BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬


奈良県 御所市 / 葛城市 / 大和高田市 ~ 市内人口 4.8万人、一人当たり GDP 411万円(奈良県 全体)


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  楢原下城跡、九品寺(城主・楢原氏の菩提寺)、駒形大重神社(城主・楢原氏の祖先廟)
  楢原城跡(奥城、中城、前城)
  櫛羅(クジラ)藩 陣屋跡
  葛城市歴史博物館(布施城の山城模型あり)
  新庄城(新庄陣屋)跡、屋敷山古墳、慶雲寺(布施氏三代の墓あり)
  布施城跡
  万歳平城跡(春日若宮神社、金勝寺)、万歳山城跡
  高田城跡
  藤森環濠、南郷城跡、細井戸城跡、赤部城跡、鈴山城跡



本来なら、JR高田駅あたりでレンタサイクルできればベストなのだが、 大和高田市内にはレンタサイクル事業者が存在しなかったので、 南隣の御所市まで移動し、 JR御所駅(近鉄線・御所駅)前にある「御菓子司 あけぼ乃」で自転車を借りることにした(8:30~19:00)。電動アシスト自転車のみ、一日 1,200円

早速、JR御所駅の西側に連なる山岳地帯を目指し、「楢原城(奥城、中城、前城)」一帯と、「楢原下城」を見学してみる。下段地図。

まず最初に「楢原下城」に立ち寄ってみた(下地図)。ここは、 山岳部の「楢原城」を詰め城とする 楢原(たるはら)氏一門衆の主要城館の一つだったとされるも、 その詳細は不明という。現在は集落と田畑に埋もれるだけとなっていた。

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そのまま東進し、山裾に立地する「九品寺(くほんじ)」を参拝する(下地図)。 もともとは、室町時代にこのエリアを支配した楢原氏の菩提寺として建立されたものという。 現在でも、境内や本堂裏山には無数の石仏群が大量に保存されている。 南北朝時代の動乱の最中、南朝方に組した楢原氏配下の兵士らが、戦場に赴く前に身代わりとして奉納した石仏といい、 「身代わり千体地蔵」と呼ばれてきたものだ。

そして、往時にはこの後方の葛城山へ続く中腹から山頂にかけて、段々に 奥城(標高 380 m、比高差 150 mの山頂に主郭を持つ)、 中城、前城の三つの山城が造営されていたわけである。下地図。

現在、この登山口は北隣の「駒形大重神社(室町時代には、楢原氏の 祖・滋野朝臣貞主を祀っていた)」側にあり、 この鳥居脇から林道が続く(下地図)。 約 600 mほど林道を進むと北の山側へ通じる登山道があり、上から水が滴り落ちる道を 5分ほど登ると、谷に出る。

この右手斜面を登ると「前城」の最前部に至る。 かつて、「左音寺(沙恩寺)」と称された中世寺院が建立されていた平地という。

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さらに谷を進むと、一番奥の斜め右手上に「前城」の三重堀切の遺構が姿を現す。 その他、複数の曲輪跡も確認できた。

そのまま登山を続けると「中城」に至る(上地図)。ちょうど「前城」の斜面を南北から取り囲むような設計で、 尾根筋のピークを主郭とする連郭式の山城の姿がはっきりと視認できた。 山自体は倒木や 藪、草木がそのまま放置され手入れが全く行き届いていなかったが、 山肌に造営されていた 土塁、堀切、土橋、畝状竪堀等の遺構はしっかりと残っており、見ごたえ抜群だった。

「奥城」側にも、幾条にも掘られた堀切と畝状竪堀群が残っているらしかったが、この辺りで諦めて下山することにした。 ほぼ自然林の中を散策することになるので、夏季の登山は控え、冬季に訪問すべき場所だろう。 大和国有数の規模を誇る山城というだけあって、 全体を視察するのは、それなりの時間と体力の消耗は避けられそうにない。



 樽原氏

樽原氏は、源姓樽原氏とも別称される。
清和源氏の 祖・源経基(890?~961年。下家系図)を祖父に持つ、源頼親(966?~1057?年。下家系図)が大和国の国司を務めたことに派生する、 大和源氏一門の末裔とされる(下家系図)。 平安時代の 大和国・国府は奈良盆地南部の高取郡に開設されており(元・平城京 があった北部は、引き続き、 興福寺【藤原摂関家の氏寺】をはじめとする寺院勢力の影響力が強大過すぎたため)、 源頼親はこの寺院勢力と対峙すべく、南部一帯の在地土豪との関係を強化する中で、 多くの子孫を残したとされる。そのうちの一つが 越智氏 であり(下家系図)、 この庶家として 大和国南葛城郡楢原庄(現在の 奈良県御所市楢原大字)に本貫を置いたのが 樽原氏、と伝承されている。 こうした関係から長らく南大和の支配にあたり、惣領家の越智氏と行動を共にしていくこととなる。

