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台南市
訪問日:2015年6月中旬
台湾 台南市 ~ 市内人口 190万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
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台南府城 今昔マップ
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東城門 と 鉄道高架下の スリル満点ルート
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南門路、府前路、延平郡王祠、城隍廟、西門跡、鄭成功祖廟
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オランダ時代の 赤レンガ壁が連なる、赤崁楼(プロヴィンティア城 → 承天府 → 弾薬庫)跡
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【豆知識】オランダ時代、鄭氏政権時代、清朝時代を「赤崁楼」から 定点観測する ■■■
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安平古堡(ゼーランディア城、熱蘭遮城) と 城下町・安平鎮(大員市鎮)の 今昔
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清代からスタートされていた、台南の カキ養殖業 ~ 現在、台湾島の 巨大産業だった!
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台湾初の 西洋式砲台陣地「億載金城」(1876年完成)
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【豆知識】日本軍による 台湾出兵 と 欽差大臣・沈葆楨による 台湾島の軍備増強策 ■■■
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鹿耳門海峡の 今 ~ 大規模な 埋め立てで 内海「台内」は 消滅していた。。。
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台南市の 歴史
滞在先の ホテル(大立大飯店)で無料自転車を借りて、市内散策してみた。
【 台南府城跡 】
台南市内にあった旧台湾府城であるが、その城域は相当に広かったことが分かる。上地図。
今日
に残る古城遺跡は、台南公園内に残る北側城壁の土塁と、成功大学内に残る東側城壁の土塁、そして、古城の南東端にあった 東門(下写真)のみである。
まず、東門の城門遺跡を訪問してみた。 途中、鉄道の高架線路下をくぐらねばならないが、ここが自動車用と バイク&自転車用に分かれていて、バイク群の中を自転車で一緒に走るのは、スリル満点だった!下写真。
再び、市街地に戻る。
下写真は南門路と府前路一段の交差点。ここに延平郡王祠があった。
オランダ人を駆逐し、台湾島を占拠した翌 1662年、鄭成功が死去すると、その死を惜しむ人々によって創建された廟所という。廟前には、真っ白な鄭成功 騎馬像が設置されていた(近年になって、父・鄭芝龍の故郷で、6歳以降、鄭成功自体が 少年期・青年期まで過ごした、
福建省・泉州
市民から寄贈されたものという)。
下写真左は、西門跡の 円形サークル交差点。さらに西側の城外に、環河路や河中路などもあり、かつて古城時代に、この場所に
外堀
があったことが分かる。
下写真右は、かつて台湾府役所があった付近。路地名にしっかり記憶が刻み込まれていた。
下写真は、台南城隍廟。 意外にこじんまりしていた。1669年、承天府城隍として東安坊エリアの右端に建立され、台湾における最古の城隍廟となった。
付近には、鄭経(1642~1681年)が父の鄭成功を祀るべく、死後の翌 1663年に創建したという、鄭成功祖廟も立地していた。
