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訪問日:20--年--月上旬
和歌山県 和歌山市 ④ / 海南市 ~ 市内人口 4.8万人、一人当たり GDP 411万円(和歌山県 全体)
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日方城跡
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池崎山城(一城山、洞が城)跡・・・日方城の出城群の一つ
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黒江の町並み、熊野古道
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紀三井寺、宝物殿「霊宝堂」
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和歌山県立医科大学(塩田跡、旧・紀ノ川河口)
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妹背山、石橋「三断橋」、海禅院 多宝塔、観海閣
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不老橋(幕末期に建設されたアーチ状の石橋)
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玉津島神社、あしべ通り、御手洗川、御手洗池公園
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紀州東照宮、和歌浦天満宮
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雑賀城跡(妙見山城)、津屋公園
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弥勒寺山城跡(歴史と風土の丘)、顕如上人桌錫所の碑、秋葉山古戦場跡、矢宮神社
関西空港にて深夜便で出国するにあたり、一日前に和歌山市内に入り、 荷物を預けて近隣を散策することにした。
JR和歌山駅前
からの
空港バス(1,400円)は、最終便が 18:20発で、関空着 19:00過ぎであった
。これ以降は、JR紀州路快速「天王寺行」に乗車し、途中の「日根野駅」で乗り換えて(乗車時間 31分)、関西空港線で 12分で到着できるので、以下の選択肢があり得る(900円)。
20:43発 → 21:37空港着
21:04発 → 21:49空港着
21:20発 → 22:21空港着(乗り換え本数が少なくなり、所要時間が 15分ほど伸びる)
21:50発 → 22:52空港着(乗り換え本数が少なくなり、所要時間が 15分ほど伸びる)
深夜に空港移動もあるので、比較的緩めな行程で観光ルートを設計してみた。 山城登山もあるので、冬季の訪問を前提とする。
もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。
和歌山県立博物館(和歌山県下の 文化財、歴史的文物を展示)・・・・和歌山城のすぐ南側、紀州徳川神社も近い
和歌山市立博物館(和歌山市の 歴史全般、資料、映像など)・・・・南海線& JR線「和歌山市駅」から南西へ徒歩 5分
紀の川市歴史民俗資料館(紀伊国分寺に特化した 展示、解説)・・・・ JR「下井阪駅」から徒歩 15分
九度山・真田ミュージアム(真田昌幸・幸村の蟄居地に関する資料館)・・・・南海高野線「九度山駅」から徒歩 10分
なお、本来なら海南市を訪問するので、地元海南市の郷土史などを学ぶべく「海南市歴史民俗資料館」も見学したかったが、 立地があまりに悪いため断念せざるを得なかった。
さてさて、晴天の日を見計らって、JR紀勢本線で南進し「海南駅」で下車する。
この駅前で自転車を借りて(3時間、500円)
、近隣を周遊することにした。下地図。
まずは北側にある「日方城跡」を目指してみる。「市民の森」の手前まで細い車道が整備されているので、 自転車を引いて上り、少し広めの 駐車スペース(標高 110 mあたり)で駐輪後に徒歩で進むと、見晴らしのよい広場に出ることができた。 この辺りが「市民の森」公園だった場所だろう。というのも、もはや訪問者も無いようで、寂れ果てていた。上地図。
ここから遊歩道を数百メートルほど登ると、城ヶ峰の 山頂(標高 175.2 m)に到着した。 頂上部に朽ちかけた案内板が設置されていたが、その手前までに虎口や 土塁、曲輪などの遺構が確認できた。
