ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
日本の城 から
≫
奈良県 高市郡 ①
≫
高市郡 ② / 橿原市 ≫
訪問日:20--年--月-旬
奈良県 高市郡 ② / 橿原市 ~ 郡内人口 5,500人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
高松塚古墳、飛鳥歴史公園館
▼
野口王墓古墳(天武天皇と持統天皇の陵墓)
▼
野口吹山城跡、野口植山城跡
▼
亀石、石碑「聖徳皇太子 御誕生所」、柿本人麻呂 歌碑(万葉歌碑)
▼
川原寺跡、橘寺
▼
石舞台古墳(蘇我馬子の陵墓)
▼
飛鳥宮(飛鳥浄御原宮)跡、正殿跡、苑池遺構(庭園遺跡)
▼
蘇我入鹿 首塚、飛鳥寺、飛鳥坐神社
▼
蘇我蝦夷 旧邸宅跡地、川原展望台
▼
奈良文化財研究所 飛鳥資料館、大官大寺跡
▼
御所跡地「雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)」、飛鳥城跡、雷ギヲン城跡
▼
藤原京跡、橿原市藤原京 資料室、奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室
▼
牽牛子塚古墳、越塚御門古墳
▼
貝吹山城跡、与楽乾城古墳(カンジョ古墳)
▼
越智城跡、旧城下町、有南神社、光雲寺、天津石門別神社、素盞鳴神社
引き続き、
JR奈良駅(近鉄線・奈良駅)前に連泊してもよいが
、理想は、奈良盆地の南側にある
JR桜井駅(近鉄線・桜井駅)
前か、JR畝傍駅(近鉄線・大和八木駅)前か、
JR高田駅(近鉄線・大和高田駅)
などの、南部中核都市まで移動して連泊するのがベストだろう。全体的に、 この一帯のホテルは一人あたり 5,000~8,000円クラスのホテルが多く、良心的であった。
この奈良盆地の南部にもたくさんの史跡が点在し、3~4日分、もしくは 1週間分ぐらいの行程も十分に組める(少し遠出して「吉野」や「赤阪千早城跡」訪問も可能)。今回は二日目ということで、以下の行程でスケジュールを立ててみた。
まず最初に「近鉄線・飛鳥駅」を目指す。
この駅前ロータリーに「明日香レンタサイクル飛鳥駅前営業所」があるので、早速、自転車を借りてみる(9:00~17:00、900円)
。
もしくは、
「近鉄線・大和八木駅」前でもレンタサイクルを借りられるので(9:00~18:00、1,000円)
、宿泊地との兼ね合いからベストなレンタル地を決定したい。
自転車を入手後、まずは「近鉄線・飛鳥駅」前にある 観光案内所「飛鳥びとの 館(道の駅 飛鳥)」で情報収集しておく。 事前準備完了後、その駅前からまっすぐ東へ延びる県道 209号線を直進し、「国営 飛鳥歴史公園」方面を目指す(上地図)。300 mほど進んだ曲がり角あたりに、「高松塚古墳」の案内板が掲示されていた。
小学、中学生時代に教科書で目にしてきた「高松塚古墳」が、実際に目の前にあるということで、是非立ち寄ってみる。上地図。
1962年に地元民により最初に発見され、1972年に本格的調査が開始されると、 極彩色の壁画が発見され世間の注目を浴びることとなる。 古墳自体は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室南壁に盗掘孔が開けられていたが、 内部壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘を免れた副葬品の一部も発見されている。
極彩色が残る古代壁画の発見は考古学史上でも非常に稀なことで、高松塚古墳は 1973年に特別史跡に、 さらに翌 1974年には、その極彩色壁画のみ国宝指定されることとなった。以降、保存管理に注力されてきたが、近年、 雨水浸入やカビ発生などにより壁画の 退色&変色が顕著になっていることが問題視されており、 一般公開がいつまで継続されるか不透明な状況である。
続いて、
