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日本の城 から
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岐阜県 大垣市
訪問日:2014年2月上旬 『大陸西遊記』~
岐阜県 大垣市 ~ 市内人口 16万人、一人当たり GDP 281万円(岐阜県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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大垣城の 本丸跡へ
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大垣城の 今昔
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実はかなり近い 関ヶ原の古戦場 と 南宮山、大垣城
この大垣駅は、東海本道線の乗換え拠点で、
名古屋
と
滋賀県米原
との間にある重要ポイントである。大垣夜行なる「ムーンライトながら」は、18切符愛好家、鉄道愛好家には定番の移動手段であり、その終点・始発が当駅である。
さて、駅を下車すると、まっすぐ伸びる駅前通りを経て右折すれば、すぐに
大垣城
本丸、二の丸にアクセスできる。
現在、城郭の正面入り口とされる城門は、かつては存在していなかった。便宜上に造成されたものである。
かつては
、豊富な水資源を利用して、幅の広い堀が幾重にも巡らされる城郭と城下町であったが、現在はほとんどが埋め立てされてしまい、全くかつての姿がイメージできなくなっている。
水の街は、半面、 大洪水にも度々悩まされたようで、天守台の石垣には、昭和初期の大洪水時の水位が刻み込まれていた。その高さは市街地すべてを水没させるレベルであり、大垣市が壊滅的被害を受けた記憶を今に伝えるものであった。
さて、当地に来て、最も驚かされたのは、戦国時代の主要ポイントである、
関ヶ原
、
岐阜城
、尾張清洲城などが、目視できる距離にある、ということであった。こんな狭い地域で、
尾張の信長や美濃の斉藤氏との対立
、そして
天下分け目の関ヶ原の戦い
が行われたのか。。。地元で徴用される兵士らにとっては、最近まで交友関係があったり、商売仲間であったり、隣村であった者どうしが、戦場で刃を交えていたことであろう。
関ヶ原の戦い前夜、
小早川秀秋
が
南宮山
のさらに西の
松尾山
に陣取り、以後、前進しようとしないことから、西軍首脳陣の間で疑心暗鬼が生まれ、作戦の変更に変更が重ねられていくこととなる。
当初、主戦場と目された大垣城と
南宮山(毛利、吉川、長曾我部勢らが陣取る)
との間の平野部での戦闘には、松尾山からは明らかな距離があり、最悪、南宮山の毛利勢の後方を襲いかねない布陣となっていた。これを警戒し、大谷吉継もその小早川勢のすぐ隣に布陣し、監視役を兼ねるはめとなる。
それでも、南宮山の毛利勢がきちんと機能するという前提があれば、この大垣城を有効活用すれば西軍には十分な勝算もあり得たであろう。
しかし、
小早川勢の裏切りを警戒しつつ、南宮山の毛利勢との挟撃作戦を優先し、さらに西の関ヶ原へ移して、野戦を挑むこととなる。東軍が関ヶ原を超えて、滋賀の 佐和山城(石田三成の本拠地)、さらに京都、大阪を襲いかねないという徳川方の情報作戦におびき出された、とする説が有力だ
。
歴史に「もしも」が許されるのであれば、石田三成が自領の
佐和山城
を見捨てて、大垣城内に踏みとどまり、東軍を滋賀方面や近畿へ踏み込ませ、
大坂城
の毛利勢、
大津城
攻略中の 小早川秀包、立花宗茂らの西軍別動隊による挟撃体制が展開されると、どのような結果になったであろうか、とついつい妄想してしまうのも、また一興であろう。
関ヶ原合戦
後、大垣城は再修理され、さらに外堀なども建設されて、巨大な総構えを有する城郭が完成する。
江戸時代、大垣城の南側は運河が掘削されており、堀川と揖斐川を使って船で伊勢湾まで出ることができる、水運の街となっていた。江戸時代中期に全国を安行した松尾芭蕉も、この地で最後の句を詠み、船で
江戸
へと帰っている。
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