城域としては東西約 100 m、南北約 30 mの長方形で設計されており、自然地形を利用した正副 2段の曲輪で構成されていたようである。 3 km南側に立地する「大野城」「藤白城」の支城としての役割を期待されたものなので(下地図)、特に高度な防御施設が整備されていたわけでもなく、 規模もそれほど大きくなかった。山頂から、南向いにある本城の遠望を写真撮影しておいた(これらへのアクセスは自動車利用が必須なので、 今回は訪問を断念した)。室町時代当時、この山麓の平野部の半分は海だったという。下地図。
下山の際は、そのまま自転車でスイスイ下れた。
山陰から北陸、畿内にかけての 7か国守護を務めた 山名時氏(1303/1298?~1371年。下家系図)の 次男・山名義理(1337~?年。下家系図)は、 父より美作国守護を分与されると(1366年)、1370年6月より
京都
に滞在し、将軍に近侍するようになる。
南朝方が 河内・和泉国守護として 橋本正督(?~1380年。正高。楠木氏一門衆である橋本家当主)を任命し、紀伊国占拠を命じると、 北朝方の山名義理は 実弟・氏清(1344~1392年。下家系図)と共同出兵して橋本軍の撃退に成功した功績から、 北朝朝廷より紀伊国守護にも任じられ、美作国守護と兼任するようになる(1378年)。
1391年、山名氏の弱体化を図る 3代目将軍・足利義満の挑発により、山名氏清と 甥・満幸(?~1395年。下家系図)が反幕府で挙兵すると(明徳の乱)、 紀伊国に駐在中だった 実兄・義理をも巻き込む形で
京都
へ攻め込むも、氏清は敗死し、満幸は行方不明となる(後に京都潜伏中に捕らえられ処刑)。 義理は直接的な軍事行動を起こさなかったことから義満へ謝罪を申し入れるも許されず、 紀伊と美作の守護職を解任されることとなる。
これを不服とした山名義理が挙兵すると、すぐに義満より追討令が発せられ、美作国は瞬く間に
赤松義則(1358~1427年。赤松満祐の父で、播磨国・備前国の守護大名)
に接収され、 翌 1392年には 大内義弘(1356~1400年。周防・長門・石見・豊前・和泉 の守護大名)が北隣の和泉国より、700騎を率いて 府中(今の和歌山市)へ侵攻し、 さらに海路より兵船 500艘を黒江浦から上陸させることとなる(上地図)。
徹底抗戦を決意した義理は、本拠地・大野城の防備を固めるべく、周囲に支城群を構築していく。 この時に築城されたのが「日方城」であり、その左右に 城の平(二城山)、池崎山城(一城山、洞が城)、 扇子ケ城(今の 海南市井田にある地蔵寺山)などの砦群が配置されたのだった。上地図。
しかし、形勢不利と見た紀伊国の国人衆は離反してしまい、義理は一族 63人を引き連れ海路で 紀伊・由良湊(今の 和歌山県日高郡由良町)へ逃走し、 この地の興国寺で子の 氏親、時理ら 17人と共に剃髪して出家することとなる。その後の一族の動向は不明だが、 孫の 山名教清(生没年不詳。山名義清の子。下家系図)は後に嘉吉の乱で功績を挙げ、石見、美作国守護として大名に返り咲いている。
時は下って戦国期の 1577年8月、織田信長が紀州遠征を行った際に勃発した「井松原合戦」でも戦場となり、 日方城は落城に追い込まれた記録が残されている。さらに、1585年の秀吉による紀州征伐では、
同年 4月からの太田城水攻めに際し
、外周部に配置された一部隊の陣城として活用されたものと考えられる。
そのまま西進すると、紀州漆器(黒江漆)で有名な黒江地区に至る(上地図)。 熊野古道沿いに発展した 集落地「黒江の町並み」がそのままの姿で保存されていた。
特に、「紀州漆器伝統産業会館 うるわし館」へと続く約 230 m、 幅約 12 mの「川端通り」は、その名の通り、 かつて運河が通っており、昔の漆器職人達の住居兼職場や問屋などの古民家が立ち並ぶエリアで有名。
最終交差点に建つ「うるわし館」は、町の総合案内所&資料館となっている。上地図。
その他の見どころとしては、 登録有形文化財指定となっている 古民家「尾﨑家邸宅(江戸中期に建てられたもので、 紀州徳川家に仕えた地士の屋敷)や、浄国寺(「黒江のごぼうさん」として親しまれる由緒あるお寺。一時期、浄土真宗の紀州本部となっていた)、 「中言(なかごと)神社」などがある。上地図。
散策の途上、「城山トンネル」が通る「池崎山城(一城山、洞が城)」跡も訪問する。 先程、登頂した「日方城」の出城群の一つとして造営された砦跡である。上地図。
万葉集に掲載された歌に出てくる「黒牛潟(くろうしがた)」という入り江エリアが、 史書に記録された最初の登場となっている。その地名の由来は、 名水が湧くことで有名だった「中言神社」に、黒い牛のような岩があったという伝承に端を発している。
室町時代に近江系の木地師の集住によって始まり、 豊臣秀吉の紀州攻めにより黒江に落ち延びた根来寺の僧侶等によって「根来塗り」の 技術、 技法が伝えられたとされる。江戸時代には漆職人や多くの商人が行き交う、 賑やかな商人町へと成長し、紀州の主要産業の一つとして藩から庇護を受けることとなった。