その向かいにあった「飛鳥歴史公園館(9:30~17:00、入館無料)」に入ってみる。 明日香村一帯のジオラマ模型見学や、アニメ視聴(大化の改新や壬申の乱など、飛鳥に関する歴史)が可能となっていた
。上地図。
見学終了後、再び自転車に乗って県道 209号線を東へ 300 mほど進むと、「野口王墓古墳(天武天皇陵と 持統天皇陵)」、「野口吹山城跡」、「野口植山城跡」が順番に並んで立地していた。下地図。
まず、「野口王墓古墳(天武天皇陵と 持統天皇陵)」であるが、飛鳥時代に造営された八角形墳墓で、 仏塔のような 5段構造で設計されていたという(東西約 38 m、南北 45 mサイズ)。 第 40代・天武天皇(?~686年)とその 皇后・持統天皇(645~703年。天武天皇没後に第 41代目天皇に即位し、藤原京を造営した)を合奏した陵墓とされる。 特に持統天皇は死後に火葬されたことが分かっており、天皇が火葬された最初の例となっている。
この道路向かいにある雑木林が「野口吹山城跡」という。上地図。
現在、北側に出っ張る先端部分の郭跡地に「小泊瀬稚雀神社」が建立されており、 ここから見学をスタートする。一部の空堀や 土塁、腰曲輪などの地形は視認できるも、 神社背後の 丘陵部分(比高差 15 mほど)は、雑木林が生い茂り過ぎて全く全容がつかめない状態だった。
また、この北東向かいの 丘陵上(比高差 10 m)には「野口植山城」が配置されていた(上地図)。
東面に立地する「明日香小学校」と工場との間の道から登る形になる。 しかし、この斜面全体が工場敷地となっており、関係者の方に一声かけて通過させてもらう必要がある。 倉庫の裏面を数秒ほど進むと、間もなく 縦堀、堀切、土塁の遺構を発見できるものの、 その先は藪が生い茂り過ぎて主郭部までの登頂は不可能な状態であった。
この両城に関しては、築城者や築城年代は一切不明なままで、 地形上の配置から、麓の 集落地(字:木戸口)を南北より防衛するように設計されていたことだけは読み取れる。上地図。
さらに 200 mほど 209号線を北上すると、県道 155号線と合流するので、これを東に入る(上地図)。
その交差点あたりには「亀石」があった。上地図。
巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られた石造物で、その由来やこの場所にある背景などは一切、 分かっていないという。伝承によると、
当麻(今の 奈良県葛城市當麻)
の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったものとされ、 元々は北向きだったものが、現在、南西方向へと向きを変えており、最終的に亀が当麻の 方向(西側)を向いた時、 大和国一帯は泥の海に沈むという不吉な伝説が残されているという。
そして交差点から東へ進むこと 300 mの場所に、「川原寺跡」と「橘寺」の案内板が掲示されていた。 また周辺には、記念碑「聖徳皇太子 御誕生所」、 「柿本人麻呂歌碑(明日香村内には、36基の万葉歌碑が建立されており、そのうちの一つ)」などの見どころも集積していた。
この「川原寺」であるが、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大官寺」の 1角に挙げられる大寺院であったが、 中世以降に寺勢を失い廃寺となる。現在、この跡地は国史跡に指定され、その一部に弘福寺が建立されている。
また「橘寺」であるが、もともと 欽明天皇(509~571年)、用明天皇(?~587?年)父子の別宮があった場所で、 ここで用明天皇の第二皇子として 厩戸皇子(聖徳太子。574~622年)が誕生したと伝承されている。 なお当時、用明天皇は「磐余池辺双槻宮(現在の「桜井市上之宮遺跡」と推定されている)」を御所としていた。
その後、推古天皇が発願し、聖徳太子がこの別宮を「橘寺」として寺院化したことから、 彼が後に造営する 寺院群「太子建立の 7カ寺」の一つに数えられることとなる。 当初、66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で、四天王寺式の伽藍配置となっていたという。
