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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 長春市 徳恵市~ 市内人口 71万人、 一人当たり GDP 80,000 元(長春市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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攬頭窩堡遺跡(金王朝時代。長春市徳恵市辺崗郷丹城子村)中央政府指定の 史跡
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双城子古城①(遼王朝&金王朝時代。徳恵辺崗郷丹城子村)吉林省政府指定の 史跡
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鄭家窝堡遺跡(遼王朝&金王朝時代。徳恵市辺崗郷丹城子村)長春市政府指定の 史跡
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丹城子古城跡(遼王朝&金王朝時代。徳恵市辺崗郷丹城子村)吉林省政府指定の 史跡
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卧虎古城(遼王朝&金王朝時代。徳恵市辺崗郷卧虎村)吉林省政府指定の 史跡
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馬家城子古城跡(長春市徳恵市馬家城子村)
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向陽古城(長春市徳恵市郭家鎮向陽村)
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梨樹園子古城(遼王朝&金王朝時代。徳恵市大房身鎮梨樹園子村)吉林省政府指定史跡
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楊家大橋古城(徳恵市楊家大橋村)
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双城子古城②(遼王朝&金王朝時代。徳恵市朝陽郷双城子村)吉林省政府指定の 史跡
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貢江碑(清代建立の石刻板。長春市徳恵市朝陽郷朱家坨子村)吉林省政府指定の 史跡
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唐代老辺崗土壁(唐代。長春市徳恵市~農安県)中央政府指定の 史跡
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城子溝古城遺跡(今の徳恵市松花江鎮城子溝村)
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鮑家城跡(遼王朝&金王朝時代。徳恵市松花江鎮鮑家村)吉林省政府指定の 史跡
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朝陽囲子(清代末期。徳恵市大青咀鎮朝陽溝村)吉林省政府指定の 史跡
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房身溝遺跡(遼王朝&金王朝時代。徳恵市菜園子鎮姚家村)長春市政府指定の 史跡
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前四家子遺跡(遼王朝&金王朝時代。徳恵市菜園子鎮四合村)長春市政府指定の 史跡
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張家囲子抗俄城(対ロシア帝国の南進に備えた 清朝の城塞)
早朝、長春鉄道駅前(南口)のホテルをチェックアウトし、長春鉄道駅から普通列車で、
徳恵駅に移動する(8:18発 → 8:46着。快速通勤列車。25.5元。これを逃すと、次は 11:05発しかない!!)。高速鉄道だと。乗車時間 26分弱【38.5元】で徳恵西駅に到着できるが、そもそも発着する長春西駅まで向かうのが遠い)。
