦大和 ゆかりの碑も見学)」を参拝した後、 東側にそびえる「龍王山城跡」がある龍王山を遠望しつつ、周辺の 古墳群「西殿塚古墳(継体天皇皇后・手白香皇女 衾田陵)」、 「行燈山古墳(崇神天皇陵)」、「渋谷向山古墳(景行天皇 山邊道上陵)」などを見学して帰路に就きたい。上地図。

天理市

自転車をレンタル後、南隣にある「天理駅西」交差点から JR線路を渡り東口側へ移動する。
線路東側へ渡った後、2つ目の 信号「田原町」交差点を北へ入り、1つ目の三叉路を右へ入って、 さらに 1つ目の三叉路を北へと進路を取る(上地図 黄色→)。この通りが「旧・伊勢街道(奈良上街道)」だった(上地図の白線) 。

この街道は、大坂 から 奈良 を経由して、 長谷寺、室生寺から伊勢方面を結ぶ「伊勢街道」の一つとして機能していたもので、 古代から続く「上ッ道」を基礎として整備されたもの(奈良上街道)。 この街道が西へと曲がるポイントに、今でも「庚申堂(仏教信仰の一つで、魔よけの神様)」が保存されていた(上地図)。

「旧・伊勢街道(奈良上街道)」沿いをさらに北上し「井戸城跡」を目指す。 最初に広がる集落地が「石上町」で、その「石上市神社」を参拝してみる(上地図)。

ちょうどこの神社が「井戸城」の北西隅に相当し、ここから南側と東側に広がる広大に水田地帯が、 かつての城館跡地というわけであった。
この城館は 1560~1570年代初頭にかけて幾度も戦火に晒され、特に松永久秀軍を前に籠城戦を戦い抜いた実績があり、 かつては相当に大規模な土塁や水堀を有していたと考えられるが、今はそれら遺構は全く残っていない。 城跡を示す記念碑や解説板も全く設置されておらず、かろうじて北面の水路が往時の水堀跡とされるのみである(上地図)。


『寛政重修諸家譜』内にて、井戸氏は、藤原宇合(694~737年。藤原式家始祖)の流れを汲む 藤原忠文(873~947年)の後裔と記された一族で、 興福寺一乗院方の 坊人(衆徒)の一角として、興福寺所有の荘園管理を委ねられた在地土豪であった。 もともとは、結崎井戸(現在の 奈良県磯城郡川西町結崎 1411の「井戸公園」周辺にあった環濠集落)を本貫とし、 一帯の荘園を管理していたという。この環濠集落跡は今でも残っており、「井戸環濠」と通称されている(下地図)。

天理市

1429年、筒井党のメンバーどうしだった 井戸氏(奈良県磯城郡川西町結崎)と 豊田氏(現在の 奈良県天理市豊田町)とが私怨により対立し、 小競り合いを繰り返すようになると(上地図)、これに大和の有力土豪だった筒井氏や越智氏ら国人衆らも加わって、 大和国を二分する大騒乱に発展する(大和永享の乱)。

さらに 40年後に 京都 で応仁の乱が勃発すると、越智家栄古市澄胤 の連合軍が 筒井順尊(順永の長男)、 十市遠清・遠相父子、箸尾為国らを追放し奈良盆地全域を併合すると、このタイミングで井戸氏は筒井方から越智方へ鞍替えし、 そのまま本領を安堵される。1493年には畠山氏の家内騒動が発展し明応の政変が勃発すると、 畠山義豊の上洛に付き従う形で、越智家栄、古市澄胤らと共に、井戸氏も大和の国人衆代表の一人として上洛を果たすこととなる。
この頃、井戸家は大和国の添上郡と山辺郡の 2郡(二万石)を領有する有力国人へと台頭し、 現在の奈良県天理市石上町の地に移って「奈良上街道」沿いの 集落「石上市」の東側に新たに井戸城館を造営して、 絶頂期を迎えることとなった。

