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ベトナム ニンビン(寧平)省 ホアルー(華閭)県
訪問日:2017年11月中旬 『大陸西遊記』~
ベトナム ニンビン省 ホアルー県 ~ 省内人口 95万人、 一人当たり GDP 4,200 USD(全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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天然の要害の地、古都・華閭洞(ホアルー)城の 最盛期の 巨大城郭地図
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内城と外城、それを取り囲む天然の 城壁、堀川(ホアンロン川、黄龍江)
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ベトナム最初の 統一王朝(丁朝、前黎朝)は、治世が不安定な軍事強権国家だった!
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【豆知識】華閭洞(ホアルー)城の 歴史 ■■■
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丁部領(尊称:丁先皇 ディン・ティエン・ホアン)の 霊廟
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黎桓(尊称:黎大行 レー・ダイハイン)の 霊廟
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旧チャンアンの 川下り
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新チャンアンの 川下り と 断崖絶壁の隆起岩が醸し出す、難攻不落の地形
ハノイ
中心部から自動車をチャーターして、南へ 95 km 離れたニンビン省内の 古都ホアルーおよび、チャンアン景勝地を訪問した。ちょうど 2時間ぐらいのドライブだった。
車がホアルー県内に入ると、徐々に、ニョキニョキ地面から生えてきたような隆起岩の小山群が目につくようになる。
それから間もなく、古都ホアルー遺跡の場所に到着した。自動車は外で待つことになり、見学者は徒歩で遺跡公園内に入る(下写真)。周囲は隆起岩の小山群が取り囲んでおり、天然の要害の地であることは一目瞭然であった。ふと日本の鎌倉や京都の地形を思い出した次第である。
実際、当地が王城として栄えたころ(
下地図
)、周囲の山々や隆起岩を利用して、大規模な城壁が建造されていたという。実際に煉瓦と土石から成る城壁が人工的に積み上げられたのは、平野部が連なる左右の両辺のみで、あとは天然の山々や絶壁が利用されていた。山々の要所要所には見張り台などが設置されていたと思われる。
なお、かつて内城と外城をつないだ通路は、今でも自動車道路となって利用されている(下地図の中央部)。この内城と外城の境界線は、隆起岩により形成された険しい峠道を通過することになる。
内城と外城は共に隆起岩に囲まれる、広く開けた平野部が利用されており、上空から見ると、ちょうど砂時計のような左右対象の空間が二つ並んでいたことになる(上地図)。その両空間をつなぐ接続点が異様に狭い通路のみという構造だったのだ。
なお、現在の 古都ホアルーはかつての繁栄が夢物語だったかのように静かな田舎地帯に変貌しており、一部に霊廟が再建されている以外、かつての巨大王都の名残を感じさせるものは何一つ残されていない。往時は、あふれんばかりの建築群が建ち並び、全国の首府にふさわしい威容を誇ったに違いないが、現在では田畑と所々に点在する農家の家屋群、そして墓標が立ち並ぶばかりの田舎エリアになってしまっている。
しかし、周囲に切り立つ隆起岩の山々は当時のままの姿をとどめ、かつて天然の城壁を構成していたことは十分に伝わってきた。
1010年に李公蘊が王都を遷都する際(
上地図
)、ホアルー城の城壁は破壊され、多くは
昇龍城