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交通アクセス
嘉義
鉄道駅から台南駅まで普通列車で、90 TWD。 所要時間 1時間。
当地は、台湾島の”京都・
奈良
”に相当する古都で、観光名所には事欠かない。
宿泊ホテルで自転車をレンタルするのが ベスト(筆者が投宿した 大立大飯店 TA LEE HOTEL では無料サイクルが 5台ほど常備されていた)。
【 赤崁楼(プロヴィンティア城、承天府)】
鄭氏政権時代に「承天府」という 最高政庁が立地した場所に、清朝が台湾府役所を入居されていた。
発掘調査の結果、オランダ要塞「プロヴィンティア城」時代の遺構が発見されたという(上写真右)。 鄭氏政権も、オランダ軍の城塞を大改修して、王城「承天府」を開設していたわけである。
広場内には、オランダ総督が鄭成功に降伏する場面の銅像が立っていた(上写真左)。この直後、鄭成功はオランダ領台湾総督 フレデリック・コイエット (Frederick Coyett。1615?~1687年。スウェーデン貴族出身で、後に 日本・出島に開設された オランダ商館長を務めた)を処刑しようとしたが、後のオランダ側からの報復を考慮して、全員を送還するにとどめたとされる。
オランダ要塞時代の入り口門や 井戸が保存されていた(
上写真
)。
1661年、南明政権下で延平王に封じられていた鄭成功が、勢力拡大を 図って台湾島に侵攻する。当時、オランダ通事職にあった何斌の案内の下、 鹿耳門海峡を通過し、最初に奇襲したのが、この オランダ城塞・赤崁城 であった。当地を占領後、鄭成功はこれを「東都明京」と定め、 承天府(承天府衙門)を開設し、その配下に天興県と 萬年県の二県を新設する。 この時、台湾島の最高行政庁となったわけである。
広い意味で言うならば、大明帝国の四王都の一角を担った、とも解釈され得る。 他の三王都とは、南京(応天府)、北京(順天府)、滇都 (元々の雲南府で、南明政権の永暦帝が一時滞在した)であった。
すぐに鄭成功は軍を東へ進め、オランダ軍の 大城塞「ゼーランディア城」の 攻略に取り掛かるも、9カ月もの間、激しい抵抗を受けることとなる。 最後まで粘ったオランダ守備軍であったが、バタビアの東インド会社本社から 支援が得られないと判断し、開城して降伏するのだった。 鄭成功はそのままオランダ軍全員を台湾島から追放する。この追放劇により、 オランダ東インド会社の 38年に及ぶ台湾支配に終止符を打たれた。
その後、鄭成功はゼーランディア城を安平城へ改称し、 延平郡王府邸と定めて、自身の居城とした。以後、人々は「延平王城」を通称することとなる。対して、承天府衙門(台湾島での 最高行政庁) が開設されていた旧プロヴィンティア城の方は、古くからの中国語地名を 継承して「赤崁楼」と通称されていく。
しかし、半年も経たずして、ゼーランディア城攻略戦での傷がもとで 鄭成功が病死すると、鄭成功の末弟で台湾に駐屯していた鄭襲が 鄭成功の後継を図るも、
廈門
から鄭成功の 長男・鄭経(1642~1681年)が、 兵を引き連れて台南を急襲すると、鄭襲は捕縛され、廈門に留置される。 鄭襲は軟禁場所から脱走し、清朝の軍門に下って翌 1683年に死去することとなった。
鄭氏政権 二代目頭領を継承した鄭経は、引き続き、福建省一帯の最前線に立って 清朝と争うも、ついに 1664年、台湾島へ撤兵し、台湾の内政と国力の充実化に 専念することとなるのだった。この一環で、「東都明京」は「東寧」へ 改称され、承天府が廃止される。承天府が直轄した二県は、 それぞれ天興州と萬年州へ昇格され、さらに 澎湖、南路と 北路の三か所に、 安撫司が設置されることとなった(下地図)。その後、東寧府役所が 旧プロヴィンティア城内から移転されると、城塞跡の建物はそのまま「赤崁楼」と通称されつつ、 火薬倉庫として使用されることとなる。
1683年にその鄭氏政権も清朝に降伏し、いよいよ台湾島も 清朝支配下に併合されると、清朝に最後まで抵抗した民ということで、 台湾島には過酷な統治政策が導入される。このため、 以降、台湾島内では大小さまざまな民衆波乱が絶え間なく、発生することとなる。