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平安時代末期には、戦火により高取郡に開設されていた国府も荒廃し、国府が奈良盆地中部の郡山郡へ移転されると、 今度はその地元土豪だった筒井氏らが台頭してくる。この頃には興福寺の影響力がますます増大し、 大和国最大の荘園領主として君臨したことから、鎌倉時代に入ると、幕府は大和国に守護や地頭を置かず、 そのまま興福寺領として独自に 荘園経営、徴税業務を担うことを容認していく。
そして興福寺によって、各地の荘園管理や徴税業務を委託された在地土豪らは、興福寺の門徒宗として組み込まれ、 物理的、精神的な主従関係が構築されていったわけである。彼らは、時とともに「衆徒」、「国民」と呼ばれるようになる。

当時の武家は、分割相続を防ぐために家督を長男に相続させ、次男、三男を寺に出すという慣行が定着しており、 興福寺には皇族や 藤原摂関家、上級公家一門を筆頭に、畿内各地の武家の 次男、三男らも数多く集められていた。 特に武士側にとっては 次男、三男を戦火から回避させ安全な場所にキープすることできる一方で、 興福寺にとってもそれぞれの出身家から寄進がもらえるなど、 両者の間には Win Win の関係が成立していたわけである(皇族や貴族らの子弟にとっては、 興福寺傘下の主要寺院の院主ポストなどが用意される利点があった)。 同時に、興福寺は地侍らを従わせるため、ランク分けされた僧侶資格を整備し、 興福寺を頂点とする統治システム内にがっちり組み込んでいったのだった。

一方、藤原摂関家の分裂にともない、興福寺も大乗院派と一乗院派とに分裂すると、 双方の派閥は武装集団化していた地侍らを僧兵化して武力衝突を繰り返すようになっていく。 彼らは地域ごとに徒党を組むようになり、主に 9グループへとまとめられていく ー 平田党(岡氏・万歳氏・高田氏・布施氏)、長川党(箸尾氏・唐古氏)、長谷川党(十市氏・八田氏)、 戌亥脇党(筒井氏・福住氏・井戸氏・中坊氏・山田氏・嶋氏・松蔵氏)、散在党(越智氏・柳生氏・片岡氏)、 南党=葛上党(楢原氏・吐田氏・豊田氏)、古市党(古市氏山村氏・長井氏)、東山内衆(多田氏・吐山氏・豊田氏)、 宇陀三将(秋山氏・沢氏・芳野氏)。
この「南党=葛上党」とは、葛上郡(今の 奈良県御所市一帯)一帯を支配した武士団で、そのリーダー的存在が楢原氏だったわけである。下地図。

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そんな渦中に、後醍醐天皇による倒幕運動、さらに南北朝の動乱が続けて発生すると、 大和国の武士団らは複雑な利害関係に絡まれて、ますます離合集散を繰り返し、小競り合いが日常化していく。この時期、葛上党リーダーの楢原氏は、 惣領家・越智氏に従って南朝方として参戦しつつ、詰め城として大規模な山城を築城するわけである。 これが、楢原城(奥城、中城、前城)というわけだった。

鎌倉時代同様、室町幕府 も大和国に守護を置くことはなく、興福寺の支配権が追認されたわけだが、 それが故に、早くから各地の土豪らが割拠する戦国時代の様相が早くも出現することとなる。 奈良盆地北部の 筒井氏古市氏、箸尾氏、南部の 越智氏十市氏、楢原氏、宇陀地区(東の山岳地帯)の 秋山氏、沢氏、芳野氏 らが中心勢力となり、各地域ごとに鎬を削り合っていく。

特に北部の筒井氏と南部の越智氏の勢力が強大化し、周囲の土豪らは南北どちらの陣営に組するかで、 大和国内での生き残りをかけた選択を迫られるようになり、京都で応仁の乱が勃発すると、 筒井氏は東軍に、越智氏は西軍に与するなど、常にこの対立構図が反映されていくこととなる。
この混乱の最中、楢原氏は越智党から筒井党へ鞍替えし東軍に組すると、直後より、越智氏&古市氏は報復として、 楢原郷の南側を支配していた吐田氏を支援し、楢原氏討伐戦を進める。その結果、 楢原氏は「楢原城」を追われて福住まで逃亡することとなり、筒井氏&福住氏らと共に 20年間にわたる郷里奪還戦を強いられるのだった。

