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日本の城 から
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奈良県 生駒郡 ≫
訪問日:20--年--月-旬
奈良県 生駒郡 ~ 郡内人口 4.8万人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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長屋王墓、吉備内親王(長屋王の妻)墓
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三里城跡(旧・安明寺)
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平群中央公園(西宮古墳群、西宮城【平群平城】跡、下垣内城跡【歴史の広場】)
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安養寺(嶋左近の母 墓所)、平群神社(椿井春日神社の分祀)
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椿井城跡、椿井井戸、椿井春日神社、(平等寺)春日神社
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信貴山城跡(松永屋敷跡)、信貴山観光 iセンター、信貴山 朝護孫子寺
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高安城跡(朝鮮式山城)、高安城 倉庫趾
関西空港を利用するにあたり、大阪&神戸方面への交通渋滞が見込まれる時に、奈良に数泊してから畿内中心部へ移動するルートは、 非常に穴場的手段として活用できる。
奈良市内
や南隣の
大和郡山市内
などのホテルも比較的安価で、数泊するには非常に好都合だった。 ここから JR大和路線を利用し、「王寺駅」へ行ってみる。
もしくは、
JR大和路線は大阪中心部の「天王寺駅」へと繋がっているので
、あえて天王寺駅あたりに投宿し、 日帰りで奈良観光に挑むという方法も有効である。
もし激しい雨天だった場合、博物館系を巡る旅程へ臨機応変に変更したい。
橿原考古学研究所 附属博物館(旧石器~室町時代までの出土品を展示)・・・・近鉄線「畝傍御陵前駅」から徒歩 5分
奈良文化財研究所 飛鳥資料館(飛鳥時代の歴史、文化、遺物を展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」からバス 17分
歴史に憩う橿原市博物館(地元の郷土史、古墳の出土品などを展示)・・・・近鉄線「橿原神宮前駅」から徒歩 30分
天理大学附属 天理参考館(世界中の民族、移民らの生活文化、日本古代文化)・・・・ JR「天理駅」から徒歩 20分
奈良市立史料保存館(町屋を改装。古都奈良の模型、住民生活の資料館)・・・・近鉄線「奈良駅」から徒歩 15分
葛城市歴史博物館(葛城市の郷土資料館)・・・・近鉄線「忍海駅」から徒歩 5分
この日のメニューは、午前中に徒歩にて「下垣内城跡」、「椿井城跡」、「三里城跡」、「長屋王墓」を散策後、 午後に「信貴山城跡」と「高安城跡」を見学することとし、 そのままロープウェイで下山という行程を立ててみた。
冬季快晴の平日、朝 9:30到着を目標に 近鉄生駒線「平群駅」を目指す。
駅東側を出て、まっすぐ路地を北上すると「長屋王墓」とその 妻「吉備内親王(草壁皇子の 娘)墓」があった(徒歩 10分。下地図)。 毎年 3月20日の長屋王の命日に、宮内庁により長屋王正辰祭が墓前にて営まれていることから、 その利便性を図るべく設置されたであろうトイレが真横にあったのが印象的だった。 150 m離れた奥方の陵墓と共に、「双墓」として地元で大切に保存されてきたという。下地図。