現在の メインストリート「川端通り」は、その名の通り、当時は運河が掘削されていた。 作られた商品の出荷がスムーズに進められるように、 木地屋や 塗師、問屋、蔵などが軒を連ね、店前に荷車などが停めやすいように、 敷地から建物が少し斜めに建てられていたことから、「のこぎり歯の 町並み」が今に伝えられているという。
明治以降は近代化の波に乗り、レンガ造りの漆精製工場などが作られ、引き続き、海南市や和歌山県を代表する産業として君臨した。 昭和中期に 漆器団地地区(和歌山県海南市岡田)が整備されると、多くの職人や工場の移転が進むも、 引き続き、日本の四大漆器産地の一つとして圧倒的な存在感を明示し続けることとなった。
そして、かつての旧市街地は「紀州連子格子(れんじこうし)」や漆喰の 真壁、切り妻の低い家などが残され、 古風で素朴な落ち着いた風情が人気の観光スポットとなっている。
これに前後し、本来は地元歴史博物館も訪問したかったが、立地が相当に遠いので、 このまま海南市見学は終了することにした。駅前で自転車を返却し、JR紀勢本線で 2つ北隣の「紀三井寺駅」へ移動する。下地図。
「紀三井寺駅」で下車後、徒歩 10分の場所にある 古刹「紀三井寺(8:00~17:00)」を参拝してみる。 古くから多くの人が眺望を堪能したという「和歌の浦」の絶景を、体験してみることが主目的だった(上地図)。
楼門の後に現れる 231段の階段を使うと拝観料が無料となる一方、 ケーブルカー(200円)を使うと、 参拝料(400円)もセットで合計 600円が必要、ということだった。 多くの人が階段を選択していたので、これに倣うことにした。
本堂横の「霊宝堂」内には、10代目藩主・徳川治宝(1771~1853年)直筆の掛軸や、 一休和尚(1394~1481年。一休宗純)の額、西国三十三箇所の絵図など、 貴重な遺物が多数展示されてある。
紀三井寺は、唐から来日し全国行脚中だった 僧・為光上人が当地を訪れた際、 名草山に光明を見たことから一宇を設けたことが起源とされる(770年)。
以降、寺院の体裁が整えられる過程で、 名草山に三つの 霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)が発見されたことから「三井寺」と通称されるようになったという(もしくは、 地元の 旧地名「毛見(けみ)」が転じたものという説もあり)。
滋賀県の方にも「三井寺(天智天皇、天武天皇、持統天皇の三帝の誕生の際、 産湯に使用した霊泉がある「御井の寺」という意味に由来)」があったことから
、 「紀州の三井寺」として「紀三井寺」となったわけである。
平安時代末期、朝廷内の最高権力者だった 後白河法皇(1127~1192年)によって勅願所に定められると、ますます隆盛を極め、 鎌倉時代には僧侶 500人以上を擁したと伝えられている。その後も紀伊国内で勢力を保持するも、 1585年の豊臣秀吉による紀州征伐に際し、焼き討ちを免れるも寺領を没収され、一時衰退する。 しかし、地元信者らに支えられる形で、翌 1586年には 本願坊(当時は浄土真宗に属していた)が創建される。
1601年に
和歌山城主・浅野幸長(1576~1613年)
によって紀三井寺へ 13石(1石=約 30万円相当の現在価値)が寄進され、 さらに紀州藩 初代藩主・徳川頼宣(1602~1671年。徳川家康の十男)によって 8石と 燈明料(仏様に灯りをともす為のお金を供養する現金束)が寄進されるなど、徐々に寺勢を回復させていった。以降、紀州徳川家の歴代藩主が「和歌の浦」や「紀州東照宮」を参拝する度に足を運び、紀州徳川家の繁栄を祈願したことから、「紀州祈祷大道場」として尊崇され、多くの一般参拝者らも集うこととなった。 その名声は今も轟き、西国三十三ヶ所観音霊場の第 2番札所として、巡礼姿のお遍路さんが絶えない。
また、紀三井寺は早咲きの桜としても有名で、境内本堂前には気象台標本木があり、 その開花が春の訪れを教えてくれることから、「近畿地方に春を呼ぶ寺」とも称されている。
下山後、まっすぐに西へ進むと(県道 154号線)、国道 42号線に合流するので、 その道なりにさらに西進する。間もなく和歌川沿いに「和歌山県立医科大学」の大学病院があった。 江戸時代、この和歌山川沿いには広大な塩田が広がっていたという。
渡河後、すぐに南へ 一区画分進むと、海岸線に出た。 この海岸線上に「妹背山(いもせやま)」の小島があった。
この妹背山にかかる橋は、和歌山県内最古の石橋という「三断橋」で、 400年前から存在するという(下絵図)。
中国・杭州にある西湖堤を模したデザインで