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その後、 筒井氏が越智氏を撃破し奈良盆地南部を占拠したことで、ようやく楢原氏も楢原郷の旧領に復帰するわけだが、 すぐに越智氏が外部勢力の畠山氏の支援を受けて復活すると、以後も大和国内では筒井党と越智党との紛争が 100年近く続けられていく。 戦国時代に入ると、三好家や織田信長などの外部勢力の大規模介入があり、大和国の騒乱は一気に終息に向かうこととなる。 最終的に、織田信長から大和国の支配を任された 筒井順慶 の治世下にあって、楢原家当主・楢原俊久もその内衆に名を連ねることとなった。

この時代、越智氏も信長に臣従したことから、長年のライバルだった筒井家の配下に組み込まれ、楢原家は惣領家の越智氏との和解を図り、 越智氏との間で養子を送り合って一門衆に返り咲くこととなるも、1582年に本能寺の変で信長が横死すると、 翌 1583年に筒井順慶によって越智氏当主は謀殺され、滅亡に追い込まれる。楢原家は引き続き、 筒井家の内衆として存続するも、1585年8月に秀吉による大規模な国替え事業により、 筒井家が伊賀上野への転封を命じられると、楢原家を含む家臣団も郷里を離れて伊賀への転籍を余儀なくされるのだった。

関ヶ原合戦 では東軍に組して領地を安堵された筒井家であったが、引き続き、大坂城の豊臣家 と懇意にしたことから、 1608年、家康により改易を命じられ、家臣団も離散に追い込まれる。こうして郷里に戻り、半農生活を強いられることとなった大和武士らは、 1614~1615年の大坂の役で豊臣方として参陣する者が多く出るも、その敗戦を受け完全に没落し農民化していったという。



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下山後、そのまま山麓の国道 30号線(山麓線)を北上することとし、その途中にある「櫛羅(クジラ)藩 陣屋跡」と「新庄城跡」に立ち寄ってみた。上地図。

早速、間もなく「櫛羅藩 陣屋跡」に行き着くも、県道 213号線沿いの門は 2か所とも閉鎖されており、 私有地により内部も見学不可能だった(下地図)。特に石碑や解説板もなく、事前の下調べが無いと絶対に史跡とは分からない代物だった。

ただし、周囲に往時の建物や城門が移築されているということで、 地元の民家などを巡ってみることにした。南門は普通に民家前にあった(上地図。県道 213号線近く)。 他に東門と御殿の一部もかつて周囲の民家に移築されていたらしいが、火災により焼失してしまったという(1997年)。
御殿玄関は、最初に訪問した「九品寺(上地図)」に移築されており、現在は本堂と合体される形でしっかり保存されていた。

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現在の 小字「櫛羅(くじら)」の地は、もとは「拘尸羅、倶尸羅、具尸羅、倶志羅」等の漢字が当てられており、 中世期には 興福寺大乗院門跡傘下の 坊人(衆徒、国民)だった倶尸羅氏が居城を構えていたとされる。
古くより交通の要衝として栄えた土地柄で、奈良盆地と吉野山地との中継地点であると同時に、 西は 金剛山&葛城山の間を通る水越峠と通じて 大坂 方面へ出ることもできたため、 一帯の中心的な交易集落として発展してきたという。 その集落地を見下ろす 丘陵(岸野山)上に、倶尸羅氏の城館が造営されていたのだった。

なお、この倶尸羅氏の出自は不明なままだが、 室町時代(南北朝時代)初年の 1384年に記された『長川流鏑馬日記』の中に、 春日若宮祭の流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員として「拘尸羅殿」の記載があることから、 この時期にはすでに在地領主として存在していたことが確認できる。

戦国時代末期には、南隣の楢原氏と共に 筒井順慶 の旗下に組み込まれるも、 1585年に筒井家が伊賀上野へ転封されると、家臣団の一員として倶尸羅氏も郷里を離れることとなる。

