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東山県
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
福建省 漳州市 東山県 ~ 県内人口 23万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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銅山古城(銅山守御千戸所)
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南明政権に殉じた 政治家&文学者の 黄道周(1585~1646年)の 生家跡
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関帝廟(港口塩課署)、岐下洪淡巡検司城跡、南溟書院(文公祠)
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宮前天后宮(陳城鎮) ~ 1683年、施琅が台湾遠征のために 艦隊を集結させ出航した場所
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宮前湾(陳城鎮) ~ オランダ船団、ポルトガル商船、日本軍らが上陸戦を展開した 場所
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媽祖廟(康美鎮)、甘粛巡撫・林日瑞(1586~1643年)、書道家・楊観吉(1591~1666年)の 故郷
高速鉄道駅「雲霄駅」で下車後、 地元の ⑮番路線バス(銅陵バスターミナル行)に乗車する。途中、東山バスターミナル前で下車し、 200 m北にある 7天ホテルに投宿する。この全国展開の ホテル・チェーンにあって、
漳州市
東部エリアで唯一の支店である(66元)。
翌日、海岸沿いの銅山古城を視察する。古城内には東山博物館もある。
続いて、東山県南端の陳城鎮に移動し宮前湾と天后宮を見学する。ここは
清朝から福建水師提督に任命された 施琅(1621~1696年)が 1683年6月14日(旧暦)に台湾遠征のため大艦隊を結集させ、出航した地である(澎湖海戦)
。
最終日、ホテル前の東山バスターミナルから
漳州市 中心部(薌城区)
へ移動すると(北東へ 150km)かなり時間がかかるので、ほぼ同距離にある
汕頭
行のバスで西へ移動した(2時間)。
【 東山県の歴史 】
10,000年前には、東山島ですでに古代人類の生息が確認されているという。
秦の始皇帝が紀元前 214年、百越の地を武力併合すると
、翌年、南海郡が新設される。前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 111年、南海郡下に 揭陽県(今の広東省
梅州市
豊順)が新設されると、これに属した。
東晋朝時代の 413年、
義安郡(今の 潮州市中心部)
が新設されると、その下の
緩安県(今の 漳州市雲霄県火田鎮西林村)
に統轄される。589年、300年続いた南北朝時代が隋朝によって統一されると、翌 590年、綏安県が廃止され、
泉州(州都は今の 福建省福州市)
下の
龍溪県(今の漳州市 中心部・薌城区にある漳州古城)
に吸収合併される。
唐代の 686年、漳州が新設されると
、その下の
懐恩県(今の 漳州市詔安県南詔鎮)
に属したが、741年に懐恩県が廃止されると(疫病が流行し住民らが流出してしまい、鎮城へ降格される)、
漳浦県
に編入される。
時は下って明代、初代皇帝・朱元璋(1328~1398年)と同郷で幼馴染であった建国の功臣 No.1 ・周徳興(?~1392年。江夏侯に封じられる)が 1387年4月、皇帝自らの指令により福建省沿岸部の倭寇対策の総責任者として派遣される。
福建省
に着任した周徳興は早速、現地の検地と徴兵制度の導入を手掛け、10万人余りに軍役を課す。同時に軍事的な要地や沿岸部を視察して、
厦門城
や
陸鰲城(六鰲千戸所城)
、
玄鐘千戸所城(下絵図)
とともに、 現在の東山県の東端の岬に 銅山城(銅山千戸所城。今の 漳州市東山県銅陵鎮)を建造する。 こうして彼の福建在任中、16ヵ所の城塞が築造され、また巡司が 45ヵ所開設される。さらに、鎮海衛(今の 漳州市竜海市隆教畲族郷鎮海村)など五大衛所の強化工事も進められた(上絵図)。