なお、この「長屋王墓」は一見すると、直径 15 m、高さ 1.5m 程の円墳に見えるが、 実際には、6世紀前半に造営されていた全長約 45 mの 前方後円墳(梨本南 2号墳)の一部であり、 その後円墳のみが地上に出た形となっている(その他の部分は地中に埋もれてしまっている)。 つまり、本来は別人のために築造された古墳であり、長屋王の遺体がこれに追葬されたのか、 もしくは、長屋王の支配地だった平群郷の人々が地元へ移葬してきたものなのかは、 はっきり結論付けされていないという。
現在、宮内庁が管理し、柵が設けられて内部への立入は禁止されていた。
長屋王(676/684?~729年。下家系図)の父は、
天武天皇(?~686年)
の 長男・高市皇子(654~696年。下家系図)で、
672年の壬申の乱時には軍事全般を執り仕切り
、勝利のキーを握った人物であった(下家系図)。 しかし、母親が 地方豪族出身(胸形君徳善の娘)だったことから皇太子にはなれず(下家系図)、 皇族出身の正室から生まれた異母弟の草壁皇子や大津皇子らの下に付けられ、 その序列は第 8位ぐらいだったと推定されている。
686年に天武天皇が崩御すると、その皇后が持統天皇として即位し、 その 長男・草壁皇子らと協力して先代の遺業継承を図るも、 大津皇子(686年。下家系図の緑色)、草壁皇子(689年。下家系図の青色)らが相次いで死去してしまうと、 持統天皇は残された高市皇子をますます頼るようになっていく。 690年に太政大臣に任命すると、高市皇子はさらなる律令国家体制の整備に邁進するとともに、
飛鳥宮から藤原宮への遷都計画を推進するも
、 莫大な遺産と政治権力を残したまま、696年7月に道半ばで没することとなる。
同年 8月、持統天皇は孫である 文武天皇(草壁皇子の子)へ譲位すると、 その 皇后(藤原宮子)を輩出した 藤原不比等(659~720年)が外戚として政権中枢に入り込んでくる。 不比等は 中臣(藤原)鎌足の実子であるが(下家系図)、多くの藤原一門衆が壬申の乱に際し、 天武天皇に敵対したことから没落しており、不比等も低い身分に抑えられてきたが、 ここに来て復活を遂げてきたわけである。
こうして不比等は、続く 元明天皇、元正天皇の治世下でも権勢を振い続けるも、720年に死去すると、 721年に 故・高市皇子の長男だった長屋王が右大臣に任命され、事実上、全政務を任されることとなる。 その背景として、長屋王は元正天皇の従兄弟にあたり、また 妹・吉備内親王の夫でもあったことから(上家系図)、 天皇より厚い信頼を得たのだった。この時、不比等の 長男・武智麻呂は中納言、 次男・房前は 参議(その後、内臣へ昇進)に叙任される。上家系図。
724年、元正天皇が聖武天皇へ譲位すると、長屋王は左大臣に昇進し、 ますます権勢を増していく。当時、父・高市皇子の莫大な遺産と権威を継承した長屋王の権力は絶大で、 藤原不比等の 遺児・4兄弟(上家系図)は不満を募らせることとなった。
そして、藤原氏の意図を組んだ 塗部君足・中臣東人が、729年、 長屋王邸に出入りしていた立場から長屋王の謀反を朝廷へ密告すると、 すぐに宮廷衛兵を率いた藤原 4兄弟の 三男・藤原宇合(上家系図)により邸宅が包囲される(下地図)。 2日間にわたる弁明も通らず、ついに 3月20日、長屋王は自害を強制されるのだった。 この時、同時に夫人の吉備内親王や 4人の子供たちも自害して果てている(上家系図の黄色)。
同年に記された『続日本紀』には、 長屋王の遺体は 妻・吉備内親王と共に「生駒山に葬る」とのみ記録されており、 それ以外は一切、不明なままだったが、 約千年後の江戸中期にまとめられた『大和志』に、この双墓が夫妻のものと言及されたことから、 これを追認する形で、明治 34年に宮内庁によって「長屋王墓」と治定されたというわけだった。