関ヶ原合戦 では東軍に組して所領を安堵された筒井家であったが、大坂城の豊臣家 との関係性が強かったことから家康の不興を買い、 1608年に筒井家が改易されてしまうと、以降、家臣団らは浪人化し、 その多くは大坂の役で豊臣方として参戦することとなり、敗戦の結果、完全に没落していったわけである。その中に、倶尸羅氏も含まれていた。
なお「倶尸羅」集落は、江戸時代以降も引き続き、交通の要衝として一定規模の中継集落が存続し続けたようである。

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一方、江戸幕府により 1601年に大和新庄藩が新設されると、 和歌山藩 から 桑山一晴(1575~1604年。桑山重晴の孫)が転封してくる。 藩政の拠点が「新庄城(新庄陣屋)」に開設されると、当時、それなりの人口規模があった「倶尸羅」集落地にも代官が派遣されていたと考えられる。 その桑山氏も、幕府行事に際し勅使に不敬があったことを咎められて改易されると(1682年)、同年、 宮津藩から大和新庄藩(10,000万石)藩主として永井氏が入封してくる。 なお、譜代大名の永井氏は定府が規定となっており、常に 江戸 在住であったため、藩主自身は一度も所領へ足を踏み入れることは無かったという。

代わりに駐在した代官は、しばらくの期間は「新庄城(新庄陣屋)」を藩政庁として継承していたが、 8代目藩主・永井直荘(直壮)の治世下の 1863年8月、藩庁が「倶尸羅」集落へ移転されることとなり、 もともとあった 旧・倶尸羅城館が改修され、新陣屋として再利用されるのだった。 このタイミングで「倶尸羅」は「櫛羅」へ改称されており、その命名の由来として、 「崩地(くずれち=急斜面)説」、「葛原(くずはら)説」・「奇邑(くしむら)説」などが指摘されている。
さて、大和新庄藩は櫛羅藩へ改称後も、引き続き、葛上郡、葛下郡、忍海郡の 3郡を統括したわけだが、 藩主・永井直壮は間もなくの 1865年に没したため(享年 20)、結局、新陣屋へ足を踏み入れることはなく、 その養嗣子の永井直哉が家督を継承し、藩主として初めて所領地に赴任してくることとなった。 間もなく 鳥羽伏見の戦い を皮切りに戊申戦争が勃発すると、 直哉も「櫛羅陣屋」から上洛し、そのまま新政府に恭順し所領安堵となっている。

1871年に廃藩置県が実行され、櫛羅県へ再編されるも、 間もなく奈良県へ編入される。陣屋を構成していた建物群は解体され、 このタイミングで、それらの一部が払い下げられて周囲の民家や寺院へ搬出されていったわけである。



さらに国道 30号線(山麓線)の北上を続けていると、途中で「近鉄線・忍海駅」へ続く道路との交差点に行き着く(山田南交差点)。 ここを東へ進むと、すぐに「忍海駅」に到着できるわけだが、その駅前に「葛城市歴史博物館」があったので、見学していくことにした(下地図)。 ここには、下段写真にある「布施城」の山城模型が展示されていた。

駅の反対側には弁当屋さんや ローソン、巨大スーパー「オークワ 葛城忍海店」や「ラ・ムー 葛城忍海店」が軒を連ねているので、 ここでランチ休憩をとってもよいかもしれない。 下地図。

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再び、国道 30号線(山麓線)に戻って北上していくと、「新庄文化会館(マルベリーホール)」、「葛城市中央公民館」を通り過ぎる。 この北隣に「屋敷山公園」があり、屋敷山古墳のこんもりした丘陵が目に飛び込んできた(上地図)。

この公園一帯が、室町時代から江戸時代にかけて「新庄城(新庄陣屋)」が立地していた場所で、 古墳前に石碑と案内板が設置されていた。大和地方によくあるパターンで、巨大古墳を利用して城塞が築造されていたようである。 かつて四方を取り囲んでいた水堀は、現在、ほとんどが埋め立てられ、一部が市民公園の池となっていた。下地図。

なお、屋敷山古墳は全長 135 m × 高さ 15 mの前方後円墳で(葛城市内で最大)、現在、国の指定史跡となっており立入禁止状態だった。

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 新庄城(新庄陣屋)跡

古墳時代中期に築造されていた 前方後円墳(ヤマト王権時代に天皇家との姻戚関係を重ねて権勢を振るった、在地豪族・葛城氏の墓)からは、 長持形石棺の一部や天井石などが出土しているという。

