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台中市
訪問日:2018年11月中旬
台湾 台中市 ~ 市内人口 282万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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台中空港 ⇔ 台中鉄道駅 路線バス移動 47 TWD(160円) 1時間15分
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台湾中部行政の 中枢・台中州政庁 と 日本植民地時代
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台中市に 本店を置く「彰化」銀行(1905年創業)
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1917年完成の 台中鉄道駅舎 と 現在のモダンな 駅構内(2016年~)
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台中市街地から 桃園国際運行への バス移動(280 TWD、2時間半)
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南屯鎮 老街
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台中城隍廟 と 孔子廟、南天宮
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台中市の 歴史
台中空港
には
澎湖諸島(馬公空港)
の帰りに到着した。
空港地下 1階の一番奥にある路線バス乗り場で、台中駅行のバスに乗車した(⑨番路線バス)。
飛行機の到着ロビーからかなり距離があり、かつ、バス停留所へ向かう乗客の姿も他になく、非常に不安に思われたが、なんとかバス案内マークを頼りに行く他なかった。
タクシー乗り場の奥にバス停留所があった。すでに数名の台湾人らがバス待ちしていた。
ちょうど到着した、⑨番路線バスの運転手が「台中駅行」と自声でアナウンスしていたので、そのまま飛び乗る。下はバス経路図。
約 1時間15分にも及ぶ各駅停車バスの旅で、台中駅前に到達できた(台湾大道一段)。下車時に料金箱に運賃を支払う仕組み(47 TWD。釣銭なし)。筆者が 100 TWD を出そうとすると、運転手自らが自身の財布から 50 TWD ずつ両替してくれた。
なお、この下車ポイントは台中市内の路線バスの主要な停留所らしく、大量の乗客らがバスを待っていた。そんな人ごみの中を下車することになる。一見、アイドルが出待ちファンらに囲まれたような感覚だった。そんな経験は一生ないだろうが。。。
逆に、台中市中心部から台中空港へ向かう場合は、この 反対車線(北側)から、同じく⑨番路線バスに乗車することになる。南側同様に、たくさんのバス待ち客らがたむろしていた。
ここで、⑨番路線バスの運転手がマイクの自声で、「空港行」とアナウンスしていた。
なお、
台中空港の公式サイトによると、他にもいくつか 台中空港 ⇔ 台中市街地 間を往復する路線バスがあるようだった
。
台中鉄道駅の駅前 5分に立地する Kiwi Express Hotel No.2 に投宿した。
正規料金は 490 TWD × 2泊だが、Agoda で予約すると、2泊 780 TWDだった。正規でのホテル直営サイトから申し込みするより、お得だった(2018年11月現在)。
ここの二段ベットは頑丈なもので、地震大国・台湾らしい設計だった。階段の上り下りの度にギシギシ揺れたりもせず、安定して寝られるのだが、逆に素材がごつ過ぎて二段ベットの上り下りが非常に困難だった。
トイレとシャワーは文句なしの清潔さだっが、シャワーはやや水圧が弱いかも。
なお、本宿の最大の特徴は、1階フロント脇で靴をスリッパに履き替えてエレベーターで上へ移動するという点だろう。ロッカーも重量感があり安心なのだが、いちいち作業手間がかかるのが面倒だった。おかげで、屋内は非常に清潔に保たれていたが。
翌朝の 朝食(無料)は自分で食パンを焼き、ジュースは飲み放題だった。使用後の皿は自分で洗う。パンの種類が少なく、何か卵やハムも欲しいところだが、本当にパンと ジュースだけのバイキングだった。
翌日
、朝早めにホテルを出発し、台中市街地の中心部を散策してみた。
まずは、バロック様式という台中州政庁の建物を撮影する(下写真)。
この台中州の庁舎は、当時、台湾島内の数多くの西洋式建築物の設計を担当していた 森山松之助(1869~1949年)が 1912年に手掛けたもので、翌 1913年に第一期工事が完成すると、以後、五期に分けて拡張工事が進められ、1934年に現在の最終形態が完成したという。 2006年11月17日に市指定の史跡として保存されることとなった。
なお、この地にはもともと清末の 1891年に開設された 役所(考棚と通称されていた)があった区画で、その政治的象徴の地を利用しながら建設が進められたのだった(現在も、この清代庁舎の遺構が一部、残されているという)。
当初は 台中県役所(1896年新設)とその官舎としての役割だけだったが、1920年、台湾総督府が台湾内の地方行政区の再編を実施し、台湾中部に台中州を新設する(下地図。その行政区域は、今日の台中市、
