BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年11月上旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 澎湖県 ③ ~ 県内人口 11万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  蔡廷蘭 進士第 ~ 澎湖諸島出身者で 唯一の科挙合格者を祀る
  『海南雜著』と 蔡廷蘭 ~ 清代の台湾出身者で唯一 外国語翻訳までされた 著書の作家
  林投公園 と 林投ビーチ ~ 忘れ形見として残る トーチカ遺跡
  林投日軍登陸紀念碑 ~ 日清戦争中の 1895年3月24日、日本海軍上陸の地
  龍門裡正角 日軍登陸紀念碑 ~ 日清戦争中の 1895年3月23日、日本陸軍上陸の地
  澎湖本島の最西端 と 牧場、風車
  澎湖諸島の家族生活 と 不動産バブル ~ タクシー運転手との会話から
  馬公市内に戻る ~ 第一賓館の周囲に張り巡らされた 地下壕
  当地最高級ホテルだった 第一賓館の歩み ~ 蒋介石、蒋経国、李登輝ら 各総統の定宿
  日本統治時代の 遺産 ~ 警察署、県政府庁舎、国民党本部、開拓博物館(県長官公舎)



馬公市文澳地区 を視察後、タクシー を 2時間ばかりチャーターした(1時間 500 TWD)。国道 204号線沿いを東進し、10分ほどで「蔡廷蘭進士第」に到着できた(4km)。初日に 30分近くかかったサイクリングが空しく映った。。。

澎湖県

タクシードライバー曰く、蔡廷蘭(1801~1859年)は、澎湖出身者としては唯一の 進士(科挙合格者)だが、彼は大陸中国で死去し、また彼の子孫も当地を離れているので、蔡氏一族はもうこの澎湖諸島とは縁も所縁も無くなっているという。
ほんの数年前まで、放置され倒壊しかけていた祠廟だったが、近年に修築されたばかりだそうだ。

蔡廷蘭の一族はもともと金門島の瓊林出身で、明末に澎湖諸島へ移民してきたという。
蔡培華の第四子として誕生した蔡廷蘭は 幼少より学問の才を認められた神童で、1834年に 台南府城 下にあった引心書院の教員となる。
1835年に 福州 での郷試を終え、故郷へ帰省する際に台風に遭い、海上を漂流した後、ベトナムに流れ着く。

阮朝により保護された蔡廷蘭は、教員(廩生)という身分だったことから敬意を表され、生活費の支給を受けて当地滞在を許可される。翌年の季節風まで待って中国への帰国船に乗船させてもらえることとなった。
その間王都フエ(順化)に近い ホイアン(会安)に滞在し、翌 1836年4月に福建へ無事に帰国後、ベトナム滞在中の見聞録を『海南雜著』として 執筆・出版したのだった。歴史や文化風土などが記され、阮朝ベトナムに関する貴重な考古一次資料として後世に大きな影響を残すこととなる。

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1837年には台湾へ復帰し、崇文書院(台南市)、引心書院(台南市)、文石書院 での兼任教員として、地元の子弟らの教育活動に従事した。
1844年、ついに進士に合格すると、澎湖諸島 出身者で初ということで、「開澎進士」と通称されるようになる。以降、峽江県(今の 江西省吉安市)長官、南昌水利長官、豊城県(今の 江西省豊城市)長官などの役職を歴任し、太平天国の鎮圧戦での功績が認められ、最終的に 贛州府(今の 江西省贛州市 老城区)長官に昇格される。
1859年に豊城県で病没。その遺骨が澎湖諸島へ戻されたという。

なお、彼の代表的な著書である『海南雜著』は、1877年に 北京 のロシア東正教会によってロシア語に翻訳されると、続いて フランス語、日本語、ベトナム語などへの翻訳が進み、清代の台湾出身者で唯一、その著書が外国語翻訳された人物となる。

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下写真は、日本統治時代、日本軍兵士と地元住民らで記念撮影されたもの(彰化県の 1895抗日保台史跡館にて)。

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下写真は1947年、サイクリングを楽しむ市民らにより撮影されたもの(市内の開拓博物館にて)。

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そのままタクシーに乗車し、林投公園 へ向かう。
公園西側には 澎湖県軍人忠霊祠が建てられていた。
もともとは 1954年に建立された台湾初の軍人公墓で、1958年8月23日に始まった中国側の金門島砲撃事件により、金門防衛司令部副司令の 吉星文、趙家驤、章傑ら 3将軍と、その他「無名の英雄」らが合葬されるにあわせて、再整備されたものという。

澎湖県 澎湖県

林投公園内の浜辺は非常に美しく、まさに白亜の砂丘が広がっていた。
林投ビーチは東西に長く、西に隣接する溢門ビーチまで連なっている。

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浜辺の中央には傾いたトーチカの残骸が放置されており、平和でのどかな日常にあっても、台湾は今でも大陸中国とは臨戦体制のままなのだと、気を引き締めてくれる構造物だった。

