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訪問日:2018年11月上旬
台湾 澎湖県 ④ ~ 県内人口 11万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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馬公市内で自転車を レンタルする 終日 200 TWD ~ 電動自転車は ダメだった
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東文澳エリア と 国道 204号沿いの サイクリング(4 km)
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国道 201号の サイクリング(11 km) ~ 亀仙人の家 ? いや「人魚の丘」ホテルだった
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馬公湾の原風景へ 思いをはせる ~ 蛇頭山一帯の サボテン群
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蛇頭山 ~ 日本軍艦「松島」沈没記念碑&慰霊碑
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蛇頭山 ~ フランス海軍慰霊碑「萬人塚」
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蛇頭山 ~ オランダ城塞遺跡
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【豆知識】オランダ と 澎湖諸島 ■■■
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蛇頭山から見る 馬公湾 と 旧市街地、西嶼島、四角嶼、鶏籠嶼
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東衛 と 西衛 ~ 清代の兵士駐屯地の 今昔
馬公旧市街地
のホテル近隣で
電動自転車
を借りようと何店舗か巡ってみたが、11月のオフシーズンのためか、休業中のお店も多かった。
ようやく見つけた電動自転車レンタルショップを訪ね、「蛇頭山まで行く」と伝えると、50 km分しかバッテリーがもたないので、往復ギリギリだろうし、レンタルはやめた方がいいと言われた。代わりに普通の自転車屋を勧められる。
そのまま民権路をまっすぐ北上すると(上地図)、セブンイレブンのある交差点をさらに前進し、光復路と改名された道路を直進していると、左手に 自転車修理・販売ショップ「新賽風脚踏車行(GIANT)」を見つけた(下写真左)。
やはり海風にあたるためか、路上に並べられた自転車のさび具合がすごいな。。。。と感心していると、店員が話かけてきたので、蛇頭山へ行く旨を告げると、すぐに自転車をもってきた。「電動自転車がいい」と言ってみたが、「無い」との回答。
身分証の原本を預けさせられ、夜 21:00(店の閉店時間)までに戻るように言われた(レンタル料金終日 200 TWD)。カギとヘルメットも貸してくれた。
とりあえず
、海沿いの新店路を直進し、国道 205号との交差点をさらに直進してみた。この 道路沿い(東文澳エリア)には民家を利用した数多くの民宿が軒を連ねており、夏には観光客ストリートと化すんだろうな。。。と想像しながら進んでいると、突き当りに陳氏祖廟を伴う巨大邸宅を発見する(上写真右)。
ここで地元の人に現在地を質問してみると、わざわざ携帯電話で Google Map を調べ、このまま北上して、国道 204号を目指せとアドバイスしてくれた。
