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日本の城 から
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兵庫県 赤穂市
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
兵庫県 赤穂市 ~ 市内人口 4.4万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)
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加里屋城(仮屋城)
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【豆知識】加里屋城(仮屋城)~ 播磨守護家・赤松氏の栄枯盛衰 と 赤穂平野 ■■■■
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赤穂城下町エリア ~ 花岳寺、鉄砲屋敷跡、東惣門跡(惣門跡石標)、赤穂忠臣蔵郵便局
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息継ぎ井戸 と 赤穂の上水道
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【豆知識】赤穂事件発生! ■■■■
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赤穂城跡、赤穂市立歴史資料館
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【豆知識】赤穂城 ~ 備前・宇喜多家の支配時代 と 海城の誕生 ■■■■
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唐船山台場
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【豆知識】赤穂藩の 台場建設(丸山台場、御崎台場、唐船山台場、松ケ鼻台場)■■■■
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海浜公園と 塩田跡地、赤穂市立海洋科学館
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御崎エリア ~ 御崎台場跡、伊和都比売神社、大石名残の松、きらきら坂、恋人の聖地
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千種川沿いの 高瀬舟船着場跡と 尼子山城跡
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坂越エリア ① ~ 木戸門跡、奥藤酒造郷土館、大道井跡、旧坂越浦会所、とうろん台
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坂越エリア ② ~ 茶臼山城跡、坂越浦城跡
JR姫路駅
より山陽本線を西進し、相生駅で播州赤穂行に乗り換える(JR赤穂線)。 30分強、590円で到着できた。
午前の早めの時間から散策をスタートする。
JR播州赤穂駅 2階(改札口の向かい側)にある「赤穂観光協会」でレンタサイクルを借りた(9:00~17:00、シティー自転車 500円、ヘルメット貸し出しあり)
。
