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日本の城 から
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奈良県 奈良市 ①
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奈良市 ②
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
奈良県 奈良市 ② ~ 市内人口 37万人、一人当たり GDP 290万円(奈良県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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氷室城跡(氷室神社)、春日大社
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鬼薗山城跡(奈良ホテル)、西方院山城跡(瑜伽神社)
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旧大乗院庭園、名勝大乗院庭園文化館
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古市城跡、古市高山城跡
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永井城跡
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今市城跡
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辰市城跡
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東九条城跡
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山村館跡、地蔵堂と石仏群
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窪之庄城跡(八坂神社)
奈良市内のホテルは、他の関西圏の中でも比較的安価だった。大阪&神戸方面の空港バスは常に大混雑となるが、
和歌山
、奈良方面の空港バスは常時ガラガラで、日をずらして関西中心部へ移動することができる、絶好の中継地として愛用させて頂いた。
もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。
橿原考古学研究所 附属博物館(旧石器~室町時代までの出土品を展示)・・・・近鉄線「畝傍御陵前駅」から徒歩 5分
奈良文化財研究所 飛鳥資料館(飛鳥時代の 歴史、文化、遺物を展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」からバス 17分
歴史に憩う橿原市博物館(地元の郷土史、古墳の出土品などを展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」から徒歩 30分
天理大学附属 天理参考館(世界中の 民族、移民らの 生活文化、日本古代文化)・・・・ JR「天理駅」から徒歩 20分
奈良市立史料保存館(町屋を改装。古都奈良の模型、住民生活の資料館)・・・・近鉄線「奈良駅」から徒歩 15分
葛城市歴史博物館(葛城市の郷土資料館)・・・・近鉄線「忍海駅」から徒歩 5分
さて早速、自転車を借りて地元史跡を周遊してみる。
奈良市内では、複数のレンタサイクル事業者があるので、特にどれを利用してもよかったが、 とりあえず、
JR奈良駅の東口高架下にある「駅リンくん」JR奈良営業所で借りることにした(8:00~18:00、終日 500円)
。
まずは、東の山間部にある「春日大社」を目指して移動し、 その山麓にあった「氷室城跡」、「鬼薗山城跡」、「西方院山城跡」を順番に訪問してみる。下地図。
史書に残る「氷室城」は、戦国時代、幼少だった筒井順慶の後見人を務めた 福住宗職(福住順弘の実父)が造営したものが知られているが(1568年に
多聞山城主
・松永久秀の攻撃により落城)、 これは現在、南隣の天理市福住町にある氷室神社がその跡地と考えられている。筒井党が地元を追われ、山間部に籠ってゲリラ戦を戦っていた当時のもので、大和高原内に立地していた。
他方、この奈良市側の「氷室(ひむろ)神社」は(下地図)、奈良時代、吉城川上流にある春日奥山に氷を貯蔵する場所が設けられており、 その守護神として祀られていたものが、近年になって平野部へ移転されてきたという。