史書に初言及されるのは『日本書紀』で、天武天皇の治世下の 680年4月に「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた) との記録が残されている。この記載から、当時、北隣にあった官寺の川原寺が 僧寺(男僧の寺)で、その対を成す橘寺が尼寺だったと考えられている。
その後も、建物は何度も焼失し、現在は江戸期に再建された 本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。 中でも、室町時代制作の 聖徳太子坐像(重要文化財)をはじめ、3つの副柱の穴をもつ塔心礎や、 善悪 2つの顔が刻まれた 石造物「二面石」などが見どころとなっている。
そのまま県道 155号線から飛鳥川を渡り、南へと曲がって東進を続けると、「国営 飛鳥歴史公園 石舞台地区」に行き着く。 ここは、蘇我馬子(551?~626年。聖徳太子と協力し推古天皇を支えた)の陵墓である「石舞台古墳」が立地しており、 東隣の展望台から全景が一望できる。 敷地内には復元石棺なども展示されており、内部にも入れるようになっている。
見学後、再び県道 155号線を少し戻り、バス停「明日香観光会館」からまっすぐ集落地を北上していくと、「犬養万葉記念館」前を通過し、 「橿原タクシー(株) 岡営業所」前を西へ曲がり、さらに北へ進むと「飛鳥宮」跡地の大平原に出ることができた。
やや西側に「(飛鳥宮跡)正殿跡」もあった。
現在復元されている石敷広場や大井戸跡は「飛鳥浄御原宮」時代のものという。 1959年からの発掘調査により、他にも多くの 掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構 などが発見されている。
特に「飛鳥京跡苑池遺構」は 1999年に見つかった庭園遺跡で、石積み護岸や石組みの 湧水、噴水施設などが設けられていたことが分かっている。
なお、東側の山上には「岡城跡」があったが、全く未整備の雑木林ばかりで見学困難と判断し、スルーすることにした。
この場所は、飛鳥時代を通じ、舒明天皇、皇極天皇(655年に斉明天皇として再即位する)、天武天皇、 持統天皇の 5代の天皇が御所を置いた場所であり、それまでは天皇の代替わりごとに御所が建替えられていたことから、 古代から続く皇室の習慣の変わり目となった王宮とされる(建替え時に場所自体も移転されていたが、 この「飛鳥宮」では同じ場所内で建物を撤去しては建て替えを繰り返したのだった)。
推古天皇時代の「小墾田宮(雷丘東方遺跡と推定されている。今の 奈良県高市郡明日香村奥山 86)」から、 舒明天皇が当地に新王宮を建てて入居してくると(630年10月12日)、「飛鳥岡本宮」と呼ばれるようになる。
その後、第 35代皇極天皇(在位 642~645年の 3年間。天智天皇・天武天皇の実母)が即位すると「飛鳥板蓋宮(下絵図)」が造営され、 645年にこの王宮内で大化の 改新(乙巳の変)が起こって、蘇我入鹿が暗殺されるわけである。 その後に即位した 斉明天皇、天智天皇の治世時代には再び「飛鳥岡本宮」に入居することとなり(「後飛鳥岡本宮」と称される)、 同時に大幅な拡張を加えた「飛鳥浄御原宮」が造営されることとなる。
これら御所は、ほぼ同じ場所で建替え続けられたことから、あわせて「飛鳥宮跡地」と総称されているが、当時の人々からしてみれば、 皇室の伝統を保持した形で御所建替えを継承している認識だったことだろう。なお、この時代、 一般的な建物はすべて檜皮葺や草葺屋根であったが、 宮殿は板葺き屋根だったと考えられており、当時としては非常に斬新な建造物が立ち並んでいたわけである。
最終的に 694年、持統天皇により「飛鳥浄御原宮」から「藤原宮」へ遷都されると、主な建物類も解体されて新御所へ搬出されたと考えられる。 そして、711年に藤原京で大火災が起こって都が焼失してしまうと、奈良盆地の北部へ遷都され「
平城京
」が造営されるわけである。