その中でも最大規模の反乱となったのが朱一貴の乱で、 1721年に決起すると、瞬く間に台湾島全土が呼応して清朝守備軍を圧倒するも、 大陸中国から援軍が派兵されてくると鎮圧されてしまう。この時、 朱一貴の反乱軍が台南府城を占拠し、武器庫となっていた赤崁楼の鉄製城門を引きはがして改鋳し、鉄製の武器へ鋳造している。以後、 ますます手入れが施されなくなった赤崁楼は、さらに台風被害や地震被害なども重ねって、内部の建物は倒壊し、単に四方を取り囲む 頑強な城壁のみを残す状態に陥ってしまう。
19世紀後半に入ると、城塞跡は 文化、教育施設へ転用されることとなり、 大士殿、海神廟、蓬壺書院、赤崁楼文昌閣、五子祠 などの建物が建設される。 これらの五つの建築物は、いずれも天井が高く壮麗で、荒廃していた赤崁城跡を一気に際立たせるシンボルとなっていくも、日中戦争を経て、 日本軍が台湾島を支配すると、日本植民地政府により、海神廟、文昌閣、そして五子祠などの建物ごと城塞用地は接収され、そのまま病院と学生宿舍に転用されることとなった。
1921年、日本政府役人が大士殿を壊して土地調査を行った際、旧プロヴィンティア城の城門が発掘される。さらに、東北角でもオランダ時代の砲台の遺構や地下室の入り口までも発見されたことから、歴史資料館へ改築されることとなる。戦後の国民党政権時代、さらなる改修作業が進められ、 正式に台南市立歷史博物館に定められる。1974年にも全面補修が手掛けられ、今日に見るのような状態に至ったという。なお、 日本統治時代まで、赤崁楼の周囲ギリギリにまで民家が迫っていたが、国民党政権により民家群は強制撤去されている。
【 安平古堡(ゼーランディア城、熱蘭遮城) と 安平鎮(大員市鎮) 】
筆者は真夏の炎天下、台南市街地から自転車で訪問した。 台南鉄道駅前からだと、②番路線バスに乗車し、安平郵便局にて下車することもできる。 休日には、88番路線バスが臨時運行される。
このオランダによる大規模な 城塞「ゼーランディア城」は、1624年に建設が開始され、 10年の工期を経て、1634年に完成されている。当時、台江という内海と外海とを分断する砂州の一つ、一鯤身という小島上に立地していた。以後、 中国、日本との貿易中継拠点となり、またオランダ東インド会社が支配した台湾島の政治拠点となっていた。しかし、1661年に 鄭成功(1624~1662年)が台湾を攻撃すると、1年の攻防戦を経て、開城・降伏する。
鄭成功はそのまま当地を王城に定め、自身が入居する(鄭氏王城 と通称されることとなる)。そして、5か月後にここで死去するのだった。
オランダ人が入植する以前から「大員」と呼称されていた小島は、 鄭成功によって「安平」と改称され、以後、今日まで「安平鎮」として継承されているという。 自身が少年期を過ごした
福建省泉州府
の、晋江沿いの船着き場にあった「安平橋」 からとって、命名したとされる。
1683年、鄭氏政権が降伏し、清朝支配が開始されると
、この城塞施設は引き続き、 軍事要塞(主に 砲台陣地)として使用されるも、時とともに手入れが施されなくなり、 荒廃していくこととなった。
しかし、清朝末期に欧米列強が中国侵略を進める中で、 台湾島の海岸防備拠点として見直され、軍事要塞として再整備されることとなる。 そうした中、天津条約に基づき、1858年に安平港が開港されると、 清朝役人とイギリス商人との間で 度々、もめ事が発生するようになる。 そして、同年 11月25~27日、ついにイギリス艦隊が清軍の安平砲台に艦砲射撃を加えて破壊してしまう(戦死者 11名、負傷者 6名、水師協署副将だった江国珍も負傷し、民家へ退避するも、そこで服毒自殺して果てる)。こうして、破壊された安平砲台陣地は完全に廃墟となり、後に対岸に建造される 億載金城(大砲台)の建築資材へ転用されていくこととなるのだった。
日本植民地時代、この敷地は日本軍の駐屯基地に転用されると、 その城塞遺跡の大部分は破壊され、大いに地形が変わってしまったという。 今に残る赤レンガの城壁や井戸跡は、わずかにオランダ要塞時代を偲ばる遺構となっている。