そのまま駅南口を出ると、広々としたロータリーが正面に広がっており、 忠臣蔵の ヒーロー・大石内蔵助(大石良雄。1659~1703年)の立像が設置されていた。 そのまま南へ一直線に伸びる「お城通り(国道 32号)」を進んでいくと、 国道 32号が「中央通り」へ名前を変えて東進する交差点に行き着く。この辺りの地名が「加里屋」で、 かつて赤穂城の 前身・加里屋城が立地したエリアとされる。下地図。
その位置ははっきりとは判明されていない。 この赤穂平野は「熊見川(今の千種川)」が運んできた土砂が堆積し形成された土地柄で、 かつてはすべて海であったこと、そして古代から中世にかけて陸地化が急速に進み、 室町時代中期の海岸線が上地図の「旧・長池」辺りだったとされる中、 その海岸ラインの突端部に城塞が設けられたと考えられているわけだ。上地図。
古代より播磨西部では、南北に流れる 熊見川(今の千種川)上流部を横切る形で、西国街道が走っていた。下地図。
その街道沿いの中継集落を支配すべく、また播磨西端の要衝として、赤穂郡有年の地に「八幡山城(有年山城、大鷹山城)」が開設されていた(下地図)。 なお現在、この八幡山城は赤穂市内で最大の山城遺跡となっている。また、この山間エリアには古代の古墳遺跡が多数残存しており、 早くから稲作文明圏が形成されていたことが分かっている。
その有年エリアの領主として 播磨守護・赤松氏の 一門・本郷氏が配置されていたわけが、 1441年6月末に 守護・赤松満祐(1381~1441年)が 将軍・足利義教を自邸で暗殺すると(嘉吉の乱)、 幕府は 山名持豊(宗全。1404~1473年)、細川持常(1409~1450年)らを主力とする追討軍を発し、 満祐を
城山城(兵庫県たつの市)
に包囲すると、一族郎党ともに自害に追い込んだのだった(同年 9月)。
以降、播磨・備前・美作三ヵ国の守護職は山名宗全が継承するも(下地図)、一門の 赤松則尚(1425~1455年。満祐の甥)や 満政(?~1455年。満祐の従弟)、祐則(?~1455年)ら残党が度々挙兵し、山名軍への抵抗を続けていた(都度、敗退する)。そんな中、次期将軍の足利義政が山名宗全と対立を深めて山名討伐を全国へ発令すると、赤松一族や遺臣らも播磨で再挙兵するも、結局、大敗を喫することとなる(1455年、多くが自刃に追い込まれた)。
この騒乱の真っ最中だった 1450年代前半、赤松氏の 一門・岡光広が 熊見川(今の千種川)の河口部に 仮屋城(後の加里屋城)を構えたとされる。 その名の通り、仮住まい的な城塞で、瀬戸内海より上陸し陸地の拠点を設けた程度だったと考えられる。
引き続き、播磨・備前・美作の三ヶ国を占有し続けた山名氏であったが、
京都で 応仁の乱(1467~1477年)が勃発すると
、赤松政則(満祐の従孫。1455~1496年)が、山名氏に敵対した細川勝元に与して再挙兵する。 最終的にその戦功により、1488年、ようやく 播磨・備前・美作三ヶ国の守護職を回復し、 以降、守護所を置塩城に置いて本拠地としたわけである。
その後、一時的に勢力を盛り返した赤松氏であったが、 播磨各地に割拠した分家が台頭するようになり、 その実質的な支配地は播磨西部に限定されるようになっていく。 その後も出雲国の 大大名・尼子晴久(1537~1538年の第一次播磨遠征、1555~1561年の第二次播磨遠征)や 大内&毛利軍の播磨侵入、 関西を支配した織田信長の 軍事侵攻(1575~1582年)を受けて弱体化し、 さらに 隣国・備前で台頭してきた 戦国大名・宇喜多直家の侵攻により(1575年)、 この千種川の河口部から上流部に至る 播磨西端エリア(赤穂郡と佐用郡)を占領されてしまうのだった(
上月城の戦い
、など)。
この時、宇喜多側より 家臣・津浪法印が代官として赤穂平野に派遣されてくると、 すでに廃城となっていた加里屋城に代わり、さらに後退していた 海岸線上(「城ヶ洲」と称されていた)に新たな城館が造営される。正確な位置は不明なままだが、今の赤穂城三の丸あたりだったと考えられている。