飛鳥宮殿跡地を視察後、そのまま平原のど真ん中を自転車で北上する。
「飛鳥寺」を目指す途上、「蘇我入鹿(?~645年)首塚」と「飛鳥寺 西門跡」に行き着いた。 そのまま東隣にある「飛鳥寺」を参拝する。上地図。
ここから西へ移動し、飛鳥川を渡って西にそびえる「甘樫丘」を登ってみる(下地図)。ここは展望台となっており、 飛鳥京を一望できるスポットだった。
そのまま道なりに南進すると「蘇我蝦夷 旧邸宅跡地」があった。この後方の山にも 展望台「川原展望台」があり、旧王都一帯を一望できる。 かつては、蘇我一族らも登頂しては、眼下の王都を観覧したことだろう(下地図)。
この他、飛鳥盆地を取り囲む周囲の山々には、複数の展望台が設置されており、飛鳥京跡を山上から一望できるようになっている。
再び、先程の「飛鳥寺」に戻りつつ、その北東に位置する「飛鳥坐神社」も参拝してみる(上地図)。
その起源については不明というが、天武天皇(?~686年)の病気平癒祈願のため幣物が奉納されるなど、 飛鳥時代にはすでに存在していたようである。江戸時代前期の記録で、1640年に
高取城
に入封した高取藩の 初代藩主・植村家政(1589~1650年)が、 高取城の鬼門に当たる当社を深く信仰したという文言が残されている。 1725年に地元集落から発生した火災により社殿の大半が焼失してしまうと、 1781年に 8代目藩主・植村家利(1759~1785年)により再建されたという。
さらに北上し「奈良文化財研究所 飛鳥資料館(9:00〜16:30、毎週月曜日休館、350円)」を目指した(上地図)。 ここには飛鳥京の模型や 周辺寺院、古墳などの関係資料、高松塚古墳の 出土品(国指定の重要文化財)などを展示しているので、 是非、じっくり見学したい。
その途中にある、御所跡地「雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地)」、「飛鳥城跡」、「雷ギヲン城跡」なども訪問していく。上地図。
まず、「雷丘東方遺跡」であるが、これは近年、推古天皇時代の 御所「小墾田宮」跡地と注目されている場所で、 それまでは飛鳥川の西側対岸にあった古宮遺跡が推定地とされていたが、代わりに蘇我氏の庭園跡地と考えられるようになっているという。
また「飛鳥城跡」、「雷ギヲン城跡」であるが、いずれも曲輪跡や空堀跡などがはっきりと残存しているが、 肝心の歴史的由来などは一切不明な城塞遺跡であった。
この後方に、「大官大寺跡」があった(上絵図)。
かつて天皇家が国家的事業として史上初めて建立した官製寺院で、荘厳な九重塔や金堂を有する巨大伽藍の雄姿を誇ったが、 現在は往時の土壇のみが残るだけとなっていた。 文武天皇(683~707年。天武天皇の孫で、聖武天皇の父にあたる)の治世時代に完成されたと考えられている。
『日本書紀』によると、大官大寺の由来としては、聖徳太子によって
平群(現在の 奈良県生駒郡平群町)
に創建された「熊凝精舎」が、 舒明天皇(593~641年。天智天皇、天武天皇の父)により 新王都「百済宮(敏達天皇時代に「百済大井宮」として使われていたものを再利用)」近くへ移築され、「百済大寺(
現在の奈良県桜井市
に残る【吉備池廃寺跡】)」へ改称される。
そして、天武天皇の治世下の 673年に、この飛鳥にある香具山の南側に再移転され「高市大寺」と改名されるも、 677年にさらに「大官大寺(天皇の寺という意味)」と再変更されたとの記録が残されている。 以降、川原寺、飛鳥寺の三大官寺の首座として君臨していくこととなる。
686年には天武天皇の病気回復の 祈願(大官大寺・川原寺・飛鳥寺 での誦経)が行われた記録が残されており、 さらに続く持統天皇時代に梵鐘が鋳造され、 ようやく文武天皇時代に伽藍が完成されたわけである。特に 金堂、講堂は藤原宮大極殿に匹敵する巨大建造物で、 さらに国家寺院の象徴的建造物である九重塔も有する、古代日本の最大寺院が出現されたのだった。
しかし間もなく
平城京