現在、安平古堡のシンボルとなっている白亜の 展望タワー(上写真左)は、1945年に日本軍に代わって、台湾島を接収した中国国民党によって建設されたもので、 1975年まで軍事使用されていたもの。その後、観光地化が決定され、白亜の壁と赤屋根に改修されて、今日に至るという。
また、この城塞遺跡の北面に広がる、延平老街(延平街、中興街、效忠街 を含む一帯)は、 入植したオランダ人が整備した最初の市街地ストリートとされ、オランダ人や中国人らが居住し、城下町「大員市鎮」を形成していたという。ここが台湾島の最古の商業集落地と 考えられており、現在でも、赤レンガ・白壁の 西洋風旧家屋などが残されている。 いつも食べ歩きや、土産物目当てで、訪問客がごった返す
繁華街
となっている。
この通り沿いに、 小型水車を有した排水路らしき遺跡があった(上写真)。
ここは 安平蚵灰窯文化館(Oyster Shell Cement Kiln Museum)で、清代より当地の伝統産業となっていた、牡蠣(カキ)養殖施設跡らしい。
当時、オランダ時代の赤レンガ洋館の残骸を集めて、建設されたものかもしれない。
現在、台南市の沖合、特に 安南区、安平区、及び南区の沿岸部で大量にみられる、
筏式によるカキ養殖業は
、台湾全島の筏式養殖の半分を占める規模という。その他、垂下式の養殖業も 盛んで、七股潟湖(台南市七股区)、彰化県、雲林県の沿岸部一帯で広く行われており、台湾島の南東部の海は、カキの一大生産地となっているという。
【 億載金城 】
五稜郭ならぬ「四稜郭」で、こじんまりした砲台陣地遺跡だった。
建造当時は、台南の内海と外海を隔てた砂州のうち、二鯤鯓と呼ばれた小島に立地し、前述の 安平砲台(旧ゼーランディア城)とは、 小さな海峡を挟んで対岸に相対するように位置していた。上模型。
この 砲台陣地「億載金城」建造の発端は、
1874年4月、日本が牡丹社事件を口実に決行した、 台湾出兵であった。台湾島南部に上陸した日本軍は、山岳地帯へ攻め上がり、原住民らと戦闘を繰り広げる中で、台湾島の清朝役人らは手が出せずに いた
。この問題解決のため、清朝廷から派遣されてきたのが 沈葆楨(1820~1879年。 当時、福建省で造船業を監督する、福建船政大臣の職にあった)で、 台湾に領事館を置く欧米列強なども介しながら、外交ルートによる停戦交渉を進めたのだった。その一方で、沈葆楨は台湾島の近代化と防衛強化の急務を悟り、土地開発や原住民問題の解決、海防拠点構築などを促進する。この一環として、 当砲台陣地が建造されたわけである。
フランス人建築士によって、欧州で一般的に採用されていた西洋式砲台陣地スタイルで設計され、 同年中にすぐに建設工事が着手されると、2年間の工事を経て、1876年に完成する。 外周部の防塁壁の高さは約 2 m強と低いものであったが、 すべて 安平古堡(ゼーランディア城)の 城壁面の赤レンガ資材が転用されており、内部面積は約 3ヘクタールに達していた(最大収容能力は、1,500人)。 台形型陣地の四隅には稜堡をそなえ、合計で大砲が五門、小さな大砲が六門、配備されていた。 中央部に凹型で入口門を設けられ、周囲の外堀には海水が引き込まれていた。 完成後、台湾島で最初の西洋式砲台陣地となり、大砲台や三合土砲台などと通称されることとなる。
結局、一度も戦火にさらされることなく、さらに海岸線が後退し、かなり内陸に立地して無用の長物と化したことから、今日でも土塁や外堀が良好な状態で保存されることとなった。
1975年、砲台建設 100周年を迎えたことから、台南市政府により全面的な修復工事が着手され、今日の姿となっている。現在、大砲が三門保存され(下写真右)、 また、海側の西面に弾薬庫が、別の海側である北面には沈葆楨の胸像が設置されて、一級史跡に指定されている。
なお、入口門外にある 額縁「億載金城(上写真左)」、および門内の「萬流砥柱」、それぞれの石板は、沈葆楨自らの直筆を刻印したものという。
砲台陣地の四隅に設けられた稜堡は、いずれも五角形で設計されており、砲撃の死角が生じないように、工夫が凝らされていた。
沈葆楨(1820~1879年)
福建省侯官県 ー 現在の 福州市
出身。