三木城攻略戦(1578~1580年)
や
鳥取城出兵(1581年)
などを経て、 いよいよ羽柴秀吉の播磨侵攻が終盤を迎えていく。さらに、
1582年3月に武田殲滅戦
を完了させた織田信長も、 本格的に毛利攻めに加わることとなる。
それまで
京都
から播磨へ続く水陸の交通ネットワークとして、 各地に「街道」と 中継拠点「御座所(兵站基地、簡易城塞)」を整備していた秀吉は、 さらに西国へ向けて交通網の整備を進めていく。この時、
姫路城
より西へ続く街道として「姫路街道」が設けられ(下地図)、 この室町時代中期の加里屋城跡地が「御座所」へ大改修され街道に連結されたと考えられる。 熊見川沿いの 堤防「百目堤」を「姫路街道」へと併用しつつ、さらに西国へと続く街道も整備され、 当時、まだまだ大きな池であった「長池」沿いに「備前街道」を設けたのだった(下地図)。 なお、実際の秀吉による中国大返しは、最短ルートの「西国街道」走破が敢行されており、武器などの物資は海路輸送されたと考えられている。
この長池は昭和期まで大蓮寺裏手に残っていたが(上絵図)、現在は細い水路のみとなっている。 また、大蓮寺、花岳寺、萬福寺などが軒を連ねる「寺町エリア=加里屋」は、 江戸時代を通じて「古城」と別称されていたという。
続いて、花岳寺を訪問してみる(上地図)。
ここは 赤穂藩主・浅野家の菩提寺として建立された寺院で、 初代藩主・浅野長直(1610~1672年。豊臣政権五奉行の 一人・浅野長政の孫)の墓所に始まり、 3代目藩主までの墓標、赤穂浪士四十七義士の墓標も残されていた(拝観料 500円要)。
また当時、この一帯は旧城下町に相当し、寺町、鉄砲屋敷(花岳寺と高光寺の間)などの地名が昭和期まで残存していたという。 全体として、寺町の 南部&西部エリアには武家屋敷が広がり、寺町の 北部&東部には町屋が広がっていたようである(下地図)。 特に町屋エリアに、今でも古い町並みが残っていた。
また、かつて船溜まりを有していた東惣門跡には現在、「惣門跡石標」が設置されており、 その脇に小さな小川が流れている。ここがかつて熊見川が流れていた場所で、 江戸時代に度々、洪水を起こしたことから、明治期に河道が付け替えられた名残りを残したものという。
あわせて、その「加里屋」交差点西側にある「息継ぎ井戸」を訪問しておいた(みなと銀行赤穂支店の向かい。JR赤穂駅から徒歩でも 5分の距離)。
江戸時代、海浜地にあった赤穂城や城下町の地下水は、いずれも海水が混ざるものだったことから、 井戸を掘っても生活用水に適さなかったという。そこで、熊見川(今の千種川)上流より取水した地下水道が整備され、 三の丸へ向かって南北に敷設されることとなる。それ沿いに城下町内の各戸の井戸が接続され、 人々の生活用水に供されていたのだった(城下町の東西方向にも延伸されていく)。 戸外の街道沿いにも公衆用の井戸が複数あったようで、その井戸の一つがここにあった、ということだろう。
浅野家 3代目藩主・浅野(内匠頭)長矩(1667~1701年)が、1701年4月21日(旧暦 3月14日)、 朝廷使者の供応係として礼式指南役の 高家旗本・吉良義央(1641~1703年)らと共に
江戸城内
にて対応していたが、 両者の間で仲違いがあり、その当日に江戸城内で刃傷事件を起こしてしまう(午前 11時40分頃)。 周囲の大名や侍らが取り押さえて両者が引き離されると、午後 1時50分頃まで江戸城内で取り調べが行われる。 間もなく、陸奥一関藩主・田村建顕(1656~1708年。伊達政宗の曾孫。学問に秀でていたため、5代将軍・徳川綱吉に重用され奥詰衆として譜代大名入りしていた)の屋敷へのお預けが決定し、江戸城内から駕籠で出される。 午後 4時30分頃に到着後、その屋敷で食事が出されるなど軽く接待されるも、 午後 6時10分頃に幕府からの使者が到着し、 そのまま切腹を通達され、即日執行されたという。
