BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬


奈良県 高市郡 ① ~ 郡内人口 5,500人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)


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  高取城跡、黒門跡、宗泉寺
  旧城下町(土佐街道)、観光案内所「夢創館」
  壷阪寺(飛鳥時代に開山した古刹。平安時代には藤原道真はじめ、多くの貴族が参拝した)
  歴史に憩う 橿原市博物館
  見瀬城跡、五条野城跡



引き続き、JR奈良駅(近鉄線・奈良駅)前に連泊してもよいが、理想は、奈良盆地の南側にある JR桜井駅(近鉄線・桜井駅)前か、JR畝傍駅(近鉄線・大和八木駅)前か、JR高田駅(近鉄線・大和高田駅)などの南部中核都市まで移動し、改めて連泊するのがベストだろう。全体的に、 この一帯のホテルは一人あたり 5,000~8,000円クラスのホテルが多く、良心的であった。

この奈良盆地南部もたくさんの史跡が点在し、3~4日分、もしくは 1週間分ぐらいの行程も十分に組める(少し遠出して「吉野」や「赤阪千早城跡」訪問も可能)。とりあえず初日は、ウォーミングアップも兼ねて、以下のようなスケジュールを立ててみた。


もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。

橿原考古学研究所 附属博物館(旧石器~室町時代までの出土品を展示)・・・・近鉄線「畝傍御陵前駅」から徒歩 5分
奈良文化財研究所 飛鳥資料館(飛鳥時代の 歴史、文化、遺物を展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」からバス 17分
歴史に憩う橿原市博物館(地元の郷土史、古墳の出土品などを展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」から徒歩 30分
天理大学附属 天理参考館(世界中の民族、移民らの生活文化、日本古代文化)・・・・ JR「天理駅」から徒歩 20分
奈良市立史料保存館(町屋を改装。古都奈良の模型、住民生活の資料館)・・・・近鉄線「奈良駅」から徒歩 15分
葛城市歴史博物館(葛城市の郷土資料館)・・・・近鉄線「忍海駅」から徒歩 5分



午前 9:45発の路線バスに間に合うよう、「近鉄線・壺阪山駅(近鉄吉野線)」を目指す。 駅を出ると正面がバス停となっているので、乗り場 ③より、奈良交通バス ⑳(壷阪寺前方面)に乗車する。 運航本数は週末の方が多いようだった(時刻表参照)。乗車時間 11分、運賃 380円

壷阪寺の正面入り口にあるバス停に到着後、バス運転手さんに「高取城跡」へのルートを念のため確認してみる。 下調べ通り、そのまま道なりに県道 119号線(高取城登山道)を 2.8 kmほど進むと山頂部に到着できた(約 50分)。 このバス停は山の中腹部に位置し、すでに頂上までの比高は 100 m程度だった上に、 アスファルト舗装道路なので気楽なハイキングとなった。下地図の下半分。

高市郡

ようやく、「高取城跡」の大きな案内板が設置された 登城口(壺坂口)に到着する。入り口付近に仮設トイレが設置されていた(上地図)。

しばらく山道を進むと、すぐに見事な石垣群が姿を現す。 あまり手入れされていない往時のままの石垣群は、見ごたえ抜群だった。 特に、七ツ井戸エリアから見上げる本丸や二の丸の高石垣は圧巻であった。 地面には、瓦の破片が無数に散乱していた。
その他、壺阪口中門跡、壺阪口門跡、登り石垣、松ノ門跡、国見櫓跡、二ノ門跡 などの主要スポットを巡っていく(上地図)。 これらの膨大な数の石材は、 山麓の 明日香、高取地域の古墳 から転用されてきたものが多いという。

なお、この二ノ門には、かつて木製の橋が架けられており、山城では珍しい水掘を渡る設計だったという(下絵図)。

高市郡

また、ここは有名な ハイキング・スポットでもあるようで(標高 583.9 m)、城跡では何組かの登山客ともすれ違った。 年間 2万弱もの人が訪問するようで、平日、週末問わず訪問者が絶えないということで安心できる。
また、山頂からの眺望も文句なしだった(南側には吉野の山々を見渡せ、北側では天気が良ければ、 国見櫓跡から 大阪市内明石海峡大橋、京都タワーまで見えるという)。ここの山城は手入れが行き届いているので、 夏場の登山でも問題ないが、虫よけスプレーや薄手の長袖はあった方が良いだろう。

