BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 揚州市 ~ 人口 465万人、 一人当たり GDP 33,000 元


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  揚州城(邗城、広陵県城、広陵郡城、江都県城、江都府城)
  高郵県城(郵亭県城、高郵府城、高郵州城)
  儀真県城
  射陽県城(宝応県城)
  甘泉県城(甘泉天県城)



【 揚州市の 歴史 】

殷王朝最後の 君主・紂王(30代目国王)が東部エリアの 異民族(淮夷)戦争に明け暮れる隙に、 周の武王が殷朝を滅ぼし、天下を奪取すると(紀元前 1122年8月27日)、翌年、その領土を分割統治すべく、 功臣や一族を各地に封じ、全土に封建体制を確立させる。 このとき、異民族が跋扈した淮夷エリアへも多くの皇族が派遣されており、そのうちの一つ、 邗(干)の 地(今の 揚州市北西部)に封じられた武王の息子によって建国されたのが、邗国であった。 この初代王は、邗叔と通称されることとなる。

同時期に、殷朝紂王の遺児であった武庚が、 かつての殷王朝の 王都(今の 河南省安陽市)周辺の領地を与えられるも、周の武王は旧殷領の周囲に 邶、鄘、衛の三国を配して、 抑止体制を構築する。紀元前 1120年に武王が死去し、まだ 13歳の成王が即位すると、 叔父の周公が摂政政治を司るも朝廷の安定性は大きく揺らぐ。そうした時期の紀元前 1118年、ついに武庚が武装蜂起すると、 邗国下の多くの領民らも淮夷族だった関係で、反周朝の反乱軍に合流したため、派遣されていた邗王も戦死に追い込まれるなど、 圧倒されることとなる。
これを鎮圧すべく、紀元前 1116年に周朝廷は大軍を派遣し、 翌年の紀元前 1115年に平定に成功すると、さらにその封国を細分化して、諸侯に統治させることとした。邗国の地には、 再び皇族が王として派遣される。

揚州市

しかし、半世紀ほど経過する頃には周王朝の権威も失墜し、 いくつもの領主が各地に割拠する春秋戦国時代が幕を開ける。間もなく、邗国も南の 強国・呉により滅ぼされる(上地図)。 以後、呉国は周囲への勢力拡大に努め、呉の 7代目国王・夫差の治世時代には長江と淮河を結ぶ 大運河「邗溝」を掘削し(人類最古の人工運河とされる)、さらに北へ領土拡大を進めるまでに成長していた。

紀元前 486年、呉王の夫差は大運河工事と並行して、その沿線上に 邗城(現在の 揚州市北西部の蜀崗地区。総面積 1.5 km2の城塞)を築城する(下絵図、かつては長江がすくそばを流れていた)。これらの大土木工事は、長江以北への進出拠点造りの一環であった。

揚州市 揚州市

実際、翌年の紀元前 485年には周辺国をも動員して、斉国領へ侵入し、斉軍を大破するなど、その領土は最大域に達する(上地図)。
しかし、北伐に夢中になった呉国は、南方の 越王・勾践に留守をつかれ、紀元前 473年に滅亡に追い込まれることとなる。
その越国も紀元前 334年に楚国により滅ぼされると、一帯は楚領に組み込まれる。
紀元前 319年、楚国の懐王が、小規模な城塞に過ぎなかった 邗城(現在の 揚州市北西部の蜀崗地区)の拡張工事を手掛け、広陵城を完成させる。以後、広陵の名が使用されていくこととなった。

楚国も紀元前 223年に秦により滅ぼされると、その旧領土は完全に秦国に併合される。直後より、広陵城内に広陵県役所が開設される。

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前漢朝が建国されると、今の揚州エリアには、初代皇帝・劉邦の実兄である劉喜の長子だった 劉濞(紀元前 215~前 154年)が呉王として封じられる。劉濞は広陵城を本拠地とし(下地図)、中央政界から遠く離れた地で領国経営に励むこととなった。
領内は天然資源が豊富で、銅や鉄鉱石が産出される山々を有し、さらに海岸エリアでは製塩業が盛んで、「山で銭を造り、海水を煮て塩を作る」と例えられるまでに、豊かな土地柄であった。
塩と 銅・鉄の二大官営事業を同時に有した呉国の経済力は圧倒的で、その資金力を活かして、灌漑設備や塩河などの 水路掘削、農地開墾などが進められ、基礎的な社会インフラが急速に整うこととなる。
こうした経済力を背景に、劉濞は呉楚七国の 乱(紀元前 154年、下地図)を起こすも、3ヵ月で鎮圧され、南部の東越国へ逃亡中に暗殺されてその生涯を閉じる。以後、呉国は解体され、前漢朝廷の直轄地が多くを占めるようになった。