その 8年後の 737年、藤原 4兄弟は天然痘により次々と病死し、密告者・中臣東人も斬殺されてしまったことから、 “長屋王の呪い”が朝廷内でささやかれ、以降、藤原一門衆の勢いは下火となり、 再び皇族出身の 鈴鹿王(?~745年。高市皇子の次男で、長屋王の実弟)や 橘諸兄(684~757年。敏達天皇の末裔で、 臣籍降下して橘姓を下賜されていた)らによる、脱藤原氏志向の政権運営が進められていくこととなる。
ここから、東側に連なる山中にあったという「三里城跡」を目指すことにする。上地図。
「長屋王墓」前の道をそのまま南進すると、国道 168号線と交差する。ここの 四つ角「三里交差点」の信号を渡ると、 「三里」の集落地に入っていく。少し南進して、三里南交差点に接続する道路に行き着くと、東へ進路を変えて直進する。 そのまま山裾まで行き着くと、山麓部分の土砂道に入ったところに「安明寺叶堂」があった。上地図。
ここから右手に続く山道を登っていくわけだが、すぐに山道もなくなり、 うっそうと生い茂る藪の中、道なき道を進むようになっていく。途中途中に帯曲輪の 土塁、横堀、竪堀などの遺構が出現するも、 道案内板もないので主郭までたどり着ける保証はない。
とりあえず、登山口から軽く登ってみる程度にし、早々に諦めて撤収することにした。
南面以外の三方に防衛網が巡らされていた構造や、松永久秀特有の築城術の痕跡から、松永方の家臣が椿井城に入った際、 支城として「三里城」を築城したものと考えられている(特に筒井方の椿井城攻防戦のための陣城か、出城群の一つとして)。
なお、登山入り口脇にある「安明寺 叶堂(かのうどう)」であるが(上地図)、安明寺自体は聖徳太子の建立とも伝承される古刹で、 興福寺の末寺として長らく繁栄してきたが、1976年に発生した火災により全消してしまい、 現在は礎石と 石段・石造物などを残すのみとなっている。以降も跡地に残された叶堂は、 引き続き、疫病対策の神として地元住民らの厚い信仰を集めているということだった。
続いて、同じ山の尾根沿いに連なる「椿井(つばい)城跡」を訪問するわけだが、 その前に国道 168号線と竜田川との間にある 道の駅「大和路へぐり」に立ち寄り(上地図)、 「椿井城跡」の縄張付きパンフレットをもらっておくことにした。
そして、ちょうどこの竜田川の対岸に「平群中央公園」があり、二つの城跡が内包されているということで、 先に立ち寄ってみることにする。少し北側にある 橋「下垣内橋」を渡ると、すぐの場所に「安養寺」があった。上地図。
ここに西宮城主だった嶋左近の母の位牌が安置されているということで、参拝してみる。
そのまま竜田川沿いを南進し、一つ目の三叉路を右折すると、すぐの場所に「平群(へぐり)神社」が鎮座していた。上地図。
ここは、平群氏が本拠地を置いた「西宮城(平群平城)」の南端に相当することから、 平群氏の祖先を祀った「椿井春日神社」の分祀として、小さな祠が勧進されており、 西宮城主が平群氏から椿井氏へ、その後に下垣内氏、嶋氏らが入居するようになっても継承され、 最終的に今日まで地元で守られてきたと考えられる。
そのまま西進を続けると「来迎寺」を過ぎたあたりに、平群中央公園への入り口があった。 早速、公園内へと歩みを進めると、正面に「西宮古墳(1号墳)」があったので(上地図)、見学してみる。
そのまま東隣にある「冒険広場」へ向かう(上地図)。現在は子供用の遊具が設置される、のどかな広場だったが、 ここがかつての「西宮城跡」というわけだった。そして、その南東端に先程の「平群神社」も見え、 そこまでが城域だったと推察される。
続いて広場を出て北側にある修景池を経由しつつ、「歴史の広場」へ向かう(上地図)。ちょうど谷間の空間となっており、 城館があった時代の地形がそのまま踏襲されていた。
この公園内で最も高所にある「歴史の広場」であるが、ここがかつての「下垣内城跡」という(上地図)。 中央にある休憩施設の柱に、城跡に関する解説板が掲示されていた。城塞の発掘調査が行われた後に埋め戻されて、 広場として整備されたということだった。調査の結果、下垣内城は東西二郭で構成され、その中央部には 8 m程の堀切が掘削されていたという。