へ遷都されると、寺籍も新都へ移転され「大安寺」へ改称されることとなる。 残された伽藍は 711年の藤原京の大火で焼失してしまい、以後、 その跡地は田畑や民家と化していったという。それでも明治時代中期までは金堂跡と塔跡の礎石が残されていたが、 明治期の 1889年に橿原神宮の造営が着手されると、その資材として搬出されてしまい、現在はわずかに土壇のみが残存しているわけである。
もう少し北上すると、間もなく「藤原京」跡地に到達する。上段地図。
閉館時間もあるので、「橿原市藤原京 資料室(JAならけん橿原東部経済センター 2階)」と、 「奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室」を先に見学していく。 入館無料の資料館で、「藤原京(下模型)」の事前学習にはもってこいの施設だった(いずれも 9:00~16:30、前者のみ 毎週月曜日休館)。
現在、御所があった「藤原宮」跡地は朱塗りの列柱が数か所再現されているだけで、その他は広い野原となっており、一部がコスモス花園となっている。 かつて、この 1 km四方の敷地内に大極殿や朝堂院などの政庁施設や 儀礼施設、天皇の住まいである内裏などがあり、まさに国家の心臓部となっていたわけである。
特に重要な政治や儀式の際に天皇が出御する「大極殿」はやや高台に築造されていたようで、 現在は基壇のみが復元されている(幅 45 m × 奥行き 20 m × 高さ 25 m)。 藤原宮内でも最大の建造物で、日本初の瓦葺き屋根を持つ中国スタイルの宮殿だったという。
敷地内には、所々に 朱雀大路跡、朝堂院の南門跡などの解説板が掲示されていた。 また当時、周囲には高い建物も無く、宮殿内からは 大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)がはっきり見通せたと考えられる。下地図。
飛鳥宮から遷都した持統天皇に始まり、 続く 文武天皇、元明天皇の三代の天皇が 生活&執政した王宮施設で、 694~710年のわずか 16年間だけ使われた王都であった(それまでは天皇の代替わりごとに王宮や王都自体が建替え、移転されていた)。 710年に元明天皇が「
平城京
」へ遷都することで、その役割を終えることとなる。
この短命の背景として、低湿地帯に位置したため、天候により水はけが悪かったことが指摘されている。
なお、この藤原京は
唐王朝の長安
にならい、日本で初めて条坊制を採用した都城設計となっており、南北中央に朱雀大路を設け(その記念碑あり)、 南北の 大路(坊)と東西の 大路(条)を碁盤の目に配し、左右対称に区画されていたという(上地図)。この都市設計は後の 平城京、
平安京
にも受け継がれていくわけだが、その都市規模としては藤原京が最大だったとされる(東西 5.3 km × 南北 4.8 km)。
いったん、「近鉄線・飛鳥駅」へ戻ることにする(下地図)。 自転車返却時間は 17:00までなので、時間帯によっては途中で自転車だけ先に返却してから、 徒歩で続きの見学を続行していく(先に自転車で「貝吹山城跡」まで回ってから返却し、再度、「越智城跡」へ徒歩で向かう、など)。
「近鉄線・飛鳥駅」の南へ進み、一つ目の踏切を線路西側へ渡る。 そのまま道なりに直進していくと、正面の 山(貝吹山。標高 209.9 m)が「貝吹山城跡」というわけであった(徒歩だと、約 25分の距離)。上地図。
途中、
農民連奈良産直センター脇を右折し、 「牽牛子塚古墳」と「越塚御門古墳」も見学していくことにした。
ここは、飛鳥時代に史上初めて 2度天皇となった 皇極・斉明女帝の陵墓で、 その娘と孫娘と一緒に供養された場所という(牽牛子塚古墳。国史跡に指定)。 飛鳥時代の天皇陵の象徴である八角形の墳丘が 2022年3月に復元されているので、是非、見学したい。 近くの 白テント内(上地図)で無料解説映像も視聴できるという。 また、事前予約で有料ガイドも依頼できるそうだ(500円)
。
