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ベトナム ホイアン(会安)市
訪問日:2016年4月中旬 『大陸西遊記』~
ベトナム ホイアン(会安)市 ~ 市内人口 13万人、 一人当たり GDP 4,200 USD (全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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アジア観光都市 ベスト 100入り(2011年度)
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日本橋(来遠橋) その昼顔 と 夜顔
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日本橋 と 水路、池
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ホイアンの歴史 と 日本
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陶磁器博物館 と ベトナム陶磁器産業の歴史
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江戸時代の ホイアン日本人町
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華僑会館 と 関帝廟
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フエ中央市場
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江戸時代の 日本人商人の墓所
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トゥボン川の渡河 と Kim Bong 村
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ダナン港とつながっていた ココ川水系断絶後の ホイアンの末路
ダナン
空港到着後、そのままタクシーで 南へ 30 kmの ホイアン(会安)市に入った。約 1時間(40万ドン)。 下地図。
夜19:00に
ホテル
に到着した後、とりあえず夜の旧市街地を散策してみた。
知人から「ホイアンは昼と夜の顔が違うから対比して見てみて」と入知恵されていた甲斐があった。
夜のホイアンは、25度ぐらいの涼しさから、たくさんの住民や観光客らが外を出歩き、テーマパークのお祭り騒ぎであった(土曜の夜だったからかも)。
ホイアンは2011年度、アジア観光都市ベスト 100に選出されただけあって、観光客には安全で、非常に清潔な都市であった。
物価も安く、また英語も通じやすく、ビーチと自然環境が整ったロケーションは、欧米人には人気となるに違いない。
まずは、観光名所 No.1となっている
日本橋(来遠橋)
を訪問してみた。
日本橋が架かる水路は、濃いドブの匂いが漂っていた。
ほとんど水がなく、また、手前のトゥボン川(Thu Bon River)も水位が低く、最初はビックリしたが、昼間に再訪してみると、両者は水を並々と湛えており、潮の満ち引きに影響されて、河川の水位も大きな差が生じていることが分かった。
ベトナムでは、モンゴルの水軍や 阮福暎・シャム連合軍を破った西山党の戦いなど、この河川の水位を利用しての激戦が有名であるが、その背景が分かった気がした。
下は、翌日の日中に訪問したときの写真。
そもそも、戦国時代末期に日本人が居住し始めた 16世紀後期に最初に設置されたという。
日本人居住区として割り当てられた街路と、現地業者や市場、中国人街との交通の利便性を図るため、日本人が中心となって建設したとされる。
18世紀以降、日本人が完全にいなくなって後も、地元ベトナム人と中国人らにより修繕が繰り返され続けた。その過程で橋上に廟が設けられることとなったという。下写真。
ちなみに、日本橋の 別称「来遠橋」であるが、1719年、阮福凋(第 6代君主の明王)が行幸した折に命名されている。
この日本橋は、1593年(猿年)に着工され、1595年(犬年)に完成したため、橋の西側に一組の犬神の彫刻と、東側に一組の猿神の彫刻が鎮座されている。下写真。
下は、
日本橋
の反対側の様子。ここからさらに水路の奥側に大きなため池があった。かつては、より複雑に水路が張り巡らされ、旧市街地の各所まで船が入り込めたはずである。
ベトナム中部に勢力を張った
チャンパ王国
内の王都 Trà Kiệu と 神殿群(ミーソン遺跡)が、トゥボン川(Thu Bon River)の 上流域(現在の クアンナム州 Duy Xuyen区)に開設されており、その川の下流にあって、河口部を占めたのが港湾都市 ホイアン(かつては大占海口 Haisfo, Haiso, Cotam, Faifo と通称された)であった。周辺一帯の肥沃な土地から産出される作物の積み荷港として、またトゥボン川と海路の両方へ通じる内陸港として、発展の絶対条件を必然的に付与されたロケーションにあったと言える。
