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崇左市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広西省チワン自治区 崇左市 ~ 人口 243万人、一人当たり GDP 24,000 元
➠➠➠ 崇左市内の 城跡リスト ➠➠➠
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太平府城(臨塵県城)
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龍州県城
【 崇左市の 歴史 】
崇左市一帯は、元来、チワン族系の先住民らが割拠する地域であった。
中原を統一した秦の始皇帝は、紀元前 214年、嶺南地方の武力併合に成功し、翌年、桂林郡、象郡、南海郡を設置して、中央集権体制の導入を図った。このとき、象郡役所が設置されたのが、臨塵県城(現在の 崇左市旧市街地)とされる(異論も多く、ベトナム側にあったする説もあり)。象郡は今の崇左市域から、寧明県、龍州県、大新県、靖西県、徳保県 などを含む、広大な地域を管轄することとされた。
紀元前 208年に秦が滅亡すると、中原で再び戦乱が勃発する。その混乱の最中、南海郡の軍事長官であった趙佗が桂林郡と象郡を武力併合し、紀元前 204年に南越国を建国して、南越武王と称するようになる。
しかし、前漢朝 7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 111年、前漢軍により南越国は滅ぼされ、 その旧領に新たに 9郡が設置される。前漢は全国を 13州刺史部に分けて統括しており、このうちの一つとして交趾刺史部が新設されて、嶺南地方の一帯を監督することとされる。交趾役所は 龍編県城内(今の ベトナム・バクザン省バクザン市)に開設された。
紀元前 76年、象郡が廃止され、帰林郡(郡役所は 布山県城、今の桂平市西南一帯)に帰属されることとなる。
三国時代、郁林郡一帯は呉に帰属し、264年には交州と広州が分離され、南海郡の番禺城に設置された広州の管轄下に配された。
東晋時代の 318年、郁林郡から晋興郡が 分離・新設される。その郡役所は 晋興県城(今の南寧市街区)に開設される。崇左市域は、この晋興郡晋興県に帰属される。以降、南北朝時代の 宋朝、斉朝、梁朝、陣朝の 4王朝時代もこの行政区が継承されていく。
南北朝を統一した隋代には西原の地とされる。
唐代初期の 627年、左江鎮が置かれるとともに、思同州、万形州、万承州、波州、上下恩城州に帰属された。713年には、羈縻龍州、太平州と左州に再編される。
宋代初期は唐の行政区が踏襲されるも、980年前後、華南の防備を強化すべく、 左江道が設置され、その下に 太平寨(今の崇左市)、永平寨(今の寧明県城)、古万寨(今の扶緩県西北)、永楽寨、横山寨(今の 田東県平馬鎮)などの 5役所が簡易な環濠要塞内に設置された。
1052年、チワン族出身の儂智高が反乱を起こす。このとき、最初に襲撃を受け陥落したのが、横山寨であった。それから 2か月たらずで 邕州城(今の南寧市)をも陥落させ、広西省全域を支配する「大南国」が建国される。崇左市一帯も、その版図下に組みまこれるも、翌年には、宋枢密院(宋朝の最高軍事機関)副将・狄青の率いる宋軍により反乱は鎮圧され、再び宋領に復帰する。
反乱平定後の 1053年中に、邕州城内に邕州都督府が再開され、その下に管轄されることとなった太平寨より分離されて、崇善県が新設される。県役所は現在の新和鎮岜関山の東南 1 kmにある鳌石村に開設される(現在はすでに跡形も残されておらず)。
1292年、太平寨が太平路へと改名される。太平路役所は今の崇左市中心部の太平鎮に設置される。
明初代皇帝の朱元璋は、広西省一帯の地方行政区における宋代や元代からの土司行政制度を追認する一方、これらを監督すべく、1370年、麗江に広西布政司左江道を設置し、太平寨などの 16の土州と崇善県などの 4県を統括するものとした。同じく、憑祥と江州も広西布政司の管轄下に組み込まれている。
1540年、崇善県役所が新和に、太平府役所が 太平鎮(太平鎮南街に当時あった寺院を庁舎として利用)内に開設される。
清代初期、思明府が土府へと降格される。 1732年、思明土府が廃止され、土思州となる。また翌年、思明州は寧明州へと改編され、思明土府は明江庁となる。思誠土州が廃止され、崇善県に編入される。
中華民国初年度の 1911年、土左州と憑祥が県へ変更される。翌 1912年、太平府制なども廃止され、すべて直轄の県制度が導入される。まだまだ地方では根強かった地元豪族による土司制度がここに終焉を迎えることとなる。
崇左市の龍州県の旧市街地にかつて城郭都市があった。現在は全く城門や城壁は残されていないが、路地名にはっきりとその記憶が刻み込まれている。北門村、西街、西街小学、東街、東門街、南街、北門街、城北路 など。
そもそも龍州城跡であるが、五代十国時代の(907~959年)南漢国の支配時代、今の龍州鎮の北門付近に、宜州の州役所が開設されたことに端を発する。
南漢国を亡ぼして全国統一した宋朝により、羈縻龍州が設置され、その州役所が宜州役所跡に開設される。1053年、宋朝廷は龍州に土官制度を導入し、龍州土司の世襲による間接統治時代が始まる。
元代の 1299年、龍州は万戸府へと昇格され、その府役所は今の龍州古城内に開設される。このときに、城郭都市が拡張整備される。明代初期の 1369年、龍州万戸府が廃止され、龍州に戻される。清代初期は明代の行政区が踏襲されるも、1725年、龍州が分離され、上龍・下龍の二つの土巡検司となる。 1727年に下龍司が、1907年には上龍司の土司世襲統治制度が廃止され、龍州庁が新設される。
なお、崇左市中心部にあった 太平府役所跡(秦代の象郡役所であった臨塵県城跡)であるが、これは明代後期の 1540年、当時、太平鎮南街に当時あった寺院の建物を利用して開設されたようであるが、その跡形は一切、残っていない。とりあえず、三方を河に囲まれた湾曲内岸に設置されていたらしい。
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