そのまま三の丸など、北方向へ延びる曲輪群を見学しながら山を下っていくことにする(このルートが大手道でもある)。 三ノ門櫓跡、岡口堀切跡など、かなり広範囲に展開されており、そのスケールに圧倒される(郭全体の周囲は全長 30 kmにも及び、 三ノ丸以内の中核部分だけでも周囲の全長は 3 kmもあるという。ちょうど 姫路城 と同規模)。上段地図。

高市郡

山麓に近づいてくると、何度も折れ曲がる 登山道「七曲り」と呼ばれる箇所や、急坂「一升坂(築城当時、あまりに難所だったこから『重荷を上げることができたら米一升を与える』と鼓舞された伝承に由来)」などに出くわした。この道中、岡口門の 岐点(城下町へ下る大手筋と 飛鳥方面 へ下る岡口門への山道)で「猿石」を発見した。飛鳥期の 斉明天皇時代(7世紀)の造形物とされ、現在、高取町の指定文化財となっているものの、 なぜここに設置されたのかは不明なままという(城の石垣に転用するため飛鳥から運ばれてきた、郭内と城内の境目を示す「結界石」の意味を込めて、などの諸説あり)。上地図。

そのまま最後まで下り切ると、「黒門跡」があった。ここが城の正門にあたる場所で、江戸期には常時、 物頭 1名と部下 20名が配置されていたという。ちょうどここから 本丸(標高 583.3 m)までの比高差が 390 mとなっている。 全体的に、登山ルート自体はきちんと整備されてはいたが、この大手道から登山すれば、約 1.8 kmの登山となり結構な運動量となったことだろう。

そのすぐ下に「宗泉寺」があった(上地図)。かつて、この境内一帯に城主居館が設けられており、 平時の生活場所とされていた。それが江戸時代中期に、高取藩主・植村氏の 菩提寺(天台宗派)へ改編され、 今日に至るというわけである。本堂裏には今でも歴代藩主の墓所が大切に保存されている。

高市郡

宗泉寺を出ると、まっすぐ市道が通っており、そのまま地元の集落地に至る。この集落地では「土佐街道」と呼ばれる石畳の道となり、 風情ある古民家が軒を連ね、かつて城下町だった姿が目に浮かんできた。 また所々に、明治期に高取城から移築されてきたという城門や建物などが保存されていた。 この「土佐街道」の最西端あたりに、高取町の 観光案内所「夢創館」があり、遅ればせながら、城跡の地図などをもらうことができた。

そのまま先程の「壺阪山駅」まで帰りつけた(先述の黒門跡から約 3 km)。 ゆっくり散策しながらではあったが、実に 2時間、山頂の下山から歩き通しとなった。


鎌倉時代末期の 1331年9月、後醍醐天皇が 笠置山(現在の 京都府相楽郡笠置町)に立て籠り、 鎌倉幕府 打倒のために挙兵するも、3,000 vs 75,000の兵力差の中、一ヶ月弱で落城し、 天皇や側近らは幕府方に捕えられ、六波羅 に送られることとなった。 さらに幕府軍は、河内国南部の赤阪城で挙兵していた 楠木正成(1294?~1336年)討伐のため、そのまま南進していくこととなる。

こうした混乱の中、それまで仏門に入っていた 護良親王(1308~1335年。後醍醐天皇の皇子の一人)も還俗し、 自身も吉野の 吉野城(金峯山城)に立て籠って挙兵しつつ、畿内各地の寺社や 土豪、武装集団らに蜂起を促す令旨を発布しまくると、 これに呼応した畿内の武士らが各地で戦火を拡大させていく。

この中に、大和国南部の 有力豪族・越智氏も含まれており(当時の当主は 越智邦澄。下家系図)、護良親王の依る吉野との中継拠点として「高取城」を築城することとなる(1332年後半)。この時代は、土塁要塞(掻揚げ城)が主流で、自然地形を利用しつつ、斜面沿いに土塁と空堀を施した郭群を連ねる程度のものだったと考えられる。

高市郡

なお、この越智氏が大和国で勢力を持った理由は、多分に漏れず、その血統にあった。平安時代中期に 源頼親(966?~1057?年。 清和源氏の 始祖・源経基の孫。上家系図)が大和国の国司を三度にわたり務めた際、既に同国内に大量の荘園を有し独立主体となっていた春日大社や 興福寺、東大寺 などとの関係構築に苦労し、朝廷権力を発揮できなかったことから、その対抗手段として地元豪族らとのつながりを強化し、自身の味方を増やそうと図ったのだった。その彼の子孫の一派が、大和国南部の 高市郡越智荘(今の 奈良県高市郡高取町付近)を支配した越智氏だったわけである