こうして、2世紀から 15世紀に至るまで、王都 Trà Kiệu の玄関口として機能し続け(8~9世紀はイスラム商人が頻繁に往来した)、 1471年にチャンバ王国が滅亡し、当地が北ベトナムの黎朝により併合された後も、中部ベトナムの中心都市として君臨し続けた。
1570年、阮潢が広南鎮守となり、
順化府城(今のフエ市)
を王都とする阮氏政権を誕生させると、その積極的な庇護の下、国際貿易港として大いに発展し、17、18世紀に最盛期を迎える。
ちょうど、欧州列強の大航海時代が始まった時代でもあり、そのロケーションも有利に働き、 16世紀末以降は、ポルトガル人、オランダ人、インド人、中国人、日本人などが来訪して貿易に従事した。商人たちは一度立ち寄ると、4~6か月は当地に滞在する習わしで、後に日本人街、中国人街、オランダ東インド会社の 居留地(1636~41年)などが常設されていった。
ホイアンの港は、マラッカと並び、17世紀以降、東南アジア地域において、最大規模の港湾都市となっており、当時のベトナムで最大の港町を形成する。
そんな中の 1601年、当地を支配した広南阮氏が、日本の徳川家康へ書簡を送って正式な国交を樹立し、江戸幕府との間で朱印船貿易が開始されたわけである(1604~1635年の鎖国令発令まで)。
当時、中国人と日本人が最大規模のコミュニティを有しており、当局は中華系と、日本人の居住地区を分離し、それぞれ街道を一つずつ与えて、居住区を分けていたという。
こうして、両地の中国人と日本人らはそれぞれの生活習慣や文化風習をそのまま現地に持ち込み、中華街、日本人街として別個の世界を現出させた。日本人は多い時で、300名ほどが暮らしていたという(1617年ごろ)。鎖国令以後、日本人の人口は急速に減少し、1695年の史書にある、4~5軒の日本人家族を除いて、中国人が住んでいる、、、という記述が最後だという。
後の史書には、1768年当時、中国人住民は 6,000名を数えたと出てくる。
現在でも、旧市街地にはかつての国際都市の名残が至るところに残されており、その最も代表的なものが、観光地でも有名な日本橋ということだ。
そんなホイアンの栄華も、19世紀前半に終わりを告げる。
夜のトゥボン川沿いは、提灯流しの提灯を売りつけようとする売り子たちがしつこく勧誘していた。
またホテルに戻ると、夜のうちに侵入した蚊にかまれた。ベトナムの蚊の威力はすさまじく、5日目でようやく腫れが完治した。
翌朝、再び、ホイアン旧市街地を観光してみる。
今度は、旧市街地へ入る路地で、警備員がチケットを買うように観光客らをせかしていた(5枚綴り 12,000ドン)。下写真。
日本橋から東へ 150 mのところに
陶磁器博物館
があった。
当時、ベトナム製の陶磁器は全世界に輸出されていたようで、その最古の陶磁器が、日本の大宰府にある古墓所から発掘された青い花柄の 陶磁器(1330年)とされている。
特に、15、16世紀はベトナム陶磁器の黄金時代となり、その販路ネットワークはピークに達したという。しかし、17世紀には突然、その終焉を迎えている。引き続き、日本との交易だけは、中国船やオランダ船を通じて細々と続けられていたという。
本館に展示されている陶磁器類は、ベトナムで生産されたもの以外に、日本の 肥前磁器(伊万里焼)、中国の陶磁器などもあり、すべてこの古商家の発掘調査で出土したものという(16~17世紀のもの)。下写真。
また、当時は海賊からの襲撃を避けるため、海岸線から 30 kmの沖合を航行する習慣があったとされる。その際、不運にも嵐に遭遇し、中国の海南島と
ベトナム・ダナン
との間の海域で沈没した商船から発見された陶磁器類もあった。下写真。
この古商家の発掘調査に際し、日本の昭和女子大学も協力したという(1994年)。
特に、2階へ移動する階段部分は、何か日本的な懐かしさを感じさせてくれた。下写真。
この古民家の 2階からは、旧市街地を上から眺められる。数少ない眺望スポットと思われる。
下写真は、陶磁器博物館の前後を、昼夜それぞれの時間帯で撮影したものである。
博物館の正面玄関ロビーには、江戸時代初期、日本からの
朱印船
がホイアン港へ入港する姿が描かれている(下写真)。浅瀬であったので、小舟で大型船をけん引しなければ入港できなかった様子。
ホイアンの日本人町の様子も伺える。
そのまま旧市街地のメイン通り沿いにある、
華僑会館
などもいくつか巡ってみた。
福建省、広東省などの出身者がギルド組合を形成して、会館を開設していたわけである。会館は 廟(神殿)も兼ねており、道教の影響で多種多様な神様が祀られていた。
世界中どこの中華街でもあるスタイルだ。
下写真左は、広東省会館の正門。
下写真右は、その裏庭。白い羊の銅像は、広州のシンボルである。
この広東省会館には、三国志の桃園の誓いや関羽千里行の様子が描かれていた。ここの最高神は関羽であった。
そのままメインストリートを東進すると、
中央市場
に到着する(下写真左)。
ここを南北に通り抜けていくと、トゥボン川までたどり着く。
市場の北側は食事処で(上写真右)、続いて 雑貨屋、野菜売り場、肉売り場、魚貝類市場(下写真左)と、棲み分けされていた。最後の河沿いの魚貝類売り場はグロイが、見応えは満点だ。観光客が入り込んでも、何も言われない。