室町時代、この高台の地形を利用して布施氏が居館を構えており、 新庄一帯(だいたい現在の 葛城市域中部・南部一帯)を支配したという。 平時には平野部の「新庄城館」で生活し、戦時には葛城山系の中腹の尾根上に築かれた 詰め城「布施城」に籠るスタイルであった。
この布施氏は、興福寺一条院方の国民で平田庄八荘官の一角を構成する在地土豪で(下地図)、大和国判衆十二氏に名を連ねたという。

戦国期の 1559年、畿内平定戦を続ける 三好長慶(1522~1564年)の 家臣・松永久秀(1508~1577年)が大和国へ侵攻してくると、 東大和の土豪リーダーであった 筒井氏を駆逐し、奈良盆地の東半分を支配するに至る。 久秀はその後も、筒井方に組した 十市氏 や興福寺らを撃破しつつ、 信貴山城 を大改修して、大和支配を本格的に進めることとなる(1560年)。

この過程で、多くの在地土豪らが久秀の軍門に下っていくも、畿内各地への出兵や 多聞山城 築城など度重なる労役を課されたことから、 大和武士らは反感を強め、当時の布施家当主であった 布施行盛(左京進)も、久秀に抵抗を続ける筒井派に鞍替えすることとなり、 自らの詰め城である「布施城」に 筒井順慶 を迎え入れる(1565年11月)。このため、布施氏の人質として久秀に預けられていた親族は、 翌 12月に串刺しの刑に処されてしまうのだった。

挙兵直後には、久秀旗下だった「高田城」を攻め落とし、城主の高田氏を滅亡させる戦果を挙げるも(1565年11月)、 激怒した久秀軍の攻撃を受け(特に 1568年と 1569年の大攻勢)、布施郷一帯は完全に焼き払われることとなった。 それでも、籠城した「布施城」自体は落城することはなく、7年間にも及ぶ包囲戦を戦い抜いていく。

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最終的に 1577年8月、久秀が信長に背き 信貴山城 に籠城すると、布施行盛はこれに組しようとした 孫・弥七により自害に追い込まれる。 これにより、布施氏の嫡流は断絶したと考えられ、その一門衆だった 布施春行、春次、慶春 らが引き続き、筒井家に仕えて家名を残すこととなった。

1580年に織田信長により大和一国の支配を公認された筒井順慶は、同時に信長より 郡山城 以外の全ての城塞破却を命じられ、 この「新庄城館」や「布施城」も順次、解体されていったと考えらえる。その信長も 1582年6月に本能寺の変で横死すると、 筒井家はすぐに秀吉に臣従するとともに、翌 1583年以降、大和国人衆らの粛清を進め、越智氏 らを謀殺していく。 こうした中でも、布施氏は筒井家内衆とし重宝され、1585年の伊賀上野への転封にも付き従うのだった。

関ケ原合戦 では東軍に組し、なんとか所領を安堵された筒井家であったが、引き続き、 大坂城の豊臣家 に近しい関係を保持したことから、家康の不興を買い、1608年に改易されてしまうと、 その家臣団は浪人化を余儀なくされる。多くは郷里の大和へ戻って帰農し再起を伺っていた中、1614~15年にかけて大阪の陣が勃発すると、 豊臣方の誘いに応じて多くが挙兵し、特に夏の陣の前哨戦である郡山城攻略戦で活躍したという。 最終的に大坂方の敗北とともに、布施氏を含む大和武士らは本当に没落してしまい、完全に農民化することとなった。

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さて、布施氏の 旧領・布施郷であるが、1601年に 紀州・和歌山城 から移封されてきた 桑山一晴(1575~1604年)が支配することとなり(16,000石)、 「新庄城館」跡地に新庄陣屋を造営する。この陣屋には、初代藩主・桑山一晴以下、一直(1578~1636年。 実兄の一晴が子を残さずに死去したため、養子として家督継承)、 一玄(1611~1684年)、一尹(1645~1683年)らの 4代が居住し、政務を取り仕切ったという。
同時に、陣屋の東側にある 道穂みつぼ村、桑海村(葛木村)の土地を大規模改造し、 計画的な 陣屋町(城下町)建設を進めていく。ちょうど南北に走る「竹内下市街道(現在の 新庄中学校の東側面の道路)」沿いに町を整備したわけである。以降、陣屋町は「新城村」、「新庄村」と称されることとなる。