、 紀州藩 初代藩主・徳川頼宣(1602~1671年)の命により建設されたものが最初という。 以降、数度の建て替えが実施されて今日に至るわけである。
小島に渡ると、その中腹部に「海禅院 多宝塔」があった。 高さ 13 mの本瓦茸棒造りの木造の塔で、同様に 初代藩主・徳川頼宣が 母・養珠院(1580~1653年)の死後、 その弔いのために改建した塔と伝えられている(1653年)。下絵図。
また海沿いには「観海閣」があり、同じく徳川頼宣によって建設されたものという(下絵図)。 現在はコンクリート製だが、建造当時は木造の水上楼閣であった(1648~1652年)。 その後、数度の建て替えを経て、1961年に台風で流されてしまったため、頑丈なコンクリート製で再建されたという。
和歌山県立図書館ホームページより
再び陸地側へ戻り、少し海沿いを進むと「不老橋」があった(上絵図)。 和歌山市の重要文化財で、幕末期に建設されたアーチ状の石橋として有名だ。
紀州藩 10代目藩主・徳川治宝(1771~1853年。自身も文芸教養に秀で、藩内に複数の学校を設立する等、文知政治を進めた)の命により、 1850年に着工し、翌 1851年に完成したものという。なお、完成時点では、すでに藩主は 13代目・徳川慶福(まだ 5歳で
江戸在京
だったため、 藩政治は隠居していた治宝が担っていた)となっていた。この慶福が、1858年に徳川家茂として 14代目将軍に就任する人物である。
さて、この橋の利用目的であるが、東照宮の祭礼である和歌祭に際し(下絵図)、徳川家や東照宮関係者らが「鏡山」から、 海岸に突き出る片男波松原にあった「東照宮御旅所」に向かう「お成り道」として使用されたという(それまでは船で川を渡っていた)。 江戸時代架橋のアーチ型石橋は、九州地方以外では非常に珍しかったことから、アーチ部分の施工に際し、 肥後(熊本)の石工集団が呼び寄せられたとされる。
和歌山県立図書館ホームページより
続いて「玉津島神社」を参拝する。
室町時代まで、今の和歌山川が紀ノ川の本流であり、その河口部は巨大であった。 その河口部に浮かぶ小島群の眺めは美しく、 古代より多くの皇族や歌人らが歌に詠んできたという。 そして、その多くの小島群それぞれに簡単な神社の社殿が設けられており、 この「玉津島神社」もそのうちの一つだったという。
古くは紀ノ川中流に進駐した 神功皇后(三韓遠征の帰路)や 聖武天皇(724年)、 豊臣秀吉(1585年)、和歌山城主・浅野幸長、 紀州藩 初代藩主・徳川頼宣らが参拝した記録が残されている。
下山後、正面の「あしべ通り」を北進し、「御手洗池公園」に行き着く。 よく写真に出てくる観光地である。
元々は海岸線であったものが徐々に後退して入り江となり、 そして「御手洗池」と「御手洗川」となって現在のような地形になったという。 江戸時代には天満宮の前に海水に浸る鳥居が建てられていたとされる(上古絵図)。
この入り江前の山には、古くから和歌浦の地元漁民らに信じられていた天神信仰を祀った天神社の、 簡単な社殿が建立されていたという。これを大々的に拡張する形で、
和歌山城主・浅野幸長
が和歌浦天満宮を建立したのだった(1606年)。
和歌山県立図書館ホームページより
また現在、江戸時代初期の建築物が保存され国指定重要文化財となっている「紀州東照宮」であるが(上絵図は、東照宮の 祭礼「和歌祭」の様子を描いたもの)、 もともとは、1621年に紀州藩 初代藩主・徳川頼宣が南海道の総鎮護として、父・家康を祀るために創建したもので、 後に頼宣も合祀されて今日まで継承されている名刹である。 安土桃山時代の遺風を受け継ぐ絢爛豪華な本殿拝殿は特に有名で、「関西の日光」とも別称されてきた。
なお、日光にある東照宮が本来の家康の墓所で、彼自身を神として祀る神社として、1617年に 将軍・秀忠によって創建されたものである。 東照宮とは「東から照らす神社」という意味で、日本列島の東側から全国を照らし守護する願が込められている。 創建当時はかなり質素な造りだったそうだが、3代目将軍・家光にとって全国から名工が集められ、1634年〜1636年の 2年の歳月を費やし、 現存する豪華絢爛な社殿が完成されたという。その建設年代から、「関西の日光」の方が古いのかもしれない。
続いて、東側に連なる小山上にある「雑賀城跡」を訪問してみる。
標高約 32 mの妙見山という丘上に立地したことから、「妙見山城」とも別称される。
東側の麓にある「津屋公園」奥にある弁財天堂前が登山口となっており、すぐに山頂の「三善社」まで登れる。 この山麓から山頂までの全域が「津屋公園」で、別名、城跡山公園というわけだった。
山頂エリアは「千畳敷」と呼ばれる長い平坦地が広がっており、南端の高台上に「妙見堂」が設置されている(この傍らに、妙見山の石碑も建てられていた。 海岸線を一望できるスポットだった)。往時は眼下ギリギリまで河口と海岸線が迫っており、 三方を水と砂地に囲まれた天然の要害だったと推察される。