最初に「平群(へぐり)谷」を支配した平群氏であるが、大和王権時代の前半期、 大王の外戚として勢力を誇った葛城氏を、蘇我氏、物部氏らと共に追い落とした一族であり(下地図)、 その後、朝廷内で
仁徳天皇
らに近侍して権勢を振るうも、間もなく蘇我氏と物部氏によって自身も追い落とされてしまい、 以降、一門衆は朝廷内の下位に甘んじることとなっていた。
それから 100年後、今度は蘇我氏が聖徳太子と図り、廃仏派の物部氏を打倒する大戦争が引き起こすと、平群氏も一将軍として参戦することとなった。
大和王権時代から朝廷内の 警察&治安維持任務を司ってきた物部氏の軍事力は強大で
、当初は苦戦を強いられた 蘇我氏(王権内では会計係を司り、財務から政治の中枢へ影響力を増幅させてきた)、聖徳太子、平群氏ら崇仏派であったが、大阪平野にあった 物部氏・本拠地の制圧に成功すると(下地図)、物部氏一族はそのまま壊滅に追い込まれるのだった。
戦後、平群氏は引き続き、当地支配を継続するも、間もなく地名をとって椿井氏へと改称することとなり、 最終的に末裔らは山城国南部へと移住していったとされる。以降は、一門衆だった下垣内氏が支配を継承したようだが、 いつの頃か嶋氏へと支配者が変わっていくこととなった。
当初から領主は 西宮城館(平群平城)に居住し、その後に谷を隔てた北側の丘陵上に下垣内城を築城して、 両者で補完し合う関係を構築していたと考えられる。
戦国期、嶋左近がこの平群谷を統治していた時代には、1万石程度の領地であったという。
しかし、三好長慶の命により松永久秀が大和侵攻を開始すると、1559年に 西宮城、下垣内城ともに落城に追い込まれる。 その後、信貴山城の近郊とあって平群谷一帯は松永氏の直轄地となっていたと考えられるも、 久秀が反信長で挙兵したことから、信貴山城とともに 1577年に織田軍によって占領されることとなる。
以降、旧領に復帰した嶋左近は、引き続き、筒井家の重臣として仕えるも、 1580年の信長による大和国の全城塞の破却命令により、西宮城、下垣内城なども解体されたのだった。
再び 道の駅「大和路へぐり」へ戻り、そのまま東進して「椿井城」のある山を目指す。 道中、「常念寺」や「椿井井戸」への道案内が所々に掲示されているので、 それをたどって行くと「常念寺」に到着できた。上地図。
「椿井井戸」は、この後方の山斜面上にある「椿井春日神社」の参道入り口にあたり、 今でも清水が湧き出ている(上地図)。脇には「文政 4年(1821)」と刻まれた石碑が保存されていた。
当地の 地名「椿井(つばい)」の由来であるが、6世紀後半にまで遡る。
当時、朝廷内では排仏派の物部守屋と、崇仏派の 聖徳太子、蘇我馬子らが対立しており、 最終的に用明天皇の治世時代の 587年、両者は大阪平野にて軍事衝突することとなる。 この時、
大和王権時代初期から 警察&治安維持任務を担当してきた物部氏の軍事力は強大で
、 聖徳太子らは苦戦を強いられたわけだが、その中の一軍を率いていた 平群(へぐり)臣神手という将軍が、 自領内に鎮座されていた祖先廟前に椿の杖を突き立てて戦勝を祈願したところ、 一夜にして杖から芽が吹いて葉が茂り、その地面から冷泉が湧き出したとされる。 将兵らはこの清水を飲むことで士気が高まり、物部軍に逆転勝利を収めることができたという(平群氏一族は、 これより 100年前まで大和朝廷内で蘇我氏を凌ぐ勢力を築いた氏族であったが、この頃には下位に低迷していた)。
以降、この冷泉の井戸は「椿井井戸」として継承され、「椿井」の地名へとつながっていくわけである。
以降、平群氏一族は戦勝の神として当祖先廟にますます帰依するようになり、一族の神として崇め奉ったという。 平群氏が後に椿井氏へ改称すると、その過程で「椿井春日神社」と通称されるようになったと考えられる。
その後、椿井氏が 南山城村(今の 京都府最南部で奈良県との県境に相当。「山城国の最南端」という意味に由来)へ移住すると、 以降、その一門衆だった下川原氏が、引き続き、この祖先廟を管理したという。