しかし、直後の 1497年、筒井順賢(順尊の長男)・十市遠治(遠相の子)らが大和に再侵攻し、 越智家栄古市澄胤 らは敗れて旧領の放棄を余儀なくされる。翌年になんとか大和国に舞い戻ると、再び両勢力が拮抗する内戦状態に陥る。 最終的に 1505年、越智家栄は筒井順賢ら筒井党と和睦し、それぞれの親族間で婚姻を進めることで姻戚関係を結び合ったのだった。

そんな融和ムードの翌 1506年、畠山家と対立する細川政元の命により、配下の赤沢朝経が大和へ軍事侵攻してくると、 越智家栄や井戸氏は、筒井順賢や十市遠治ら国人衆らと共に国人一揆を結成し抵抗するも、大敗を喫する。 一時的に大和国人衆は平野部から脱出することとなり、大和国の主要エリアは赤沢朝経の支配地となるも、 翌 1507年に家臣の裏切りにより朝経が死去すると、大和国人衆は再び旧領に復帰できたのだった。下地図。

天理市

こうした過程で、井戸氏は再び筒井氏との関係を強化し、その後、筒井氏が再び越智氏と対立した時も、 筒井党の有力家臣として活動していくこととなる。井戸良弘(1533?~1612?年)が当主を継承すると、 筒井順昭の 娘(順慶の姉)を妻に迎え入れ、筒井氏一門衆としての立場を確立したのだった。

今度は 1559年、畿内平定戦を進める三好長慶の命により、重臣・松永久秀が大和国へ侵攻してくると、 筒井氏を筆頭に大和国人衆は抵抗するも久秀軍に圧倒され、筒井氏は筒井城を追われることとなる。 翌 1560年7月には、井戸良弘の籠る井戸城も松永軍に攻撃されると、救援に駆けつけた筒井軍までも蹴散らされたことから、 最終的に交渉によって開城に追い込まれるのだった。

しばらく東部の山岳地帯に籠りつつ、ゲリラ戦で松永軍との交戦を続けるも、 途中で井戸良弘は松永秀久に帰順を決意し、人質として娘を差し出し井戸城への帰還を果たす(1562年5月)。 しかし、度重なる軍役と 多聞山城 築城工事などの過剰な労役に反発し、 1565年12月、井戸良弘は再び筒井方へ転じると、直後より筒井方の軍勢が井戸城に迎え入れられ、 補強工事が加えられることとなる。他方で、井戸良弘自身は松永軍の支配地だった 古市郷 を放火するなど、 積極的に反攻に加担していく。
天理市

そんな大和騒乱の中、1568年9月に織田信長が上洛を果たすと、三好長慶死後に分裂していた三好三人衆とも対立していた松永久秀は、 すぐに信長に帰順を表明し、強力な後ろ盾を得ることに成功する。その増援を得ることで、以降、筒井党を圧倒するようになる。

大和平定戦をほぼ完遂しかけたタイミングの 1570年2月、松永久秀・久通父子は上洛し信長に謁見を果たすも、 その隙に筒井党が久秀が完成させたばかりだった 多聞山城(下地図の最上部)を攻撃すると(結局、攻略できず撤退する)、 急いで本拠地に戻った久秀父子は逆に反転攻勢に出て(同年 2月末)、井戸城にまで攻め寄せてくる。 この時、井戸城を守っていた 城主・井戸良弘と筒井家の 宿老・松倉権助秀政(松倉重信の父)らは協力して籠城戦を戦い抜くこととなった。
そんな中、久秀は人質として確保していた井戸良弘の 8歳の娘と松倉権介の 11歳の 次男(長男は 松倉重信【1538~1593年】で、 嶋左近と並んで筒井家の両翼と称され、「右近左近」と一目置かれる重臣へ出世する)を絞め殺し、 串刺しにして井戸城前に晒したとされる。

しかし、翌 3月初旬、共に籠城していた豊田氏らが松永軍に寝返って城内に火の手を挙げると、 城外からも松永軍の夜襲が仕掛けられて井戸城内は大混乱に陥り、城兵らは散り散りに脱出し落城に追い込まれるのだった。 その後、井戸城は松永軍によって完全に破却されることとなる(4月5日)。