なお、この「妙見堂」は江戸時代前期の 1660年、養珠寺のお堂が雑賀城跡の妙見山頂上に建立されたもので、 今日まで地元で大切に継承されているわけである。
これに連なる平坦地が、主郭と南郭の跡地で、かつて城館が開設されていたと考えられる場所だが、 堀や土塁などの遺構は全く残存していなかった。ただ、北面は急角度の斜面が続いており、 往時の地形が今に伝えられている数少ないスポットかもしれない。
北側には、かつて消防塔として使われていた鉄塔が残ったままだった。 この丘全体が城塞化されていただろうから、当時は丘全体に複数の曲輪が設けられていたことだろう。
なお、この丘自体が紀州青石と呼ばれる 緑泥(色)片岩の岩山ということで、山上の土砂は長年の風雨の中で堆積されたものという。 この雑賀崎一帯の小山群すべてが緑泥片岩でできており、
和歌山城 築城
の際に石垣として数多く掘り出されている。
この「雑賀城」は、戦国時代、鈴木(佐太夫)重意により築城されたと伝承されている。雑賀鈴木家の当主だったことから、 代々、「雑賀孫一(市)」という通称を使用しており、こちらの名前の方がよく知られる人物である。
彼が属した雑賀衆は、室町時代を通じ、本州から 四国&瀬戸内航路をつかって畿内~九州間を往来する海運交易業に従事し、
堺商人
らの台頭とともにその財力とネットワークを拡大させ隆盛を極めた地域勢力であった。その過程で渡来品にも早くから接する機会が多く、 最新式武器だった鉄砲が 2丁、日本の種子島に伝えられると(1543年8月25日)、紀伊国根来寺の 子院・杉坊(杉之坊)の 法主・明算がこの銃の購入を申し出たことから、 紀伊国那賀郡小倉荘の 土豪&海運商だった 津田算長(?~1568年。津田監物。法主・明算の実兄)の船で紀州へと持ち込まれることとなる(翌 1544年)。当時、紀州北部の経済都市だった「根来寺」は多くの鍛冶屋も抱えていたことから、すぐに地元の鍛冶屋にコピー品を作らせると、以降、鉄砲の大量生産に成功し、全国屈指の鉄砲生産地へと成長していく。近隣の 雑賀衆も「根来」産の鉄砲 3,000~5,000丁を保有し、それを駆使する武装集団として勇名を馳せていくわけである。
なお、この「根来寺」とは紀ノ川中流に本堂を構えた一大宗教勢力で、平安時代後期、 高野山を本山とする真言宗から 覚鑁(1095~1144年)が新たに分派させた「新義真言宗」の本山が置かれた寺院であり、 室町時代に特に社会が荒廃する中、多くの信者を集めて台頭することとなった。室町時代後期には、 紀ノ川流域一帯に 72万石もの 寺領(荘園)を持ち、3万もの僧兵を抱える大勢力となる。
他方、雑賀衆は主に 浄土真宗(一向宗)がメインであり、その雑賀荘内にあった「弥勒寺」が 紀州・浄土真宗(一向宗)の中心地となっていた。 両者は宗教的には相容れない存在ではあったが(雑賀衆の中でも、十ヶ郷などでは根来寺に帰依する真言宗徒も混在していた。下地図)、 室町時代に 守護・畠山氏による武家支配に対抗すべく協調関係を構築し、 高野山とあわせて、惣国一揆の 3大巨頭を成して紀伊国を宗教勢力による自治国家へ変貌させていたのだった。
特に畿内に近かった 雑賀衆(一向宗)と 根来衆(新義真言宗)の行動は目立つものがあり、 傭兵活動や海運業などを通じて畿内各地で存在感を発揮したわけである。 内陸側に勢力圏を持った根来衆に関しては、さらに北へと勢力を拡大し和泉国南部までをも領有しており、 戦国期の武家にとって領地支配上、大きな脅威になっていく。
他方、雑賀衆は 5万石程度の規模で、総人口が 5万人程度だったと考えられており、 さらに砂地や湿地帯などが広がる土地柄だったことから、領地的野心よりも貿易や傭兵業によって出稼ぎするスタイルが定着していたのだった。 畿内に侵攻してきた織田信長が三好三人衆や
石山本願寺
との抗争を始めた際、雑賀衆は両軍側で傭兵として雇われ、 織田方、三好方などに分かれて仲間どうしで戦闘していたわけである。
しかし、石山本願寺の 法主・顕如(1543~1592年)が本格的に信長との徹底対決を宣言し、全国へ檄文を発すると、 織田軍に傭兵として雇われていた雑賀衆も完全に反織田の旗色を鮮明にすることとなり、 根来衆と組んで大坂南部平野や海路から本願寺を支援していくこととなる。
なお、これら 根来衆、雑賀衆も一枚岩のグループではなく、各宗派、居住地区、棟梁らによって率いられるバラバラの集団であった(上地図)。 そのうち、雑賀衆には主なリーダーが 5人いたとされ、その合議制で運営されていたという。そのうちの一人が雑賀鈴木氏で、 もともとは 紀州・熊野本宮大社の神職を担う名家の分家筋にあたり、その末裔が雑賀荘に入植し(上地図)、 地元の神事に携わりながら 土豪ら(土橋氏、島村氏、栗村氏、松江氏、宮本氏 など)をまとめ上げていったとされる。 以降、その末裔は本貫地から「雑賀」姓を称し、代々の当主は「雑賀孫一(市)」の通り名を使用する習わしとなっていったわけである。