奈良時代~室町時代にかけて、この場所には神社ではなく、興福寺、東大寺を守備する緊急用の要塞が設置されていたと考えられる。 境内も小さめで、城郭遺構や解説板などは全く見当たらなかったが、北側の東大寺を麓とする丘陵斜面上にあって、 高台を利用した防衛施設があったことは容易に想像できた。
松永久秀による「東大寺大仏殿の 戦い(1567年)」の一環で、 この防衛施設も戦火に巻き込まれたのかもしれない
。
なお、この氷室神社は「しだれ桜」が有名なようで、東大寺の入口に近接していることもあり、 多くの観光客が訪問していた。
見学後、奈良公園の外周を走る国道 169号線(天理街道)まで戻り、 そのまま南進していくと「三条通り」を越えたところで「荒池(農業用灌漑池)」を渡る。 この南側に「奈良ホテル」が立地する丘陵があり、かつての「鬼薗山城跡」というわけである。上地図。
現在は、丘陵すべてが奈良ホテルの敷地となっており、城塞時代の遺構は全く皆無となっていた。 明治時代末にホテルが建設されたこともあり、特に遺構調査もされずに工事が進められたことだろう。 なお、1991年に丘陵西側でマンション建設のため台地が掘削された際、堀切の遺構が発見されている。
なお、この奈良ホテル自体も「関西の迎賓館」とも異名をとる、日本の代表的な クラシック・ホテルとして知られる。 かつては 首相・佐藤栄作が愛用したとされ、他にも、英国の 数学者ラッセル(1921年7月)、物理学者アインシュタイン(1922年12月)、英皇太子エドワード 8世(1922年、後の英国王)、 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(1935年)、米福祉活動家ヘレン・ケラー(1937年と1948年)、ニクソン議員(1950年。後の米大統領) 女優オードリー・ヘプバーン(1983年)ら著名人らが宿泊した記録が残されている。
そのままホテル敷地から旧大乗院庭園へ入ることができた。国の名勝に指定される日本庭園で、 平安時代の史書に記録される歴史ある場所である。敷地内に「名勝大乗院庭園 文化館」があったので、 復元ジオラマなどを見学しておいた。
続いて、この東隣の丘にある「瑜伽(ゆうが)神社 = 西方院山城跡」を訪問してみる。境内の東側に柵の開口部があり、裏にある丘陵へ登れる(現在は施錠中か)。 構造的には、瑜伽神社とその 裏(徒歩 2分程度)にある広い削平地が主郭と二の丸エリアとなっており、この主郭西側にも出丸があったようで、 堀切と土塁、池方向に落ちる 横堀(空堀)の遺構が見られる。
もともと、このエリア一帯は、摂関家・藤原氏の氏寺である興福寺の敷地であり、 その 筆頭・門跡寺院(塔頭)として独立した「大乗院」が社殿を構える境内に立地した小丘であった。
奈良~平安時代を通じ、皇室に近侍した 名門貴族・藤原氏は、一門の子弟らを門跡へ送り込み、 代々にわたり興福寺の別当に就かせることで、間接的に
奈良・平城京
、さらに大和国全体を支配する仕組みを作り上げていたのだった。 当時から興福寺は奈良盆地内に多くの荘園を保有し、その管理を在地土豪らに委託し間接統治していたわけだが、 こうした藤原氏勢力圏での王都運営と、藤原家内の内紛騒動などを嫌気した桓武天皇により、784年に
長岡京
が、 794年に
平安京
が造営され、 遷都されていったわけである。
以降、平安時代を通じ、大和国の行政官として朝廷より国司が派遣されるも、その国府は
奈良盆地南部(藤原京跡地)
に開設され、 盆地北部に鎮座する南都仏教勢力には手出しできない状態が続くのだった。むしろ興福寺別当職を通じて藤原家が大和国を支配する仕組みにならい、 皇族や身分の高い貴族らも一門衆から子弟を興福寺や有力寺院などへ送り込み、全国各地にある傘下寺院の幹部僧侶のポストを斡旋してもらうなどして、 自家の勢力基盤構築と朝廷上層部とのつながりを強化しようと図るようになっていく。
そんな中の 1087年に創設されたのが大乗院で(藤原政兼の 子・隆禅【1038~1100年】が初代院主となる)、 4代目院主・信円(1153~1224年。摂政&関白・藤原忠通の子)の頃に興福寺傘下の門跡寺院に組み入れられ、 同じく塔頭であった一乗院と共に、 院主を摂関家や将軍家の子弟から迎えることで大いに繁栄することとなる(その一門衆から多くの寄進が期待できたため)。上家系図、
しかし平安時代末期には全国的に国司制度が機能しなくなり、大和国でも武士による騒乱が巻き起こって、 1180年、平家による南都攻撃を受けて大仏殿や各派本山寺院が全焼してしまい、いったんは荒廃するも、 間もなく