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前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世時代、全国に十三刺史部が新設される。その一環で揚州刺史部が設置され、州都は 寿春県城(今の 安徽省淮南市寿県)に定められる。
後漢時代、その州役所は 歴陽県城(今の 安徽省馬鞍山市和県)へ移転された。

時は下って、各地で戦火が絶えなかった後漢朝時代の末期、このエリアを支配した曹操は、 揚州役所を 寿春県城(今の 安徽省淮南市寿県)へ、また後には 合肥県城(今の 安徽省合肥市の北西部)へ移転させている。
曹操の死後、曹丕が魏朝を建国すると(220年)、揚州の州役所は再び、寿春県城へ戻される。

孫権も呉朝を建国すると(222年)、同じく揚州を新設し、その州都を 呉県城(今の 江蘇省蘇州市)に開設する。後に、その州役所は 京口(今の 江蘇省鎮江市)へ、さらに 建業城(今の 江蘇省南京市)内へ移転された。
この時代、揚州は二つ存在していたことになる(下地図)。当時は孫呉の領土に帰属した広陵県城であったが、長江と淮河エリアでの重要な軍事拠点であり、魏呉の間で度々、争奪戦が繰り広げられることとなる。

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280年、西晋朝により呉が滅ぼされると、州役所が 建鄴城(建業城から改名。後に建康城となる。今の 江蘇省南京市)に統一される。

東晋朝から南北朝時代にかけても、建康城が 南兖州(北周朝の治世時代に呉州へ改称)の州都を兼務し続けた。その南兖州下の広陵郡都として、広陵県城(現在の 揚州市北西部の蜀崗地区)もまた継承される。下地図。
しかし、この南北朝時代、広陵県城(広陵郡都)のエリアはまたも戦乱の最前線に位置してしまい、城内は荒廃し、幾度も無人都市となってしまったという。

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最終的に南北朝時代を統一した隋王朝の治世下の 589年、呉州(北周時代に、広陵郡から改称されていた)が蒋州へ改称されるも、総管府はそのまま 丹陽城(今の 江蘇省南京市)に開設された。
隋朝 2代目皇帝となった煬帝により、607年、蒋州は揚州へ再変更される(一時期、さらに邗州へ改称)。

唐代の 625年、揚州の州役所が 丹陽城(今の 江蘇省南京市)から 広陵県城(広陵郡城)へ移転されると、以後、現在に至るまで、揚州という名が定着することとなった。

627年に、全国が 10道に区分けされた際、揚州(742~758年の短期間のみ、広陵郡へ改称)は淮南道に属した。
この時代、揚州下に 39の 郡城、府城と、196の県城が存在したわけであるが、これは州名の揚州下で、現在の市域とは大きく異なるものであった。

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長期の平和が実現した唐代、揚州城の城下町は南方面へ拡大し、二つの城郭都市が建造されることとなる。蜀崗エリアの丘上にはそのまま古城地区が残され(衙城と通称される)、その丘下の新城は羅城と通称されることとなる。上図表。

唐代末期、再び長江と淮河一帯は大いに戦乱に荒れる。
902年、淮南節度使の楊行密が揚州で呉王に封じられ、その次男であった 楊渭(楊隆演)が 919年、正式に呉国を建国すると、その王都を 江都城(広陵県城)に定める。同時に、揚州は江都府へ改名され、元号も武義と改められた。

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937年、南唐が楊氏の呉国を滅ぼすと、金陵城(今の 江蘇省南京市)に王都を遷都し、揚州城を東都に定める(上地図)。
957年、後周朝が南唐から江都府を奪取すると(下地図)、揚州へ再改名される。

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北宋時代の 993年、全国が十道に区分けされると(997年、さらに 15路へ再編)、 揚州は 淮南道(後に淮南路)に帰属した。
1072年、淮南路が淮南東路と淮南西路に分割されると、揚州は淮南東路の管轄下に組み込まれた。
この宋代には、 旧古城(堡寨城、宝祐城と通称された)と丘下の 羅城(宋大城と通称)とを接続する形で 新城(宋夹城)が築造されることとなる。 このとき、三つの城郭都市が共存し、江都県と広陵県に分かれて統括される。

