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訪問日:2015年 9月中旬 『大陸西遊記』~
湖北省 武漢市 江夏区 ~ 区内人口 75万人、 一人当たり GDP 36,000 元(武漢市 全体)
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沙羡県城(孫呉の【初代】江夏郡城、汝南県城、汝南郡城、涂口鎮城、金口鎮城)
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江夏区の 歴史
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三国時代、呉の 長江防衛ラインの一角
【
武漢市江夏区の 歴史
】
戦国時代期に入り、集落の形成が始まり、紀元前 350年、楚国により 涂口(今の 江夏区金口街)に沙羡邑が新設される。
なお、かつては 涂川(涂水)が長江に注ぎ込む河口部分に位置したことから、涂口と呼称されていたわけであるが、北宋時代に涂川が金水河へ改称されたことを受け、涂口も金口へと改名されることとなる。
長江水域を活かし、四川省から江東地区につらなる水運拠点の一角を成し、大いに栄えたという。
紀元前 246年、楚を破った秦国により一帯が占領されると、南郡が新設され、沙羡邑はここに帰属された。
前漢朝時代の紀元前 201年、沙羡邑城が沙羡県へ昇格される(新設された江夏郡に所属)。現在の武漢市で最も古い県城設置となった。下地図。
前漢滅亡後、中原で群雄が割拠した中で、後に後漢朝を建国することになる劉秀が台頭しつつあった 25年、長江沿いの水軍基地の設置にともない、現在の武漢市
武昌区
洪山区の白沙洲エリアに造船所が開設される。
後漢末期の 190年、荊州牧に赴任したばかりの劉表は、地場豪族の一人であった
黄祖
を江夏郡太守に任命し、南陽に勢力を張った袁術に対する守備を委ねることとなる。 翌 191年、袁術旗下の孫堅が黄祖の本拠地であった
西陵県城(江夏郡城)
を攻略し、襄陽城に劉表を追い詰めるも、黄祖の軍に挟撃され、戦死してしまう。
黄祖は守備を重視し、195年に新たに
邵月城
の築城を開始し、翌 196年に江夏郡役所をここに移転させて、自らの本拠地と定める。
同時に、沙羡県城にあった江夏郡の水軍基地を、邵月城の背後にある 魯山(今の
亀山
)の南河岸へ移転する。
後漢末期の 208年、曹操が南征軍を起こすも、孫権・劉備の連合軍に赤壁で大破される。
このとき、呉軍は長江をさかのぼり、夏口城(現在の
武漢市武昌区
。孫権は黄祖との戦いで、すでに黄祖の 本拠地・却月城の対岸の蛇山に軍事拠点を設けていた)から、沙羡県城、陸口(今の 咸寧市嘉魚県陸溪鎮。陸水が長江と合流する河口部)一帯の河岸地帯に軍事拠点を設けて、曹操軍の渡河に備えたと推察される。
このとき、孫権軍は沙羡県城の河岸にかつて設置されていた 水軍基地跡(金口堡)を大改修し、本決戦のキーマンとなる黄盖の水軍を配置させていたと考えられている。
赤壁戦後も、呉は対劉備への最前線基地として、沙羡県城を重視することとなった。
最終的に 215年、魏と呉との間で江夏郡が南北に分断される。呉の江夏郡下には 6県が配され、当初、郡役所は沙羡県城に設置されるも、後に 夏口城(今の武漢市武昌区の初期レベルの軍事要塞)へ移転され、程普が太守に任じられた(魏側の江夏郡太守は文聘)。上地図。
220年、対蜀との関係上、一時的に魏に下った孫権は公安城にて呉王に即位すると、江夏郡を武昌郡へ改称する。しかし、すぐに江夏郡へ戻されることとなる。
222年に蜀の劉備を夷陵の戦いで破った孫権は、そのまま魏の配下から脱し、自ら呉王を称することとなる(三国鼎立)。
翌 223年、赤壁の戦い以来、呉軍の駐屯拠点であった 陸口(現在の
咸寧市赤壁市
)に県役所が設置される(蒲圻県城)。
これと時を同じくして、沙羡県城が廃城となり、沙羡県役所が 夏口城(今の 武漢市武昌区。215年以降、江夏郡都だけだった)へ移転される。
しかし間もなく後の 229年、呉の陸遜は長江の防衛ライン強化を図り、沙羡県城の大規模な改修工事を進める。そのまま沙羡県の県役所が夏口城から再移転される。
280年2月、西晋の司馬炎により呉が滅ぼされると(下地図)、江夏郡は武昌郡へ再変更される。沙羡県はそのまま武昌郡に帰属されるも、285年、沙羡県城は再び廃止され、その県役所は