一年でも重要な行事であった朝廷と将軍家との儀式を台無しにした刃傷事件に関し、 時の 将軍・徳川綱吉(1646~1709年)は大激怒し、午後 2時ごろには長矩の即日切腹と赤穂浅野家 5万石の取り潰しが即決されていたらしい。 このため、ほとんど取り調べらしい取り調べも実施されなかったと考えられている。
この激動の一日のうち、まずは刃傷事件発生の急報を携え、 江戸・鉄砲州(現在の東京都中央区明石町)の浅野家上屋敷から早水藤左衛門と萱野三平の二人の藩士が赤穂へと急行することとなる。 早駕籠を乗り継いでの強行走破で、4月26日(旧暦 3月19日)の未明に赤穂へ到着する。 通常なら十日以上もかかる道程をその半分以下で移動しており(四日半、五日五夜)、 二人は寝不足と疲労困憊が極限に達していたという。早朝 4時半ごろに城下に到着するも、未だ辺りは暗く、 城代家老・大石内蔵助が起き出す時間まで待つ間に、ここで休息し、井戸水を飲んだというわけである。
そして最終的に午前 6時過ぎ、大石内蔵助邸の門をたたき、
江戸城
での第一報を伝えたのだった。 この時、すでに藩主は切腹済みで、赤穂藩の改易も言い渡されていたが、それら報は数日遅れで届くこととなる。
この命がけの第一報を届けた早水藤左衛門は、後の吉良邸討ち入りに参加した四十七義士の一人となった人物であり、 また萱野三平はその討ち入り前に、自邸で自害して主君の後を追うなど、両者は忠義に熱い小姓であったとされる。 特に三平は西国街道を移動中だった 4月25日(旧暦 3月18日)、街道沿いの自身の 生家前(摂津国椋橋荘萱野村)を通過した際、 タイミング良く母の葬式に出くわすのだが、火急の公務の最中であったため、参列することなく、 ただただ手を合わせて通り過ぎて行かざるを得なかったという。
そして赤穂藩改易後、自身はこの故郷へ戻ってくるわけだが、同志らが
江戸
へ集結する中、父・重利の大反対に遭い自身は身動きが取れず、翌 1702年旧暦1月14日の主君の月命日の日に、自宅の長屋門の一室で自害して果てたのだった(享年 27歳)。 もともと萱野家は、美濃出身の 旗本・大島家の 所領・摂津国椋橋荘(今の
大阪府豊中市
大島町)の代官を勤める家柄で、 三平は 主家・大島家の推挙により 赤穂藩・浅野家に仕官し、長矩の小姓となっていたのだった。 父・重利はこの 主家・大島家へ迷惑が及ぶことを危惧しての反対だったという。
大石内蔵助、早水藤左衛門ら四十七人の義士が、江戸・本所松坂町の 吉良邸(今の 台東区両国駅の南側)に討ち入りしたのは、 それから 11ヶ月後の 1703年1月30日(旧暦 1702年12月14日)のことであった。
【
赤穂城
】
旧城下町エリアのすぐ南側には、赤穂城跡が鎮座していた。駅や市街地から離れた場所に立地したこともあり、 堀跡や縄張りの遺構がよく残っていた。
自転車で 三の丸エリア、二の丸エリアをスイスイと周遊し、外堀脇にあった赤穂市立歴史資料館を見学する。下地図。
本来は、この城跡のすぐ東隣に 熊見川(千種川)があり、瀬戸内海に注ぐ河口部に位置していた。 その掘割などはほぼ海水で、砂洲上に築城された海城であった。
この熊見川はもともと川幅も狭く、度々、水害を起こしたようで、明治時代に入り、 河道の付け替え工事が進められ、現在の千種川の本流はさらに 200 mほど東側へ移動されたわけである。 なお、元の 熊見川(千種川)があった場所には小さな小川が残されており、 現在、加里屋川と呼称されている(下地図の右端の川)。 川筋にはヤナギの木が植樹され、市民の憩いの散歩道になっている。