以降、大和国を平定したかに見えた久秀であったが、浅井&朝倉討伐戦石山本願寺戦 など、 信長によって畿内各地の戦線へと駆り出されたことから、大和国を頻繁に留守にするようになり、 その間に東部の山岳部で力を盛り返した筒井党にゲリラ戦術で奈良盆地各地を荒らし回られ、 十市城窪之庄城、井戸城 などを失陥していくのだった(下地図)。

天理市

反転攻勢を強める筒井党は、久秀の 本拠地・多聞山城(上地図の最上部)を再攻撃すべく、 旗下の井戸良弘を「辰市村(今の 奈良市東区城町。上地図)の環濠城館」に入城させ、 大規模な補強を加えて「向城(辰市城)」を築城させる(1571年7月3日)。 奈良盆地のピンチを知った松永久秀は急いで畿内戦線から舞い戻ると、国境沿いの 信貴山城 に帰還する。 同時に 長男・久通を多聞山城へ帰城させ、すぐに軍勢をかき集めて出撃を命じると、 西と北から筒井党の 前線拠点「辰市城」の攻略戦が進められることとなる(同年 8月2日)
ここに大和国最大の 決戦「辰市城の戦い」が勃発したわけである。攻め手の松永軍に対し、 「辰市城」守備兵らは頑強に抵抗する間に、筒井党の他の部隊が後詰めとして松永軍の後方から襲い掛かり、 挟み撃ちにあった形の松永軍は大敗に追い込まれるのだった。戦闘自体はわずか一日で決着がつく形となり(同年 8月4日)、 這う這うの体で信貴山城まで逃げ帰った松永軍は、そのまま平野部にあった 筒井城高田城 などを失陥し、 奈良盆地の大部分を占領し返されてしまう。こうして両者の立場が逆転した中で信長による仲裁を受け、 松永久秀と筒井順慶は共に信長配下への帰順を認められる。

一時的な平和が戻った奈良盆地にあって、井戸城が再建されたか否かは記録に残されていない。 しかし、引き続き、筒井党の中でも有力家臣であった井戸良弘は、旧・井戸城など、どこかに本拠地を構えたことだろう。

その後、松永久秀は信長に反旗を翻したことから大和守護を解任され、代わりに塙直政が大和守護となるも(1575年)、 翌 1576年に 石山本願寺戦 で戦死したことから、ついに筒井順慶が信長によって大和支配を委ねることとなる。 と同時に、軍律違反により戦死した塙直政に対して激怒した信長は、報奨金をかけてその一族を探索させ、 次々と処刑していく中で、井戸良弘が塙氏の親族を捕縛する功を挙げたことから、 直政の居城であった山城国久世郡の 槇嶋(まきのしま)城を与えられ、山城国でも 2万石を領することとなった(1578年)。

天理市

以降も井戸良弘は筒井順慶に従い、織田軍の一部隊を形成して各地を転戦していく(1581年の伊賀攻めに参陣)。
1582年6月に本能寺の変が勃発すると、筒井順慶は 明智方、秀吉方に組することなく日和見を続け、 また配下の井戸良弘が領した 山城国・槇島城の帰属も不明確とされ、戦後に秀吉により 占領&接収されることとなる。 特に、井戸良弘の 二男・治秀(井戸覚弘の実弟)は明智光秀と縁戚関係にあったこともあり、 井戸良弘はそのまま蟄居して、家督を 長男・覚弘(1556~1638年)に譲ることで秀吉に許されるのだった。

その後、秀吉傘下に入った筒井順慶であったが、1584年9月に病死してしまい、養子だった 定次(1562~1615年)が家督を継承する。 井戸覚弘もその重臣として定次を支え、翌 1585年に秀吉により伊賀国への国替えを命じられた際には、これに同行し郷里を離れることとなる。 朝鮮出兵時には、定次と共に肥前名護屋に出陣し、朝鮮半島へも渡海している。その軍功を称えられ秀吉から与えられたものが、 現存する「井戸茶碗」とされる。

しかし、主君・筒井定次が秀吉死後も豊臣家と懇意な関係を維持したことから、 徳川家康の不興を買い所領を没収されてしまうと(1608年)、これに伴い大和出身だった家臣団は浪人となり、 多くが旧領の奈良盆地へ帰郷し半農生活を強いられることとなった。この時、井戸覚弘も柳生への隠棲に追い込まれている。

