BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海賊王・蔡牽






台湾 台北市 士林区 ~ 区内人口 29.5万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  芝山公園、芝山巌 恵済宮、芝山巌社 拝殿跡、百二十崁(125段の 石階段)
  芝山岩 隘門(芝山岩要塞の 西門跡)
  芝山岩 東砲台陣地跡 と 西砲台陣地跡




台北駅 から地下鉄・北淡線を北上し、芝山駅で下車する。
この東側の台北市士林大直一帯に 芝山岩(下地図の 赤〇)が立地する。完全に独立した円形の小丘で(標高約 51.5 m)、山頂の恵済宮の境内からは台北盆地が一望できる。
この小山に残る 隘門(西城門)が、台北盆地に唯一現存する、本物の古城壁である。一般的に見られる隘門遺跡と比較すると、小規模なものとなっている。

なお「隘門」とは、かつて中国各地の街道や 集落、村落の出入口に数多く設けられた 城門(監視台を含)のこと。清代の台湾島内でも、中華系移民らにより各地の集落地に設置されていた。 台北地区で見られる「隘門」遺跡としては、艋舺隘門も 有名(今は現存せず)

陽明山国立公園内に残る魚路古道上に、金包里大路の 城門(守備部隊の駐屯基地入り口) が再建された際、この芝山岩 隘門の設計デザインが参考にされたという

士林区



9世紀以来、福建省内で 漳州泉州 間で延々と繰り広げられてきた住民抗争は、 18世紀に至っても継続されており、その移民らが台湾島へ移住した後も、漳州出身グループと 泉州出身グループに分かれて死闘を繰り広げていた。

こうした中、漳州グループをメインとする中華系移民が、八芝蘭(今の 士林区)地区に移住してくる。近くに見える円形の小丘(重さ 10トンもの巨大な岩石が頂上に乗っかっていた)が、故郷・漳州の芝山によく似た形状だったことから、以降、「芝山岩」と通称されることとなった。同時に、この山上に 開漳聖王(漳州宗廟)の 廟所「芝山巌 恵済宮」が建立される。
その後も、敵対した泉州グループから度重なる襲撃を受けたため、漳州グループの住民は対抗策として、この「芝山岩」上に城塞を築城する(1825年)。この時、頂上部に横たわる大岩の、凹んだ箇所を通路として加工し、そこに簡易な 隘門(監視塔含む)を 4か所設置したのだった(東門、西門、南門、北門。いずれも、ちょうど芝山岩を素手で登れる半分程度の高さ辺りに、配置された)。当地で産出される砂岩を加工して積み上げられた、城門の高さは 5 m前後で、横幅はわずかに二人がすれ違える程度であった。隘門の後方は、短い城壁が数メートル分と、守備兵らが籠りながら攻撃できる塹壕設備も設けられていた。また壁上には、銃眼と矢狭間が開けられた凹凸壁、1 m 幅の平坦な 馬道(城壁守備兵の待機空間)が常備されていた。下写真。

以後、この城塞は、八芝蘭地区に住む漳州系住民のための緊急避難所となり、また、山頂部の芝山巌 恵済宮を守護する防衛設備として期待されていく。

士林区

1859年、いよいよ泉州グループ集団が八芝蘭の 集落地(八芝蘭舊街)へ大攻勢を仕掛けてくると、町は全焼し、漳州グループ住民らはこの芝山岩へ逃げ込み、数か月間の籠城戦を戦い抜く。ついに諦めた漳州グループが撤退していくと、平和を取り戻した漳州グループは、翌 1860年、八芝蘭の集落地再建に着手する。
この時、新たな 街道「八芝蘭新街(今の 士林夜市)」を中心に、城壁のような役目を負った 大北街、大南街、大東街、大西街が整備され、芝山岩の隘門と同じスタイルで、隘門が 4か所設置されるのだった。

20世紀に入って都市開発に伴い、台湾島内にあった隘門の多くが撤去されてしまうも、わずかに芝山岩の西側に設けられていた西隘門と、芝山岩の北麓にあった 北隘門(後に撤去)のみが残されることとなる。現在、この西門は「芝山岩隘門」として、第三級古蹟に指定され、芝山公園側門入口から上へと続く小道上に立地する。小道の右側に大きな岩石があり、その壁面上に、貢生(科挙二次試験に合格し、国家官僚養成機関に在籍した者の称号)の 潘母埒が 1860年代に記した、「洞天福地」という文字が彫刻されている。
また、この芝山岩の入口には現在、百二十崁(125段の階段)がある。これは、かつて芝山岩の要塞で最重要の城門だった「南隘門」が配置されていた場所で、日本統治時代に撤去され、代わりに建立された芝山巌社の正門として整備された、石階段の名残りである。




 【 士林区の 歴史 】

士林区エリアに入植する以前から、平埔族系の巴賽族が「麻少翁社」、「瓦笠社」などの集落地を形成していた(下地図)。当時、彼らの部族語で「温泉」を意味する「パトシラン(Pattsiran)」と総称されていたようである。

しかし、異説もあり、1626年、植民地フィリピンから北上したスペイン人が、北台湾島を占領すると、基隆の和平島上に サン・サルバドル城塞を建造する。その際、対岸部に形成されていた中華系移民の集落地を、「パリアン(Parian)」と命名したという。これは、スペイン人が地元フィリピンで使われていた 中華街(Parian)の呼称を、ここに援用したため、と指摘されている
これと同様、オランダ領だったインドネシアにおいて、中華街は「ペシナン(Pecinan)」と通称されていた。中間部分の cina とは、すなわち China を指し、チャイナタウン(Chinatown)そのものを意味した。このため 1642年、スペイン勢力を駆逐し、北台湾をも併合したオランダ人は、インドネシア植民地で使用されていた「中華街(Pecinan)」の通称を、この士林エリアにあった中華系集落に援用したという説である。 後に中国語訳され、新形成された集落地が「八芝蘭」と定められたわけである(下地図)。

士林区

清代に入り、堡里制が採用されると、「八芝蘭」は「芝蘭堡」へ、さらに後に「芝蘭一堡」へ改称される。
清末の動乱期、当地では教育の気運が高まっており、 立て続けに、科挙合格者を複数名、輩出したことから、「士林」へ改称される。「士子如林」を短縮した単語という。


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