石山本願寺
に組した雑賀衆リーダーの 一人「雑賀孫一」こそが、 当時の 当主・鈴木(佐太夫)重意、重秀父子であり、その熟練した鉄砲戦術と自在の船術を駆使し、 「大坂の左右の大将」と称されるほどの活躍を見せたという。 当時、父・鈴木佐太夫は、自ら築城した妙見山上の「雑賀城」を居城としつつ、 息子の鈴木重秀を大坂方へ派遣していたと考えられる。
1571年9月に比叡山を焼き討ちし
、1573年には 浅井長政、朝倉義景、三好義継らを滅ぼし、1575年に長篠の戦いで武田勝頼を撃破するなど、 信長包囲網を各個撃破していく過程で、信長は紀州の雑賀衆征伐にも着手することとなる。 その軍事作戦の前年 1576年より、織田方はまずは 雑賀衆、根室衆らに離反工作を仕掛け、雑賀荘、十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷の 5組あった雑賀衆のうち、 宮郷、中郷、南郷の 3組が織田方に恭順し、雑賀荘と十ヶ郷のみが対抗姿勢を貫くこととなる(上地図)。
この時、太田党や根室衆なども織田方に協力する姿勢を示し、 実質的に
紀ノ川北岸(平井城、中野城、木ノ本城 など
)と 西岸エリア(雑賀城)のみの平定戦となったわけである。
織田方が 畿内、中部地方各地から軍勢の大動員を開始すると、織田軍の侵攻近しを察知した雑賀衆を率いた鈴木重秀は故郷へ帰国し、 父の 居城・雑賀城(父・鈴木重意が守備)の北 1 kmにあった 宗教都市「弥勒寺(紀州一向宗の本部)」を防衛すべく、 ここに陣を構える。直後より、もともと構築されていた環濠集落や寺院伽藍を発展させる形で、 「弥勒寺山城」へと大改造させることとなる。この他、周囲には複数の城塞網が整備され(中津城など)、 籠城戦とゲリラ戦による迎撃態勢が整えられていく。
1577年2月、織田信長はいよいよ 6~7万もの大軍勢を率いて第一次紀州攻めを開始すると(総大将・織田信忠)、 織田方に組した 根来衆、雑賀衆らを先導役に海路と 陸路(佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重 らの部隊)からそれぞれ 3万で軍を進める。
瞬く間に
中野城、木ノ本城、平井城、中津城(城将・鈴木権太夫は戦死)など、紀ノ川北岸一帯を制圧した織田信忠は、 中野城に本陣を構えると
、部隊をそのまま紀ノ川西岸の砂洲を南進させ、勢いそのままに雑賀地区への攻撃を命じる。 そして「弥勒寺山城」の北辺まで至ると、先鋒・堀秀政(1553~1590年)の部隊が直接、外堀川の渡河を開始したタイミングで、ゲリラ攻撃を受けることとなった。 この時、堀底には逆茂木や 甕、壺などのトラップがしかけられており、 足をとられて水中で大渋滞を引き起こした織田軍に対し、雑賀衆は鉄砲と弓による一斉攻撃を行い、 一方的な展開で死傷者を出させて撃退に成功するのだった。
いったんは渡河作戦中止を余儀なくされた織田軍であったが、体勢を立て直すと徐々に堀川を埋めながら前進し、 「弥勒寺山城」下へ迫ってくる。雑賀衆も一部の部隊を城外に潜ませてゲリラ作戦を展開するなど、 織田方にダメージを重ねさせていくも、双方ともに疲弊していくことは避けられなかった。
戦闘の長期化による郷土の荒廃と、国力低下、民衆の疲弊、 そして外部からの 支援(四国の長曾我部氏や 毛利軍、
石山本願寺
など)が見込めないと判断した雑賀衆は、 休戦を申し入れ、信長にあっさり了承されて織田軍撤退が成る。 これは、信長としても大軍勢をいつまでも紀州に展開させるわけにもいかず、また既に相当なダメージを受けていたため、 休戦の申し出は渡りに船だったわけである。信長は今後一切、本願寺合戦には関与しない、 と雑賀衆に約束させるだけで速やかに撤兵に応じたのだった。
この前年 1576年11月には越後の上杉謙信が越中侵攻を開始しており、 第二次信長包囲網が始動しつつあったタイミングも関係していた(この年の 1577年9月に手取川の戦いが勃発することになる)。
織田軍の撤退後、雑賀衆はすぐに国土復興を進めつつ、 「雑賀城」や「弥勒寺山城」を中心に、さらなる防衛力強化を図っていったと考えられる。
そして半年も経たないうちに雑賀衆は再び石山合戦へ参加するようになり、 同年 7月には、第一次木津川口の戦いで毛利水軍によって織田水軍が撃破され石山本願寺の勢いが増すと、 根来衆、雑賀衆でも反信長の動きが再び公然化するのだった。