こうして徳川家に不満を抱えた大和武士らは、1614~1615年の大坂の役 で多くが豊臣方として参戦するわけだが、 井戸覚弘は徳川方のスパイ的な立場をとった功績により、翌 1616年に 江戸 に召し出されて家康と秀忠に謁見し、 将軍・秀忠の直臣旗本に抜擢される(同時に、常陸国と下野国に 3,400石の知行を下賜された)。

これに対し、豊臣方に内通した罪で 元主君・筒井定次は切腹を命じられ、他の大和国人衆も完全に農民へと没落する中、 井戸家は幕末まで家名を存続させた数少ない大和武士となった。特に幕末期の 当主・井戸覚弘(?~1858年)は米国使節応接掛の一人として活躍し、 ペリーとの開国交渉に臨んで日米和親条約調印にも関わっている(1854年5月)。1856年には旗本の最高職である大目付にまで出世するも、 在職中に病没している。

天理市

なお、先述の「石上市神社」であるが、江戸時代中期の 貞享年間(1684~88年)までは、 現在地から東へ 1 km先に連なる 平尾山(上地図)に鎮座されていたといい、そのため現在でも、 境内には「平尾天神宮」と彫られた石灯籠がたくさん残存する。
江戸期に現在地にあった修福寺の境内に移転され、明治初期の神仏分離令で廃寺となった後も、 神社部分だけは残されたというわけだった(かつて修福寺の本尊だった十一面観音像は、 今も境内奥の観音堂内に保存されている)。

もともとは、今も平尾山中に鎮座する「姫丸稲荷大明神」と並んで立地しており、 両神社は古代より石上村の鎮守として地元民から厚い信仰を集めていたという。
特に、この平尾山の一帯には、 弥生時代末期からの古墳群がたくさん存在し、古くから開けた土地柄だったと考えられる。 古来からの地名を「宮の屋敷」といい、 大和朝廷時代の第 24代・仁賢天皇が政務を執ったとされる「石上広高宮」や、 その 父・市辺押磐皇子が生活した「石上市辺宮」の跡地とも考えられている(上地図)。 古墳時代の銅鐸や 土器、建物跡、そして飛鳥時代の建物跡などの痕跡が発掘されているものの、 未だに王宮跡に関する物証は発見されていない。

古代日本の 政治・文化の中心として栄えたことから、 この一帯の土地開墾も早くに済んでおり、大和朝廷時代、飛鳥時代、 奈良時代、平安時代を通じ、農業や交易も盛んだったと考えられる。そのため、 山麓の街道沿いには「石上市」という市場が開催され、同じく興福寺の支配を受けていたのだろう。



天理市

見学後、再び「奈良上街道」沿いを南進して戻り、「庚申堂」の交差点を越えて、陸橋を使って国道 169号線を渡る(上地図 黄色 →)。 この対岸地区が「別所町」で、今でも古くからの大きな屋敷が軒を連ねるエリアとなっていた。
なお、奈良県下には複数の「別所町」があり、奈良市下でも 2ヵ所存在する。 片方の「針ヶ別所」と区別するため、地元では「水間別所」と通称されているという。

この「水間別所」集落全体が、かつての「別所城」というわけだが、 城館時代の遺構は一切確認できなかった。しかし、北西にある溜池や、集落地を流れる水路は、 かつて環濠城館を南北に分けた水堀跡の名残りと考えられる。また、後方に広がる竹林内には土塁跡などが残存しているかもしれなかったが、 見学不能な状態だった。上地図。

地形としては、北側から南側へと続く緩やかな斜面上に、東西二曲輪から成る環濠城館が並立するように立地しており、 今でも集落内に残る複雑怪奇な路地網が、防衛を意識した往時の設計に由来している様子が伺える。


この別所城に関し、史書上の記録はほとんど残っていない。
城主の萩別所氏は興福寺大乗院方の衆徒で、上総庄(今の 天理市上総町)の給主職を司っていた在地土豪とされ、 室町&戦国時代を通じ、筒井氏に従って行動しており、松永久秀との 戦闘「東大寺大仏殿の戦い」でも、 その名が見られる。その他、筒井家に関する史書の中にも、一族衆と見られる別所姓の人物の記録が複数残されており、 戦国期には城主というより、筒井家の家臣団に組み込まれていたようである。