平安時代後期まで、大和国府は 高市郡軽(現在の 奈良県橿原市大軽町見瀬村あたり)に開設されており、 国司・源頼親もここに駐在し、周辺豪族との結びつきを強化する一環として、近郊の高市郡越智荘を支配していた豪族を手なずけたのだろう。 対して、奈良盆地北部は奈良時代の平城京以来、興福寺の力が非常に強く朝廷も手が出せないエリアとなっていた。この興福寺と対立した春日社は、大和国南部の朝廷勢力や豪族との関係を強めてパワーバランスを図ることとなり、彼らを 門徒宗(春日社からは「国民」と総称された)に組み込んでいくのだった。

その後の兵乱により 大和国府が荒廃したため、13世紀に 平群郡(現在の 大和郡山市今国府)へ移転されると、 今度はその近郊を地盤としていた 筒井氏 が台頭してくることとなるわけである。 以降、室町時代を通じ 興福寺&筒井派 vs 春日社&越智氏といった対立構図が継承されていく。

話を元に戻すと、翌 1333年5月に鎌倉幕府も滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政がスタートするも、鎌倉時代よりも権利が制限されてしまった全国各地の豪族らは不満を強め、 間もなく南北朝の動乱が勃発する。1338年8月に尊氏が室町幕府を開くと、畿内各地で北朝軍が南朝軍を圧倒し、 1348年には足利尊氏の 直臣・高師直(?~1351年)が吉野を攻め落とし、一帯を全焼させるなど、北朝軍の優位は明らかとなっていく。そんな中でも、 吉野に近い高市郡を支配した越智邦澄は常に南朝方として転戦していたと考えられ、1346年に起死回生を祈願してか、自らの地元に「興雲寺(現在の光雲寺。奈良県高市郡高取町越智 24)」を建立している

しかし、北朝内で高師直と 足利直義(1306/1307?~1352年。尊氏の同母弟)とが対立すると(観応の擾乱)、 京都 から脱出してきた足利直義を庇護し、南朝への帰順を仲介したのが 越智邦澄、源太(?~1390年。伊賀守)父子とされ(上家系図)、 その間、越智郷の住民は協力して四方の道をふさぎ、関所を設けて直義を匿ったとされる(1350年12月)。 そのまま南朝に降った足利直義は、楠木正儀(1333?~1388?年。楠木正成の三男)、和田正武(生没年不詳)らと共に北朝軍を圧倒していく(1351年の光明寺合戦、打出浜の戦い)。 危機感を抱いた尊氏は、直臣だった 高師直・師泰兄弟とその一族を謀殺することで(1351年2月末)、直義との和解を図ろうとする。 これを受け入れ、尊氏の 嫡子・義詮(1330~1367年)の補佐役として北朝方に復帰した足利直義であったが、結局、尊氏父子との関係改善は成就せず、 翌 1352年1月に尊氏によって討伐され、翌 2月に死亡することとなる。
その後、情勢は南朝方の圧倒的不利が決定的となると、越智家当主を継承した 越智源太(上家系図)も北朝方へと降ったと考えられる。

最終的に 1392年11月、将軍・足利義満の采配により南北朝合一が成って以降も、 越智氏は大和国南部の武士団を采配する領袖的存在であり続け、中部、北部に勢力を張る 興福寺&筒井氏らと対抗するも、 幕府自体が興福寺衆徒を懐柔すべく、興福寺&筒井氏側に肩入れしたことから越智派は敗れ(1435年、多武峰の戦い)、 1439年には越智家当主だった 維通(家経)も討死し、没落することとなる。上家系図。

高市郡

その後、幕府と興福寺のバックアップにより大和国を支配した筒井氏であったが、 間もなく家中内紛を起こすと、越智維通の 遺児・家栄(上家系図)が越智派残党をまとめて勢力を盛り返し、 河内国守護の畠山持国や 管領・細川政元らの支援を得て、筒井氏らの排除に成功する。
以降、越智家栄(1432~1500?年)は高取城を本拠地に定め、大和国を支配する大勢力となったことから、 京都 の戦火から避難してきた世阿弥の 孫・観世十郎大夫の保護にも積極的に関与し、越智観世の発祥のもとを作っていくこととなるわけである。