父の沈廷楓は、私塾を経営して自ら講師を務めていたが、家族は貧しかったという。少年期に、同じ地元で勉学に励んでいた 林則徐(1785~1850年。広州でアヘン取締を強化し、アヘン戦争のきっかけを作ってしまった)と知り合い、父親同士が家族ぐるみの付き合いを始める中、11歳の時、その 次女(当時、10歳)を許嫁とされる。
1836年に科挙一次試験に(16歳)、1840年には二次試験にも合格する(20歳)。しかし、このタイミングでアヘン戦争が勃発すると、両広総督だった林則徐が左遷されることとなり、両家の間で慌ただしく婚姻が行われ、林普晴(19歳)と正式に結婚することとなった。
1847年、ついに科挙の最終試験に合格し進士となると、監察御史(中央、地方の官吏らを 監査する部署)に出仕する。 その後、江南道監察御史、貴州道監察御史、江西九江府長官、江西広信府長官などを歴任した。
1861年、湘軍(湖南省一帯の民兵集団)を率いた 曾国藩(1811~1872年)は、 太平天国軍との攻防戦の中で台頭し、その勢力を清朝廷から警戒されたことから、 自ら 監察御史(朝廷のお目付け役)の派遣を要請し、沈葆楨が選任されたのだった。 沈葆楨は江南安慶府の大営へ赴任し、江西巡撫を兼務しながら、 曾国藩と共に、太平天国軍の鎮圧戦にまい進することとなる。
1867年、福建省の造船事業を監督する福建船政大臣に抜擢されると、 戦艦整備や海兵教育など、海軍力の向上に尽力し、当時、清朝が進めていた 洋務運動の一翼を担う。
その最中の 1874年、日本による台湾出兵に直面したのだった。1871年10月に発生した 宮古島島民遭難事件の報復を名目に、高山族討伐を目指した日本が正規軍を派兵してきたため(4月4日)、清朝廷は沈葆楨を 欽差大臣として台湾へ派遣し(同年6月)、台湾島内の欧米列強の領事らとも協議しながら、日本の撤兵交渉を進めることとなる
。この時、同時進行で沿岸防衛網の強化や 西洋式武器の大量購入、土地開発(后山の開墾など)、台湾東部の平原地帯に生息する原住民族の同化政策などを進めて、その後の台湾近代史の基礎を築くこととなった。 内政面でも大幅な改編が手掛けられ、
艋舺地区に台北府を新設して、 台湾島を南北の行政区に分離して直轄とし
、あわせて、
恒春県
と淡水県が新設される。 この他、
淡水庁を新竹県へ
、
噶瑪蘭庁を宜蘭県へ昇格させている
。
一方、
台湾南部の奥地を転戦した日本軍であったが、高温多湿な猛暑により疫病が蔓延し、 多くの病死者を出したことから、両軍の間で早期講和が図られ、同年 12月1日、日本軍を何とか撤兵させることに成功する
。
台湾問題が解決した直後の翌 1875年、沈葆楨は朝廷に呼び戻されて、王都・北京へ復帰することとなり、新たに 両江総督兼南洋通商大臣に任命されて南洋水軍の創設を 命じられる。しかし、沈葆楨は朝廷の予算が逼迫する中、南洋水軍と 北洋水軍の同時強化には無理があるとして、北洋水軍の集中強化を朝廷に上奏したのだった。 こうして、北洋水軍を監督した 李鴻章(1823~1901年)が台頭してくることとなるわけである。
1879年、沈葆楨は
江寧府(今の 江蘇省南京市)
にて病没する(59歳)。朝廷はその死を悼み、太子太保銜の称号を下賜した
。
億載金城を見学後、入口前の健康路をさらに西進し、 大きな橋を渡って海岸線まで移動してみた(下写真左)。浜辺では、バーベキューを楽しむ地元民らが見られた(上地図 ⑩)。
それにしても、この「健康路」は交通量も少なく、空気もきれいな直線道路で、本当に 「健康」そのものの道路だった(下写真左)。橋上からは、台湾海軍の艦船も見えた(下写真右)。台湾海軍基地は、上地図の ⑥⑮一帯。
岬先端部分の漁夫路まで行ってみたが、先は行き止まりらしいので、 健康路まで引き返し、台南市街地への帰路に就いた。
【
台南市の 歴史
】
台南市西部には、台江という遠浅の内海が広がり、その外周を沙洲の小島が複数で取り囲んで、 外海と断絶されていた。その内海はまさに天然の良港で、さらに東部には現在の台南市街地に 連なる巨大な平野が広がっていた。
明代中期の資料によると、この内海の沿岸部に、すでに平埔族系西拉雅族の新港社という集落が形成されていた、という。