後年、神社の西側にある 宮山塚古墳(現在、県指定史跡となっている円墳)から兜が出土し、 これをご神体として合祀したことから「兜大明神」とも別称されるようになる。 ただし、その兜は江戸時代に盗難に遭ったため現存せず。
なお、「椿井春日神社」の麓に立地する「常念寺」であるが、もともと念仏道場があったとされ、 当時の念仏信仰の対象物だった石仏などの石造遺品が境内にたくさん保存されていた。また、この境内にある「地蔵堂」も有名で、 その鬼瓦の文様が 松茸(まつたけ!)にデザインされており、非常に稀有な存在となっている。 このエリアは古くから松茸の産地だったといい、その豊穣を祈って作られたと考えられている。
高台の境内からは平群谷一帯や信貴山が一望できる。そして、境内の北側には土塁で守られた形で椿井城の登山口がある。
なお、この「椿井春日神社」から北へ 300 mの地点にも「(平等寺)春日神社」が鎮座する。 もともとは、麓の集落を形成していた平等寺家と下垣内家の氏神が祀られていたが、 最終的に両村の鎮守神も兼ねるようになったようで、 雨ごいや順気祈願の満願の日に神前に奉納する 踊り(なもで踊り)が伝統的に継承されてきたという。現在は、その歌詞だけが伝わっている。
なお、「なもで」とは「南無御礼」が転じたもので、神に五穀豊穣を願い、 その謝意を込めた文言で、その踊りは広く大和国や河内国でも行われており、同様な絵馬や道具類が各地に残っている。
現在でも境内から見る「堂ノ池」や 集落地「平等寺」、「下垣内」、その後方に広がる平群谷の景色は見ごたえ抜群となっている。 なお、この「堂ノ池」には「根性松」と呼ばれる松があり、池に向かって倒れかかった姿から命名されたという。
その麓には「平等寺館址」という、在地領主の城館跡が保存されている。詳細情報は一切不明の史跡だが、 わずかに土塁片が見られる。
では、(椿井)春日神社の境内北側より椿井城への登山を進めることにする。
地元の方々が定期的に草刈りなどを手掛け、 大切な観光資源として保全されているということで、登りやすく見学し易かった。 10~15分程度で、南郭の南端部の堀切跡に到着し(下地図)、そのまま主郭まで通じていた。ここからの眺望は最高だった。
この南郭の南端部から北郭の北端まで全長 300 mあり、そのあちこちに曲輪や深い 堀切、空堀、土橋、土塁 などが点在していた。下地図。
下山は、南郭と北郭の間に掘削された鞍部から、 (平等寺)春日神社側へ通じるルートを使うことにした(当時の大手道。下地図)。 こちらはかなりの急坂が続き、登山時に使うと結構苦労すると思われた。
かつては、この大手道を通って平群谷から 筒井郷、郡山郷への山道があったという。
飛鳥時代に中大兄皇子らが主導して朝鮮半島へ意気揚々と出兵するも、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗してしまうと、 大陸軍の報復を恐れた大和朝廷は
近江の大津京へ遷都するとともに
、西日本各地に城塞や 烽火台を造営することとなる。 その際、奈良盆地の西側に連なる矢田丘陵の南端部の 山「宮山(標高 241.5 m、比高 200 m)」上にも、 烽火台が設けられたと伝えられている。
その後、平群谷を支配した 在地領主・椿井氏が同じ宮山に山城を整備し、室町時代に入る頃、 その支配権が嶋氏へ移っても、山城は維持されたと考えられる。 嶋氏は先代同様に、平時には平群谷の中央に立地する 西宮城(平群嶋城)を居城とし、山城は緊急避難用にキープしたのだった。
以降、室町時代を通じ、嶋氏は筒井党に組して大和国の動乱を生き抜くも、 戦国時代に大和国に侵攻してきた松永久秀により筒井氏が圧倒されてしまうと、嶋氏当主を継承していた 嶋左近(1540~1600?年。島清興。下絵図)も旧領を捨て流浪を余儀なくされる。
松永久秀が信貴山城を大改修し本拠地とすると、その近郊に立地した平群谷や椿井城は松永久秀の直轄地に組み込まれたと考えられる。