彰化県
、南投県の一帯に相当)と、その州庁舎として利用されることとなり、第四期工事(1923~24年)が着手されたのだった。
以後、台中州の州都となり、政治、経済、文化の中心都市として台湾中部に君臨し、今日に至る。
明治期
に都市開発された台中市の中心部は、碁盤の目状に計画的に都市設計された名残が今も十分に見てとれた。街中は直線道路だらけだった(下写真左)。
また、ここから駅前にかけての一帯は金融街で、
1905年6月5日創業の彰化銀行の本店もあった(下写真右)。彰化市の地元名士らの出資により、当初、彰化県内に登記されたため、この地元名称が冠されているが、実際には早くも 1910年に台中市の現在の場所へ本店を移転し、そのまま本部としているということだった
。
そのまま台中駅に行き着く(
下写真
)。
台中に鉄道が敷設されたのは 1906年で、現在の 旧駅舎(下写真の右端)が建設されたのが 1917年という。つい最近の 2016年10月15日まで使用されており、その後、駅の高架工事により後方のガラス張りの 新駅舎(下写真の中央)が完成されたのだった。
また、駅の構内では無料の充電スペースがあり、PCや携帯電話を充電しながら列車を待つ人たちで賑わっていた(下写真左)。
9:43発の普通列車に乗って
彰化駅
へ移動した(上写真右。特急列車のような先頭車両デザイン)。
乗車中、電車内のトイレを使った。なかなか清潔な車内トイレだった。 20分ほどで彰化駅に 到着(片道 26 TWD)。
彰化県を視察後、再び台中駅に戻り、台中鉄道駅横のバスターミナルから、
桃園空港行のバス
に乗る(280 TWD)。途中、副都心地区の国光バス発着所に寄ってから、高速道路で北上していった(下写真)。台湾の長距離バスは振動が激しく、寝るのがきつかった。
2時間半の乗車で桃園空港ターミナル 2 に到着する。ターミナル 1 の利用客は、ここからモノレール移動となる(ターミナル2 の端にモノレール駅がある)。
【
台中市の 歴史
】
もともとは、原住民の平埔族系アタヤル族が生息するテリトリーであった。オランダ東インド会社の台湾島上陸後、このオランダ勢力と度々、抗争を繰り広げることとなる。
1661年、南明政権から延平王に封じられていた 鄭成功(1624~1662年)が台湾島に上陸し、オランダ勢力と 1年にも及ぶ激戦の末、台湾島の占領に成功する。しかし、その鄭成功も、翌 1662年に対オランダ戦の傷がもとで死去し、長男の 鄭経(20歳。1642~1681年)が後を継ぎ、 陳永華(1634~1680年。台湾の諸葛亮孔明 と比喩される)の補佐の下、台湾経営を実質的に進めていくこととなった。
首都である
承天府(今の台南市内に残る赤崁楼)
の下、万年県(1664年に万年州へ改編)と 天興県(1664年に天興州へ改編)が設置される。現在の台中市一帯は天興州に統括された。下地図。
しかし、1681年に鄭経が 40歳の若さで死去すると、三代目君主として 次男・鄭克塽(12歳。1670~1707年)が擁立されるも、
1683年に清朝により派遣された 施琅(1621~1696年)の侵攻軍を前に、降伏を余儀なくされる
。その後、すぐに清朝による台湾島統治が着手され、翌 1684年、
承天府跡に台湾府が開設される(福建省に帰属)
。
このとき、台湾島の南部のみが実質的な統治下にあり、台湾県、
鳳山県
、
諸羅県(現在の 嘉義県:鄭氏時代の天興州から改名)
が設置される。
1705年、 諸羅県城内に開設されていた 台湾北路営(台湾島北半分の軍事担当)の参将に、 徐進才の後任として、張国が赴任してくる。彼は 4年間の任期中、領内をくまなく 見て回り、大墩(現在の 台中市一帯)の肥沃さ、豊富な水資源の利用可能性を見出し、 荒地の開墾に着手する。この後、1709年に
福州城
守副将へ異動となるも、 1711年に再び台湾島に復帰し、台湾水師協副将となっている。最終的に、1715年に浙江
定海鎮
総兵へ 昇進することとなるのだった。
以後、福建省
泉州市
からの移民が多く住むようになり、大いに発展を遂げる(上地図参照)。
1730年ごろ、
彰化県
が新設される。現在の台中市一帯もここの行政区に組み込まれた。
清朝末期の 1875年に台北府が設置され、台湾北部が
台湾府(今の 台南市)
の管轄範囲から分離される。 1885年には、福建省から分離され、台湾省として独立省となる。これは、近海に跋扈した欧州列強や日本の 脅威に対抗するため、清朝が直轄地として、統治と防衛に本腰を入れ始めたことを意味していた。
1887年には、台湾府が台南府へ降格され、 台湾府役所が 大墩(台湾県へ改称、後に台中市となる)の地へ移転されてくる。 この頃には、「台湾府」の地位も名前も初期の頃とは異なっており、単に台湾島の中部一帯を統括する地方行政庁を 意味していた。
台湾島全体を統括する役割は福建台湾承宣布政使司へ移管され、
台北府
に併設されることとなる。
日本統治下の 1896年、台湾県が台中県へ改名され、 1920年に台中市制がスタートする。当初、台湾中部の中心都市は
彰化県城
であったが、この日本統治時代に台中市に鉄道敷設が進められた結果(1906年開通)、彰化県を追い抜き、台湾島中部の中核都市として台頭することとなった。
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