の建造などに転用されたと考えられ、当地には城壁跡の基盤だけが残されることとなったという。現在、この城壁跡には森林が生い茂っており、わずかに土盛りの名残を見ることができる。
また、華閭城の目前には、かつて緩やかに蛇行する 黄龍江(ホアンロン川)が流れており、城の外堀の役割を担っていた。現在、川の流れが変化し、水量は激減しているという。
当時、内城の北側には堀が掘削されていたというが、今では小さな溝程度しか残っていないという。このように、天然の絶壁と河川や水路などを利用した自然要害に守られる形で、ホアルー城は成り立っていたことになる。
古城エリアは内城と外城に分かれており、宮殿遺跡は内城側にあり、丁部領と黎桓の王宮や政庁が存在した場所で、外城は普通の市民らの居住エリアと考えられている。
しかし当時、朝貢関係にあった北宋朝が派遣した宋鎬が、(大瞿越国=下地図)前黎朝の初代皇帝の黎桓を特使として親善訪問し、 後日、本国へ戻って自身の見聞を皇帝に上奏している内容が非常に興味深い。すなわち、「王城内には住民は皆無で、竹で作られた数十、数百戸もの兵舎が建ち並ぶのみであった」という。
また、宋鎬は海路から続く 河川ルート(黄龍江)を伝って華閭城へ至っており、下船して上陸したその場所がそのまま 華閭城(外城)前だったと触れていることから、華閭城は川辺に位置していたことが読み取れる。
特に
、華閭城外城は主に駐留兵士だけの居住空間という指摘が注目に値する。当然に、その兵士らは王城と皇族らを護衛する責務が課されていたはずなので、その王都内の異様な臨戦態勢ぶりから推察できるのは、当時、丁部領や黎桓が北ベトナムを統一し王権を建国したとは言っても、単に周囲の地方豪族らを服属、帰順させたに過ぎず、事実上は、地方豪族らの強大な勢力が割拠する不安定な王権体制であったということである(日本史で言えば、全国統一した豊臣秀吉と、各地方の大々名らとの関係)。
それが故に、王都の華閭城は軍事重視のロケーションから選好され、また、外城エリアに兵士らを大量に駐留させていたと考えるのが自然であろう。
唐末から五代十国時代にかけて、中原では戦乱が激しかったが(上地図)、北ベトナム地方はそれらの戦火に巻き込まれることなく相対的に平穏であり、逆に中原王朝の北ベトナムへの統治力を弱まったことで、地場勢力の台頭を招くこととなる。
まずは曲氏が権力を掌握し半独立勢力を形成するも、923年に曲承美が捕縛されると、以後の歴史は、史書の記録がない空白時代となるが、北ベトナム平原で群雄割拠の混戦時代が到来したものと推察される。この中で、楊氏や矯氏らの地方軍閥が台頭しては消えていったわけである。
その混戦で一歩頭を抜け出した呉権が北ベトナム勢力をまとめ上げ、中国華南地方の南漢国の軍隊を撃退し、呉氏政権を樹立するも、呉朝の統治も不安定で、間もなく十二使君の戦国時代が幕を開ける。
数十年後に丁部領と黎桓の勢力が北ベトナムの統一王権して台頭するも、引き続き、北ベトナム一帯では治世が不安定なままだったという時代背景が読み取れるわけである。
華閭洞(
ホアルー
)城一帯は唐代に開発が進められたと考えられる。
それまでの行政区が大幅に改編され(交州が縮小され、長州の管轄域が拡大される)、長州の州都が 文陽県城(今の ナムディン省ナムディン市)からこの華閭城へ移転される。
唐末から続く中原の戦乱は、北ベトナム平原にも戦火をもたらし、860年の南詔国の北ベトナム侵攻から、966年の丁朝による北ベトナムの再統一まで、度重なる支配者の変遷を見ることとなる。この時代、北ベトナム平原の中心都市だった大羅城一帯も大いに荒廃したと考えられ、一帯の住民らが周辺エリアへ流民となって流れ込んだと思われる。
こうした移民を受け入れ、急速に台頭したのが 長州城(ホアルー城)を本拠地とした丁部領であった。隆起岩群に守られた天然の要害の地で敵の侵攻を防ぎ、自国民らの力を蓄えて一気に十二使君乱立の戦乱時代を統一することとなる。
実際、951年に呉朝配下の軍勢に華閭洞一帯を包囲されるも、籠城戦に成功し、以後、一気に反転攻勢をかけ、北ベトナム平原を席巻したのだった。
丁部領は、そのまま自身の地盤であった 長州城(華閭洞、ホアルー)を王都に定め、丁朝(966~980年)を建国するに至る。しかし、晩年は女性問題でその素行が問題視され、家臣の 杜釈(ド・ティック)によって暗殺され、丁朝は滅亡してしまう。