夏口城(武昌郡城)
内へ戻されることとなる。
東晋朝末期、華北に属した汝南郡一帯の農民らが難民として大量流入し、その多くが長江流域に集落を形成したため、この統治を目的として、一時廃城となっていた旧沙羡県城に汝南県が新設される。あわせて、汝南郡の郡役所も併設された。
南朝の劉宋朝の治世下の 422年、武昌郡が 江夏郡(郢洲に帰属)へ改称されるも(郡都は江夏県城)、汝南県城はそのまま汝南郡都を兼務した。
隋朝により南朝の陳も滅ぼされ(上地図)、 300年ぶりに全国が統一された直後の 589年、汝南県が廃止され(涂口鎮へ降格)、江夏県(今の 武漢市武昌区)へ吸収合併される。同時に、江夏郡が鄂州へ改編される。
以後、現在の武漢市江夏区一帯は、江夏県下に組み込まれ、清末まで継承されていくこととなった。
唐代初期の 621年、鄂州が江夏郡へ戻される。
637年、唐朝の建国の功臣の一人であった 尉遅恭(別名:尉遅敬徳。585~658年)が、中央政界から左遷され、宣州刺史、続いて鄂国公に封じられる。その際、本拠地とした 江夏県城(武昌城)の大改修を手掛けている。
唐代を通じ、涂口鎮は長江水脈の中継拠点として、ますます繁栄を極めていく。造船業、製紙産業の一大拠点として、全国にその名を轟かせた。
756年、江夏郡から鄂州へ戻される(江夏県はそのまま)。下地図。
唐代末期の 879年、黄巣の乱で江夏県城は落城し、外城壁が破壊されてしまう。
後梁の治世下の 923年、江夏県城には鄂州と武昌郡の両役所が併設された。
後周時代の 958年、鄂州が廃止され、武昌郡のみとなる。
時は下って、宋代には製鉄業や 精銅業、紡績業などが興誠を極め、現在の武漢市江夏区の龍泉山一帯では多くの 銅鼎、青陶器類が発掘されているという。
武漢市の内陸部に当時からあった梁子湖や斧頭湖などの湖水地方で、陶器造りが活発となり、全国への出荷の過程で、涂口鎮もその物流の一角を担うこととなる。現在の金口街では、宋代の墓所から数十の青陶器類が発掘されている。
なお北宋時代、涂口で金鉱脈が発見されると、涂水が金水へ、涂口が 金口(黄金口岸)へ改称され、江南屈指の名鎮として、その地位を確固たるものとした。
現在の正街と西横街の両脇にはたくさんの商店が立ち並んだという。今でも后山街には約 200 m程度、青石で舗装されたかつての街道が一部現存するという。
南宋時代の 1274年、モンゴル軍の 将軍・伯顔が鄂州城を攻撃すると、南宋側の守将であった張晏然は戦うことなく、投降してしまう。上地図。
1301年、鄂州路が武昌路へ改名される。江夏県城は武昌路、及び湖広行省の中心として機能した。
1360年、陳友諒が徐寿輝を殺害し、武昌城を王都として、大漢を建国する。下地図。
明代初期の 1368年、江夏県城に武昌府が併設される。1370年には、朱元璋が第 6子の朱楨を楚昭王として、この地に封じている。
朱楨の赴任以降、明代を通じて 274年間、この地には 昭王、庄王、宪王、康王、靖王、端王、愍王、恭王、賀王の八代九王が即位した。
1389年、金口鎮に初めて 巡検司(地方専属の警察機構)が設置される。下地図。
明代後期には、金口地区の長江流域で大規模な堤防建設が進められることとなる。
明末の 1645年、李自成が武昌府城を占領し、江夏県を瑞符県へ改称する。しかし、すぐに清軍が
武昌府城
を占領すると、江夏県へ戻され、明代の行政区がそのまま踏襲された。上地図。
清代中期の 1722年、金口鎮に 金口汛(軍隊の駐留基地)が設置される。
清末の 1851年には 参将署(任命された参将は配下に 600の兵士を有し、河川や運河の沿岸ライン 110 km分の治水活動や 堤防補修、治安維持活動などに従事)も併設され、長江河岸や周辺の湖水地方など一帯の行政拠点となる。
清代後期の 1853年1月12日、太平天国軍下で東王を称した楊秀清と、督翼王を称した石達開が 武昌府城(江夏県城)を占領する。
中華民国が建国された 1912年、辛亥革命を記念して(「因武而昌」の意)、江夏県が武昌県へ改称される。金口鎮はそのまま武昌県下に所属した。
1995年に武昌県が廃止され、武漢市下の江夏区へ改編されると、1995年3月以降、金口鎮は武漢市江夏区金口街となって、今日に至る。
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