徳恵駅に到着後、市中心部まで徒歩移動し、まず地元ホテルにチェックインする(3泊4日の予定)。 3つ星ホテルの徳恵乾嘉商務大酒店か、全国チェーンの漢庭快捷酒店の予定。大都市郊外だと、 3つ星ホテルでも十分に安い(120元程度)。この徳恵市に投宿するで、
さらに北にある榆樹市へ(バス、普通列車で 2時間半。長春市からだと 3時間半かかるため、時間節約になる)
、
東隣の九台区上河湾鎮への訪問でも(末尾参照)
、アクセスが非常に便利となるわけである。
なお、徳恵市中心部は、中華民国時代に鉄道駅が開設されたことから発展した地で、非常に新しい都市であった。このため、中心部には特に名所旧跡は存在していない。
もともとは、1910年5月24日に清朝廷により徳恵県が新設されたことに端を発しており、 当初、県衙(県役所)は 永安鎮大房身(今の 大房身鎮大房身村)に開設されていた(
長春府
に帰属)。長春府下の沐徳郷の半分と、懐恵郷の全域、及び、東夹荒の 地(今の沐石河一帯)を行政区とし、その沐徳郷と懐恵郷の両郷の地名末尾をとって、「徳恵」の県名が決定されたという。満州国時代の 1936年4月1日、県役所が 張家湾(満州鉄道の「窩門駅」があった)へ移転される。以後、張家湾が徳恵鎮へ改称され、今日に至るまで市中心部となっているわけである(1996年に徳恵県から徳恵市へ改編)。
とりあえず、ホテルに荷物を預けると、すぐに 徳恵算盤博物館(徳恵市人民街と徳恵路との交差点)を訪問してみる。
続いて、市街地は見どころがないので、すぐに白タクをチャーターし(昼食は時間節約のため、パンなどを食べ歩き状態)、「双城子古城 ①」と「攬頭窩堡遺跡(中央政府の指定史跡)」を訪問してみる。いずれも北郊外の徳恵市辺崗郷丹城子村に位置しており、まとめて周遊しやすかった(上地図)。
「双城子古城跡 ①」は、2007年に吉林省政府により史跡指定された、遼王朝&金王朝時代の城塞遺跡である。
南北の二城から構成されており、南城は縦横一辺 400 mの 城壁(全長 1,600 m)に四方を囲まれた正方形型であった。対する北城は、南城の西隣にあって、東面城壁 400 m、西面城壁 270 m、南面城壁 400 m、北面城壁 400 m米という、台形型で設計されていた(城壁の全長は 1,470 m)。現在、高さ 1.6 mほどの土塁城壁が延々と残されている。
なお、北城の東面城壁の中央部に城門があり(横幅 10 m)、四方の四隅には 角楼(高さ 1.6 m、幅 22 m)が増築されていた。さらに北面城壁には、等間隔で 3つの 馬面(城壁の凸面。高さ 1.7 m、幅 14 m)が設けられていたという。また、城壁外には、幅 8 mもある外堀が四方を取り囲んでいた。
土塁内外では現在でも、たくさんの布紋瓦や 土塀建築物の残骸、陶器類の破片などが散乱しているという。
続いて、北隣の「攬頭窩堡遺跡」を訪問してみる(上写真)。
同じく遼王朝&金王朝時代を代表する集落遺跡で、地表には大量の屋根瓦や 陶磁器、建物類の破片や残骸が散らばっており、その規模と出土遺物の数量、貴重さから、中央政府指定の史跡となっている。南北に連なる「双城子古城 ①」と「丹城子古城跡」との中間地帯に位置し、両城塞に囲まれた要塞集落か、駐屯兵団基地だったと推察される。
徳恵市辺崗郷丹城子村は、松花江へ注ぎ込む二本の 支流(伊通河と飲馬河)の間にある、狭長い丘陵地帯に立地しており(下地図の赤〇)、飲馬河の一支流がこの丘陵斜面の南約 511 mの場所を流れる。豊かな土壌により、農業に適した土地柄で、かつてはのどかな田園地帯であった。
1980年代初頭、攬頭窩堡屯の村で、農作業中に大量の陶器や屋根瓦の破片が発見される。
その後、長余(
長春
~ 拉林河)高速道路の建設工事に際し、用地選定が行われる中で、本格的な発掘調査が進められ(1998~1999年)、最終的に高速道路用地から外されることとなった(冒頭地図)。以降、2年間の調査を経て、遼王朝、金王朝時代の家屋跡 12棟が発見され、大量の 屋根瓦、陶器、瓷器の破片や建築資材の一部、鉄馬鐙(馬具の一種)、鉄刀など 700件余りが発掘されることとなる。当時の政治、軍事、社会生活などを知る上で、非常に貴重な遺物が膨大な量、発見されたことから、2007年5月に吉林省政府により、2013年5月には中央政府により「攬頭窩堡遺跡」として史跡指定を受けるに至る。金王朝時代の民族史や陶器研究上、必ず言及される遺跡の一つとなっている。