播州赤穂・仮屋(加里屋)の町は、すでに室町時代中期より形成されており、 戦国期の 1575年に 備前の 大名・宇喜多直家が占領すると、 播磨平定を進める羽柴秀吉との係争地となっていく。 国境最前線ということで戦火に巻き込まれる危険性が高まっていたが、 1579年6月に直家が織田方に臣従することとなり、平野部の安全は守られることとなった。 その後、秀吉は 1582年に 仮屋(加里屋)の町に堤防と街道、そして 御座所(兵站基地)を整備し、 西国戦線への交通網整備をさらに進めていく(冒頭地図)。
1581年末の宇喜多直家の死去後、その後を継承した宇喜多秀家が、引き続き、 仮屋(加里屋)を支配していたが、1585年に
紀州攻め
・四国攻めが成功し、ますます全国統一へ駒を進めた秀吉は、 古参家臣だった 生駒親正(1526~1603年)を出世させ、 伊勢国神戸(今の 三重県鈴鹿市神戸)から 赤穂郡(6万石)の大名に取り立てると、 宇喜多家の領地を割譲する形となった。
その後、宇喜多家の旧臣らの反発もあり、赤穂平野を含む播磨西端エリアは宇喜多家へ返却されることとなり、 翌 1587年、生駒親正は四国制圧したばかりだった讃岐国 126,200石の大名へ転封される(
すぐに高松城の築城に着手する
)。 以降、宇喜多家が支配した赤穂であったが、
1600年9月の関ヶ原合戦
により宇喜多秀家が改易されると、 同年 10月、播磨一国 52万石の大名として池田輝政が
三河国吉田
から
姫路城
へ入封するタイミングで、 改めて赤穂郡と
佐用郡
は播磨国へ再吸収されることとなった。
以降、輝政は
三木城
、
船上城
、
高砂城
、
龍野城
、
利神城
、 赤穂城を支城とし、播磨国の領内支配を固めていくわけだが、 特に赤穂城は、西隣の
備前岡山 55万石主・小早川秀秋
との国境最前線に位置したことから特に重視し、末弟の池田長政を 22,000石で配置させて「掻上城」を造営させることとする。幕府からの警戒を避けるべく、堤防を転用して土塁を盛っただけの簡易な城塞として設計されたようだが、 新たに陸地化したばかりの河口部先端に築造され、現在の赤穂城の原型となったとされる。 また、この時代、姫路街道と備前街道を中心に中継集落が発展し、 大蓮寺や万福寺などの各寺院も建立されていたという。
しかし、1602年10月に小早川秀秋がわずか 22歳で早世すると、小早川家は無嗣断絶により改易される。 翌 1603年、池田輝政の 二男・池田忠継に備前国 28万石が分与されると、池田長政は
備前国・下津井城
に移封され、 赤穂城は最前線基地としての役目を終え、代官所機能のみが残されることとなった。 以降、池田家時代を通じ、 垂水(半左衛門)勝重という地元の人物が赤穂代官に任命され、間接統治スタイルが採用される。
1613年に池田輝政が死去し、赤穂は岡山藩の池田忠継領へ再転籍されるも、 1615年には忠継も死去すると、 忠継領の一部が弟達に分与され、池田政綱が赤穂藩主 35,000石として入封してくる。1631年7月に政綱が死去すると、 跡継ぎが無かったため、池田輝興が赤穂藩を継承する。その輝興も内室だった黒田長政の娘を刺殺し、 その幼児を負傷させ、 侍女 2人までも殺傷するという怨恨事件を起こしたことから改易され(1645年3月、正保赤穂事件)、 赤穂城の明け渡しに派遣された 浅野長直(1610~1672年)がそのまま赤穂藩主として入封することとなった。
浅野長直とは、豊臣政権五奉行の一人、浅野長政(1547~1611年)の孫にあたり、 父・浅野長重(1588~1632年)から継承した 常陸国笠間藩(今の 茨城県笠間市)53,500石の藩主を務めていたが、 主に幕府直臣として活躍し、駿府城代や
大坂城代
、 朝鮮通信使の接待係などを任されるなど、幕府から熱い信頼を寄せられる人物であった。
