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渭南市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
陝西省 渭南市 ~ 人口 552万人、 一人当たり GDP 20,000 元
➠➠➠ 渭南市内の 城跡リスト ➠➠➠
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新豊県城
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鄭県城
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大荔県城
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寧秦県城
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船司空県城(船司空衙門、船利県城)
【 渭南市の 歴史 】
この地には、新石器時代の集落跡も発掘されており、その歴史は長い。民族的にも、 この長安平原一帯に住んでいた民族が、後に漢民族と呼ばれる先祖であったと 言われている。
春秋時代は晋に、戦国時代は魏に帰属していた。紀元前 314年には、秦がこの地を占領し、渭河以南一帯を その版図下におさめた。中国全土を統一した後、秦王朝(紀元前 221~前 206)は、渭河以南一帯を驪邑に、渭河以北 一帯を下邽に帰属させた。そのころ、かつての群雄国家の一つ「鄭国」の国都であったこともあり、秦国により この地に鄭県城が設置されている。
秦が滅亡した楚漢戦争時代、項羽は関中へ侵攻し、司馬欣を塞王に任命して、この一帯を統治させている。 項羽の死後、劉邦が前漢王朝を建国すると、渭南郡(驪邑も含まれた)と 河上郡(蓮勺はここ)が新設された。 紀元前 198年、先の 2郡が撤廃され、隷内史に戻された(紀元前 135年、左右に分割された ― 右内史は新豊と 鄭【今の 渭南市東側の華県】を管轄、 左内史は蓮勺を管轄)。 紀元前 197年7月、驪邑から新豊へ改名される。さらに、紀元前 104年、右内史を京兆尹へと改編し、左内史は馮翊へと 変更される。新豊、下邽、鄭県はすべて京兆尹に帰属することとされた。
そして、三国時代。魏王朝(220~265年)は、京兆尹を郡へと変更し、左馮翊を馮翊郡へと改名した。 新豊・鄭県は雍州京兆郡に、下邽・蓮勺は雍州馮翊郡に帰属した。
三国を統一した晋王朝においても、この統治制度は踏襲される。
そして、時代は下って、南北朝時代の前秦王朝下の 360年、雍州京兆郡下に 渭南県が設置される(渭河南岸にあったことが由来)。新豊、鄭県を統括した。
隋代初期、雍州が引き続き踏襲されるも、間もなく、京兆郡へと改変され、 渭南郡はこの地に帰属した。唐代には、その統治制度改編の際、 完全に渭南の地名がなくなるも、元代の 1078年、渭南県が復活される。華州華陰郡に帰属する。 その後も王朝ごとに変更が加えられるも、基本的には渭南県の地名は継続されていく。 明後半より清代に至るまで、西安府の直接管轄区となって、近代へ至ることになる。
中華民国時代、最初は関中道に帰属するも、1928年には陝西省の管轄下とされる。
現在の渭南市中心部は、近代以降に開発された都市であり、かつては単なる田舎の集落であった。
この渭南市一帯は、新豊と 鄭【今の 渭南市東側の華県】の県城を、2大行政都市としていた。
上の地図は、現在の陝西省渭南市華県のもの。城壁跡は全く残されていないが、 路地や地区名に、かつての面影が見られる。古鄭街、古城村、城関鎮、西環路、天門路、西関街、鉄馬村、南街路、絹巷 街 など。
また、かつて臨晋県城が置かれた 大荔県(渭南市中心部から東北部)にも県城があったらしい。
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