そして翌 1388年に 故郷(今の 安徽省滁州市鳳陽県板橋鎮古城村)に戻り政界から引退するも、 引き続き、朱元璋に朝廷へ呼び出されては政治や軍事の意見を交わす仲であったが、 1392年8月、息子の周驥が宮中の女官に手を出した罪に連座して処刑されてしまうのだった。
1530年に
詔安県
が新設されると、現在の東山県下の 五都(中原から南下し、この半島部に移住した客家集落のうち、主な 5村落を指す。樟塘堡など)はすべてこれに属した。上絵図。
清代中期の 1735年、銅山守御千戸所の管轄区も詔安県下に吸収されると、今の東山県エリア全体が詔安県下に組み込まれる。
中華民国時代の 1916年5月1日、新たに 東山県(
江蘇省徐州市
にすでに 銅山県(区)が存在したため、旧名称までさかのぼって東山県と命名)が新設される。その県域は、
詔安県
下の東山島及びその周辺の諸小島群、また
漳浦県
下の古雷半島が 分離・統合されたものだった。 最初の県役所が旧銅山所城内に開設されるも、後に城外に拡大した市街地へ移転される。
銅山古城
現在の東山県一帯の半島部分には、かつて 5~6ヵ所の大規模な客家集落が形成されており、五都(六都)の地と通称されていた。 「東山」という地名は、この 五都(六都)集落が集う半島部分の東端に立地したことに由来している。ちょうど、
現在の漳州市 中心部(薌城区)
からだと、南西へ約 158 kmの距離にあり、福建省と広東省の境界エリアであった。
また、その東山のちょうど先端部に小さな島があり、上空から見ると、一頭の雄の獅子が東山湾から海へ出ようとしている形状に見えたことから、獅嶼と呼ばれていたという。
明代初期、この東山の岬全体を取り囲む形で強固な城塞が建造される。
当時、明朝は沿岸部を荒らしまわる倭寇の取締りに全力を挙げており、その一環として、朱元璋の右腕として建国に尽力した江夏侯の周徳興が福建省へ派遣される。周徳興は福建省の沿岸をつぶさに調査し、各地に城塞や衛所を築城させる。その一環で、この東山の岬部分の地の利を見てとった彼は、ここに守御千戸所の建設を進めたのだった(1387年)。
この時、周徳興自身も度々、東山の築城工事の視察に赴いており、岸壁沿いギリギリに建設する石積み城壁の設計を含む工事全体を指揮したという。付近の住民から人夫や技術者が徴用され、沿岸部から花崗岩の石材を切り出して、城壁が組み上げられたのだった。
最終的に完成した全面石積みの城壁は全長 1,903 m、高さ 7 mを誇り、東西南北の四つに城門を有し(東門は晨曦門、西門は思美門、南門は答陽門、北門は拱極門と命名)、城壁上には凹凸壁 864ヵ所、そして兵舎&武器庫 16ヵ所が設置された強固なもので、あわせて、数十門の大砲も配備されていた。
完成にともない、付近にある銅鉢村、そして東山村の地名を合成して、「銅山守御千戸所」と命名される。 これ以降、東山地区は銅山と通称されるようになる。また、この城塞東門のすぐ外には海が広がっていたので、 岬の正面に立地した獅嶼の小島は東門嶼と呼称されるようになった。
140年後の 1526年、巡海道の蔡潮が福建省下の沿岸防衛網を視察中、銅山古城に立ち寄った際、 岬の正面にある 小島(東門嶼)に文峰塔を建立する
。これ以降、地元民は東門嶼を塔嶼と通称するようになる。
以降、福寧の 烽火台(今の 寧徳市霞浦県)、連江の 小亭(今の 福州市連江県)、興化の南日(莆田市秀嶼区南日鎮)、泉州の 梧嶼(今の 福州市福清市梧嶼村)と並び、「漳州の銅山」として福建省沿岸を守備する五大烽火台ポイントの一角に数えられることとなる。その後、数百年にわたって銅山古城は地元の軍民らと共に倭寇戦線の最前線に立ち、また ポルトガル、オランダ、英国、日本などの帝国主義勢力にも抵抗する拠点となった。
1563年、倭寇戦や対モンゴル戦で勇名を馳せた 名将・戚継光(1528~1588年)の率いる明軍が、 沿岸にはびこる倭寇と交戦すべく 福建省に進駐した際、その一部隊である義烏出身の民兵らがこの銅山古城に駐屯したという(1564年。その出身地から「浙兵営」と呼称された)。この時、戚継光自ら作戦の立案にかかわり、倭寇を撃退した記録が残されている。また、1582年にも戚継光配下の一部隊が銅山古城に進駐している。
さらに 1620年代、銅山郷賢で四川巡撫となった陳士奇の 父・陳焯が地元民らを率いて南城門の砂浜に無数の鉄や陶器の破片を埋め込み、倭寇がこの砂浜に上陸すると、破片などに滑ったり、武器が詰まって動けなくなった瞬間を見計らって、城内から軍民で討って出て倭寇を全滅させたエピソードもあり、今日、この砂浜は暗鼎陣とも別称されているという。