その中でも注目に値する発見は、巨大な長方形型の建造物の存在であった。礎石 15個、木柱が 25本が発掘され、室内では火を焚き、暖炉設備があって煙突を有していたことが分かっている。その西面の壁面基礎が長さ 3 mほども出土しており、レンガと土壁で構成されていたという。同時に、建物敷地からは、金代に製造された 陶器、瓷器、屋根瓦、銅鏡なども発見されている。
この集落遺跡の北 1.5 km先には双城子古城 ①があり、2 km南には丹城子古城が位置しており、この両者を接続する範囲に遺跡が広大に広がっており、東西幅も 1 km相当あって、総面積約 344万 m2にも及んでいた。これら当時の遺構は、現在の地表から 1.5 mほど地下に埋まっていたという。
その他、この辺崗郷丹城子村には、「鄭家窝堡遺跡」や「丹城子古城跡」、「卧虎古城(吉林省政府により、城内及び、城壁外の 50 m範囲内が保護区画とされている)」などが立地しているようなので、地元で確認しながら巡ってみたい。
続いて、ここから西へ 6 km先にある馬家城子村の「馬家城子古城跡」を訪問してみる(冒頭地図)。
さらに時間があれば、徳恵市中心部の南西にある、郭家鎮向陽村の 向陽古城(遼王朝&金王朝時代の城塞)も見学してみたい(冒頭地図)。
徳恵市内には合計で、26ヵ所もの城跡が点在しているという。
また、
徳恵公路客運バスターミナル(徳恵鉄道駅に隣接。市内外の各鎮や村へ向かう郷村バスの発着所)から、上河湾鎮行バスが 1時間に一本ある(7~9元。最終便は 15:20発)。これに乗車し、途中の山間部にある古城を巡ってみてもいいかもしれない。下地図
。
おそらく 省道「S 303」を東進すると思われるので、これと 郷道「X 026」との三差路あたりで下車すると、 そこで待ち構える白タクに頼んで、梨樹園子古城(徳恵市大房身鎮梨樹園子村)まで送ってもらえる。ついでに、南側にある 楊家大橋古城(徳恵市楊家大橋村)も訪問してみたい。下地図。
なお、徳恵市朝陽郷双城子村にある「双城子古城②」に関しては、長春市九台区上河湾鎮からアクセスした方が近い(上地図)。
この「双城子古城②」も、遼王朝&金王朝時代に築城されており、 1999年に吉林省政府により史跡指定を受けている(下写真)。現在、徳恵県朝陽郷の北西 2.5 kmの場所に立地する。
内城と外城の二重構造になっていることから、双城子古城と命名されるわけだが、外城が 遼王朝&金王朝時代に建造されたものである(縦横各 1,000 mの正方形型で、全長 4,000 mの土塁城壁)。現在は、風雨による浸食を受け、土塁城壁の損傷が激しく、特に東面城壁と南面城壁はすでに喪失され、平地化してしまっている。西面城壁と北面城壁に関しては、断片的に遺構が残るものの、城門の位置などを特定するのは困難な状態に陥っている。
対して内城は、ロシア帝国の南下に対抗すべく、清朝が古城遺跡内部に新たに建造した要塞陣地である(1900年)。外城と同様に正方形型に近く、東面城壁 410 m、西面城壁 411 m、南面と北面城壁は 416 mで、土塁全長は 1,753 mであった。
現在、西面城壁は最も保存状態が良好で、東面、南面、北面の三面に関しては、断片的に土塁遺構が残されるのみである。それらの残余土塁の高度は 2 m前後で、頂上部が 2~3 m、基底部分が 6~9 mとなっており、一定ではない。
なお、南面と北面の土塁中央には、それぞれ 城門(横幅 10 m)が一つずつ設置されていた。また、土塁壁の南隅には、今も砲台の台座跡が残されているが、残りの三方向の隅にもあった砲台台座は、すでに喪失されてしまっている。
徳恵市内のホテルに戻り荷物を回収後、「徳恵駅」まで移動し、ここから普通列車で
長春鉄道駅
へ戻ることにした(16:32発、16:41発、18:15発、18:32発のいずれかを選択。乗車時間 55分、14.5元)。高速鉄道だと乗車時間 23分(運賃 38.5元)だが、徳恵西駅 ⇔ 長春西駅といずれも市街地から遠い発着駅となってしまう。
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