最終的に久秀が信長によって滅ぼされると(1577年10月)、ついに筒井順慶が大和国守護に任じられる(1578年)。 以降、嶋左近も旧領に復帰し、西宮城や椿井城を守備したと考えられるも、1580年に信長により郡山城を除く大和国内のすべての城塞破却が命じられると、これら嶋家の城塞群も廃城となったわけである。
以降も引き続き、嶋左近は 松倉重信(右近。1538~1593年)、森志摩らと並び「筒井三家老」の一角として筒井家を支えるも、 1584年に筒井順慶が死去すると、家督を継承した甥の筒井定次に仕えることとなる。 翌 1585年に秀吉の命により筒井家は伊賀へ転封となり、左近らもこれに伴って移住するも、 主君と折り合いが悪かった左近は筒井家を出放し(1588年2月)、 そのまま嶋家と所縁のあった興福寺の塔頭持宝院に寄食したという。その後、
大和国を支配した 豊臣秀長、秀保父子に仕官した後
、 石田三成に請われて 2万石という破格の高禄で臣下に加わり(1589年ごろか?)、 小田原合戦、
朝鮮出兵
、
関ヶ原合戦
で武名を馳せることとなるわけである。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と
佐和山の城
」の評は有名。
下山後、最寄りの「竜田川駅」へ移動し(徒歩 15分)、近鉄生駒線で南下して「王寺駅」に到着する。
王子駅北口に吉野家があったので、手早く昼食を済ませることにした。また、 同じ北口側には「スーパー西友」があるので、ここで食料調達も可能だ。
さて、この北口側から 路線バス(奈良交通バス 42/43系統)に乗ってみる(20分、420円)。 1時間に 1本しか運行されていないので、時刻表は入念に確認しておいた(平日時刻表より ↓)。
9:18発 → 9:36着、 10:25発 → 10:45着、 11:25発 → 11:43着、 12:25発 → 12:45着
13:25発 → 13:43着、 14:25発 → 14:45着、 15:20発 → 15:38着、 16:18発 → 16:38着
バス停「信貴大橋(終点「信貴山門」の一つ手前)」で下車する。下路線図。
バス停前に駐車場が続いており(下地図)、その奥に「信貴山観光 iセンター」があるので、城跡の パンフレット(地図付)を入手しておく。
そのまま、多くの観光客と共に「信貴山 朝護孫子寺(信貴山真言宗の総本山)」の境内へ向かい、 山上の(松永久秀と平蜘蛛の一件で有名な天守跡と伝わる)空鉢護法堂まで登山する(20分強)。 信貴山全体が信貴山真言宗の総本山「朝護孫子寺」の敷地となっており、 その山頂部に城跡が保存される形であった(下地図)。こうした背景から、城跡遺構や縄張りがそのままの状態で保全され得たと言える。
この本丸跡からは、空鉢護法堂、南の曲輪なども見渡せ、さらに大阪平野を一望できた。
続いて奥へ下がった「松永屋敷跡」を目指していくと、観光客が急に少なくなる。 この穴場スポットには土塁や 空堀、堀切がはっきりと残存しており、見ごたえ抜群だった。
雄岳(標高 437 m)と 雌岳(標高 400.5 m)の二つの峰から構成される信貴山は、大和国と河内国の国境ラインを成し、 また生駒山系の南端という交通の大動脈を山麓に控える重要ポイントであった。
こうした地理的条件から、古代より烽火台や城塞が築造されていたと考えられるものの、 史料にその名が初めて登場するのは、室町時代後期の 1536年に、河内国の木沢長政が大和侵攻の中継拠点として山城を整備した、という記録であった。
さらに 30年後、三好長慶の命で松永久秀が大和国へ侵攻してくると、やはり河内国との連絡拠点として信貴山城を重視し(1559年)、
南都に新たに築城した多聞山城とともに
、大和国の支配拠点として活用していくこととなる。
その後、大和の在地国人衆らの支配に苦心した久秀は、
京都