見学後、先程の道に戻って谷間の道をさらに西進していくと、正面に飛鳥病院が見えてくる。 この東隣に「与楽乾城古墳(カンジョ古墳)」があった。 ここに「貝吹山城跡」登山口の案内板があったので、自転車を置いて登山してみることにする。下地図。
登山道すぐの場所に古墳が残されていた(下地図)。
そのまま一気に登っていくと、間もなく主郭が配されていた山頂に到着する。 この東西に長い主郭跡地に、「貝吹山城址」と刻まれた石碑が設置されていた。 その脇には手書きの説明図と縄張図があり、複数の曲輪が連なる設計だったことを教えてくれた。
四方の尾根へ曲輪群が連郭式に展開される大規模な城塞だったようだが、 主郭以外の曲輪群は竹藪が生い茂り、実際には視察は困難であった。西側と南西側のみ木々が伐採され、眺望が開けていた。
下山後、再び「与楽乾城古墳(カンジョ古墳)」と飛鳥病院前まで戻り(上地図)、先程の道をさらに西へ進むと、 すぐに「寺崎」の集落地に到着した(上地図)。この西隣が「越智」の集落地で、杉本病院から右折し山麓沿いに進むと、 すぐに「越智城(おうちじょう)跡」に到着できた。下地図。
この「越智城跡」であるが、南に向かって開口した山の谷間に造営されており、 現在、その跡地は三段の平場から成る畑エリアとなっている(小字名もオヤシキという)。 このうち最も広い二段目一帯が、当主の屋敷跡と考えられているが、往時の遺構は完全に消失されていた。 発掘調査により、15世紀末まで使用されていた形成が確認されており(筒井軍に攻められ越智氏がいったん没落したタイミング)、 瓦器や 土師器、青磁、宋銭なども発見されている。
これに対し、この谷間を取り囲んでいる三方の 山中(馬蹄形の丘陵地)には、複数の堀切や 竪堀、物見台(櫓台)跡、土塁片などが現存しており、 当時の防衛設備の痕跡を生々しく体感できる。山中へと続く山道がしっかり整備されており、見学もしやすい。この山中には複数の古墳があり、 これらの地形が加工されて防衛網が構築されていた様子が伝わってくる。なお、至る所に防獣柵が張り巡らされているため、 移動ルート選定には注意が必要だった。
そして、この谷間空間の正面には「大溝」と呼ばれた堀が掘削されていたといい、今も水路となって残存していた。下地図。
ここまでの「飛鳥駅」から「寺崎」「越智」の集落地に至る細長い谷間を「越智谷」といい(南北約 250 m、東西約 2 km)、 室町時代には、その東西の谷口の外側を流れる 高取川(下絵図では「土佐川」)、 曽我川を自然の外堀とする城塞集落が形成されていたわけである(東 1.3 km先にあった「貝吹山城」は、当初は東側の見張り台であったが、 後に詰め城へと役割を変えていくこととなる)。
そして、メイン・エリアである「寺崎」と「越智」に、越智氏一門衆の武家屋敷や城下町が広がっていた。上地図。
現在でも、有南神社(越智氏が代々崇敬した)、光雲寺(越智氏の菩提寺で、越智氏の墓所が現存する。本来の名称は「興雲寺」)、 天津石門別神社(1185年、越智家始祖・越智親家が戦の守護神として祀り、以降、 越智党団結の象徴および城館鎮護の神として崇拝された)、 素盞鳴神社(もともと貝吹山頂に建立されていた雨乞い 神事台「牛頭天王の塚」に祀られていた神を 3つに分けて奉納したものの一つ。 与楽、寺崎、橿原市南妙法寺)など、中世豪族ゆかりの史跡が継承されていた。上地図。
そして、城下町の中央部には「南北の大道」と称された街道が通っており、 急な曲がり角などの設計具合から、往時の名残りを感じ取れる。その北端、ちょうど「大溝」とよばれた堀川を渡るポイントに、 「乾木戸」と呼ばれる城門が配置されていたという。上地図。
また、この街道沿いには曽我川も流れ、人々の生活の糧を提供していたと考えられる。 中流域で 高取川、飛鳥川、大和川 と合流し、最後は大阪湾へと繋がっている。
貝吹山城と 越智城 ~ 南大和の 名門・越智氏の栄枯盛衰と共に
奈良盆地南部は、もともと飛鳥宮や 藤原京、大和国府などが開設されており、 古代より文明開発と人口集中が進んだエリアであった。 このため、現在でも一帯には無数の古墳や天皇陵などが点在する。
そして、王都が奈良盆地北部へ移転され「