最終的に 1608年の筒井家改易後は郷里に戻って帰農し、地名のみ継承させていったと考えられる。



天理市

別所地区にあった「天理市立山の辺小学校」後方から南へ抜け、路線バスが走る自動車道に出る。 少し東へ進むと、天理高校の学生寮があった。この後方の 山「豊田山」に「天理教 教祖・中山みきの墓所」があるというので、 訪問してみる。上地図。

周囲一帯には教会関係者や信者の墓地が広がり、その中に中山みきの 子孫・中山家の墓も建立されていた。


1798年6月2日、中山みきは、大和国の 津藩領・山辺郡西三昧田村(今の 奈良県天理市三昧田町。下地図)の 庄屋・前川家の長女として誕生し、 熱心な浄土宗信者だった両親の教育の下、篤い信仰心を持った少女として成長していく。 やがて尼になりたいという夢を持つようになるも、これを心配した両親の仲介により、 13歳のときに同じ 津藩領・庄屋敷村(今の 奈良県天理市三島町。下地図)の 庄屋・中山善兵衞(23歳。1788~1853年)と結婚することとなる。

その後、1男5女をもうけつつ、良妻賢母として献身的に家庭に尽くしていた折、 1838年に 長男・中山秀司(17歳。1821~1881年)が重い足の病にかかってしまう。 その原因究明と回復のため、修験道当山派の 山伏・中野市兵衛に祈祷を依頼することとなる。 その時、市兵衛が母の みき(当時 41歳)に災因を明らかにするため行う憑祈祷の依り坐になるよう依頼したことで、 突如、神懸りして自らを「天の将軍」と名乗り出し、世人の救済を志向するようになったという。
天理市

以降、みきは 天理王命(てんりおうのみこと)が自身の身体に憑りつき、その 社(やしろ)として転用したことから、 昼夜止むことのない独り言などの奇怪な言動が増えていき、夫であった中山善兵衞を苦しめることとなる。 さらに困窮する人々へ惜しげもなく私財を分け与えたため、豊かだった中村家自体までも傾かせる危機を招き、 いよいよ屋敷内の奥に閉じ込められる生活を送るようになっていく。

それでも、彼女の無限の慈悲に心打たれた信者が増加していくと、明治時代に入って以降は、 特に官憲の迫害で 逮捕、拘留を受けることが重なるも、これに屈することなく、その信条を全うし、 日常的にはほとんど奥屋敷から出ることなく、1887年2月に 88歳で死去することとなる。
その 遺言「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」から、社である自身が亡くなった後も、 天理王命の魂は同じ場所に生き続けると伝えられ、 彼女が暮らした奥屋敷は、聖地「ぢば」として天理教の神殿が建立され今日まで保全されているわけである。

当初、みきの遺体は中村家の菩提寺であった善福寺に埋葬されるも、1892年に新たに購入した豊田山へ改葬されることとなり、 以降、天理教教祖墓地(教団では「お墓地」と称される)となっているわけである。上地図。



天理市

続いて「豊田城跡」を目指すことにした。

豊田山の天理教墓地を後にし、さらに東進すると豊田神社前を通過して、 「豊田狐塚古墳」を過ぎたところで国道 51号線(天理環状線)と交差する。 ここを少し南進すると、すぐ東側に水田が広がるエリアがあり、その中央部の農道を自転車を引いて山麓まで入り、 登山口で駐輪することにした。上地図。

なお、この麓の水田エリアで発掘調査が行われた際、二重の濠に囲まれた一辺約 50 mの居館跡が 2ヶ所発見されており、 いずれも 領主・豊田氏の居館跡と断定されたという。平時はこの山麓に住み、戦時に山城に籠ったようである。

天理市

山裾ギリギリまで至ると、 藪に埋もれた登城口と東海自然歩道の標柱、図面付の城跡説明板があった(上絵図)。 「豊田城まで 0.5 ㎞」と表示されているものの、実際には 300 mほどの登山で南郭に到着できた。