鎌倉幕府
や朝廷の援助により再建されていく。
鎌倉時代に入ると、こうした武士の台頭もあり、貴族ではなく武士が幕府から守護に任命されて、 朝廷の全国支配を代行するようになるわけだが、そんな中にあっても、大和国は、 最大の南都仏教勢力の中核だった興福寺の統治システムが追認され、守護や地頭が派遣されることはなかった。
このため、大和国の多くの土豪らは、全国各地の武士らが鎌倉幕府や守護に対してそうしたように、 興福寺に忠誠を尽くすことによって、自分の役職と領地を安堵されたわけである。彼らは興福寺配下の 僧侶、僧兵であり、 その御家人でもあったわけである(「衆徒」と称された)。
鎌倉時代も終わり、室町時代も中期に至る頃、興福寺の支配力も弱体化し、 その配下の衆徒らが勝手に領主化して戦国武将へと変貌していく。 そうした中で、「衆徒」間のいざこざは興福寺の裁定ではなく、衆徒どうしの武力衝突により解決されることが優先されるようになっていく。
室町時代中期の 1430~40年代、筒井順覚の 長男・筒井順弘(?~1443年。西大寺に入門していたが、家督継承のため還俗した)と、 三男の 成身院光宣(1390~1470年。15歳より興福寺子院の成身院へ仏門に入っていた)が、 摂津国淀川・河上五ヶ関の代官職を巡り対立するようになる。光宣は最初、二人の兄が仏門に入っていたため自らの継承権を主張していたが、 三男ということもあり、次兄の 筒井順永(1419~1476年)を相国寺から還俗させ、自らの傀儡として代官職を就かせることに合意する。 筒井順永はさらに筒井家の当主継承権も主張し出し、ついに 長男・順弘と武力衝突することとなる。
この直接の係争となった代官職であるが、父の 筒井順覚(?~1422年)が 将軍・足利義教から与えられたもので、 その継承権をめぐっての兄弟間争いというわけであった。
こうした事態に対し、1444年1月、 経覚派に組した 在地土豪・古市胤仙(同じく興福寺傘下の衆徒)が境内の鬼薗山への築城を計画するも、大乗院内から反発を受けたため、 東隣の西方院山の方で城塞の造営工事に取り掛かる。その工事途上でますます武力衝突の危険性が高まったことから、 3ヶ月後に鬼薗山にも城塞築造の許可が出たため、整備中の「西方院山城」は未完成のままキープされ、 メインの「鬼薗山城」築城が急ピッチで進められることとなった。
翌 1445年9月、大乗院主・経覚と組んた筒井順弘が籠る「鬼薗山城」は、 成身院光宣、筒井順永兄弟 らによって攻められると、最終的に城に自ら火を放って放棄されてしまうのだった。 戦後、その境内を占拠した 成身院・光宣によって城塞が再建され、光宣自らが城主として駐屯することとなる。 結果、そのまま順永が
筒井城主
を継承し、大和国の官符衆徒となる。そして約束通り、光宣が摂津国の代官職を継承したのだった。敗走した順弘は
南大和の 雄・越智家栄を頼って落ち延び
、後にその支援で筒井城奪還を果たすも、家臣に背かれ殺害されることとなる。
間もなくの 1451年、土一揆(徳政一揆)が発生し、その戦火により大乗院の建物や庭園は大いに焼失するも、「鬼薗山城」は焼失を免れる。
1453年、今度は古市胤仙と
越智氏
の連合軍が「鬼薗山城」を攻めると、光宣の 弟・筒井尊覚(順永の兄)が戦死に追い込まれるも、落城は免れる。 しかし、最終的に 1455年8月に攻め落とされると、古市方の中坊懐尊が城代に配置される。以降、筒井氏の力は弱体化し、 大乗院での戦闘リスクも低下したことから、1458年9月に廃城が決まり、20日ほどかけて破城工事が進められたのだった。 この時、堀は悉く埋められ、その崩れた土砂が麓の大乗院境内の池に流れ込んだため、これを浚う作業も行われたとの記録が残されている。
この筒井氏の弱体化にあわせて、大乗院は 19代目院主・経覚、20代目院主・尋尊(1430~1508年)の二代にわたり、 奈良平野一帯の座を次々と支配下に収めることに成功し、勢力を急拡大させる。 特に尋尊は、日本で最も有名な 作庭家・善阿弥(1386?~1482?年)に庭園再建を依頼し完成させると(応仁の乱の期間中、 善阿弥は
京都
から奈良へ避難していた)、日本の名園のひとつに数えられるほどの庭園と称され、 室町幕府将軍・足利義政(1436~1490年)が鑑賞のため足を運んだほどであったという。
この応仁の乱を機に、再び筒井氏が力を盛り返してくると、1479年、
越智氏
&古市氏の連合軍は、筒井方への備えとして、 工事途中に放棄されていた「西方院山城」の大改修に取り掛かる。1444年の築城工事で既に二重の堀の一部まで掘削されていたようで、 この時、さらに強化されたとの記録が残されている。しかし完成後、わずか 3日後に筒井方の大軍に攻められると、 持ちこたえられずに自ら火を放って落城することとなった。