また 1633年10月、台湾島を占領していたオランダ東インド艦隊と劉香の率いる海賊集団の連合軍が福建省沿岸を襲撃すると、巡按福建の 路振飛(1590年~1647年)が指揮して撃退戦を展開する(料羅湾海戦、崇禎明荷海戦)。このとき福建省の大貿易商人であった 鄭之龍(鄭成功の父。1604~1661年)らも協力し、半年以上に渡って各地で小競り合いが発生した。その一環として、翌 1634年に劉香配下の海賊集団が銅山古城を襲撃するも、大帥の徐一鳴の率いる軍民らが懸命に防戦し、二回にわたって上陸を阻止したという。最終的に劉香は 1635年の広東海戦で敗れて、海に身を投じる。この平定戦での活躍を高く評価された鄭之龍は 1636年、福州都督に任命されることとなる。
以後、東アジア一帯の貿易を支配した鄭之龍であったが、1644年に北京の明朝が滅亡し、南明政権が起こるも翌 1645年に福建省を喪失すると、清軍に拘束された鄭之龍はそのまま清朝に帰順することとなる。
同年、その息子の 鄭成功(1624~1662年)は南明政権の側に立って挙兵すると、銅山所城を一大拠点に定め、
廈門城
と金門所城と並んで、自らの主要ベースとしたのだった(上地図)。彼はこの地で造船と練兵を行いつつ、一帯から兵糧調達も行い、実に 18年間もの間、当地を支配していた。
1661年、台湾島へ東征しオランダ軍と対峙した際、東山半島からも 500名以上の男子が鄭成功に随行し台湾に渡海したという。翌 1662年、この台湾占領戦で負傷した鄭成功も死去すると
、その子の鄭経が鄭氏政権を支えるも、彼が死去した
翌 1683年、清朝の福建水師提督となっていた施琅がこの東山半島の二つの 港(銅山港と宮前港)から大艦隊を出航させ、澎湖海戦を経て澎湖諸島を占領すると、そのまま鄭氏政権は降伏に追い込まれるのだった
。
時は下って清末の 1841年8月、
アヘン戦争の勃発により広州城を占領していたイギリス艦隊
が広東省から北京へ北上する途中、この銅山城にも艦砲射撃を加えている。この時も東山の軍民らは協力して籠城し頑強に抵抗する。英国艦隊はそのまま通り過ぎていったという。
日中戦争時代も、東山の軍民らは古城に立て籠って日本軍の侵攻を食い止めたという。実際のところは、占領しても無価値な僻地であったため、英軍、日本軍ともに遠隔攻撃を加えただけで、特に上陸部隊を派遣しなかっただけかと思われる。
さて、この銅山古城への訪問者は、まず西門から入城することになるが、もともとの西門は日中戦争時代に破壊されており、現在は原型とは程遠い新築の西門楼が再建されている。そのまま城内に入ると、まず目に飛び込んでくるのは天下第一の奇石とされる「風動石」である。
そのまま西門から北門を経て東門へ至る城壁上を歩くことができる。岬全体を取り囲むように建造された城壁は、回廊のように曲がりくねって沿岸に張り巡らされている。その蛇行する様は、中国の万里の長城の発想そのものと言える。
東門に至ると、ここでは増築された 月城(甕城)を見ることができる。また城門上には、近年になって設置された晨曦楼亭という双頂亭の休憩スペースがあり、沿岸の景色を堪能できる。
この東門外には一面、海が広がり、その脇に天然の石洞がある。まさに虎口をイメージさせる険しい構造と、内部に清水がしたたり落ちることから、虎腔滴玉と命名されているという。往時には、藏兵洞(兵士を隠すポイント)として利用されたと推定されている。
また、古城の北西面には、九仙山がそびえ立つ。 ここは、明代の倭寇戦の 名将・戚継光や明末の 功臣・鄭成功が陣営を構築して水軍の訓練を監督した場所と伝えられる。その山頂には瑶台仙嶠と刻まれた巨石が残されており、当時、将軍らがここに座して練兵を指揮したという。
城内には築城翌 1389年に建立された 関帝廟(別名、武廟)が今も残っている。その廟門は太子亭といい、宮殿風の壮麗な亭閣となって今に継承されている。なお、この廟門の両側に古い小屋が残されており、ここが南明政権のために殉国した書道家・文学者の
黄道周(1585~1646年)
の生家ということだった。最後に銅山古城の南門は倒壊して現存しておらず、脇に「答陽門」という石額を残すのみとなっている。
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