この南郭の 西面~南面には立派な横堀が残っており、さらに 主郭・副郭を巡る横堀や東郭を隔てる堀はかなり深く見ごたえ抜群で、 その構造も迷路のように複雑に入り組んでおり、圧巻であった。大きく三つの 郭群(主郭、東郭、南郭)から成り、 標高 180 mにある主郭部を筆頭に、あちこちに 土塁跡(一部に石塁跡も)がはっきりと残存していた。上絵図。

なお、全く手入れされていない山なので、至る所に藪や倒木が散乱しており、冬場に訪問するのがベストだろう。


築城年代は定かではないが、室町時代に地元の 豪族・豊田氏によって、その居城として築かれたと伝えられている。 豊田氏は 大乗院方(興福寺派)の衆徒として山辺郡布留郷を支配した豪族で、当主・豊田頼英(1403~1490年)の時代に 越智党 に属し、 近郷に勢力を及ぼしたとされる。

室町時代を通じ、大和国では 越智党と筒井党の二大勢力が対立しており、国人衆らは両派に分かれて武力衝突に明け暮れていた(下地図)。 そんな中の 1429年、越智党配下の 豊田氏(当時、惣領は豊田中坊で、豊田頼英は分家であった)と 筒井党配下の井戸氏の対立が先鋭化し、 大和永享の乱へ発展することとなる。

奈良市

1455~59年の 4年間、当主・豊田頼英は官符衆徒に任命され、筒井氏、古市氏に次ぐ大和国 3位の序列にまで昇進し、権勢を振るうこととなる。 ただし、引き続き、応仁の乱までは越智党に所属し続けた。
1498年、河内で畠山尚順が勝利し、越智氏が没落した際、越智氏に与していた豊田城も落城に追い込まれている。

1523年、赤沢朝経が大和へ侵攻してくると、これに対応すべく、内戦に明け暮れていた大和武士らは徒党を組んで迎え撃つも、 ことごとく敗走に追い込まれてしまう。この時、豊田氏は筒井氏に従い、豊井に布陣して戦ったとされる。
1568年には、松永久秀の軍に攻められ、豊田城はまたしても失陥してしまう。 その後、松永秀久の指示により大改修が施されることとなる。

以降、筒井党に組した豊田氏は、井戸氏らと共に井戸城に立て籠もって抗戦を続けるも、 1570年に松永方に内応して井戸城から火の手を挙げ、松永軍へと鞍替えする。 翌 1571年の辰市合戦で松永軍旗下で戦うも大敗し、その戦場で一族郎党が討ち死にしてしまうのだった



奈良市

さらに国道 51号線(天理環状線)を南進していくと、天理教の本部建物群や天理大学キャンパスなどが立ち並ぶ、 天理教教会の心臓部エリアが広がっていた。北大路を越え、南大路と交差すると、ここを西進する。 この右手側に「天理大学」が立地しており、その建物下をくぐる形で天理教本部の 神殿、教祖殿などが連なっていた。 ちょうど神殿前に天理教インフォメーションセンターがあったので、最初に立ち寄ってみる。上地図。

余力があれば、「天理大学」南隣にある「天理高校」を南へ進み、 これに隣接する「善福寺」も訪問してみたい。教祖・中村みきが最初に埋葬された、 中村家の菩提寺だった寺院である(上地図)。


天理教は日本で始まった新興宗教で、1838年に 中山みき(当時 41歳)が神懸かりして自らを「天の将軍」と名乗り出して創始され、 無限に私財を投げうって救民活動に専念したことから信者が自然発生的に集い、 1884年に神道直轄天理教会本部として 東京府 から宗教法人の認可を受けることとなる。 それから 3年後の 1887年2月に教祖が没して以降も教団は成長を続け、現在、 日本国中に約 14,050ヵ所の教会があり(海外 80ヵ国にも 320の教会あり)、 信者数は 120万 2000人弱(日本国内のみで)を記録する。 それらすべては「教会」と呼称され、各都道府県に教区庁と呼ばれる支部施設が配置されている。