しかし、その後は再度復活した筒井氏との間で一進一退の攻防が続き、時に和解期間などを挟むも、 大和国内の抗争は戦国時代末まで絶えることはなかった。 畿内で三好三人衆や松永久秀らが台頭し、大和国へも戦火が及ぶと(下地図)、大和の国人衆は最終的に織田信長に臣従することとなり、 1578年に信長公認の下、筒井順慶によって大和国の平定が完成されるのだった。 信長の命により、1580年8月、これまで群雄割拠の中で無数の城塞が築造されていた大和国にあって、順慶の新拠点だった郡山城 以外の廃城化が指示されると、 この高取城も破却されることとなる(順慶は、この高取城を郡山城の詰城として改修工事を手掛けている最中であったが、断念させられる形となった)。

高市郡

1582年6月に信長が本能寺の変で横死すると、すぐに秀吉に臣従した順慶はそのまま大和国の支配を追認される。 以降、順慶はこれまでの反対勢力だった国人衆らの粛清を進めることとなり、この一環で、1583年、 越智家秀(前代の越智家増には実子がなく、布施家より養子に入ってた。上家系図)が順慶の 最側近家臣・松倉重信(1538~1593年。 嶋左近と並んで筒井家家老の両翼として知られ、「右近左近」と称された)に謀殺される。 ここに、名門・越智氏は完全に滅亡したのだった。 翌 1584年2月より高取城は 郡山城 の 詰の城(緊急用の城)として再建されることとなり、そのまま松倉重信が城代を任される。

しかし、同年 8月に順慶が病死すると(享年 36)、養子だった 定次(1562~1615年。順慶の 叔父・筒井順国の実子)が家督を継承するも、 翌 1585年8月に秀吉により伊賀国上野へ転封させられることとなり(この時、秀吉は畿内に直臣らを配置するなど、 領国経営の大改造を行ったタイミングだった)、高取城主だった 松倉重信・重政(1574?~1630年)父子も転籍を命じられ、伊賀名張に 8,000石の知行地を与えられる。

筒井家に代わり、豊臣秀長(1540~1591年。豊臣秀吉の異父弟)が 大和&紀伊国主として入封し、郡山城を本城に定める。 同時期に高取城には 脇坂安治(1554~1626年)が配置されるも、2ヶ月後の 10月に淡路転封となり、秀長の直臣だった 本多利久(?~1603年)・俊政(?~1610年)父子が城代として駐在することとなった。1589年より、大和郡山城、高取城の両城の総石垣化工事が着手され、高取城は山城に平城式設計が取り入れられた、非常に珍しい姿となった。城域面積は 姫路城 に匹敵し、まさに平山城の姫路城を山頂部に展開したようなデザインとなったわけである。城内には、本丸の北西隅に三重の天守と、南西隅にも同じく三重の小天守が配置され、合計 29棟の櫓群と 33の城門を装備することとなり、それら白漆喰塗りの壁や建物群が織りなす美しさは芙蓉の花に喩えられ、「巽高取雪かとみれば 雪でござらぬ土佐の城」とも謳われたという。これらの建造物は、以降、特に大きな火災もなく、幕末まで継承されることとなった。

1591年2月に秀長が死去すると(家督と所領は、養子だった豊臣秀保が継承)、本多利久・俊政父子は独立し、正式に高取城主となる(15,000石余り)。その 秀保(1579~1595年)も 1595年6月に 17歳で急死すると、増田長盛(1545~1615年)が 郡山城主 として入封し、高取城は引き続き、本多俊政が支配することとなった。下地図。

高市郡

1600年の関ヶ原合戦では、増田長盛が西軍に組して改易されるも、高取城主の 本多利久・俊政父子は東軍に組したことから所領を安堵される(上地図)。 この戦いで、増田軍が高取城を攻撃したとされるも、落城を免れている。そのまま高取藩が立藩されるわけだが、俊政の 子・本多政武(1598~1637年)が跡継ぎなく死去したことから、高取藩本多家は無嗣改易となる。しばらくの間、松平輝隆(石見守)、川勝丹波守、小出伊勢守、九鬼式部、谷大学 などが高取城の城番を務めた後、1640年10月、植村家政(1589~1650年。もともとは徳川秀忠の小姓で、将軍就任に合わせて 9,000石の譜代家臣に取り立てられていた)が、25,000石に加増されて大名となり、改めて高取藩が再立藩される。 以後、植村家が 14代 230年間(家貞・家言・家敬・家包・家直・家久・家利・家長・家教・家貴・家興・家保・家壺)、在城した。