と同時に、紀州内で 親信長派グループ(雑賀衆の 宮郷、中郷、南郷の 3組)への攻撃が激化すると、 その救援要請を受けた織田信長は、佐久間信盛(1528~1582年)を総大将とした 7万規模の大軍勢を再動員し(
筒井順慶ら大和国人衆も参加
)、 再び雑賀へ派兵する。しかし、前回同様のゲリラ戦術に翻弄され、なかなか戦果が得られない中、
翌 8月に松永久秀が反信長で挙兵し信貴山城に籠城したため
、紀州遠征は中止されて和泉国へ取って返し、 久秀殲滅戦に参加することとなり、第二次紀州征伐もあやふやな中で終結してしまうのだった。 最終的に同年 10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれることとなる。
なんとか 2回目の危機を脱した雑賀衆は、ますます反信長の方向で勢いづき、
石山本願寺
への支援を続行する中、翌 11月にあった第二次木津川口の戦いで毛利水軍が大敗を喫すると、石山本願寺側もいよいよ 雑賀衆、根来衆への依存を高めていくこととなる。
そして 1580年3月、朝廷の介入により、10年にも及んだ石山本願寺合戦が終結し、 法主・顕如が石山本願寺からの退去に合意すると、雑賀衆に護衛される形で「弥勒寺(弥勒寺山城)」へ移住してくることとなった。 しかし、この要塞都市に本拠地を構えると、信長に再び警戒されることを恐れた両者の判断により、
すぐに顕如は紀州湊にあった鷲森道場へ再移住し、ここを一向宗の本山に定める(以降、「鷺森御坊」と称される)
。
わずかな期間であったが、この弥勒寺山に顕如が滞在したことは事実であり、 これに由来して今も山頂に「顕如上人桌錫所の碑」が残されているわけである。
なお、この「弥勒寺」には顕如の 父・証如(しょうにょ)も足跡を残している。
時は遡って 50年前、全国へ宗派拡大を目指していた山科本願寺であったが、 各地で頻発していた武家や一揆らの武力衝突に巻き込まれる形で、宗教弾圧や戦火の被害を被っていた。 特に 1532年8月、畿内での権力掌握を図る細川晴元が、台頭する一向一揆を鎮圧すべく、 他宗徒を扇動して山科本願寺を焼き討ちさせると、当時の第 10世宗主だった 証如(しょうにょ)は幸いにも
大坂
滞在中だったことから難を逃れるも、 代わりとなる大坂本願寺の造営を急ピッチで進めることとなる。しかし、翌 1533年8月に細川晴元らの襲撃を受けて大坂の町は全焼し、 証如らは命からがら 紀州・弥勒寺へ避難してきたのだった。こうして宗主が一時、拠点を定めたことから「御坊山」と称されるようになったわけである。
その後、ライバル勢力の掃討を完了し、畿内安定化を図った細川晴元は、 養女(三条公頼の三女・如春尼。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を証如の 長男・顕如と婚約させ、 姻戚関係を結ぶなどして関係改善を図っていくこととなる。こうして証如は
大坂
に戻り、石山本願寺の再建に着手するのだった。 1554年9月に 39歳で死去すると、12歳の 長男・顕如が第 11世宗主として石山本願寺を継承し、さらに拡張が続けられていく。 そして、1570~1580年の 10年もの間、信長と死闘を演じたのだった。
さて話を安土桃山時代に戻すと、ちょうどこの戦閑期にあたる 1580年代前半に、宣教師 ルイス・フロイスが当地を訪問しており、 その感想を 見聞録『日本史』の中に書き記している。
曰く、「二方面を海と河口に囲まれ、もう一方は紀ノ川、もう一方は険しい山岳地帯が連なる雑賀の地は、そもそもが難攻不落の要害であり、 その出入口は一か所しかなかった」と指摘されている。
当時の紀ノ川は東の紀伊山地に水源を発し、和歌山平野で大きく南へ折れ曲って、そのまま雑賀荘脇から海へと注ぐ河道であった。 海岸線もかなり内陸部に食い込んでおり、当時の雑賀荘にはほとんど陸地がなく(穀物生産には不向き)、 砂洲と 河口、海岸線、湿地帯に取り囲まれた要害の地だったわけである。
顕如が紀州に移住してきたことで、雑賀衆は顕如を支えて再挙兵を唱える強硬派と、 このまま信長と事を荒げないという 現状維持派(もしくは親信長派)に分裂し、深刻な内紛状態に陥ることとなる。 これを背景に、農地管理などでも小競り合いが生じるようになり、その事態収拾を図るべく、 親信長派だった鈴木重秀が
強硬派の 筆頭・土橋胤継(守重。雑賀荘内での実力は、 雑賀鈴木氏に次ぐ ナンバー2であった)を暗殺する事件が発生する(1582年1月)。同時に、 土橋氏の 本拠地・粟村城(今の 和歌山市粟にある安楽寺一帯)も急襲し、 胤継の 子・土橋春継や平次らは城からなんとか脱出して亡命に追い込まれるのだった
。
こうして信長の後ろ盾を得た鈴木重秀により、雑賀衆や根来衆の統合が図られるも、 同年 6月に本能寺の変が勃発して信長が横死すると、反信長派からの襲撃を恐れた鈴木重秀は海路より雑賀荘を脱出し、 織田家家臣が入る