また当時、力の衰えた明朝をしり目に、倭寇などの海賊や山賊集団らが 跋扈しており、この台湾島、特に南部の 良港・台南エリアを根城としていた。 これら海賊集団は中国南東沿海部、さらに台湾島内部の原住民集落を襲撃しており、 度々、それらの住民から明朝に対し、海賊討伐要請が出されていた。 この過程で、大陸中国人らはすでに台湾原住民と相当に接触があったと考えられている。
さらに広東省、福建省沿岸部の貧しい農民、漁民や不法者、 また漁業や商業等の目的の者などが、台南エリアへ移住するケースも後を絶たず、 一鯤鯓や北線尾などの沙洲小島一帯には、すでに中華系移民による一定規模の集落が形成されていたという。
先に言及した平埔族の 新港社(今の台南市街地)では、付近に移住し定住していた中国人から、 「赤崁」とも通称されていた。この集落地に、反明朝で挙兵していた趙秉鑑が乗り込み、 自らの城館を築城したと、『霏雲居続集』の中で張燮が記しているが、その真偽は 定かではない。しかし、趙秉鑑はもともと
福建省漳浦県
出身の地元名士で、 科挙一次試験に合格し、役所に出仕して水軍指揮官を務める人物であったが、 後になって自身を南宋朝皇室の末裔と自称し、20,000人の民衆を動員して 挙兵したことは事実で、その活動の中で、台湾島の台湾島を本拠地に独立を図り、 1617年ごろに赤崁の地に寄った、という伝説が残されている。 しかし、最終的に漳浦県長官の 黄応挙(
広東省南海県 ー 今の 佛山市禅城区
出身。1604年に科挙に合格し、 県長官に赴任していた)によって鎮圧され、処刑されることとなった。
この直後に台南に立ち寄ったスペイン人の記述によると、台南の地には 中華系移民や海賊らが 5,000人規模の集落を形成していた、と指摘されていた。
こうした不法者の地に、1624年、オランダ人が入植してくるわけである。
1622年7月より澎湖諸島を実行支配していた オランダ東インド会社は、翌 1623年より 明朝からの武力討伐を受け、1年あまり交戦状態にあった。 最終的に海上交易商人の李旦の仲介により、明朝の 福建巡撫・南居益(1566~1644年)との間で 合意がなされ、澎湖諸島から退去する代わりに、台湾島南部への上陸を 黙認されることとなる
。
澎湖諸島の城塞を解体し、その資材を持ち込んできたオランダ軍により、 早速、内海の台江西岸にある 砂州小島「一鯤鯓」に、ゼーランディア城(当初は、 オラニエ城【奧倫治城】と呼称された:今の 安平古堡)が建造が着手される。 1624年に建設が開始され、10年の工期を経て、1632年に完成されると、 以後、中国、日本との貿易 中継拠点(商館)となり、またオランダ東インド会社が支配した 台湾島の政治拠点となっていくのだった。
これにあわせ、この城塞の北隣に、城下町となる市街地ストリートの建設も 着手する。このときに整備されたのが、「台湾市街」(今の 安平鎮延平街一帯)と 「赤崁市街」(今の 民権路一帯)であった。前者は、歴史も長く、今でも多くのひと通りが絶えない 繁華街であり、「台湾最古のストリート」との異名をとる。後者の方は、台湾で最初に 計画設計された、ヨーロッパ式街道と比喩されている。当時、両者あわせて「大員市街」と通称された。
城塞と 大員市街(主に中国商人らが居住した)との間には、 広場が設けられており、当時、ここが処刑場を兼ねていたようである。
1648年、オランダ入植者らが組織した Formosa 議会(台湾自治のための議会)の決定により、 中華系移民ら多く入植していた、台江の 対岸集落「赤崁」が、 オランダ式の 地名「荷恩(Hoorn)」へ変更されることとなる。 以後、口頭上、および書面上で「赤崁」に代わって、「荷恩」の名称が使用されるようになる。
しかし、オランダ人は、中国大陸から移民してきた中華系の農民や商人に対し、 厳しい統制と制限を行ったため、ついに中華系移民らの不満が爆発し、 1652年の郭懐一の乱が勃発する。最終的には武力鎮圧されてしまうわけだが、 オランダ人はさらなる騒動勃発を警戒し、対岸の「荷恩(赤崁)」を 監督する意味で、市街地の北側に 赤崁地区の統治機関として、 城塞「プロヴィンティア城(赤崁城)」を築城する。当初は収容人数、100人程度であったが、 徐々に拡張され、最終的に 3つの城館が連結されたスタイルで、 1653年に完成されることとなる(下写真)。以後、中華系移民らは赤崁楼や 紅毛楼と通称するようになる。