しかし 1682年5月、4代目将軍・家綱(1641~1680年)の法会が寛永寺で開催された際、 勅使饗応役を務めていた 桑山一尹(1645~1683年。大和国新庄藩 4代目藩主)が勅使に対して不敬な行動を取ったことから改易命令を受けてしまうと、 改めて、譜代大名・永井直圓(1671~1736年)が新庄藩 1万石の大名として入封し、そのまま「新庄陣屋」を継承することとなる。 永井家は定府の幕府直臣であったことから、藩主自体は一度も陣屋に入ることなく、代官が在番するのみであったという。

1863年、8代目藩主・永井直壮(1846~1865年)が「櫛羅陣屋」を新築し藩政庁を移転すると(新庄藩 → 櫛羅藩へ改称)、 新庄陣屋の多くの建物群も 解体&移築されたと考えられ、 その跡地は放棄されることとなった。



この西側にそびえたつ金剛山地から東へ派生した尾根の中腹あたりに(標高 460 m付近)、かつて「布施城」が立地していた。 今回は登山の余力がないので、遠目からの写真撮影にとどめておいた。

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戦国期の 城主・布施行盛(左京進)が 筒井順慶 らと共に立て籠り、 1565~1571年の 7年間、松永久秀軍との籠城戦を戦い抜いた大和国最強の山城、との異名をとる名城である。 1569年には織田信長の援軍も加わっての城攻めが行われたが、頑強に抵抗を続けた。 東西約 600 m、南北約 200 mもの広大な面積に展開されており、北近江の 武将・浅井長政の小谷城クラス の山城であったと指摘されている。

この間に、松永久秀は三好三人衆と組んで足利義昭と対立するようになり、これに対抗すべく、 「敵の敵は味方」ということで、1571年6月、義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込み、大和国での戦線打開に大きな弾みをつけていく。 これにより、久秀は本格的に 義昭・信長に反旗を翻すわけだが、同年 8月4日の辰市城の戦い で筒井方に大敗してしまうのだった。 戦争で疲弊した両者は、信長の仲介により休戦に合意し、そのまま信長傘下に組み込まれて微妙な共存関係に収められるわけである。

「屋敷山公園」の西側にある「龍富山 慶雲寺」には(下地図)、布施氏三代の墓が保存されているという。
もともとは真言宗派の寺院で、「二塚城(今の 新庄町あたり)」の脇に立地していたが、城主・布施行種が深く禅宗に帰依したことから改宗し、 1516年3月に現在の地に移転されて「慶雲寺」と改称し、江戸 から梅渓を迎えて初代住職を依頼したとされる。以降、布施氏の菩提寺となり、 江戸時代以降も 新庄藩主・桑山氏の帰依を受け大いに栄えたという。

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そのまま北へ直行すると、「近鉄線・当麻寺駅」近くを通過する際に、線路の東側へ移動する。

ここをまっすぐ東進すると「万歳平城跡」があった(上地図)。 高田西中学校の南側道路沿いに解説版が設置されているものの、大部分は宅地開発されてしまっており、 城跡の遺構としては、東側に残る 名倉北池(堀を加工したもの)と 土塁片である竹藪ぐらいだった。

一般に「万歳城」と通称されるものの、葛城山系に連なる二上山上にある「山城(万歳山城)」と区別し、 「万歳平城」と呼ばれることもある。ここは万歳氏が平時に生活していた居館であり、 当時は二重の 郭(長方形の主郭と 西側に出っ張る小規模な出丸)と、二重の環濠で守られていたという。 発掘調査により、14世紀中期の土師器の小皿と中皿が出土している。
現在の「春日若宮神社」と「金勝寺」が立地するエリアが主郭跡地で、金勝寺の山号も万歳山となっている。 また当時の城下町の名残りも、地名(大和高田市大字市場)にしっかり刻み込まれていた。


この地は、興福寺一乗院方の 荘園「平田庄」が広がっていたエリアで、 その管理者として 8つの 在地土豪(八荘官=万歳氏、中村氏、高田氏、岡氏、当麻氏、布施氏ら)が経営を委ねられていた。 彼らは同時に一乗院方の国民にも任命され、神事に重要な任務を司っていたわけである。

その一角を担ってきた万歳氏は、古墳時代に 大和葛城地方(現在の 奈良県御所市・葛城市一帯)を支配した葛城氏の末裔とされる名門で、 平安時代以降、平田庄のうち万歳郷の経営管理を任されたことから、この地に城館を構えたわけである(万歳平城)。
その管轄エリアは葛下郡北部に広がっており、緊急避難用の施設として、 西方の二上山上にも山城を準備したのだった(万歳山城)。また今の 大谷山自然公園にも「乾城」を築城し、 これら 3拠点により領地経営が行われていたという。下地図。