その通り、国道 204号に到達し(石泉国民小学校の脇)、いよいよ本格的な東進を進める(もし、先ほどの陳氏祖廟を南下していれば、国道 205号に合流していた)。道路脇の自転車走行スペースは細く、自動車道路のギリギリ脇を通る、なかなかスリルのあるサイクリングだった(下写真左)。
だいたい 4 km目あたりで、国道 201号との交差点に到達する(脇にセブンイレブンあり)。
この交差点の東側に
進士第
が、西側に興仁ダム(上写真右)がある。ここから北へ 3 kmの地点に成功ダムもあり、両者あわせて澎湖諸島住民らの水がめ的存在となっている。
なお、その成功ダムの手間にある、澎湖諸島で最も高い山上に「拱北砲台」が 建造されていた(1885年)。日清戦争末期の 1895年、日本軍が上陸してくると、
西嶼島の東砲台
とともに、 列島内の数ある砲台陣地の中で、この二か所だけが砲撃して応戦したことで知られる。
ここから
、国道 201号を延々 11 km南下することになる。最初は長い下り坂が続きラクだったが、徐々にアップダウンに苦しめられることとなった。
途中、「人魚の丘」というホテルを見つけた。ドラゴンボールに登場する亀仙人の家みたいに、忽然と海辺に立地する、その奇妙な建物は圧倒的な存在感を放っていた。下写真。
対岸には、
馬公市の旧市街地
の遠景が見渡せる。
一泊 3,150 TWD ~と記されており(下写真)、その高めの値段設定からグループ単位で借りて長期利用するのだろうと推察できた。付近には一切、商店はなく、自動車などで近隣の町まで買いだしして、室内で皆でワイワイする場所、という感じなのだろう。
さらに
先を進む。移動の道中は、海辺に見える景色がどんどん変化し、その度に写真撮影したくなる衝動にかられた。清代、明代の原風景もこんな感じだったのだろうか。。。と妄想を掻き立てられる素朴な地形が続く。下写真。
そして、スタートから 1時間が過ぎたころ、蛇頭山の入り口に到達する(下写真左)。ここから進むこと、さらに 15分。
それにしても、こんな半島の先端部分にまで集落地が立地し、漁師らの 水揚げ市場(風櫃東漁港)があるのには驚かされる(下写真右)。しかも、地元の漁師の人たちも結構いて、活気もあった。日本よりも地元愛や地元経済の足腰が強い印象を受ける。
ここから、上写真右の後方に見える台地を進むことになった。
急に盛り上がる坂道を上り、サボテン(仙人掌)が群生する草原の中央を突き 進む(下写真左)。これらのサボテンは 1645年にオランダ人らが持ち込んだ外来種らしく、地元ではアイスクリームのエキスに使われるとか。
対岸には、1時間半前までいた
馬公市の旧市街地
が見渡せる(
上写真右
)。直線距離だとこんなに近いのに、ひどく大回りさせられたものだ。。。。
ようやく遺跡公園に到着すると、平日午後の時間帯、バイクで立ち寄った若いカップルと中年男女の二組、バイクで一人訪問していたおじさんが先客としていた。
それ以外は、だだっ広い放置された土地が広がるだけだった。
明末や清末に、この地に建造された城塞や 砲台陣地をめぐって、度々、死闘が演じられていた、なんて信じられない。
まず遺跡公園の入り口には、日本の
軍艦松島
の慰霊塔が建てられていた。船型のデザインが印象的だった。
ちょうどこの蛇頭山の北岸、すなわち、上写真の右手の海岸沿いに停泊中だった軍艦が突然、爆発事故を起こし、多くの実習生も巻き込んで沈没したという悲劇的な事件に関し、その被害者らを追悼したものという。
日本軍艦「松島」
沈没記念碑&慰霊碑
1908年1月25日、海軍兵学校の校長を務めていた 吉松茂太郎(1859~1935年。 1915~17年、連合艦隊司令長官に就任)の率いる、三隻の 練習艦(他に同型艦の橋立と 厳島も)が海軍兵学校の学生 415人を乗せて横須賀を出港する。
香港
、
シンガポール
を経由し、マニラに寄港後、4月27日に馬公港に入港する。
4月30日の午前 4時頃、軍艦「松島」の火薬庫が原因不明の爆発を起こし、火災が発生する。艦長の矢代由徳大佐、および船員 225人が亡くなるという悲劇的な事故となり、そのまま船体は沈没したとされる。後日、引き上げられた松島は解体処理された。