戦国期に入ると、各地の在地土豪らが力を持ったことから、大乗院の権威は大いに揺らぎ、荘園経営も不安定化してしまうも、 最終的に興福寺に替わって奈良支配を織田信長から公認された
戦国大名・筒井順慶
が、もともとは大乗院の衆徒出身ということもあり、 衆徒代表(法印僧都)として興福寺や大乗院などを保護し続けたのだった。
こうした奈良時代からの慣行を断絶させたのが、豊臣秀吉であった。
1584年9月に筒井順慶が小牧長久手の出陣先で病死すると(享年 36歳)
、 養子に入っていた筒井定次が家督を継承するも、翌 1585年8月、伊賀上野 20万石へ転封させられることとなり、 代わりに秀吉の 実弟・豊臣秀長が入封する。以降、仏教勢力が保持してきた 既得権益「座」や荘園の解体、検地の強行、 そして刀狩りによる武装解除が一気呵成に進められていく。
最終的に江戸時代に入ると、大乗院の寺領はわずか 950石のみが保証されるだけとなっていたという。
さらに幕末を経て明治維新を迎えると、廃仏毀釈の社会ムードが盛り上がり、大乗院を含む多くの寺院が閉鎖に追い込まれる。 その結果、庭園や境内の手入れもままなくなり、荒れ放題となっていく。その後 40年ほど放置されていたが、 奈良県の敷地となって再建が進められることとなり、 明治 42(1909)年に「迎賓館」級ホテルとして奈良ホテルが開業される。この時、庭園跡地はゴルフ場などに改修されるも、 戦後に至り、ゴルフ場から日本式庭園への復元が進められた結果、現在、「旧大乗院庭園」として国の名勝に指定されているわけである。
さらに南進し、「古市城跡(下地図)」、「窪之庄城跡」、「今市城跡」、「永井城跡」、「東九条城跡」、「辰市城跡」、 「
井戸城跡
」、「
別所城跡
」、「
豊田城跡
」などを巡っていく。
中世の大和国は大名家ではなく、興福寺自体が守護の役割を担っており、 その門徒宗が各地の集落や荘園を束ねて興福寺に服属する支配体制が数百年間、継続された(下地図)。 こうした体制を反映し、これらの地元リーダーらの城館が各地に点在するようになり、境界線や水利用などを巡って、度々、 地元どうしの対立や武力衝突が発生するようになっていくのだった。
まずは古市町に入ると、そのまま地元の奈良市立東市小学校を目指す。下地図。
この小学校敷地全体が、かつての「古市城」の本丸跡とされており(下地図)、 校庭グラウンドの 南西端(グラウンド南端)にフェンスで囲まれる形で城跡の石碑が設置されていた。 明らかに周囲より高台に立地しており、地形的にも納得できる構造であった。
往時には、二重の水堀が取り囲む広大な城域を有したようで、北側に広がる県営高円団地一帯が二の丸跡地と推定されており、 その北にある「春日苑第 1号街区公園」や「春日苑第 2号街区公園」脇の池が、当時の外堀だったと考えられている(下地図)。 当時、城下町はこの西側一帯に展開され、その外周にそれらをも内包する巨大な外堀が構築されていたのだった。 大和国の国人レベルでは群を抜いた規模を誇ったという。
内堀跡は、小学校の南側にある八反池と、それに連なる窪地辺りと考えられている(古市桜谷遺跡)。 その南隣の丘陵上に「古市高山城」と称される出城も構築されていた(下段地図)。現在は竹藪が生い茂り、 冬季のみ堀切と曲輪跡がかろうじて視認できる状態という。
「古市」の地は、かつて「福島市」と呼ばれた興福寺管理下の街道市場が開かれていた場所であった。 鎌倉時代末期の 1303年ごろ、この「福島市」が現在の奈良市紀寺町付近へ移転されたため、 以後、その跡地は「古市」と称されるようになったという。
鎌倉期の「福島市」時代より、当地の下司職を務めていた 興福寺大乗院方衆徒(坊人)の在地土豪が、同時代末期、 地名を冠して「古市氏」を名乗るようになったと考えられ、鎌倉時代末期の 1325年の史書に「古市但馬公」の名が記録されている。
南北朝時代末期の 1380年代には、当主・古市胤賢が筒井順覚らと並んで衆中沙汰衆の一角を担うまでに台頭し、 興福寺衆徒の筆頭格の地位にあったことが分かっている。 この頃の城館は、下記の通り、まだまだ小規模なもので、他の在地土豪らと大差ないレベルであった。