平城京
」が造営されると(奈良時代スタート)、 南部エリアの統治は国府とそれに結びついた地元豪族らによって掌握されることとなり、同時に 興福寺(藤原家の菩提寺)などの寺社勢力が急速に台頭し、 奈良盆地一帯に荘園を保有して、その経営を地元豪族らに委ねる形で支配体制が構築されていくのだった。
こうした寺社勢力の強大化を嫌い、桓武天皇が平安京へ遷都するも、大和国はそのまま寺社による直接的、間接的支配体制が維持されることとなり、 朝廷が派遣した国司は有名無実な存在に追いやられたままであった。京都で藤原道長が絶頂期を極めていた平安時代中期、 大和国司として 源頼親(966?~1057?年。清和源氏の末裔)が派遣されてくると、地元豪族らとの結びつきを強めて大和源氏を興していく。 こうして大和源氏の一派となった越智氏が、時と共に南部エリアのリーダー的存在として台頭してくるわけである。
平安時代末期には度重なる戦乱により国府も荒廃し、国司の存在も完全に排除され、 興福寺を筆頭とする寺社勢力による荘園支配と徴税、市場管理などが行き届き、 朝廷の入り込む余地は完全に喪失されていた(間接支配を委ねられていた地元豪族らは、興福寺が管理する「春日若宮の祭礼」を通じ、 精神的、社会的にも完全に取り込まれていた)。これらの国人衆は、それぞれに祭事上の序列や寺院への寄進度合いを常に競い合い、 時に近隣や遠方などと合従連衡しながら、自らの プレゼンス・アップに勤しむ中で武装化するようになり、 鎌倉時代末期にかけて強力な武士団を形成させていくわけである。
この時、南越智庄は 春日大社(興福寺の下部組織)領となっており、 その荘官として源家弘が委託を受けていた記録が残されており(鎌倉時代中期)、これが越智氏の直接的な祖先と考えられている。以降、 地名の「越智」を姓とするようになり、また歴代の越智家当主は 通字「家」を継承していくのだった。下家系図。
一方、興福寺内でも藤原摂関家の分裂にともなって一乗院派と大乗院派に分裂することとなり(下系図)、 双方の対立が激化するに伴い、大和国内の武士団らを巻き込む形で、武力衝突が頻発するようになっていく(武士団は、時に両派の「僧兵」として機能したのだった)。 これら国人衆の中でも、越智氏、
十市氏
、箸尾氏、
筒井氏
は「大和四家」と呼ばれ、盟主的存在として台頭することとなる。
鎌倉幕府
が滅亡する頃には、特に幕府とは縁もゆかりも無かった大和国の武士団らは倒幕派に組する者も多く(興福寺などの寺社勢力の力が強かった大和国では、幕府から守護や地頭が任命されてこなかった)、そのまま
室町幕府
がスタートされても幕府への帰属意識は薄く、興福寺や 藤原摂関家、朝廷への忠誠心が強いままであった。こうした背景から、間もなく南北朝の動乱が勃発すると(14世紀)、吉野に近かったこともあり、 越智氏一門衆はためらうことなく南朝方に組する。
この過程で、本領であった越智谷の「居館(越智城)」や 集落地の防衛力強化が図られ、周囲の山々に城塞や物見台などが整備されていったと考えられる(下絵図)。 そのうちの一つとして貝吹山上にも物見台が設けられ(この山頂には、古代、 人々が雨乞いをした「牛頭(こず)天王の塚」と呼ばれる直径約 3 mほどの円墳があり、その塚上に物見台が組み上げられたという)、 索敵網の一つを担ったのだった。こうした機能から、 三尺五寸のホラ貝を吹き鳴らした山ということで「貝吹山」と通称されるようになったと伝えられる。
以降、「貝吹山」の物見台はさらに拡張され城塞化されていくと、「越智城」の詰め城としての役割を担うようになっていくわけである。
最終的に 1400年代に入ってくると、
親幕府的で一乗院衆徒の筒井氏
と反幕府的で大乗院衆徒の越智氏との対立へと収斂されることとなり、 室町幕府や興福寺などからの再三の停戦命令も聞かず、小競り合いは収まることはなかった。
ついに 1429年、
大乗院衆徒・豊田氏 と 一乗院衆徒・井戸氏