なお、
この練習船となっていた 軍艦「松島」は、1890年1月に発注先のフランス工場で建造された巡洋艦で、 1892年4月に佐世保港に入港し、日本の連合艦隊に参列している
。
1894年の日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めるほどの装備を誇り(上地図)、翌 1895年の澎湖諸島への上陸作戦にも参加した。1904年の日露戦争時には第三艦隊に組み込まれた。
1908年から同型艦の橋立と 厳島とともに練習船へ転用され、その直後に被災したことになる。当地に慰霊塔が建立されたのは、1910年10月という。
そして
、その後方にはフランス海軍の慰霊塔が立つ(下写真)。
1885年3月は、フランス海軍にとって悪夢のような一か月間となった。
清仏戦争に伴い北上したフランス極東艦隊は、寧坡近海の「鎮海沖の海戦」で手痛い抵抗に遭い
、その傷を癒すべく
台湾本島 北部(基隆)の占領を企図するも失敗し
、ようやく月末になって澎湖諸島の占領に収まったのだった。
この 1か月の戦闘で艦隊を率いた提督クールベを含む、多くの兵士らが負傷しており、その治療に専念すべく 3か月もの間、艦隊はこの澎湖諸島内に滞留することとなる。
季節は 4月に入り夏季が訪れると、高温多湿の猛暑が始まり、疫病が蔓延する。 死没者の数はさらに 1,000名にも上ったという。最終的に 6月に講和条約が成立すると、フランス艦隊はようやく当地を離脱することができたのだった。
風櫃尾蛇頭山の フランス軍慰霊碑「萬人塚」
清仏戦争の最中、フランス極東艦隊が 1885年3月31日に澎湖諸島を占領すると、当地に長期滞在することとなる。ここで負傷兵らの治療などを進めるも、風土が合わず、逆に多くの兵士らが疫病に苦しむようになり、合計 1000人近くが死亡することとなった。
ここで病没したフランス軍兵士らの遺体は 風櫃尾蛇頭山に合葬され、その慰霊塔として建立されたのが、「萬人塚」というわけだった。下写真。
なお、その死者の中には、極東艦隊を率いた 最高司令官クールベ中将も含まれていた。
同年 6月9日に清仏間で和議が成立すると(天津条約)、極東艦隊は 7月22日に澎湖諸島から退去する際、クールベ中将の遺体のみフランスへ持ち帰り、国葬される。
現在、馬公市街地に残るクールベ慰霊碑は、彼の遺髪と遺留品が埋葬された跡地となっている(下写真は建立当時のもの。現在はかなり縮小された石碑案内板だけになっている。
馬公市バスターミナルの向かいにある、中正国小学校の西端
。民生路と 民族路との交差点付近)。
彼の遺品とあわせて、その近侍で同じく死去した二人の 副官( 官陸軍中尉 Louis Jehenne と 事務官 Louis Dert)の遺体も、ここに合葬されていた。
当時、その一帯は媽宮集落の郊外で 火焼坪や 鬼仔山(今の 馬公市光明里)と呼ばれ、多くの墓地群が点在する 丘陵地帯だったという。戦後、
媽宮城
が建造されると、
拱辰門(北門)のすぐ外に立地することとなった(このクールベ慰霊碑や 蛇頭山の萬人塚は、清朝政府により保護されたため撤去されなかった)
。
清仏戦争
終結後、駐清国フランス公使は外交ルートを通じて、清朝廷にこの台湾における フランス軍兵士らの墓標を保護するように依頼しており、その下部組織である澎湖諸島政庁に墓地の保護を委託している(見舞金を毎年納付していた)。当地を通過するフランス艦隊は度々、上陸しては慰霊碑を訪問したとされる。
そのまま日本統治時代や中華民国時代も引き続き、手厚く保護されるも、1953年に小学校の校庭拡大にともない、フランス政府の同意の下、現在の交差点付近へ移転されたという。その際、クールベ提督の遺留品や副官 2名の遺骨が台湾本島の
基隆市にある フランス人墓地
へ移送されている。