しかし、奈良盆地の中央部に位置するという宿命から、度重なる戦火に巻き込まれることとなり、 室町時代以降、「万歳城」を巡る攻防戦は度々、史書に記録されることとなる。

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特に応仁の乱以降は 南大和に君臨した越智氏 に組するようになり、以降、100年以上にわたり、 筒井派に従った同じ平田庄八荘官の中の 岡氏、布施氏、高田氏 らと抗争を続けていくこととなる。
1475年には筒井順尊の率いる一派に「万歳城」を攻められるも、 城内より打って出て返り討ちにするという大勝により、筒井派を一時的に大和から放逐することに成功している。

1559年に松永久秀が大和へと侵攻し、筒井氏が 居城・筒井城での攻防戦に敗れると、それまで筒井派を構成していた多くの大和国人衆は松永氏に降ることとなる。 その中に、万歳氏も含まれていた。

この時、まだ幼少だった筒井順慶は南の布施氏に匿われ、「布施城」で籠城戦を展開していくこととなる。 1565年には「布施城」から平野部へ侵攻した筒井党の一軍が「万歳城」を攻撃した記録が残されている。

1576年に松永久秀が信長に背き 信貴山城 にて滅亡すると、筒井順慶は信長から大和一国支配を任されることとなり、 万歳氏も筒井家の内衆として臣従していく。

1580年に、織田信長による諸城破却令を受け、郡山城 を除く大和国内の全ての城塞群の破却が進められ、 「万歳城」も消失されることとなった。



そのまま大和高田市の市街地に入り込む。 近鉄線と JR線の鉄道駅が並立し、大きな商業エリアが広がっていた。

この高田駅の南側すぐに「高田城跡」が立地する(下地図)。ちょうど現在の 片塩小学校、常光寺池 一帯が城域であったという。 現在、小学校の南側にある小公園に案内板と石碑が設置されているものの、特に城郭遺構は残存していない。
また、公園南側にある常光寺内には、高田城主・當麻(当麻)三河守為長公之墓も保存されていた。 當麻(当麻)氏とは、後に高田氏を称した一族である。

御所市


「高田城」は、1432年、室町幕府 6代目将軍・足利義教の命により、當麻(当麻)為貞が正式に城主に任じられた、 という記録が『長川流鏑馬日記(1384年執筆)』内で言及されているものの、 実際には一乗院方の国民として古くからの在地土豪であった可能性が高い。

いずれにせよ、「高田城」は当麻氏の 居館&政庁として機能したわけだが、盆地の中央部に位置したことから、 何度も戦火に晒されたようである。 周囲には、小規模な 城塞群(土庫塁城、松塚塁城、有井塁城、北角塁城 など)も構築し、常時、臨戦態勢が取られていた。

1447年には 越智・古市方に付いた布施氏によって攻め立てられ、 五重の木戸のうち四重まで攻め込まれた記録が残されている(最終的に撃退に成功している)。

御所市

当麻為長の城主時代には、城館に隣接する場所に常光寺が建立される(1471年。今の旭北町)。 さらに、天神社の 修復(1482年。今の三和町)、証菩提寺(今の不動院)の 建立(1484年。今の本郷町)なども手掛けた記録が残されている。 以降、常光寺は当麻氏の菩提寺として地元より厚い帰依を集め、今日まで継承されているわけである。
この頃より、當麻氏は在地名の高田をとって高田氏を称し出したと考えられる。

松永久秀と筒井氏が対立すると高田氏は松永軍に組したが、 1571年に松永氏が筒井氏に大敗すると筒井氏が大和国を支配することとなり、高田家当主は中坊で殺害される。
最終的に、1577年に筒井順慶が織田信長から大和支配を公認され、続いて 1580年に信長から諸城破却令が下されると、 順慶の 本拠地・郡山城 を除く、大和国内の全ての城塞群が破却されることとなり、この一環で、「高田城」も解体されたと考えられる。