に上洛したばかりだった信長に臣従し(1568年10月)、 その支援を得て大和支配を強化していくわけだが、以降、信長から頻繁に戦争に駆り出されることとなり、 いよいよ不満を高めた久秀は、反信長で挙兵する(1573年)。しかし、武田信玄の急死と浅井&朝倉氏の滅亡により、 信長包囲網が瓦解すると、単独での反抗を諦め、すぐに降伏を申し出て、再び信長の配下に組み込まれる。 しかし、もはや大和国守護の地位を任せられることはなく、信貴山城のみが安堵されることとなった。
同時に信長臣下となった、長年の 宿敵・筒井順慶や大和国の国人衆らと同列になったことに不満を持った久秀は、 ひそかに軍備増強を進めることとなり、その過程で信貴山城を大規模に改修していったと考えられる。その過程で、 土塁城だった信貴山城にも小規模な天守が装備され、豪壮な屋敷や石垣整備も進められていく。最終的に、 大小あわせて 110を越える曲輪群を擁する、奈良県下最大規模の中世城郭となったわけである。上絵図。
こうして久秀色に染め上げた信貴山城ではあるが、1577年に久秀が 8,000の兵と共に反信長で再挙兵すると、 40,000の大軍に包囲されることとなり、内通者もあって落城に追い込まれるのだった。この時、天守や御殿などは全焼してしまい、 そのまま廃城となったと考えられる。
続いて、古代の大和王権が築城したという、朝鮮式山城「高安城(たかやすのき)跡」を訪問してみる。
信貴山城跡の「松永屋敷跡」から ハイキングコースが続いており、 特にアップダウンもなく、高安城倉庫趾(礎石がしっかり残存する)までほぼ平行移動で到着できた(20分ほど。上地図)。 ここからの眺望もすばらしく、東側の 平群・大和の山々が見渡せた。
さらに 10分ほど移動すると、気象レーダー観測所脇に設置されている「高安城跡碑」とその案内板にたどり着けた。上地図。
曲輪を取り囲んでいた土塁や横堀の保存状態も非常に良かったが、これらは朝鮮式山城時代のものというより、 松永久秀時代に信貴山城の出城として整備された遺構と考えられ、二の丸、三の丸跡地も展開されていた。
大阪府八尾市と奈良県平群町にまたがる「高安城(たかやすのき)」は、生駒山山系の 高安山(標高 487 m)上に立地する。
663年の白村江の戦いで 唐・新羅の連合軍に大敗した大和王権は、大陸軍が日本列島にまで上陸してくる危険性に備え、 時の王権を主導していた 天智天皇(626~672年。中大兄皇子)が、都を
飛鳥京
から
近江京
へ遷都するとともに、 西日本各地に 城塞群「古代山城(朝鮮式山城)」を築造していく。
『日本書紀』には、665年に大野城と基肄城が、667年に 高安城、屋嶋城(讃岐国)、金田城(対馬)が築城されたことが記録されている。下地図。
最終的に大陸軍の日本侵攻は無く杞憂に終わり、 これらの城塞群は 701年に廃城とされる(天武天皇の 孫・文武天皇の治世下、遣唐使の派遣により国交が正常化されたため)。
その後、放置された城塞群は、山賊や修験者らによって利用されたり、また特に中世に入って新城郭へ改修されたりして、 その全容を今に伝えるケースは非常に少ない。この高安城跡も同様で、戦国期に信貴山城主となっていた松永久秀が、 出城網の一つとしてこの城跡を大改修した結果、多くの遺構が改変されてしまっている。
そのまま「生駒縦断歩道」沿いを進んでいくと、ロープウェイ「西信貴ケーブル(近鉄線)」の山頂駅に到着できた。
1時間に 1~2本しか運行されていないので、最終便に間に合うように注意したい(平日時刻表より →)。 15:05、15:45、16:25、17:05(乗車時間は 7分)
そのまま近鉄線の路線網につながっているので、近鉄信貴線に乗って「河内山本駅」まで移動し、 近鉄大阪線に乗り換えて
大阪中心部
へ移動できる。 もしくは、近鉄大阪線に乗り換えた際、 南へ進めば「安堂駅」で JR大和路線に乗り換えられる(山頂から「安堂駅」までの近鉄線運賃は 860円)。
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