唯一無二の 神「親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)」のみを信仰する一神教で、 その中心地は、天理王命によって人間が創造された地点と教えられる 聖地「ぢば」であり、 教会本部の神殿と礼拝場はこの「ぢば」を取り囲むように設計されている。 そして、全国各地の天理教の教会も、この「ぢば」の方角を向いて建てられているという。

天理市
天理市

その世界観は、「親神様は、人間が心を澄まし、お互いに仲良く助け合いながら暮らす『陽気ぐらし』の世界を望んで、 人間や自然界を創造されたのであり、この世に何一つ自分のものはなく、人間の体も神からの借り物であり、 心だけは自身の物であるとし(かしもの・かりもの)、神の懐の中で守られて生かされている」ことを大前提とする。 こうした背景から、人間界や 自然界、人体メカニズムの摂理を保つ「十全の守護」を守りつつ、 悪い心遣い「八つのほこり」をしないよう、自らの心身の管理が重視される。

以上から、天理教の世界観には天国も地獄も存在せず、ただこの現世で「陽気ぐらし」するために人間は創造されているので、 死んだ魂はいったん親神様が預かって、再びこの世に生れ変わってくると教示される。こうした全容が 教祖・中山みきの口を通して伝授され、 そのための 価値観、社会観、行動規範が明示されていったのだった。
信仰者らは、教会では「ぢば」に向かって人々の幸せと救いを親神様に祈り、 各教会を拠点に他者への奉仕活動などに従事すること等が説かれている。



天理市

続いて、「石上神宮」を目指す。石上神宮外苑公園の麓に駐輪し、参拝する。

ここは、『日本書紀』『古事記』に記された 3つの「神宮」ー 伊勢神宮と 出雲大神宮(出雲大社)、 石上神宮 ー のうちの 1つであり、日本最古に創建された 神宮(神社の上位)と考えられている。

大和朝廷内で武器管理や 軍事、警察業務を司っていた、武門の 棟梁・物部氏の総氏神として長らく帰依を集めるも、 仏教問題に絡む 蘇我氏(朝廷内で主に会計係を担当し、財政面から権力を握った)との対立で物部氏自体が滅亡させられてしまうも 、引き続き、 大和朝廷の 武器管理神社、保管庫として使用され続けた特殊な施設であった。

794年に桓武天皇が平安京に遷都した際、その武器貯蔵庫も都に近い山城国葛野へ移転しようとするも、 皇室内で不穏な出来事が重なったことから移転が中止され、引き続き、朝廷の武器庫として継続利用されることとなる。 こうした事情から、平安時代を通じ朝廷とのつながりは強固で、平安時代末期には白河天皇が拝殿を寄進した記録が残っている。 境内からは、祭事などに使用された 七支刀、勾玉、銅鏡など、古代の遺品が数多く出土している。
現在でも、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就 の守護神として、日本中から不断の信仰を集める古刹である。

奈良市

続いて、石山神宮から南へ通じる道を進み、600 m先にある「内山永久寺跡」を訪問する。

かつては壮麗な大伽藍を擁した大寺院も、現在は本堂池が残るのみとなっており、 その跡地一帯には現在、柿の果樹園が広がっていた。


1114年(永久 2年)に鳥羽天皇の勅願により創建されたことから、時の年号をとって「永久寺」と命名される。 その境内に小山をも内包したことから、内山の名を冠して「内山永久寺」と通称されるようなったという。
当初、その勅願を受けた興福寺大乗院の 第二世院主・頼実(らいじつ)は、 自身の 山荘、隠居寺として利用しようと建設に協力し、実現したとされる。

そして、第三世院主・尋範(1093~1174年)の時代に入ると、彼自身が 太政大臣・藤原師実(1042~1101年)の 子(十七男)で、 摂家出身の高僧として朝廷内から厚い支持を集めたことから、興福寺別当にまで上り詰める。 第二世院主・頼実と同様、「内山永久寺」を自身の隠居寺とすべく、 本格的に堂宇の整備に着手し、最終的に大乗院の末寺に列せられるのだった。