1443年、興福寺大乗院門跡・経覚と、成身院光宣&筒井順永兄弟が対立すると(父の任地だった 摂津国河上五ヶ関の代官職継承争い)、 古市胤賢の 孫・胤仙(?~1453年)は経覚に与して参戦する。この戦役の中で、初めて古市城の存在が言及されることとなる(1444年の記録)。 1445年には、経覚方は奈良盆地内の拠点だった「鬼薗山城」を攻め落とされ、古市胤仙は「本拠地・古市城」に戻って、引き続き、 光宣との戦闘を継続したという。長引く戦争に疲弊する家臣団や豪族衆らをつなぎとめるべく、 1447年に胤仙は経覚を強引に「古市城」へ招き入れて、半監禁状態に置くこととなる。最終的に 1453年に胤仙が死去すると、 翌 1454年、経覚と 筒井光宣・順永兄弟は和睦し戦争は終結するのだった。
胤仙の死後、その 長男・古市胤栄(1439~1505年)が家督を継承すると、一門衆・山村胤慶の補佐を受けつつ、 古市家の再建に注力することとなる。
越智家栄
と協力関係を構築し、応仁の乱では 筒井順永、箸尾為国、
十市遠清
らと戦っている。 1466年には 一族・家臣団の統制を強化すべく、古参家老の山村胤慶を始め多くの一門衆を 追放、粛清してしまうも、 その強引な家中統制に批判が強まったことから、胤栄は自ら隠居し 実弟・澄胤(1452~1508年)を還俗させて家督を継承させることとした。
この時、筒井氏や箸尾氏らの一時的な衰退も重なり、古市氏は最盛期を迎える。越智氏との関係強化も図られ、 澄胤は正室に
越智家栄
の娘を迎え、姻戚関係を結ぶこととなった。 引退していた 実兄・胤栄も未だ健在で、「古市西様」と呼ばれながら、双頭体制を敷いていたと考えられる。
この全盛期、妻の実家であった
越智家
からの人夫提供もあり、「古市城」は大規模に改修され、 上地図に見られるような大城郭が完成されることとなったわけである。 この総構えの中には、風呂や茶の湯の設備も併設され、
応仁の乱で荒廃した京都
から公家や文化人を招いては度々、宴や催しを 開催し、「古市城」はあたかも戦国時代前夜の一大サロンと化したのだった。
1493年には山城国守護の伊勢貞陸により、山城国南部の 相楽・綴喜両郡の守護代にも任じられ、 さらにその後は細川政元配下の 武将・赤沢朝経の大和侵攻に協力し、寺社勢力を封殺して大和平定戦を成功に導いている。 以降、大和半国を支配する奈良検断職を任せられ、 古市氏一門の最盛期を現出させたのだった(赤沢朝経は大和国以外にも、畿内各地へ出兵していたため、 古市澄胤はその守護代的な立場を任された)。 この際、家系図も大いに改編し、舎人親王の 孫・清原夏野の末裔を称し出したとされる。
しかし、1497年に筒井氏が勢力を盛り返してくると、 大和国外の勢力との結びつきにより権勢を振るった古市氏の政治姿勢に反感を抱いていた大和国人衆らも組して、 古市澄胤の依る「古市城」に大軍勢で攻め寄せると、澄胤は城に火を放ち、東の山岳地帯への逃走を余儀なくされるのだった。 さらに 1507年の永正の錯乱で、細川政元と赤沢朝経が家臣団の裏切りに遭い戦死すると(従軍していた澄胤の 子・古市胤盛も戦死)、 古市澄胤は改めて政元の 養子・澄元が派遣した朝経の 子・長経を守護に迎え入れ、大和国での支配権の再確立を図ろうとするも、 翌 1508年に河内の畠山尚順と戦って大敗を喫することとなり、 澄胤自身も逃走の途上で自害に追い込まれてしまうのだった(赤沢長経は生け捕りにされ、
京都
で処刑)。
その後、澄胤の子だった古市公胤が、引き続き、古市氏再興を企図して筒井氏との戦いを継続し、 2度ほど「古市城」奪還を成功させるも、やがて抗しきれなくなり、 最終的に 1543年に筒井順慶の 祖父・筒井順興に攻められた際、 「古市城」を自ら焼き払って大平尾へ撤退することとなる。 以降も山岳地帯からゲリラ戦を展開するも、ついに古市氏が古市郷に復帰することはなかった。
その後、古市氏の勢力はますます衰え、古市公胤が鉢伏城を本拠として勢力回復を目指すも叶わず、
大和国に侵攻してきた松永久秀に組して
、筒井方との抗戦を続行する中で、 最後は久秀と共に滅亡に追い込まれるのだった。
続いて、古市町の西隣にある横市町を通り越して、永井の集落地へ向かう。 ここは北永井町と南永井町に分かれており(下地図)、ちょうどその中間に広がる水田地帯のど真ん中に、 「永井城跡」があった(小字として「城ノ前」の地名が残る)、 現在でも、城の北限辺りに東西に連なる長い土塁跡が残存し、 また西面から北面にかけて水田が一段下がっている地形が、往時の堀跡と考えられている。
室町時代に在地土豪だった長井氏の居館跡とされ、最初は古市氏に組して筒井氏と争うも、 後に筒井党に鞍替えしたとされる。
さらに南進し、今市町の中心部にあったという「今市城跡」を訪問する。上地図。
奈良県警察学校と集落南側にある蒲池との間が、かつての城域とされる。 四方を水堀で取り囲んだ巨大な環濠集落だったようで、南側の蒲池はその堀跡であり、 また県道 51号線の一本北側を走る「今市緑地」という遊歩道が、かつての北面の水堀跡という。 その歩道上に城跡に関する案内板が設置されていた。また集落西側にも小さな池が残されており、 西面の水堀跡という。下地図。