長直は領地替えに際し、将軍・家光から内諾を得ており、土塁メインだった赤穂城の大改築工事を進めるべく、 形式的に 1648年に赤穂城築城願を幕府に提出し、 1649~1661年の 12年を費やす工事を完成させるわけである(江戸期に入っての本格的な築城は非常に珍しいケースであった)。 同時に城下町の 整備(拡張された城下町の東西に惣門が配置された)や 上水道の敷設なども進めていく。 この時、浅野家の 菩提寺・花岳寺も建立されている。 あわせて、藩経済の要として赤穂塩の経営を積極展開すべく、 隣の
姫路藩
から 浜人・浜子を入植させ、 塩業村を興していった(実際には、池田氏統治時代から着手されていた)。
赤穂藩の基礎を築いた浅野長直も 1671年に隠居し(翌年死去)、その 子・長友が後を継ぐも、 1675年に長友は早世し、その 子・長矩(1667~1701年)が跡を継ぐことになる。 江戸鉄砲洲(今の 東京都中央区明石町)にある 浅野家上屋敷(現在の 聖路加国際大学がある場所)で生まれた浅野長矩が初めて赤穂の地を踏んだのは、 1683年6月のことであった。以降、参勤交代により 1年交代で
江戸
と赤穂を行き来する中で、1701年に
江戸城内
で刃傷事件を起こしてしまうわけである。
それまで 5万石を誇った赤穂藩であったが、浅野家改易後に入封した森家は 2万石であったことから、 余った武家屋敷地の一部は畑へ転用され、また武家消費に支えられていた町屋も減少することとなり、 赤穂城下は縮小を余儀なくされるのだった。
ここからは自転車の機動力を活かし、海岸沿いの御崎地区、坂越地区を一気に周遊することにした。下地図。
赤穂城跡をさらに南進すると(千鳥ヶ浜ロード)、川沿いに「赤穂市民病院」があった。 この南隣に国道 32号が走っており、ここを東進すると千種川を渡河できる。上地図。
この渡河前に、千鳥ヶ浜ロードをもう少し南進すると 地元スーパー「ラ・ムー 赤穂店」があったので、 ここでパンやおにぎりを調達し、軽めのランチを済ませることにした。移動しながら昼食を取りつつ、 千種川を渡って東岸沿いを南進し、先っぽの岬に到着する。上地図。
ここは 唐船山(標高 19 m)と呼ばれ、幕末期、山頂部に「唐船山台場」が建造されていたとされる。 特に案内板などは無いが、頂上部には台場の遺構がはっきりと視認できる状態で保存されていた。
なお、この「唐船山」の由来であるが、その昔、日本が 中国(唐と呼ばれていた)と交易していた頃、ある唐船が赤穂の沖で嵐に遭って沈没し、 その沈没船に千種川の土砂が堆積して次第に島となったということで、「唐船島(からせんじま)」と呼ばれるようになる。 その後、その島はさらに長年の千種川堆積により陸続きとなり、小高い岬の 山「唐船山(からせんやま)」となったされる。 沈没船の上に出来た山なので、頂上で足踏みすると「ドンドン」と内部の空洞で反響する音が聞こえる、と伝承されてきたという。
赤穂藩の 台場建設(丸山台場、御崎台場、唐船山台場、松ケ鼻台場)
1854年9月、
ロシア軍艦ディアナ号が大阪湾へ侵入してくると
、 孝明天皇を始めとする
京都
の朝廷は大きく動揺し、幕府に外国船排除を指示する。 こうして京都から大阪湾一帯を防衛網とする構想が立ち上がり、1860年代に幕府、
尼崎藩
、
明石藩
、
姫路藩
、赤穂藩、 徳島藩、
和歌山藩
らが相次いで、海防用の台場を沿岸部に築造していくこととなった。
赤穂藩でも 1862年に造営地の選定が進められ、すぐに建設工事が着手される。 翌 1863年には御崎台場と唐船山台場が、さらに次の 1864年には丸山台場と松ケ鼻台場が完成に至る。 なお、ほとんどの台場では台座のみ建造され、実際に大砲の配備はされなかったという。