あとは、南へ延びる国道 165号線(24号線)を進めば、「JR御所駅」に帰りつけるので、そのまま自転車を返却することにした。

なお、時間があれば、近鉄大阪線の北側へ移動し、付近に点在する城跡を周遊することもできる(下地図)。

御所市



 藤森環濠
現在、慈雲寺や藤森公民館が立地するエリアが「藤森環濠跡」であり、 西面を中心に 北面、南面まで環濠の水堀が保存されている。今日まで、この水が灌漑用水として地元で利用されてきたため、 埋め立てられずに残存できたというが、残念ながら東面の水堀は消失されてしまっていた。
戦火の絶えなかった大和国にあって、その中央平野に立地した集落の多くは、 四方を 濠(堀)で囲んで環濠集落化していたわけだが(有井、池尻、松塚、土庫、岡崎、礒野 など)、 当時からこれらの水堀はため池の意味合いも兼ねており、農業用水や生活用水として活用されていたという。

なお、その形状は正確な 方形(東西 250 m、南北 200 m)というよりも、 不規則に折れ曲がりながら一辺が構成されており、住民らの生活実態に沿いながら整備されていった背景が伺える。
西側から集落へ入る橋のたもとに(十二社神社前)、集落跡に関する案内板が設置されていた。


 南郷城跡
現在でも、葛城川や 高田川、尾張川、曽我川、飛鳥川、寺川 などが並行して流れる奈良盆地は、 古くから水郷地帯を形成しており、また戦火の絶えなかった世相を反映し、多くの集落が環濠化していた。 そのうちの最大級のものが「南郷環濠」である(東西約 550 m、南北約 700 m)。地元では、環濠内は今でも「城の内」と呼称されている。

かつてはこの水堀の内側に「掻き上げの城 = 土塁城塞」が造営され、その南東隅角に 在地豪族・南郷氏(興福寺の 荘園「新治庄」内の南郷郷一帯を支配し、興福寺大乗院方の国民の一角を成した)の居館があったとされる。現在、土塁はすべて撤去され、 水辺は護岸コンクリートで覆い尽くされている。特に北面は公園として整備されており、 その北東端に環濠集落の記念碑が設置されている。この水堀の水は今も農業用水路として利用されており、周囲の田畑と連結されている。
1600年の関ヶ原合戦後、 南郷一帯は 幕府直轄領(2万石)となり、新代官に任命された北見五郎左衛門が翌 1601年、環濠内に代官陣屋を設けたという。


 細井戸城
馬見丘陵の東斜面上に造営されていたようで、現在、広陵町立広陵西小学校の校舎が建つ高台を主郭とし、 一段低くなっている運動場あたりに、かつては郭群や堀などが展開されていたと考えられるが、 城塞時代の遺構は全く残っていない。丘陵斜面の麓には城下町や集落地が広がっていたことだろう。

ここは、興福寺一乗院方の国人だった細井戸氏の居城で、筒井党に与して 越智氏十市氏 らと戦った一族であった。 1569年より松永久秀が大和国へ侵攻してくると、これに組した箸尾氏により城館を攻め落とされている(1570年7月29日)。 その後も細井戸氏は筒井家に家臣として仕え、1608年に徳川家康により筒井家が改易されると、 その家臣団はそろって浪人化し地元へ戻り帰農を強いられることとなる。そんな折、1614~1615年に大坂の役が勃発すると、大和武士の多くが豊臣方として参加し郡山城 攻めに加勢している。 最終的に大坂方が敗れると完全に没落し、以降、農民化していったわけである。


 赤部城跡
現在の 北葛城郡広陵町三吉「字大垣内」の集落内にある菅原神社が、 かつての「赤部城」跡地と考えられている。今でも地形的に集落内でも高台となっており、また北面から西面にかけて流れる水路は、 かつての水堀跡と見られる。
この城館に関する情報は一切不明となっているが、 箸尾城主・箸尾為春の 女婿・箸尾(藤原)友春の居城であったと伝えられている。


 鈴山城跡
香芝東中学校グラウンドの南隣にある雑木林内に、城跡が残る。 中学校の南側を通過し、歩行者・自転車専用道から回り込む形で裏山丘陵の南側へ出ると、 林を囲っていた鉄柵が途切れる個所があり、ここが城跡への入り口となっている。
ちょうど堀切の底を通行する形で雑木林に入っていくと、少しずつ高度が増していき、 古墳(御坊中古墳群)を利用した城塞上に到達する。 ちょうど城跡の西面空堀に相当する箇所だったようで(方形型の城館の四方には空堀が巡らされていた)、 ここから北側へ向かって、円墳を利用した 土塁、櫓台、土橋、竪堀などが完璧な姿で残存していた。

南北朝時代に主に利用されていたようで、その 終焉(14世紀後半)と共には廃城となったようである。 詳しい情報は一切不明な上に、史跡に関する案内板なども皆無なので、事前準備が必須の史跡である。



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