そして集落の中央を走る県道 51号線は、昔からの 街道筋(五ヶ谷街道)にあたり(下地図)、 これを挟んで民家が立ち並んでいた構図は、今も昔も変わらないようである。
また、現在でも蒲池から北側に向かって 2本の切り込みが残されているが(下地図)、 これは城内を分断した水堀のうちの、西側 2本の堀の痕跡という。 当時の城内は 3~4本の水堀で分断され、複数の曲輪が連立する平城スタイルであった。
総面積としては、東西約 250 m、南北約 80 mという長方形型で(下地図)、 往時には
筒井城
と並ぶ大和最大級の規模を誇ったという。
また北側へ台形型に突き出たエリアは外郭であった可能性もあり、 最盛期には、さらに広大な城域を有したと考えられる(上地図)。
「今市」の地名は、平安時代初期の 858年、この地に帯解寺が建立されると、 参詣者を始め多くの人々が往来し「市」を立てたことが由来、とされている。 周囲には、他に「辰市(たつのいち)」「古市」などの地元市場が開設されており、 街道沿いの交易集落の一つとして栄えた町だったわけである。
この市と、周辺にあった興福寺一乗院の 荘園・郡殿庄(池田庄、南淵庄と共に、「三ケ庄」を成した)を管理する在地土豪として、 大乗院方衆徒の今市氏が任命され、集落地内に居館を構えて総環濠化したと考えられる。
今市の地は、奈良盆地を南北に貫く「上街道」と、中街道、下街道 と接続して東山中の五ヶ谷から福住を経由し、 笠間峠を越えて伊賀名張に至る「五ヶ谷街道」との結節点となっており、奈良盆地北部の交通の要衝だったことから、 中世に巻き起こる戦乱期には、多くの勢力が
南都・奈良の寺社勢力
へにらみを利かせる最前線拠点として活用していくことになる。
特に、
奈良盆地南部を支配した越智氏
や大和支配を目論んだ 松永久秀、 筒井氏らが死闘を繰り広げた場所として知られる。
応仁の乱直後の 1477年、畠山義就軍の主力として 筒井氏、箸尾氏、十市氏らを大和から駆逐し、
大和国に覇を唱えた越智家栄は
、その勢力を奈良盆地北部まで伸長させると、 追放した筒井方から奪った盆地北部、および
南都・奈良
を支配する拠点として、この今市城に着目する。
翌 1478年、家栄はこの今市氏の居館を大規模改修し、新城を設けて大要塞化すると、 家臣・堤栄重を城代として駐屯させ、伊賀衆 100人の傭兵集団を入城させる。 この時に要塞化された箇所が、北の 出城部分(台形型)であったと考えられる。
以降、越智氏の盆地北部における支配拠点として機能し、 1481年7月に筒井方の残党が攻撃をしかけてくると、城代・堤栄重は古市氏と連携し、 今市城から打って出て筒井勢の撃退に成功している。
しかし、1490年代より井戸城から反転攻勢をしかける筒井順賢により、 1504年に古市氏の 居城「古市城」が攻め落とされ、続いて「今市城」も攻撃を受けることとなり、 同年 9月、城主・堤氏率いる城兵数百が討ち死にして落城してしまうのだった。 以後は筒井氏の支配下に組み込まれ、東山中と奈良盆地内の各所を結ぶ戦略上の要地として活用される。 この時、今市氏が城主として復帰を果たしている。
1520年6月には、両細川の 乱(細川高国と 細川澄元・晴元父子の細川京兆家家督争い)に連動し、 筒井順興と古市公胤とが大和国内で対立すると、筒井氏家臣の中坊美作が今市城代に入り、 すぐ北隣の
南都・奈良
に籠る古市方と対峙した記録が残されている。
1529年4月の柳本賢治による大和侵攻では、筒井順興を撃破した柳本軍により今市城が占拠され、 その陣所として転用されるも、翌 1530年に柳本賢治が戦死すると、再び筒井方の城となる。
そして戦国時代、大和に侵攻してきた松永久秀が筒井氏を駆逐すると、
筒井順慶
らは東山中の椿尾上城を拠点にゲリラ戦術で抗戦を続け、 交通の要衝だった今市城をターゲットに定めるようになる。 こうして今市城を巡って度々、小競り合いが勃発したことから、 1565年3月、松永久通(久秀の嫡男)が今市城の破却を進めることとなったわけである。
その後も今市城跡は度々、戦闘の最前線に立たされたようで、 1572年11月に
多聞山城
から打って出た松永軍により今市集落が焼き討ちを受けると、 応援にかけつけた筒井軍が撃退に成功したとの記録が残されている。
しかし、事あるごとに戦火の最前線に立たされてきた今市城の記録も、 以降は一切無くなり、戦火で荒廃したまま忘れ去られていったと考えられる。