下写真右は、ベトナムの代表的な輸出品である白身魚の バサ(川魚)である。水質汚染や養殖中の過剰薬物接種があるとかで、現在は食用には危険とニュースで言ってたが。
その中央市場の西隣にある船着き場から、トゥボン川を横断して対岸の Kim Bong 村(下地図の ⓫)へ行こうと思案していたら、おばさんが渡し舟サービスを売り込みしてきた。最初は往復 20万ドン、最終的に 15万ドンでいいと言っていた。
とりあえず、暑くてヘトヘトだったので、河沿いのカフェで食事と休憩して、冷静に以後の街歩きの予定を考えてみることにした。
ちなみに、中央市場の西隣にある観光案内所では、清潔なトイレが無料で使えて助かった。汗だくの顔を洗えるのも良い。
食事中、旧市街地の北にある
日本人墓所
と、南岸のKim Bong村への訪問を考えたら、自転車をレンタルした方がいいという結論に達し、午後の半日分で 30,000ドンで自転車をチャーターする。
まずは北側の日本人墓所へ向かった(上地図)。
ダナンへ移動する幹線道路から農道へ入って、すぐの場所にあった(旧市街地から 15分程度)。
江戸時代初期、当地で日本の 貿易商人「谷弥次郎兵衛」がベトナム人の恋人と出会うも、外国貿易禁止令に基づき、日本へ帰国することとなる。
しかし、恋人を忘れらない彼は、その帰国の一団を抜け出し、再び、ホイアンへ戻ろうと図るも、再会かなわず、その途上で命果てることとなる(1647年)。その非業の死を悼んだ地元民により墓が作られたのだった。下写真。
その墓は、母国日本がある北東 10度の方角を向いて設置されているという。
墓の後方には、1928年にインドシア一帯に滞在していた日本人会により、墓標修繕の記念碑が建てられていた
。
そのまま南岸へ移動し、トゥボン川を渡河する。Kim Bong 村が最終目的地のサイクリングだ。上地図。
トゥボン川に架けられた橋は鉄板張りで、バイクとすれ違う度に地面が揺れている様が、なかなかスリルがあった。下写真。
南岸は、ますますのどかな集落地であった。水牛、鶏、アヒルなどが放牧されていた。
下写真左は、トゥボン川に浮かぶ三角州の先端部分。対岸が Kim Bong 村だ。
下写真右は、Kim Bong 村側から三角州を眺めたもの。
Kim Bong 村は手工業の木材加工が伝統的な生業の街らしく、それを見学しに、度々、観光客のグループが訪問してきているようだった(旧市街地から 20分程度の ボート・ツアー)。下写真。
そして、自転車を返却しに旧市街地へ戻る。だいたい全部で 2時間ぐらいの行程だった。
これだけで、相当に日焼けした。郊外は風も涼しく汗はかかないが、水分補給はこまめに行うべきであろう。
下写真左は、ホイアン郵便局。なかなか立派な建物だった。
下写真右は、孔子廟。いずれも、サインクリング途上で通過した。
なお、このホイアンはベトナム戦争 当時(1964~75年)、
韓国軍
が駐屯しており、戦火に巻き込まれずに済んでいる。
かつては、海岸線と並行して走っていたココ川を通じ、前線港のダナン港と密接な関係にあったホイアン港であるが、ココ川の土砂堆積で河川交通がとだえ、大型船の入港も困難となったことから、忘れ去られた港町でもあったことが幸いしたとも言われる。下地図。
しかし、第二次大戦直後から勃発した第一次 インドシナ戦争(対フランス独立戦争)では、フランス軍の艦砲射撃を受け、街は被災している。
16世紀半ばまで、
ダナン
港はホイアン港へ至る前線の単なる港町として、荷物の一部取扱いや船舶の修理などで寄港される場所に過ぎなかったが、19世紀までにココ川で土砂が堆積し、ホイアン港との河川交通が遮断されると、深い接岸エリアを有する海岸港ダナンの重要性が一気に高まることとなる。
17~18世紀ごろまで、ホイアン港は当時のベトナムでの三大都市の一角を占めるほどに繁栄していたわけであるが、 1771~1802年に全国を揺るがしていた 西山党(Tay Son)の農民反乱で多大な被害を受け、その復興に手間取る間に、北のダナン港がその地位をとって代わったのだった。
広南政権を樹立した阮潢の後裔である 阮福暎(グエン・フック・アイン)が、ベトナム最後の 王朝・阮朝を建国すると(1802年)、 王都
フエ
により近いということで、ダナンの外交、通商上の港町としての地位は確固たるものとなっていく。
一方で、かつての 通商・外交港湾都市 No.1のホイアンは、ベトナムの歴史から忘れ去られることとなった。
今日、貴重な文化財として保存されている中国式の建築群や、関帝廟、華人会館や旧家屋は、皮肉にも、ホイアンの街が廃れていったために、特に後世の人の手があまり加えられずに残存できたものと指摘されている。
こうして、古都ホイアンは、ベトナム戦争でも奇跡的に戦火を免れ、その歴史評価が高まった 1985年、ベトナム政府により国家史跡に認定されるとともに、旧市街地の復興作業が進められ、ついに 1999年12月2日、ユネスコにより世界遺産に指定されるに至るのであった。
14:00過ぎにホテルでタクシーを呼んでもらい、
ダナン
ヘ移動する。30万ドン。40分ほど。
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