当初は先代同様に、山上の 武家屋敷群(三ノ丸より下に家臣団の居住専用郭があった)と黒門前の 下屋敷(現在の「宗泉寺」の敷地に設けられていた)で生活や政務が執られていたが、 間もなく山里の城下町エリアへ下屋敷や武家屋敷が新築されるようになり、順次、 家臣らの移住が進められたと考えれる(近年まで、小字名に「ゴテンアト」という地名が伝承されていた)。 以降、城主は正月などの行事があるときだけ、籠に乗って山上まで登城していたという。

その後、しばらくの間、旧・下屋敷は放置されたままだったが、 1698年、4代目藩主・植村家敬(1680~1731年)により、一族の 菩提寺・祈願所としての寺院へ改編されることとなり、 「宗泉寺」が造営されるわけである。この寺号は 初代藩主・家政の父、家次(1567~1599年。徳川家の古参直臣)の戒名に由来して命名されたという。以降、幕末まで大切に維持されるも、明治期に全国で巻き起こった廃仏毀釈により一切の保全作業が放棄され、朽ち果てるがままに放置される。戦後になって再建の機運が高まり、今日に見られる本堂などの多くの堂宇が建替えられたのだった。

高市郡

最終的に 1873年に廃城となり、1890年より城郭解体工事が始まると、 破却予定の城門や家屋などが順次、城下町や寺院へ払い下げられ移築されることとなった(その一部は、今でも旧城下町エリアに現存する)。 しかし、人里離れた山間に立地したため、石垣や石塁はそのまま放置されることとなり、ほぼ完全な姿のまま今日に伝えられ得たわけである。 この貴重な「生ける城郭遺産」が評価されて、1953年に国史跡に指定され、さらに 2006年には 公益財団法人・日本城郭協会の「日本 100名城」に選出されている。
紅葉の見頃を迎える毎年 11月23日には、火縄銃の実演や時代行列が恒例行事となっている。

この高取城のように、山城上に膨大な 石垣群、天守と 小天守、櫓、門、殿舎 まで築かれた例は全国でも稀で、 かつ山麓から本丸までの比高差が 390 mという屈指の高度を誇り、日本三大山城の一つに列せられる。 他の 2城もまたそれぞれに特徴的で、岐阜の 美濃岩村城は(江戸諸藩の城郭の中で)日本一標高が高いところにある 山城(比高差 150 m)として知られ、また岡山の備中松山城は天守が現存する唯一の 山城(比高差 340 m)となっている。



「壺阪山駅」到着後、この駅前の食堂でランチをしてもよいし、もしくは、 駅前にある地元タクシーをハイヤーし、先に「歴史に憩う橿原市博物館」まで行ってもらうことも可能だ(その南隣にあるローソン店内で弁当を購入し、店内ですばやく食事も可)。

もしタイミングよく電車に乗れるなら、このまま「近鉄線・橿原神宮前駅」まで移動し、西口のバスターミナルへ出て、 博物館までの路線バス時刻表を確認しつつ(下路線図。バス 33、36、37、53)、ロータリー西側にある「餃子の 王将(橿原店)」で昼食を食べることもできる。ここで体力回復を図り、路線バスに乗って バス停「川西」を目指す。

バス下車後、徒歩 5分で「歴史に憩う橿原市博物館」に到着できた(開館時間 9:00~17:00)。
この日は、午前中からよく動いたので、博物館見学で終了とすることにした。

高市郡

この博物館には、橿原市内で出土した縄文時代末~江戸時代までの遺物が展示されており、 特に未盗掘の古墳から発掘された副葬品は必見という。また、職員さんがパーソナルガイドとして付き添い、 館内を丁寧に案内してくれることでも有名である。

博物館見学後は、先程のバスルートを戻る形で、徒歩で「近鉄線・橿原神宮前駅」まで帰り着けた。 なお、「橿原神宮前駅」は近鉄南大阪線と近鉄橿原線が交差するターミナル駅で、 駅周辺の商業エリアはそれなりに栄えており飲食には困らないが、残念ながら、スーパーマーケットはない。

ちなみに、「近鉄線・橿原神宮前駅」にはレンタサイクル店もあるので、 時間と体力に余力があれば、自転車での博物館往復を含め、引き続き、周辺の 史跡巡り(越智谷エリアなど)も可能である(路線バスの発車時刻が合わない場合は、自転車の方が時間節約しやすい)。下地図。

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