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陝西省 渭南市 潼関県 ~ 県内人口 13万人、一人当たり GDP 26,000 元(県全体、郊外 15,000 元)
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寧秦県城
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船司空県城(船司空衙門、船利県城)
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潼関の 古戦場(211年7~9月、馬超と曹操による ”渭水の決戦”)
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潼関県の 歴史
【 潼関県の 歴史 】
潼関といえば、馬超と曹操との間で行われた潼関の古戦場である(211年7~9月)。
詳しい戦闘の背景は割愛し、その古戦場の現場について外観してみたい。
もともと、この 黄河(洛河)と 渭河の合流ポイントに位置し、周囲に山々が迫る河川沿いの谷間のエリアで、秦朝や漢朝が王都を置いた関中盆地に入る上での交通の要衝であった(下地図)。ここから東へ 70 kmには函谷関があった(
三門峡市
霊宝市坡頭郷王垛村の一帯)。
紀元前 332年、秦の恵文王により、寧秦県(現在の
渭南市
華陰市の旧市街地)が設置される。下地図参照。
紀元前 202年に前漢王朝を建国した劉邦により、船司空衙門(今の 楊家庄村、城北村、北営村、東営村一帯)が新設され、黄河と渭河の水運、船着き場の監督を司ることとされた。後に船司空県へ昇格される。
紀元前 199年、寧秦県が華陰県へ改称される。その由来は、華山の北に位置したためとされる。
9年、王莽の新朝時代に一時、船司空県は船利県へ改称されるも、後漢成立後はすぐに船司空県へ戻される。
そして時は、後漢末の 211年。
献帝が長安から洛陽へ帰還したことを受け、長安城一帯の関中盆地の 人口は激減していた。代わりに、洛陽エリアの人口は充実しており、 ここを兵站基地として、関中盆地、西涼、漢中への進出準備を整えていた曹操は、 この人口政策を主導した鐘繇を軍師として採用し、西域への諸政策を委ねていくこととなる。
曹操の漢中遠征の協力と人質提出を求められた西域民族らは、馬超をリーダ―として 連合軍を組み、関中盆地へ進軍することとなる。
曹操側に帰順していた長安城守将は最初、城を出て馬超軍を迎え撃つも、 先鋒の馬岱により討ち取られ、 城兵はその弟を守将として、長安城に立てこもることとなる。
後漢末の戦乱で荒廃した長安城であったが、前漢時代の王都を司った堅牢さは未だ健在で、 十数日間もの間、馬超らの猛攻に耐え抜く。
このとき、配下随一の猛将であった龐徳が一計を案じる。すなわち、 いったん撤退のそぶりを見せ、城内の籠城兵や農民らが城外へ出て水汲みや食糧調達などに出てきた折に、自軍の兵を紛れ込ませて城内に入り込み、夜半に四方より火災を起こして混乱を呼び城門を開かせるというものであった。 かくして守将は城内に雪崩込んだ馬超軍により殺害され、守備兵らは霧散していくこととなる。
長安城の占領後、馬超軍は洛陽と曹操の 居城・許昌との目と鼻の先にあたる、潼関の地まで進出する(211年6月)。このとき、華陰県城と船司空県城を防衛ラインとして西涼軍らが陣取ったに違いない。下の地図、赤丸の一帯。
曹操軍は東側より進軍し、最初は東西に分かれてにらみ合ったが、西涼連合軍の補給路分断・兵士らの心理的威嚇の目的で、黄河(洛河)と渭河を渡河して(7月)、西涼連合軍の背後に回り込み(上地図)、要塞を設営してしまう(9月)。これが『三国志演義』で描かれた氷の一夜城、である(実際は夏期の戦闘だったので、凍結していない)。
ここでも専守防衛に徹した曹操軍は持久戦に持ち込むことで、西涼連合軍を心理的、物資的に追い詰める作戦を取る。この一環で、馬超と韓遂の離間の計が炸裂し、同年末までには西涼連合軍は崩壊する。そのまま、関中盆地も追われ、西涼へ逃げ帰ることとなった。
戦役後の 213年、曹操により船司空県が廃止され、その行政区は華陰県に編入される。
実際のところ、三国時代、この地域は「華陰」や「渭南」と通称されており、大陸中国では、この馬超と曹操との激戦は「渭南の戦い」と命名されている。
当地に「潼関」の名が史上初めて登場するのは、明代初期の 1374年、この地に 潼関守御千戸所(1376年に潼関衛へ昇格)が設置されて以降である。清代中期の 1724年、潼関衛が廃止され、1727年に 潼関県(1748年に潼関庁へ改編)が新設される。
明代初期に記された『三国志演義』の中で、この馬超と曹操との決戦が「潼関の戦い」と言及されて以後、今日の我々もこの名称を使用するようになっているわけである。
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