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訪問目標だった 日本軍上陸紀念碑 は、公園外の東側に立地していた。
東側ゲートを出て、道路を直進すると 3分ほどで到着できた(下写真左)。周囲は、風よけの石垣で四方を囲った 畑(菜宅や宅内 と称される)や、住宅街が広がる(下写真右)。

澎湖県 澎湖県

まさに、この林投ビーチの砂浜から、日本軍(海軍部隊)が上陸したわけである(1895年、日清戦争時)。「林投日軍登陸紀念碑」の後方から海岸線を見る。

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1895年の日清戦争末期、日本政府は清朝との下関講和会議で有利に交渉を進めるべく、すでに制海権を握っていたこともあり、和平交渉の傍ら、台湾島の実効支配を目論む

同年 3月15日、当時の 連合艦隊司令長官・伊東祐亨の率いる 12隻の艦船と、比志島義輝の率いる陸軍との混成部隊が佐世保港を出発し、3月23日未明、龍門社区の東側にあった裡正角の海域から艦砲射撃を開始し、そのまま比志島の率いる陸軍が上陸を果たす。

さらに翌 3月24日未明、海軍が林投ビーチから上陸を果たし、そのまま西進して、興仁里や烏崁里などの集落地を占領すると、圓頂半島(澎湖本島の 南半分)との連絡経路が寸断され、清軍の守備拠点は各個撃破されていく。
同日正午には 媽宮城 が陥落すると(下絵図)、清方の司令官らはたちまち台湾本島へ逃亡してしまい、残された守備兵はそのまま降伏を余儀なくされていった。引き続き、大武山の戦い、大城北の戦い、西嶼の戦いなど散発的な抵抗があったものの、3月26日までに全列島の無力化が完了し、日本軍の完全勝利が決せられる。

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この上陸作戦から 29年後の 1924年3月23日、馬公要港部の谷口司令官らが発起人となり、裡正角の日本陸軍上陸地点に「明治二十八年混成枝隊上陸紀念碑」が建立され(上古写真)、また、1936年11月21日には林投ビーチにも「海軍連合陸戦隊上陸紀念碑」が設置される。しかし、第二次大戦を経て日本統治が終了すると、それぞれの碑文は「台湾光復紀念碑」と「抗戦勝利紀念碑」へと書き換えられたという。その後、紀念碑自体が破却されたというが、 1998年に地元有志らにより文言が回復されて再建され、今日に至るという。

見学後、再び林投公園の駐車場に戻り、待たせておいたタクシーに乗車する。
さらに国道 204号を東進し、龍門社区から国道 202号となるも、そのまま突き当りまで前進すると、「龍門裡正角 日軍上陸紀念碑」に行き当たる。

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ちょうど三差路の交差点にひっそりと石碑が建てられていた。

澎湖県 澎湖県

ここから 日本軍(陸軍部隊)が上陸した、という海岸線まで下りてみた。美しい白砂の裡正角ビーチが広がっていた。先ほどの林投ビーチと比べると砂浜部分は狭く、市街地からもアクセスが悪いので、かなりマイナーなビーチなのだろうが、だからこそ秘境感があり、地元民限定といった趣だった。
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筆者が訪問した 11月初旬、プライベートビーチと化した当地で、水遊びを楽しむ一家がいた。風は強いものの、太陽光線も強く、まだまだ海日和であった。

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なお、裡正角の周囲一帯はのどかな牧場エリアが広がっていた。放牧中の牛と 風車、墓地だけが、だだっ広い土地に無秩序に点在していた。タクシードライバー曰く、ここは政府の土地だが、勝手に住民らが放牧や墓地に利用しているだけという。

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その平原の所々に写真の石の突起物が残されていた。地元で魔除けの神として構築された「石敢當」の跡である。

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そのままタクシーで馬公旧市街地まで戻ってもらった。とても話好きの運転手で、車内ではいろいろ 地元ネタ を教えてくれた。


馬公市には 60,000 強の人口がいて、それなりに経済基盤もあり仕事はあるにはあるが、市街地から離れた村落や郊外地区は家こそ戸建てで大きくなるが、通勤で時間がかかるようになっているという。世界中のどの都市にも当てはまる問題だろう。

また基本的に、両親が台湾本島へ出稼ぎに行っているケースが多く、祖父母と子供たちが地元に残るパターンが最も多いという。
小学校は地元なので歩いていけるが、中学校、高校はますます数が少なくなり、子供たちは必ず路線バスのお世話にならざるを得ない生活とのことだった。大人たちはバイクか自家用車が必須の生活空間という。