続いて北西方向へ向かい、筒井順慶と松永久秀が激突した「辰市城の 合戦(1571年8月4日)」があったという、 「辰市城跡」を訪問してみた(上地図)。その住所から「東九条城跡」とも別称される場所である。
城跡に関する案内板も石碑も全くなく、現在は住宅地と水田だけが広がるエリアとなっている。 その一角に「南部公民館東九条分館(もとは辰市幼稚園)」があり、ここがその主たる跡地というが、 城郭遺構などは全く残っていない。
この「辰市(たつのいち)」の地名であるが、 奈良時代に
平城京
の東市が開設されていた場所で(平城京の辰の 方位【南東】にあたる市)、 平安時代でも市が立って賑わっていたことが『枕草子』の文中でも触れられており、 古くから 商業、交通の要衝として栄えた地域だったようである。
当然、ここを支配する在地土豪が居館を構えていたと考えられるも、その情報は一切、 不明となっている。何らかの形で環濠集落化されていた「辰市城」をさらに補強し陣城化したのが、 「辰市城の 合戦(1571年8月4日)」当時ということなのだろう。
この戦いは、大和最大の戦闘と称される。
「筒井城の戦い」で松永久秀に敗れ、居城を奪われた筒井順慶は
、 叔父の福住順弘を頼って亡命を余儀なくされていたが、1570年に窪之庄城の奪回に成功すると反転攻勢に出る。
翌 1571年、順慶は筒井城の奪還を企図し、その前線基地として家臣の
井戸良弘
を派遣し、 辰市城の陣城化を進める。
同年 8月4日、松永久秀が
信貴山城
から大軍を率いて辰市城へ攻め寄せ、 長男・久通も
多聞山城
から来援し、三好義継の援軍も加えて、 辰市城へ攻めかかる。塀を引き倒し堀を埋めるなど、当初は松永勢が優位に戦いを進めていたが、 順慶傘下の援軍が各地から続々と集結してくると、 最終的に筒井勢が押し返し大激戦を制することとなった。松永軍は 500もの首を討ち取られ、 多聞山城へ這う這うの体で逃げ帰ったとされる。
その勢いのまま、
筒井順慶は筒井城の奪還に成功する
。
以降、順慶は織田信長の後ろ盾もあり、大和国における覇権を確立するわけだが、その後、「辰市城」に関する記録は史書から一切、 姿を消すこととなる。1580年の信長による破城令を受け、他の大和国内の城塞群と同様、「辰市城」も解体されたと考えられる。
再び、「今市城跡」へ戻る形で南東方向へ進み、JR桜井線「帯解駅」を通過して、高畑山線を東進していくと、 国道 169号線を横断後、間もなく バス停「山村町」前に到着する(下地図)。
ここから進路を南へ変え、山村町の集落内へと入っていくと、 すぐの場所にある「地蔵堂と石仏群」の東隣が「山村館跡」ということだった(下地図)。 城跡の解説板や石碑が全くないので、事前準備必須の史跡と言える。
城館時代の遺構としては、かつて東西南の三面に堀跡が残っていたというが、 今は西面の堀跡とされる小さな溜池のみがあるくらいだった。その東面あたりがやや高台となっており、 本丸を守る土塁跡かと推察される。 現在、すべての敷地が民家や荒れ地となっており、私有地につき立入りは不可能だった。
この「山村館」は室町時代に当地を支配した山村氏の城館で、方形に設計されていた。 すぐ南に立地する 窪之庄城主・窪城氏と同様、古市氏の庶流を構成する一門衆で、大乗院方衆徒の一人であり、 大宅庄下司、山村郷惣下司を務めていたという。
筒井家の内紛に軍事介入して台頭し、1443年には 幕府管領・畠山持国から、豊田頼英、 小泉重弘らと共に大和国の分割支配権を公認されるまでに勢力を伸長させるも、 その強引な外交と度重なる戦争により一門衆の離反を招いた古市胤仙が 1453年に病没すると、 家督は 長男・胤栄(1439~1505年)に引き継がれる。しかし、まだ 14歳と若年だったことから、 一門衆の 山村城主・山村胤慶が官符衆徒の 代理(代官)を務めて、古市家を盛り立てていくこととなる。
しかし、成長した古市胤栄は 1466年、補佐役だった山村胤慶らを追放し、独裁色を強めていく(半年後、山村胤慶は赦免される)。 1470年までの間、多くの一門衆や家臣らを次々と 粛清、追放し続ける中で、最終的に山村氏も排除されることとなり、 以降、歴史の表舞台からその記録が一切、消失されている。
その後、
越智氏
と姻戚関係を結ぶなど外交にも力を入れ、一時は大和国に覇を唱えた古市家であったが、 1497年には筒井軍によって 本拠地・古市城を追われると、一門衆らも旧領を失って没落していくのだった。
続いて、すぐ南隣にある「窪之庄城跡」を訪問してみる。
現在、八坂神社(牛頭天王社)の境内となっている竹木林一帯がその跡地で(上地図)、 東から緩やかに西へ伸びた丘陵の南端部にあり、南の平地エリアよりやや高台となっている。 この高台にわざわざ空堀を掘削し、城館を造営していたのだった。