との対立を発端とし、双方のリーダーだった越智氏と筒井氏とが直接激突する「永享の乱」へと発展する。この過程で 1434年、筒井順覚兄弟が越智氏に討たれると筒井方の勢力は減退し、 越智党が興福寺から 奈良中雑務検断職(南都の警察権)に任命されることとなり、 奈良盆地全域を統括するまでに勢力を伸長させる(興福寺もパワーバランスを考慮し、他に 豊田氏、福智堂氏、小泉氏の三家も任命していた)。
しかし、その後、幕府軍が筒井氏を支援したことから、当主・越智維通は箸尾氏らと共に徒党を組んで対抗するも、 1435年の多武峯の戦いに敗れると、越智党は奈良盆地を追われ吉野への逃亡を余儀なくされるのだった。 最終的に 1439年、惣領・越智維通の 弟・次郎が自決に追い込まれ、 維通も討たれることで、「永享の乱」は筒井方の完全勝利で集結する。
この戦いにより越智氏の惣領家が断絶し、一族郎党の多くが討たれ被害は甚大となるも、 維通の 遺児・家栄が 河内国守護・畠山氏の支援を受けて越智氏を再興すると、 1459年には筒井順永を佐味城の戦いで破り、そのまま筒井党を駆逐して、 再び奈良盆地の大部分を支配するまでに復活を遂げるのだった。
直後より
京都で応仁の乱が勃発すると
、京から公家や 僧侶、神官、芸能家らが各地へ避難するようになり、 大和国にも多くが移住してくると、越智氏の最盛期を現出させた越智家栄は彼らを積極的に保護することとなる。 その中に観世座の 三世・十郎大夫も含まれており、彼が大和滞在中に勃興させたのが「越智観世座」と呼ばれる分派であり、 当地で「越智大夫」と呼ばれるまでに、越智家から厚く支持されたという。
1465年に 将軍・足利義政が南都を訪問した際には
、観世方の一員として「鶴次郎」を演じた記録などが残されている。
しかし、畿内の騒乱は越智家の支配体制にも確実に影を落とし、河内国守護・畠山氏に協力して家栄は畿内各地への転戦を強要されることとなり、 大和の武士団は大いに疲弊させられていく。この不満を糾合する形で筒井党が再び勢力を盛り返し、 大和盆地は再び二大勢力が拮抗する戦乱時代へ引き戻されていくのだった。
こうした騒乱の最中に、詰め城としての「貝吹山城」の役割が増し、さらに後方の詰め城として「
高取城
」が築城されていくわけである。 その他、佐田城(高取町)や 玉手城(御所市)などの支城群も順次、築造されていく。
しかし 1546年、ライバルの筒井順昭に越智谷まで攻め込まれ、「貝吹山城」や越智谷を完全に失陥し、以降、 筒井方の支配地に組み込まれる。 1549年と 1557年の二度に渡り、越智方の残党は越智谷奪還作戦を大規模に展開するも、いずれも失敗に終わっている。
1559年には、畿内を支配した三好長慶が大和国にも食指を動かすようになり、 配下の松永久秀を派遣してくると、大和国は瞬く間に松永軍によって席巻され、 筒井党もまた駆逐されてしまうのだった。以降、越智谷は松永久秀が支配するも、 1566年に瓜田某の内通により越智方の残党が「貝吹山城」の奪還に成功すると、越智伊予守が城主に返り咲く。 しかし、1568~69年にかけて 松永久秀・久通父子の軍が度々攻め寄せてきたため、 何度かの撃退の後、最終的に 1569年、松永氏に降伏し、開城に追い込まれるのだった。
その後、越智氏は松永軍に組み込まれ、織田信長の命により畿内各地の戦闘に駆り出されるも、 松永久秀が信長に反旗を翻して滅亡すると、信長により
筒井順慶
が大和国の支配を公認されることとなる。 以降、越智氏は長年の ライバル・筒井家の臣下に組み入れられ、同舟異夢の中で大和国の戦乱は終結するわけだが、 筒井家と越智家の長年の確執は収まらず、結局、
1583年に筒井順慶によって 当主・越智家秀が暗殺されると、 そのまま 名門・越智家は滅亡に追い込まれるのだった
。
本日はここまでとし、「近鉄線・飛鳥駅」への帰路に就く。 駅前で自転車を返却し、もし空腹ならば「飛鳥駅」の南側に 地元スーパー「エバグリーン 飛鳥店」があるので、 食料調達して体力回復後にホテルに戻りたい。
© 2004-2025 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us