1964年1月、フランス政府が中華人民共和国を承認し、台湾の中華民国との断交が決定されると、同年、フランス政府は軍艦を派遣し、風櫃尾蛇頭山の萬人塚内にある フランス軍兵士らの遺骨や遺物なども掘り起こし、艦船に乗せて母国へ持ち帰り、国葬にしている
。
さらに先の、岬の先端部分にある蛇頭山上に、オランダ城塞が立地していた。本当に先っぽの付け根に建造されていたわけだ。
対岸には、
馬公市の旧市街地
が間近に見えており、媽宮湾(馬公と命名されるのは、日本統治時代)の唯一の出入り口を構成する。
オランダ人らは入植後(1622年)、すぐにこの両岸に城塞陣地を建造する。当時、中国人らはオランダ式要塞を紅毛城と呼んだ。他にも、風櫃尾の半島付け根である 嵵裡(今の 嵵里にある紗帽山上)にも簡易拠点を設置し、合計 3箇所で媽宮湾の防衛を図ろうとしたのだった
。
そのうちの最大の城塞拠点が、この 風櫃尾(蛇頭山)で、オランダ軍はその北岸に波止場を設け、艦船らを停泊させていたという。ちょうど、下写真の海岸沿いに相当する。
現在の海岸沿いは、玄武岩(黒岩)がゴツゴツと岩肌を晒すだけの荒野だったが、きっと当時もこのような地形だったのだろう。
さて、いよいよ蛇頭山に上ってみる。
山上は中央部分に通路が設けられて、きれいに草刈りされていた(下写真)。
その途中に、井戸跡が残されていた(下写真左)。
近くには、日本軍の撤収後に中華民国軍が入居し、新たに設置したであろうトーチカと駐在所が残されていた(下写真右)。
なお、この遺跡公園全体に鹿か、ウサギかの糞がたくさん落ちていた。かなりの数だ。筆者が訪問した際は、獣らしいものは見かけなかったが。
風櫃尾蛇頭山の オランダ城塞
風櫃尾オランダ城堡は 1622年にオランダ人によって建造された三つの西洋式要塞の一つで、台湾エリアでも最も早い時期に設置された西洋式の城塞だった。それが立地する風櫃尾は、突出した小半島の岬にあり、蛇頭山とも俗称される。
対岸の媽宮半島
とともに、媽宮湾を防衛する非常に重要な戦略的ポイントを成していた。
16世紀初頭から活発化した欧州勢力の大航海時代は競争を激化させ、海禁政策をとる明朝に対する通商要求も強まる一方となる。
1622年6月22日、オランダ東インド会社の艦隊司令官だった Cornelis Reijersz が、英軍 4隻との連合艦隊合計 12隻と兵 1,024人を率いてマカオを攻撃するも、大敗を喫すると
、そのまま連合軍は解消され、オランダ残留兵力のみで同年 7月11日早朝、澎湖諸島に上陸してくる。
風櫃尾から上陸を開始し、一気に媽宮港を占領して、抵抗した住民ら 36人を処刑するなど、武力制圧に徹した軍事作戦であった
。
翌 7月中かけて島嶼一帯の地理探索を進めた後、列島住民数千名を使役して、 8月1日より海中から石材を引き上げさせて風櫃尾と 紅木埕、瓦硐の 3ヵ所に西洋式城塞の建造を開始する(下地図)。 このうち、最も湾外に建造されたのが 風櫃尾オランダ城塞遺跡であるが、その他に 2か所の要塞はすでに撤去され、現存されていない。
1623年に描かれた澎湖港口図の当時の絵画によると、風櫃尾オランダ城堡は典型的な欧洲列強が各コロニーに 建造した 小規模城塞だったという。一辺 56.7 mの正方形で、城壁の高さは約 7 mあった(上絵図)。
その四方の角は正確に東西南北の四方位を示しており、その四つ角には外側に突出した稜堡が設置され(下写真。東棱堡、西棱堡、南棱堡、北棱堡と命名されていた)、これら稜堡上には合計 29門の大砲が配備されていた。城塞正門は南東面の城壁中央に設けられており、馬公湾の正面に相対する位置にあった。
城塞内には兵舎や司令棟が設けられていた。
南西面の城壁は海風の激しい風櫃半島に接していたため、その外側は石料と石灰によって積み上げられていた。また、土製の城壁の外には一本の外堀がめぐらされており、他の三方面はすべて海に面し、土製の城壁外面には木板で補強されていたという。それらの材木は日本や バタビア(インドネシア)から運ばれたものや、廃船の資材が転用されていた。
