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南昌市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
江西省 南昌市 ~ 人口 510万人、 一人当たり GDP 48,000 元
➠➠➠ 南昌市内の 城跡リスト ➠➠➠
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南昌県城(豫章郡城、洪州城、隆興府城、南昌府城)
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進賢県城(鐘陵県城)
【 南昌市の 歴史 】
6000年前にはすでに南昌市一帯に原始的な人類の生息が確認されているという。 3000年前までには、南の青雲譜から北の艾溪湖に至る、現在の南昌市中心部に古代型集落が形成されていたとされる。
紀元前 221年に群雄割拠の春秋戦国時代を統一した秦国の治世も長くは続かず、紀元前 206年に項羽により滅ぼされる。
その直後、江南の地に勢力を張った 英布(?~紀元前 196年)は項羽より九江王に封じられ、 この九江王国の版図下として、現在の江西省一帯も組み込まれることとなった。
しかし間もなく、項羽と劉邦の間で楚漢戦争が勃発し、項羽を見限った英布は劉邦方に味方し、最終的に紀元前 202年、英布の率いる軍も劉邦軍と合流し、垓下の戦いで項羽を追い詰める。 垓下からの逃走を図る項羽に対し、劉邦は騎兵大将の 灌嬰(紀元前 250~紀元前 176年)に追撃を命じ、最終的に灌嬰率いる追手からの逃避が不可能と悟った項羽は自殺し、その胴体は灌嬰の配下の部下 5人によりバラバラにされ、劉邦に献じられることとなる。
その後も、灌嬰はさらに長江南岸の旧楚の残党勢力を駆逐すべく、軍事制圧を続け、最終的に紀元前 201年に完全平定を成し遂げる。灌嬰はこの功績により潁陰侯に封じられ、しばらくの間、旧楚領の統治を委ねられることとなる。
このとき、九江郡から豫章郡が 分離・新設され、あわせて、南昌県も新たに設置される (引き続き、一帯は揚州に所属)。この南昌県城内に豫章郡役所が併設されることとなり、 守将の灌嬰の主導の下、築城工事が着手される。その城郭は今の南昌駅の東南約 4 kmにある 皇城(黄安)寺 あたりにあったとされており、城の周囲は 4,100 m前後あり、土壁で 6城門を有する 県城(当時の人々は 「灌城」と通称した)が完成することとなる。これが南昌市の起源となる。 なお、この「南昌」の由来であるが、ますますの発展を祈念した「昌大南疆」と「南方昌盛」の文言から 命名されたとされる。以降、一帯を流れる3河川と北側に中原と接する 5湖を有する水運都市として、 大発展を遂げていく。
ちなみに南昌県城では、以後、灌嬰が建城の父として、南昌城内の 守り神「城隍廟」に祭られることとなる。
その前年の紀元前 202年に、劉邦は前漢朝を建国し、功臣らを諸王に封じている。 その際、淮南王となった英布は 六県城(今の安徽省六安市)を王城として、九江郡、蘆江郡、 衡山郡、豫章郡などを統括することとされた。
前漢朝を滅ぼした王莽の 治世下(新朝)、豫章郡が九江郡へ再編入されるも、後漢朝が復帰すると、すぐに再分離され元の 2郡に戻される。
下の地図は、後漢末期のころの江南一帯を表す。赤色の → は、孫権の兄の孫策の行軍ルートを示す。
三国時代の呉領下でも、南昌県城は豫章郡の郡都として栄えた。
西晋朝の時代に、豫章郡が江州へ改称されるも、南北朝時代に入って再び豫章郡に戻される。この時期、多くの漢民族らが江南地域へ移民として流入し、中原文化が大いに伝播され、土地開発、文化の著しい発展が進んだ。
300年近く続いた南北朝時代を平定した隋王朝の治世下の 589年、全国的に郡制が廃止され、州制が採用されたことで、豫章郡は洪州へと改称される。しかし、2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、再び洪州が豫章郡へ戻される(唐代においても、 幾度となく 洪州、豫章郡への改名が繰り返された)。
唐朝が滅び、五代十国時代となると、最初は呉国の版図下に、続いてここから権力禅譲を受けた南唐国の領土として継承された。しかし、華北に勢力を拡張させてきた 後周国(後に北宋へ権力禅譲し滅亡)の圧力に屈し、江東や江南一帯に勢力を張ってきた南唐朝も臣下の礼をとることとなる(958年)。当時、2代目皇帝の座にあった李璟は翌 959年、南昌府を 洪州(洪都)へ昇格させ、遷都計画の協議が進められることとなる。しかし、南昌城はもともと手狭で、皇族、貴族らの多くが計画に異を唱えるも、ついに 961年、王城が 江寧府城(もともとは金陵府城と呼称された。現在の南京市にあたる)からこの南昌城への遷都が強行されるに至る(南昌は南都へ改称される)。結局、すぐ後に、王都は江寧府城へ再遷都された。このころ、南唐は後周の属国となり、国号も「江南」へ変更させられている。
最終的には 975年に、北宋朝が 南唐国(「江南」を称させられていた)を滅ぼす(実質的に南唐国の 3代目皇帝であった李煜は降伏後、978年に殺害される)。北宋は同年、再び南昌府を洪州へ改称し、最終的に 1163年、隆興府へと変更する。
上の地図は南宋末期のモンゴル軍の 侵攻ルート(青色)と、南宋抵抗軍の 撤退ルート(赤色)を示す。隆興府城もモンゴル軍により攻略された。
元代には目まぐるしく名称が変更されている。まず、1277年には隆興路へ、そして 1284年に龍興路へ、さらに 1362年に洪都府へ、翌年 1363年に南昌府へと改称が繰り返された。
明朝初期の 1370年、南昌県と新建県の 2県役所が、南昌城内に併設されることとなった。清朝も明代の行政区がそのまま継承された。
下の地図は、中華民国時代に蒋介石の率いる国民党軍が各地に割拠した軍閥勢力を武力掃討していく北伐のころのもので、1926年にこの南昌城も平定され、正式に中華民国に組み込まれた。
なお、現在の南昌市中心部の東湖区にあった 南昌県城跡(豫章郡城、洪州城、隆興府城、南昌府城)であるが、その城門も城壁も今日では全く残されていない。現在の高速道路で囲まれた一帯がその城郭都市の遺構と重なり、だいたいのスケールをイメージする手がかりとなる。
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