特に、千種川の河口を守るように配置されていた唐船山台場と松ヶ鼻台場であるが、 後者は赤穂城の南側に広がる砂洲上に築造されていたと考えられるが、 長年の海風と波浪、そして明治以降の埋め立て工事に伴い跡形もなく消失されてしまい、 現在、その位置すら特定されいない。
そのまま浜辺沿いを東進し(上段地図)、地元の漁港である御崎地区を目指す。 現在、海浜公園となっている一帯は、かつて広大な塩田が広がっていたという。 江戸期には、全国に流通する塩の 7%を占めるまでに成功したとされる「赤穂の天塩」事業を記念し、 海浜公園内には「海」と「塩」をテーマにする 科学館「赤穂市立海洋科学館」も開設されていたが、今回はスルーした。
公園を通過後、「元禄橋」を渡って対岸へ移動し、その岬の先端部分を目指す(下地図)。かつて、 この先端部に「御崎台場」があったという。
この御崎地区の岬エリアもちょっとした観光地となっており、伊和都比売神社(日露戦争時、 日本海海戦に臨む東郷平八郎が参拝して以降、歴代の連合艦隊司令長官が瀬戸内海を航行の度に、海上より参拝したことで知られる。 航海安全の他、縁結びにもご利益があるとして有名)、きらきら坂、 大石名残の 松(赤穂藩廃止後、筆頭家老・大石内蔵助は 2ヶ月ほど御崎地区に滞在した際、 先に妻子を
大坂
へ出航させるにあたり出発を見送った場所であり、また後に自身もここから出航した)などが点在する。 また「恋人の聖地」にも指定されているようで、若い訪問者たちが多かった。下地図。
続いて、ここから国道 32号へ戻り、北へと延びる県道 459号線をまっすぐ北上する(ファミリーマートの交差点)。 千種川を遡る形となり、20分程度で坂越駅前に到着した(国道 32号を東へ海岸沿いに進んでもよいが、 高配がきつい可能性を考慮し、平坦な道を選択した。なお、もし国道 32号を進めば、途中に「大塚古墳」を見学できる)。
JR坂越駅前通り(国道 227号)との交差点から、国道 250号線となるわけだが、 そのまま北上すると、途中の千種川沿いに「高瀬舟船着場跡」があった(下地図)。主に 1800年代、 千種川上流部から高瀬舟で運ばれてきた年貢米や、製塩に必要な薪などの物資を陸揚げし、 大八車などに載せ鳥井坂を越えて坂越港へと運び出し、
大坂
方面への廻船に積み込んでいたという。 帰路便は赤穂の塩を上流エリアへ運搬していた。2018年に新たな歴史モニュメントとして整備されたものらしい。
さらに直進すると、JR赤穂線の線路を渡る(下地図)。
この辺りは緑地公園が広がっており、前方の「尼子山城」、後方の「茶臼山城」の全景を写真撮影するのに絶好のスポットだった。 尼子山城の登山は、かなり本格的なものになるので、今回は止めておいた。下地図。
尼子山城
戦国時代、山陰の 覇者・尼子晴久(1514~1561年。本拠地は
月山富田城
)は西の大内氏と対立しつつ、 因幡、美作、備後、備中、備前国など東へ勢力を伸長させ、最終的に播磨国へ侵攻してくる(1537~38年の第一次播磨侵攻)。 この一帯は 守護・赤松晴政(1495/1513?~1565年)、及び 備前守護代・浦上氏、宇喜多氏の支配地であり、赤松一門の抵抗も激しかったことから、 晴久はさらに追加の援軍を派遣すべく、 嫡男・尼子義久(1540~1610年)を援軍総大将に任命する(1555~1561年の第二次播磨侵攻)。下地図。
この遠征で
播磨国の加古川
まで侵攻した尼子軍であったが、 西部戦線では 大内&毛利軍との戦闘が激化する中、 東部の播磨戦線をいったん後退させて、 この播磨西部の支配固めに注力したと考えられる。その際、総大将・尼子義久がこの尼子山城を築城し、 播磨支配を進めたとされる。しかし、間もなくの 1561年1月、父・晴久が
月山富田城