城塞の南側には船着き場一か所が設けられ、艦船が停泊できるようになっていた。
明朝は力づくでのオランダ人勢力の排除を企図して、福建巡撫に 南居益(1566~1644年)を任命する。 1年間の準備を経て、1624年2月8日、南居益は守備の王夢熊を先発隊として澎湖諸島に派遣すると、 まずは白沙嶼島の鎮海港に上陸し、前哨基地の開設に成功する。 続いて、新たに大抜擢された福建副総兵の 俞咨皋(倭寇退治で名を馳せた 名将・俞大猷の子) を総大将とする本隊が、福建巡海道参政・孫国禎(この戦役での功績から、 1627年に登莱巡撫へ昇進することとなる)らを伴って澎湖諸島に上陸する(2月20日)。 南居益はさらに水軍部隊を増派し、オランダ軍も全砲門を開いて応戦する。
戦闘は激烈を極め、双方は戦果の見えない消耗戦を繰り広げるも、 明朝は予算不足、オランダ方は本部バタビアからの援軍なし、 という手づまりの中、講和の道が探られることとなる。 福建省の密貿易商人の仲介で和議が成立すると(8月16日)、オランダ軍は 9月13日、 澎湖諸島拠点の放棄して、台湾島の南部へ退去することとなる
。
その際、オランダ軍はその玄武岩を積み上げた城壁の部材を移築すべく、諸島内の城塞を破却し、それらの廃材を台南市に運び込み、
ゼーランディア城塞
の建設に着手することになる。このとき、明朝は台湾島の実質的な譲渡を認めたともいえる。
この後、本城塞跡には明朝が新たに砲台陣地を建造し、清朝、日本軍、中華民国軍へと継承されていった。本遺跡の入り口部分に残る トーチカはその名残という。
2001年、台湾初の欧州式城塞遺跡として、国家一級遺跡に指定される。
下写真は 風櫃洞(蛇頭山)から最も近い小島「
四角嶼
」。鄭氏政権の澎湖諸島の守備隊は、ここにも砲台陣地を設置し、清方の水軍を迎え撃とうとしていた。その立地から、まさに背水の陣の覚悟が問われる防衛拠点だったはずだ。
その後方にうっすら見える巨大な島影が、西嶼島。明代までは「西瀛」と呼称されてきたが、明末にオランダ人らが地形調査した際、「漁師の島」と命名したことから、漁翁島と通称されるようになる。現在でも、その南端に立地する灯台名に、その名残が見受けられる
。
下写真は蛇頭山の南方向を見たもので、左手には風櫃洞の集落地が見える。巨大な廟所の屋根は、風櫃温王殿。右手の小島は鶏籠嶼。
30分ほど遺跡公園を散策した後、再び自転車に乗って帰路に就く。
下写真は蛇頭山下の岸辺から半島部分を眺めたもの。眼前に
馬公市の旧市街地
が見えているのに、この距離を再び戻らねばならないのか。。。と辟易する距離である。。。
写真奥に見える、やや高い丘が紗帽山で、オランダ占領軍が 1622年に建造した 3拠点の一角「嵵裡」紅毛城が立地した場所と思われる。3拠点が視覚的に確認し合える距離に配置されていたことが分かる。
帰り道は、往路には感じなかった坂道の重圧に耐えながらのサイクリングとなった。
途中、サボテン(仙人掌)公園を通過した。ここには、日本軍が開設した砲台陣地跡があるそうだが、自転車での往復の疲労で、見学を放棄した。
国道201号を北上し終え、再び、セブンイレブンの交差点から国道 204号に入る。ここから一気に交通量がアップする(馬公市街地まで残り 4km)。
下写真
は国道204号が
文澳地区
を通過する辺り。道路案内板にある「東衛」「西衛」の地名は、清代に配備されていた守備隊駐留基地の名残りである(
清代には澎湖諸島全体で常時、 2,000名の兵員が駐屯していた
)。
蛇頭山から 1時間15分ほどで馬公市の旧市街地に帰り着いた。
自転車での旅は、道中の交通事故リスクと、運転に集中しなければならない 時間的、体力的、精神的疲労による余力消耗デメリットを考慮すると、お勧めできる選択肢ではなかった。。。。翌日から、バス巡りか、タクシーをチャーターにする方法に切り替えることにした。
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