神社の鳥居をくぐり、左手の神社本殿の背後から東側に連なる高い土塁跡に登ると、早速、深い空堀跡が出現する。 周囲は竹林が生い茂り、薄暗い雰囲気なのだが、そのまま空堀沿いを進んでいくと、西郭側へ行き着く。
「窪之庄城」は、空堀に囲まれた方形の東郭と西郭が横に並立する形で設計されており、 この神社がある一帯は東郭に相当し、北面から東面にかけて土塁と空堀がしっかり残存していた。 対して、西郭側は玄丸大神という石製の祠が祀られているものの、 ほとんどの部分が地元住民の私有地や未踏の竹藪となっており、 北面空堀の途中までしか見学できなかった。 両郭ともに、南半分は道路や民家へ開発されてしまい、痕跡は残っていない。下地図。
なお、面積自体は西郭の方が大きくなっており、これは西郭に居住した 城主・窪城氏(西家、西殿)の勢力が、 主家だった東郭の 城主・窪城氏(東殿)よりも強大化した結果、と考えられている。
そして、この城館内(東西約 45 m × 南北約 50~60 m)に、それぞれの窪城氏一門衆が別々に分かれて生活しており、 その南側に広がる城下町地区は「内者(被官)屋敷」、「百姓屋敷」、「出屋敷」などが連なり、 その集落全体を環濠化するという、総構え式の城塞集落だったようである(東西約 350 m × 南北約 150 m)。上地図。
城主・窪城氏は、鎌倉時代後期に東大寺の 荘園・窪庄の預所を務めた堯円坊頼舜を祖とする在地土豪で(1289年に記録あり)、 東大寺に保存されている預所請文により、堯円坊実順、憲順、順英、順弘 までの系譜が判明している。順弘の 子・順専以後は、 東大寺僧としてではなく、興福寺大乗院の衆徒および国人として活動したようで、それに伴い荘園所職も改めて「預所」から「下司」へダウングレードされ(下図表)、 姓も窪城氏へと変更したという(15世紀)。
窪城順専は、成身院光宣・筒井順永兄弟の姉妹を妻とし、また娘を古市胤栄に嫁がせるなど、 大和国の 有力国人衆(他に十市氏らとも)と姻戚関係を結び、大和国の騒乱時代を乗り切ろうと図るも、 結局、窪城本家が古市方へ、西家が筒井方へと傾斜することとなり、一門衆は分裂していく。
応仁の乱以前から対立を続けていた筒井氏と古市氏であったが、乱中には外部勢力の介入もあり本格的な武力衝突へ発展すると、 ついに窪城本家と西家も両陣営に分かれて激突することとなる。
1479年までは古市方の優勢が続いたことから、窪城本家が勢力を増すも、その後、一進一退の攻防戦が続く中、 1506年に古市氏に従って窪城本家が東隣の高樋本城を攻めた際、後詰めに来援した筒井氏に窪庄本城を焼き討ちされてしまう。 さらに 1508年に古市澄胤が敗死すると、以降は筒井氏が圧倒的に優勢となる。
こうした情勢を反映して窪城本家は没落し、代わりに、筒井氏に与していた窪城西家が台頭して、 現存するような窪之庄城の縄張りへと改編される形で復興されたと考えられる。 当初の頃は 東郭、西郭は同程度の面積であったと考えられるが、以降、土塁や堀の規模でも二倍近い差が設けられたようである。
その後も、窪城西家は筒井党の一派として大和国各地を転戦し、松永久秀とも戦っている。
1568年、上洛した織田信長の傘下に入ることで、一気に形成を有利に運んだ松永久秀は、織田軍の支援を受けて筒井方の諸城を次々と制圧し、 ついに筒井順慶は
本拠地・筒井城
を捨て叔父の福住順弘を頼って、東の五ケ谷から 椿尾城、福住方面へ落ち延びることとなる。 このとき、奈良盆地全域が松永軍によって制圧されてしまい、同年 10月10日には、この窪之庄城も落城している。
以降、順慶らは福住に雌伏しつつ、ゲリラ的に各地へ出撃しては打撃を加える戦い方を重ねていくわけだが、 窪城西家も行動を共にし、五ヶ谷の出口付近に立地した窪之庄城の周辺で度々、軍事行動を起こしていたと考えられる。
そして 1570年、ついに窪之庄城の奪回に成功し、奈良盆地進出への足場を確保すると、 筒井党のゲリラ戦線はますます拡大されることとなる。翌 1571年5月、このゲリラの前線拠点となっていた窪之庄城奪還のため松永軍が襲来するも、 筒井党は一丸となって撃退に成功する。
そして、同年 8月4日の辰市城の戦いで松永秀に大勝した
筒井順慶
は、信長に臣従して大和国での地位を確立することとなっていくわけである。 その後の窪之庄城については明らかになっていない。
見学終了後は、西側に走る国道 169号線をまっすぐ北上し、
奈良駅前
へ直帰することにした。
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