岸和田城
へと避難することとなった。リーダーを失った雑賀荘は大混乱に陥り、
亡命中だった土橋春継らが粟村城へ帰還し
、
太田城主・太田左近ら
と共に親信長派だった雑賀衆らを粛清し、 雑賀衆は一気に 反信長、反秀吉(つまり、反中央政権)へ舵を切っていくこととなる。
翌 1583年7月、豊臣秀吉は畿内各勢力との融和を図る一環で、 紀州滞在中だった顕如を貝塚道場へ招き「貝塚御坊」を開山させて(
以降、「御坊鷺森」は「本願寺鷺森別院」へ降格される
)、 反秀吉色を強める雑賀衆や根来衆に利用されることを防止する一手を打つ。 同時に、秀吉は臣従していた鈴木重秀の人脈を利用し、雑賀衆、根来衆の懐柔策を継続するも、 鈴木重秀本人が紀州へ足を踏み入れることが不可能なぐらい、反秀吉でまとまってしまっており、 逆に 根来衆、雑賀衆は権力の空白地帯となっていた和泉国南部まで進出し、一帯を実効支配してしまう有り様であった。下地図。
1584年に小牧・長久手の戦いが勃発し、秀吉が大軍を引き連れて
岐阜
まで出陣すると(上地図)、 その留守を突く形で、
岸和田城
や
堺
、
築城中だった大坂城
などを焼き打ちにし、 畿内かく乱を図ってくる。なんとか 岸和田城代・中村一氏らを筆頭に秀吉方は防戦と被害最小化に努め、 秀吉が織田信雄との単独講和を締結して急いで畿内へ戻ってくると、秀吉は翌 1585年3月、 旗下のほぼ全軍 10万人にも及ぶ大軍を動員し、紀州征伐に取り掛かる。
鉄砲を駆使する 根来衆、雑賀衆連合軍に対し、多くの犠牲を払いながらも力攻めで押してくる秀吉軍を前に、
雑賀衆や根来衆の防衛ラインは崩壊し
、恐れをなした紀州勢は多くが逃走してしまい、 根来寺や 粉河寺、雑賀荘は焼き払われ、一気に瓦解することとなった。 この中で、粟村城を包囲された土橋平丞はなんとか脱出し、四国の長宗我部元親を頼って海路で土佐へ逃亡し、 その他の残存兵力は太田城に籠城する者や高野山中へ亡命する者など、散り散りとなってしまうのだった。
最終決戦となった太田城攻めでは、秀吉は自らの力を見せつけるべく水攻めを採用し、 巨大な堤防を築造する。と同時に、城内へ降伏勧告を進める中で、鈴木重秀もその一人として派遣された記録が残されている(同年 3月25日)。 最終的に翌 4月に降伏、開城し
、同月に高野山も降伏して、秀吉による紀州平定が完成されるのだった。
戦役後、秀吉は 根来衆、雑賀衆残党の完全武装解除を目指し、全国初の刀狩りを実施することとなる。 同時に、困難が予想された紀州統治は実弟の豊臣秀長に委ねることとし、以降、秀長は 大和・紀伊の二カ国大名となるわけである。 直後より、各地に点在していた城塞群は解体され、
新築工事が着手された和歌山城
の資材へと転用されていったと考えられる。 この中で、「雑賀城」や「弥勒寺山城」も廃城となったことだろう。
その後、鈴木重秀の 父・鈴木佐太夫は、秀長家臣だった藤堂高虎の謀略により粉河で切腹させられ、 また重秀の 子・鈴木孫一郎は秀吉方へ人質に出されている。重秀自身は
大坂城下
で晩年を過ごしたと考えられ、 人質だった 子・孫一郎は後に豊臣家の鉄砲頭となったと伝えられている。
そのまま放棄された弥勒寺跡地であるが、江戸時代後期の 1793年、麓にあった五百羅漢寺の僧が静岡から秋葉権現社を勧進して以降、 この山の一部が「秋葉山」と呼称されるようになり、戦後になって和歌山市が山全体を「秋葉山公園」として整備し今日に至るわけである。 地元では、引き続き「弥勒寺山」、「御坊山」と呼ばれる山だが、今では公園名の「秋葉山」の方が広く知られるようになっている。
続いて、北へ少し進んで「弥勒寺山城跡」を訪問してみる。上地図。
秋葉山プールの北西側に登山口があり、その脇に簡単な案内板が設置されていた。 緩やかな遊歩道を 10分ほど進むと 山頂(標高 67 m)に到着できた。 そこは「歴史と風土の丘」という広場に整備されており、一段高台となっている場所に「顕如上人桌錫所の碑」、 秋葉山古戦場(雑賀合戦)跡の説明板が立てられていた。
今は完全に市民公園化しており、城塞時代の遺構は完全に消失されているものの、展望台からは雑賀荘や
和歌山城
などが一望できた。 雑賀城と同様、山全体が緑泥片岩の岩盤という。
また下山後、西に徒歩 6分ほど歩いた場所にある「矢宮神社」も参拝してみた(上地図)。 雑賀衆の守り神とされ、織田軍との合戦に際し、雑賀衆が戦勝を祈願した場所という。
見学後、公園前にあった バス停「秋葉山」から、路線バス「17和歌山市内線」、 もしくは「117和歌山市内線」で
和歌山市内
まで戻ることにした(乗車時間 10分強)。上路線図。
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