丁部領の次男で幼少の丁璿が擁立されるも、軍人の黎桓に権力禅譲を迫られ、前黎朝(980~1009年、大瞿越国=上地図)が建国されることとなる。引き続き、長州城(華閭洞城)がそのまま王都として継承された。
1005年に初代皇帝の黎桓が死去すると、皇族どうしの内乱が勃発し、1009年末、禁軍の 指揮官・李公蘊(974~1028年)が残党勢力をまとめる形で王位に就く。
1010年に李朝を建国した李公蘊は、王都を北ベトナム平原の中心地であった
昇龍城
へ遷都すると、華閭城は長安府城へ改称された。
現在、所謂「古都ホアルー」遺跡として、我々が訪問している部分は、かつての内城の一部分にすぎない。
まず入場料
20,000
ドンを支払い、正面より入って左手にある、初代皇帝・丁部領(尊称:丁先皇 ディン・ティエン・ホアン)の霊廟と、緑地を挟んで、並んで設置されている前黎朝の 初代皇帝・黎桓(尊称:黎大行 レー・ダイハイン)の霊廟がそれである。
下写真は、まず誰もが訪問する、丁王朝 初代皇帝・丁部領(尊称:丁先皇)の霊廟。
下写真左は 2つの霊廟の間に設けられた緑地。きちんと手入れされていた。後方の山々はかつて城壁を兼ねていた。
下写真右は、その向かいにある繁忙期に駐車場となるエリアと背景の山々。
下写真
は 前黎朝の 初代皇帝・黎桓(尊称:黎大行)の霊廟。丁部領に比べると、霊廟も簡素な装飾だけだった。こちらはチケット確認のスタッフもいず、実際のところ、無料で見学できる。
これらは17世紀に再建されたものといい、霊廟内には、皇帝の座像が安置されているはずだったが、筆者の訪問時には座像はなく、単に椅子が高座に設置されているのみだった。
見学後、昼食を食べるため、付近の食堂へ連れて行かれた。羊料理が有名というらしいが、どれもこんな田舎には似つかわしくない高額な値段設定。観光客用のメニュー表と地元客用のメニュー表が別に用意されていると思われる。
あまり気持ちいい昼食とはならなかったが、気を取り直してチャンアンの川下りを試みる。
ドライバーによると、
チャンアンの川下り
は新旧 2箇所あるという。それではと、両方に連れていってもらうことにした。
旧チャンアンの船着き場は、ホアルー古城のすぐ隣にあった。裏手の絶壁の山に登山用の簡易通路が建設中で(上写真左)、もしかして、この山を登るのか!?とビックリしていると、イヤイヤ、この山の下をくぐるのだと言う(下写真)。
山下のトンネルは1ヵ所だけで、総計 5 kmのルートを 1時間半かけて小舟で巡るという。
しかし、有名な観光地のわりには、誰も客がいないので、皆、新チャンアンで川下りするのだろうと思い、やはり新チャンアンへ移動することにした。新チャンアンは合計 10 kmのルートを 3時間かけて巡るという。
新チャンアン
では大型バスがたくさん出入りしており、頻繁に客の往来がある様子だった。
9ヵ所のトンネルくぐりもスリルがあったが、やはり周囲にそそり立る絶壁の隆起岩の山々が圧倒的に印象に残った。
中国広西省の桂林
のスケールを小さくした感じで、しかし、桂林の川下りよりも間近で絶壁や川水が見れる分、もっと迫力を体感することができた。
この迷路のような複雑な地形と険しい山々、至る所に点在する沼地や河川は、華閭洞(ホアルー)城を防衛する上で圧倒的な有意性を持たせたに違いない。地の利に長ける地元兵たちの独壇場となったことだろう。
このホアルー城にはモンゴルや北宋、明朝などの軍勢が攻め込んでおり、その要害さから、侵入者らをことごとく撤退に追い込むことに成功している。ゲリラ戦の聖地といえる。
こんな場所までも、結婚記念の写真撮影会が行われていた。ベトナムは絵になる自然風景が豊富で、これを財産にいい写真がたくさん残せる地元市民は非常に幸運である。
川下りは 3時間コースが定番だが、特にリクエストを言うと 2時間コースにしてくれ、途中でショートカットなど、ルート変更してくれる。
筆者はあまり長い時間、船に揺られていても仕方ないので、途中でショートカットしてもらい、 2時間で切り上げた。
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