こうして、現在の台南市内にはオランダ拠点が 2箇所設置されることとなった。
1661年4月、清朝に抵抗する南明政権下の 大将軍・鄭成功が、 さらなる勢力拡大を図り、台湾島の奪取戦を決行してくる。 当時、オランダ通事職にあった何斌の案内の下、 鹿耳門海峡を通過し、真っ先にこの後者の 城館「プロヴィンティア城(赤崁城)」が 攻撃目標とされたのだった。城館占領後、鄭成功はこの城館に承天府を開設し、 台湾支配を宣言することとなる。
同時に、台湾島北部にあったオランダ側の
淡水要塞
も 襲撃を受け、オランダ軍守備兵はすぐに撤兵し、大城塞「ゼーランディア城」に立てこもるのだった。
ゼーランディア城の攻防戦では、オランダ守備軍はよく持ちこたえ、度々、バタビア(インドネシア・ジャカルタ)の オランダ・アジア植民地本部へ救援を要請するも、大陸中国とのもめ事を避けたいオランダ側はついに援軍を派遣しなかった。それでも ゼーランディア城の守備隊は、 1661年3月末~翌 1662年2月まで 1年近い籠城戦を持ちこたえ、「10人の中国人相手に 1人のオランダ人で十分」という余裕意識が蔓延したぐらいに、圧倒的な戦力差を見せつけていたようである。 しかし、アジア本部の救援が来ないことが確定した後、この城塞に固執する意味を失ったオランダ守備兵らは開城し降伏する。 当初、鄭成功はそのオランダ守備軍の指揮官を処刑しようとしたが、オランダ側との関係悪化を避けるべく、 全員のインドネシア帰還を許可したとされる。
台湾島を名実ともに支配下に置いた鄭成功であったが、 このゼーランディア城の攻城戦での傷がもとで、間もなく死去する。
直後に、息子の 鄭経(20歳)が鄭氏政権を継承する。 こうして、実質的な台湾行政は鄭経の治世下で進められていくこととなる。
旧プロヴィンティア城内に承天府を開設し、ここを行政の拠点とし、その 城下町(今の 台南市街地)を東都明京と命名する。また、台湾南部の地方行政の統括機関として、万年県と 天興県が新設された。
また、その翌年の 1663年、鄭経は父の鄭成功を祀った鄭成功祖廟を、城下町の 東都明京(後に東寧へ改称)に創建する(下写真右)。
しかし、1681年、その鄭経も 40才で病死し、次男の鄭克塽が後を継いだが、
1683年、水軍提督・施琅の率いる清軍の侵攻を受け、全面降伏に追い込まれる
。
清朝はすぐに台湾島の統治体制の改編に着手する。鄭氏台湾時代の行政拠点であった承天府跡に台湾府役所を開設し(下写真)、福建省の直轄とした。
時は下って、清朝末期の 1874年、日本軍が台湾出兵を強行し、台湾島の防備強化を痛感した清朝は、 安平砲台(清朝時代、ゼーランディア城跡は海岸防備のための砲台陣地へ転用されていた) が解体され、新たに 砲台陣地「億載金城」が建造されることとなる。
翌 1875年には、台湾島の内政強化も図られて、
台北府
が新設されると、北の台北府と南の 台湾府(今の台南市)の 2行政区体制へ改編されることになる。
1885年には
福建省
から分離され、台湾省として独立省となる。当初、台湾省役所(福建台湾承宣布政使司)は台湾府内に併設されたが、日清戦争中の 1894年に台北府へ移転されることとなる。
1887年、台湾府が「台南府」へ改称され、同名で新設されたばかりだった 「台湾府」が
大墩(台湾県へ改称、後に台中市となる)
の地に開設される。 こうして、台湾省は 3府体制の時代に入る。
日清戦争に敗れた清朝は、1895年締結の下関条約により、 台湾島を日本へ譲渡することとなる
。
日本統治時代、台南県(台南府から改名)が設置され、後に台南庁となる。1920年に台南庁と
嘉義庁
が合併されて台南州となり、その州役所は引き続き、台南市内に設置された。
上絵図は、この日本統治時代初期の 安平鎮、億載金城エリアの様子。
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