で急死すると、 家督を継ぐべく急いで出雲へ帰国してしまうのだった。
以降も引き続き、尼子軍の一部が当地に駐屯していたわけだが、尼子家の当主交代の混乱に乗じる 大内&毛利方の攻勢の一環で、 1563年、この尼子山城も攻め落とされてしまう。その落城秘話に関し、地元で伝承が残されており、天然の要害だった尼子山城は堅牢で、 毛利軍もなかなか手が出せずに遠巻きに包囲戦を続ける中、地元の老婆に城の裏手にある間道を案内されて、 ようやく落城を勝ち取ったという。以降、長らく「佐方」と「高野」の集落は不和が続いたということである(上段地図)。
標高は標高 259 mあり、地元でも飛びぬけて高い山となっている。登山道には目印ロープが敷かれ、 迷わないように工夫が施されているが、細く急な山道で山頂まで約 45分かかるという。現在、 山頂には 尼子神社、石鳥居、大岩などがある。
再び、千種川沿いを戻ることにする。途中、千種橋を渡ることができたので、 駅前通りの一本前を西岸側へ渡ってみた(はりまシーサイドロード)。 再び、周囲の風景を写真撮影してみる。
駅前通りに戻ってくると、改めて千種橋を渡り、そのまま地下トンネルを通過して、住宅街に入り込む。 赤穂市立坂越小学校脇を通過し、正面の交差点を右折すると、あとは直進するだけだった。 所々にルート案内板が掲示されており、迷うことなく港町まで移動できた。
その 道中(坂越大道)に、木戸門跡、坂越まち並み館(定休日:毎週水曜日)、奥藤酒造郷土館、狭い 路地「大道井跡」、 旧坂越浦会所、とうろん台 などが点在し、レトロな古民家が軒を連ねる異空間が広がっていた。 かつては、「とうろん台」から海岸線が広がっていたが、今はかなり埋め立てが進み、 大きな駐車場や海浜公園が広がっていた。
ここから東へ一本進み、大避神社の境内を目指す。標高 20 mほどの高台となっており、 かつて坂越浦城があった場所という。ここからの海の眺めは最高だった。
さらに北側へ自動車道が続いており、自転車を押して登っていくと、奥の院まで続いていた。 その東隣が茶臼山の 山頂(標高 160 m)で、室町時代中期に山名氏や赤松氏が造営、争奪戦を繰り広げた「茶臼山城跡」という。 ここも現在は展望台となっているだけで、城塞時代の遺構は全く残っていなかった。
茶臼山城 と 坂越浦城
1441年6月末に将軍暗殺を手掛けた 播磨国守護・赤松満祐(1381~1441年)が、 同年 7~9月にかけて山名宗全らの率いる幕府追討軍により滅ぼされると(嘉吉の乱)、 赤松氏の 所領(播磨、備前、美作の三か国)は山名氏領へ併合されるも、赤松家の 残党らが度々、 各地で反乱を起こし続けていた。 そのため、山名軍はその防衛網整備の一環として、茶臼山城を築城したと考えられている。
1455年には、赤松満祐の 従兄弟・満政(?~1455年)と、 甥・則尚(1425~1455年)らが茶臼山城へ攻め寄せた記録が残るも、 敗走を余儀なくされ、後に自刃に追い込まれている。
最終的に、
京都で応仁の乱が勃発すると(1467~1477年。上地図)
、 一門衆を率いて細川方に組した戦功により、赤松政則(1455~1496年)が旧領 3か国守護へ返り咲くと、 その子とされる 赤松村秀(1493~1540年。正室の子ではなく庶子だったため、塩屋城主・宇野政秀の養子へ出され、
政秀が龍野城を築城すると、その初代城主に就任する
)が茶臼山城の一部として坂越浦城を整備し、浦上氏との抗争に備えつつ、 坂越港の支配拠点として活用したという。
下山後、夕方 17:00までに自転車を返却する必要があったので、そのまま播州赤穂駅へ直帰することにした。 かなり高密度な一日となった。
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