BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


鳥取県 東伯郡 北栄町 ~ 町内人口 1.5万人、一人当たり GDP 260万円(鳥取県 全体)


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  伯耆街道の 宿場町・由良
  鳥取藩 ベスト4 の取扱高を誇った 米蔵跡
  【豆知識】由良宿 と 藩米倉 ■■■
  由良台場
  【豆知識】由良台場 ■■■
  コナン作者・青山剛昌氏の故郷 と 町おこし



米子駅 から 15:46の普通列車に乗車し、17:00に由良駅に到着した。
下車後、次の 鳥取 行の発車時刻は 17:55(米子駅 16:52発、19:01 鳥取駅着の普通列車)と確認し、町の散策を開始した。

JR 駅に隣接する北栄町観光案内所がギリギリ開いていたので、地図をもらうことができた。漫画『名探偵コナン』原作者の青山剛昌ふるさと館まで徒歩 20分という。目的地の由良台場跡まで、案内された大通り沿いルートだと、明らかに遠回りだったので、地図を参考に旧街道(伯耆街道)沿いの路地を通って、裏門橋を渡るルートで向かった。

全く予備知識のない当地訪問であったが、幸いなことに偶然にも、旧市街地の 宿場町(由良宿)を見て回ることができた(下写真左)。道路は、旧伯耆街道。
下写真右の左端にある看板は、伯州屈指の 刀鍛冶職人・広賀一門の末裔である「道祖尾家(さいのおけ)」の屋敷跡を解説したもの。製鉄業が発達した伯耆国にあって、広賀(ひろよし)一門は刀鍛冶として名を馳せ、毛利家 などに刀を納めていたというが、 後に見田家と道祖尾家に分離し、その後者の末裔が、刀需要の減った江戸期に当地に住み着いて、 代々、農具の千歯などを作る鍛冶屋業を継承していたという。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

江戸期、この町の中央部に 山陰道(伯耆街道)が貫通し、また、由良川の水運交易町でもあった当地は、早くから集落地が形成されていたようで、1719年に 鳥取藩 が藩の 米蔵(下古写真)と年貢米等の番所、専用の船着き場を設置して以降、急速に発展を遂げたという。 1732年には宿駅に昇格されている。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

しかし、ビックリしたことに、藩倉跡地に「売物件」の看板が。。。下写真左。
なお、下写真左の右側の屋根で保護された場所に、 付近の沖合約 700 mの海中より引き揚げられたという江戸時代の 御用船(千石船)の 錨(複製品)が展示されていた。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

また、裏門橋の前には裏門家という、いかにも由緒ある家系のご自宅もあった(上写真右)。
上写真右の左端には、由良川が見える。江戸期、ちょうど藩倉の正面に船着場が設けられており(下古地図参照)、現在、河沿いに史跡記念碑が立つ。


江戸時代中期ごろまで、このあたりの年貢米は 逢束(現在の琴浦町)の藩倉に納められていた。当時は交通の便が悪く、年貢米を納めることは農民の大きな負担になっていた。 このため、周辺村落の庄屋から藩倉新設の願いが度々、鳥取藩 主に出されていた。藩では水利と交通の便を考慮した結果、由良川の水運を利用できる由良に藩倉の設置を決定する。
新たな藩倉は 1719年8月に完成、その年から年貢米の納入が行われるようになった。新しくできた由良藩倉には、毎年、周辺の村々から約 8,000石の年貢米が収められ、因幡・伯耆両国の中では 鳥取米子橋津 についで、4番目の取扱高を誇ったとされる。

東伯郡北栄町

藩倉の正門は南側に設けられ、周囲には 火除け地(防火のための空き地。上の 古地図参照=ヒヨケの文字あり)が巡らされ、厳重な防火体制が敷かれていた。東側には裏門と船着き場が整備され、ここから小舟で沖合で待つ藩の御用船に積み替えられ、当時「天下の台所」と呼ばれた大坂 にある 鳥取藩 蔵屋敷に運ばれていったという。毎年、この米の積出し作業はかなりの大行事で、この風景を見物する人たちで川岸がいっぱいになったことが伝えられている。
こうして、藩倉が開設されたことで、小さな集落であった由良に人が集まり始め、商業地・宿場町として栄えていったわけである。

東伯郡北栄町

明治以降、藩倉の建物群は地元の育英中学の寄宿舎や由良小学校の校舎として利用されていたが、老朽化のために取り壊され、現在、裏門の横にあったといわれる稲荷社のみが残されている。



裏門橋を渡り、そのまま由良川沿いに進むと、前方に 由良台場跡 が見えてくる。
1863年、由良川の河口部に建造された台場跡で、当時、8門の大砲が設置されていたという。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

きれいに草が刈られており、台場の形状がくっきりと目視でき、どこでも立ち入りが自由という大変にオープンな史跡で、非常にありがたかった。
大砲があった角面は、その形状がきれいに保存されており、生々しかった(下写真)。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町
東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

砲台の入り口は、中国伝統家屋にみられる衝立のような構造になっており、左右両脇から中へ入れる仕組みだった。下写真。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

電車の発車時刻もあるので、慌ただしく 帰路についた。


江戸時代末期、1808年のフェートン号事件などを受け、 幕府は 1825年、異国船打払令と発布し、全国の諸藩に海岸防備の 強化を指示するようになる。 そして、ますます 外国船(黒船)の脅威が高まる最中の 1863年、 鳥取藩 でも、 鳥取藩の海岸線東西 160 kmの防衛のため、重要港湾を控えた 8カ所(浦富、浜坂、賀露、橋津、由良、赤碕、淀江、境港)に 砲台拠点が建造されることとなる。

一宿場町に過ぎなかった由良湊に砲台基地が設けられたのは、 藩米の取扱高 4位の藩倉が設置されていたためであった。
この台場の建造作業は、高島秋帆に西洋砲術を学んだ武信潤太郎総指揮の下、突貫工事で進められた が、当時、すでに鳥取藩財政は窮乏していたため、藩からの出資金無しで築造工事が進め られることとなる。男女問わず、16歳から 50歳までの農民が動員され、その延べ人数は 75,000余人 に及んだという。その人夫賃等の費用は、中・大庄屋、豪農らの献金にまかなわれたとされる。

翌 1864年に完成した台場は、東西 125 m、南北 83 m、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは 4.5 mにも及んだ。台場内側は、三段構造になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計 4門の大砲が配置されていた。大砲は、由良湊近くの六尾反射炉で製造されたもので、それぞれ 60斤砲、24斤砲、18斤砲、5斤径砲であったという。



なお、北栄町 一帯に「コナンの町へ ようこそポスター」が配られているようで、多くの家々で道路に面した窓に、ポスターが貼られていた。住民の一帯感が強烈に感じられる、倉吉市 に合併されずに頑張る北栄町のプライドと気概を見た気がした。

東伯郡北栄町 東伯郡北栄町

さて、17:50前に駅に戻る。少々、時間ができたので、コナン人形や看板などのオブジェが彩る 駅前広場を見て回った(上写真左)。トイレの男女マークも、もちろん、コナン(上写真右)。
そして、17:55発の 鳥取 行の普通電車に乗り込んだ。
多くの高校生や中学生らが同時に由良駅から乗車していたが、皆、倉吉駅 で下車していった。


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