再び長期平和が実現した北宋時代、揚州は中国南東部における 経済、 文化の中心都市として返り咲き、商業、税収面でも全国第三位に君臨するまでに繁栄したという。

1127年、金軍の攻撃により、北宋の 王都・開封が陥落し北宋が滅亡すると、 同年、皇族の趙構が即位して高宗となる(南宋の建国)。
1129年より、高宗は南部へ幾度か遷都を実行する(ようやく 1132年に新王都が臨安城に定まる)。
その遷都の過程で、趙構(高宗)は揚州城に一年間、滞在していたこともあり、 この時期に、揚州はますますの都市発展を見ることとなった。
同時期、江都県から広陵県が 分離・新設され、揚州は 江都県と 広陵県、泰興県の 3県を統括することとなる。

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元代の 1276年、揚州大都督府が設置される。
翌年、大都督府が揚州路総管府へ改編され、高郵府と 真州、滁州、通州、泰州、 崇明州(今の 上海市崇明県)の 5州、および、江都県(広陵県は廃止)と泰興県の 2県を直轄することとなる。上地図。

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南宋末期、李庭芝と姜才の率いる正規軍と揚州市民らが城内に籠城し、 モンゴル軍に抵抗するも、あえなく落城し(上地図)、多くが虐殺されたとされる。揚州城内にはわずかに数千人が生き残るのみだったという。 しかし、再び、元朝の治世下で平和が実現すると、揚州城には外部から多くの商売人や 文化人、宗教家らが集まり、 その人口は爆発的に増加していくも、モンゴル軍の攻撃で荒廃した丘上の古城地区はそのまま放棄され、 丘下の城下町部分のみが復興され、江都県城として使用された。

1357年、朱元璋が揚州を占領すると、揚州路が淮南翼元師府へ、 1361年12月には 淮海府(江都県城)へ改編される(江南行中書省に帰属)。翌 1362年には、淮海府は維揚府へ改称される(1366年、最終的に揚州府へ変更)。
揚州府下には 高郵州、通州、泰州の 3州、及び 江都県、泰興県、儀真県、如皋県、海門県、宝応県、興化県、六合県、崇明県の 9県が配された。

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1363年、六合県が応天府へ、崇明県が蘇州府の管轄区へ転出されると、 揚州府下には 3州 7県が残されることとなる。上地図。
すなわち、江都県、儀真県、泰興県の 3県を直轄し、かつ、高郵州(宝応県と興化県を統括)、そして 泰州(如皋県を管轄)、通州(海門県を監督)の 3州が配された。

1368年、江南行中書省が廃止され、京師(後に南京へ改編)が新設されると、揚州府はここに属した。

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明代を通じ、揚州は経済的に大繁栄を享受し、 1556年に明朝は揚州城の拡張工事を手掛けている。しかし、明末に北から清軍が南下してくると、 1645年に揚州城は再び戦場と化し、一気に荒廃してしまう。

この時、弘光帝が起こした南明朝廷下の兵部尚書史であった可法が、 揚州の軍民らを率いて城内に籠り孤軍奮闘するも、清軍の攻撃の前に落城すると、清軍により揚州城内にいた人々は大虐殺されてしまう。 その殺戮は 10日間にも及び、 総計 80万人もの 住民、兵士らが命を落としたとされる。
同年中に、清朝政府が江南省を新設すると、揚州府はここに帰属された。
すぐに揚州城の復興作業が進められ、揚州城の丘上と丘下の新旧両城が連結され、 城域は、今の広陵区内の 老城区エリア(下地図)へと拡大されていくこととなる。

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1667年に江南省が 江蘇省と安徽省の 2省に分離されると、 揚州府は江蘇省側に区分された。

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清朝後期の 1853年4月、太平天国軍が揚州城を占領すると(上地図)、揚州府は揚州郡へ改編され、また、甘泉県は甘泉天県へ改称される。その占領は 8か月に及ぶも、最終的に清軍に鎮圧されることとなる。

清末の頃、揚州府下には 高郵州、泰州、そして 江都県、甘泉県、天長県(滁州)、 儀征県、興化県、宝応県、東台県 が配されていた。

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上地図は、春秋戦国期の邗城に端を発し、清末までの揚州古城の変遷を地図に書き現したものである。
1912年1月に中華民国が成立すると、揚州府は廃止され、また甘泉県は江都県へ吸収合併される。旧揚州府下の諸県は江蘇省の直属とされた。1914年6月に江蘇省が 5道に区分けされた際には、江都県は淮揚道に帰属された。

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