興福寺を支配していた 2大院家の一方である大乗院の権威を背景に、 鎌倉時代や室町時代には絶大なる寺勢を誇ったとされる。 1336年には足利尊氏と対立した後醍醐天皇が から吉野へ遷幸する際、 一時的に当寺に身を隠した逸話が『太平記』に伝えられている。

その後、室町時代に続いた大和国内の騒乱を生き抜き、1595年には豊臣秀吉から 971石の寺領が与えられると、 そのまま江戸時代も継承が認められることとなった。当時、寺領 1,000石の法隆寺に匹敵する大寺院として、 大和国内で 4番目の規模を誇ったという。最盛期には、五町四方の境内地に坊舎 52、堂宇 20の大伽藍を有し、 江戸期には「西の日光」とも比喩されるほどに参拝者の往来が絶えなかったとされる。
江戸へ出る前の若き松尾芭蕉も当地を訪問しており、「うち山やとざましらずの花ざかり」の句を詠んでいる。 現在、その記念句碑が跡地に保存されている。

奈良市

しかし、明治維新時の廃仏毀釈により、上乗院別当だった第 28代座主・亮珍の主導の下、 1874~1876年にかけて急ピッチで大伽藍は解体されてしまい、貴重な 仏像、障壁画、仏画等は散逸し、 最後は地元住民らによって礎石から瓦一枚に至るまで持ち去られて、本堂池だけが残されることとなったわけである。 この急激な存在消滅の背景には、「内山永久寺」が最初から最後まで興福寺上乗院の支配下に置かれたパワーバランスに起因し、 上乗院を守るために切り捨てられた、との指摘が重ねられている。

なお現在、石上神宮内にある 摂社出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿は、 1914年に「内山永久寺」内にあった鎮守社拝殿が移築されたものといい、鎌倉後期の建造物として国宝指定されている。



そのまま前を通る 国道 52号線を西進し、国道 169号線と合流すると進路を南へ取る。 一つ目の四つ角 交差点「三昧田」を過ぎると、二つ目の三叉路あたりから東に大きな溜池が見えてくる。 この三叉路を西へ入り集落地を進むと、「天理教 三昧田分教会」の敷地に行き着いた。下地図。

特に受付もないので、そのまま敷地を入っていくと、「天理教教祖・中村みきの生家」が保存されていた。下地図。
1798年4月18日に、天理教教祖・中村みきがこの地で誕生したわけだが、 生家である前川家はこの集落で代々庄屋を勤める家柄で、かなり裕福であったという。 屋敷は「奈良上街道」に面して立地し(下地図)、人の往来が絶えない中心地にあったことが分かる。 周囲は今でも古い大きな民家が立ち並ぶ、閑静な住宅街となっている。

奈良市

再び国道 169号線へ戻り、600 mほど南進すると「大和神社」に到着した(上地図)。

古代において「大和」とは、現在の 天理市南部~ 桜井市北部 一帯を指す地名であったという。 その名が示す通り、大和王権時代には朝廷の厚い帰依を受け、 平安時代初期まで全国各地に神封 327戸もの広大な社領を有し(天照大神を祀る「伊勢神宮」に次ぐ第 2位の面積)、名実ともに最高位の神社として君臨していた。 奈良時代を通じ、朝廷から派遣された遣唐使や大使らは出発に際し、必ず大和神社へ参拝しては交通安全を祈願したとされる。
しかし、平安京への遷都 や藤原氏の隆盛による興福寺の台頭、さらに平安時代後期の 1118年に発生した火災などにより寺勢は衰微していき、 室町時代後期の戦乱の最中、戦火にも巻き込まれて社領や保管資料、社殿などを全て喪失してしまうこととなる。
江戸時代に再建された社殿は寺院様式であったため、明治初期に神社様式で再建され、1871年(明治4年)に官幣大社に列せられる。 本神社の 祭神・日本大国魂大神は 戦艦大和 の守護神として採用され、その分霊が艦内神社として祀られていたという。 これにちなみ、1969年に神社境内に「戦艦大和記念塔」が建立された、ということだった。

参拝後、本日の行程は終了とし、天理駅前まで戻ることにした。 そのまま国道 169号線を北上するだけだった。

お問い合わせ


© 2004-2025  Institute of BTG   |HOME|Contact us