ただ、島で育った子供たちは皆、一様に台湾本島へ出てしまうそうだ。逆に、専門大学への進学や生活費が安いことをねらった台湾本土の大学生らが、澎湖諸島の大学へやってくるパターンも多いという。
そして、4年の大学生活の後、それぞれが地元へ戻ることもあれば、そのまま現地に居つく人もいるという。
しかし、「馬公市の旧市街地エリアでは若い人たちも見かけますが」、と筆者が言うと、彼らの親がバイクや自動車を買い与えて、つなぎ留めているはずだ、とのことだった。

ただ、台湾本島と澎湖諸島の生活習慣は大きく異なっており、澎湖の場合は路上でのけんかや 窃盗などは全く皆無で、また鍵をつけぱなしで自動車やバイクを離れても、誰も盗む人はいないが、台湾本島の場合はすぐに誰かに窃盗されてしまうリスクがある、とのことだった。安全度が全く異なるという。

また島の平均月収は 3万 TWD、台北では 5万 TWD という収入格差があるが、台北での生活費の高さを考慮すると、手元に残る金額も同等か、それ以下にならざるを得なくなり、結局、澎湖諸島地元での就職を選択する若者も出てくるという。

ただし台北同様に、ここ数年で澎湖の不動産価格も上昇しており、給与は月額 3万 TWD ぐらいと横這いなのに、3階建ての戸建て住宅が 800万~1,000万 TWD なのだが、 30年も働き通しでないと購入できないぐらい、収入と不動産価格との差が生じてしまったという。「バブル経済ですか??」と質問してみると、これはバブルではなく、もうずっと値崩れしないと思う、と返された。政府が価格調整して崩壊を防ぐだろうし、そもそも人々の不動産需要も根強いらしい。

馬公市街地に戻ったあたりで、「ここのシェラトンホテルの事業はうまく言っていますか?」と振ってみたら、これは 2015年に開業し、当初はカジノ施設も付随する予定だったが、最終的に政府の許可が下りずに、その西隣のカジノ予定地は原っぱの広場のままとして残り、時折、イベント会場になるだけになってしまっているという。入室率もそれほど高くないそうだ。

同じく漁港沿いに立地する真新しい Discover ホテルだが、ここは 2018年2月に開業したようで、後方の Pier3 の ショッピングモール(免税店)とあわせて大々的に開業したものの、店内の飲食店はそもそも値段が高く設定され、ドライバー自身は全く行かない、と言っていた。
オフシーズンとはいえ、筆者が滞在していた 11月上旬現在、モール内の閑古鳥の鳴きっぷりがすごかった。。。



30分弱のドライブを経て、旧市街地にある「第一賓館」前で降ろしてもらった。 2時間ちょうどのドライブだったし、いろいろ地元情報ももらえたので、チップをつけて 1,100 TWD をあげておいた。

さてさて、総統であった蒋介石、蒋経国父子が澎湖諸島を訪問した際に投宿したという当地最高級の宿舎だが、その面積は日本の民家の 2~3倍程度ある広さで、すべて平屋建てだった(下写真左)。蒋経国死後、その後継者として国民党を率いた 李登輝総統(在職:1988~2000年)も定宿としていたという。

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日本の民家や単なる宿舎と異なる点は、この建物の周囲には防空壕の入り口が 3か所も設けられていた点と、おそらく、さらに秘密の抜け穴が遠方にまで掘削されていたであろう点と言える。

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宿舎の敷地も広大で、その庭にも防空壕が残されていた。

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和洋折衷の外観が示す通り、この「第一賓館」はもともと日本統治時代に建設され、その名を「貴賓館」と呼ばれたが、1943年2月と完成も遅く、十分に利用されないまま、1945年の敗戦とともに中華民国へ引き渡しされることとなった。その名が示す通り、その建設目的は日本から皇族や 軍関係者、政治家、高級官僚などが澎湖諸島を視察訪問した際に投宿する場所となる予定だったという。

中庭には 蒋介石(1887~1975年)の銅像が設置され(下写真左。2002年まで海岸の フェリーターミナル付近にあった)、また、その実子、蒋経国(1910~1988年)総統が訪問した際の写真パネルも展示されていた(下写真右。1956年に屋内の和室部分が撤去され、全室が洋風に改修された直後の訪問時)。 何やら、普通に町工場にいる社長さんにしか見えない。。。

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さて、第一賓館を後にし、そのまま治和路沿いを東進すると、警察署(下写真左)、澎湖県 庁舎(下写真右)、国民党本部などの公官庁の建物が立ち並ぶ。

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その先に、澎湖開拓館(下写真左。日本統治時代、県長官の公館だった)がひっそりと立地していた。内部は純和風建築となっており、月曜日&火曜日が休館日で、閲覧可能時間は 水曜~日曜日 9:00~12:00、14:00~17:00(入館料 30 TWD)だった。

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内部は馬公市の郷土資料館となっており、貴重な古地図や古写真などの図書コーナーもあり、 1時間以上も入り浸ってしまった。特に、オランダ時代や 日本統治時代の地図、清末の 媽宮城 の全体地図など、有用な資料がそろっていた。


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