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訪問日:2018年11月上旬
台湾 澎湖県 ① ~ 県内人口 11万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
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澎湖諸島の誕生 と 古代人類の足跡 ~ 玄武岩から 石器材料を精製していた
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1281年、元朝が 日本遠征(弘安の役)の中継拠点として、澎湖寨巡検司を 初設置
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明朝の海禁政策 と 倭寇の脅威
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1604年8月 と 1622年7月、オランダ艦隊が 澎湖諸島に上陸し、コロニー開設 と 通商を要求
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1624年、明朝 vs オランダ占領軍 の戦い(第一次澎湖戦争)
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台湾本島を巡る、オランダ軍 と 鄭成功の戦い
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1683年7月、清朝 vs 鄭氏台湾 の戦い(第二次澎湖戦争)
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清朝による 澎湖諸島の統治史
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1885年3月、清朝 vs フランス極東艦隊 の戦い(清仏戦争の一環として ~ 第三次澎湖戦争)
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清仏戦争後、清朝により 媽宮城の築城 と 砲台陣地の新設が 着手されるも 。。。
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1894~1895年、日清戦争 と 台湾戦線(第四次澎湖戦争)
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日本統治時代の 澎湖諸島 と 馬公市の誕生(1920年)
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太平洋戦争時の 米軍空襲 ~ 日本最南西端の海軍基地 と 豬母水飛行場
【
澎湖諸島の 歴史
】
澎湖諸島は大小あわせて百近い島々で構成されており、その最も古いものは最西端に位置する 花嶼島で、 今から約 6500万年前の海底火山により隆起した 火成岩の塊という。その他の島々は約 1740万年前に始まった地殻変動によって地表にあふれ出たマグマが、 冷却凝固して玄武岩の層となったものが幾重にも堆積して形成されたものという。その後も海底の火山活動は続けられ、ようやく約 820万年前に停止し、 あとは風化と海食作用によって 現在の複雑怪奇な自然景観が出現されることとなったのだった(桶盤石柱や 鯨魚岩など)。
この地に最初に人類が住み着いたのは新石器時代の約 4500年前とされており、 中国
福建省
あたりから渡海した オーストロネシア人(南島民族)が約 1000年かけて 台湾本島、さらに北は沖縄から日本、南はフィリピンから インドネシア方面 へと拡散する中で、当地にとどまった人々により開拓が始められたと考えられている。
その古代石器採掘場跡が現在、七美嶼島に 3か所、残されているという。
彼らは玄武岩を採掘して石器の半完成品を作り、それを船で台湾南西部や 中国福建省の東山島などに運んで日用品と交換していたと推定されている。
こうした交易は約 3000年前まで継続されていたが、台湾島で稲作文明が確立されると(円山文化時代)、 澎湖諸島に住んだ原住民らも生活の安定を求めて台湾本島へ移住してしまい、 以後 1000年間にわたり、無人島となったようである。時折、季節性の漁業活動で一時的に漁民らが立ち寄る程度で、長期居住目的の集落が形成されることはなかった。
おそらく、約 5000年前に大陸中国で稲作文化が始まり、その技術を持った人々が海を越えて 澎湖諸島にも移住したのだろうが、 平野部が少なく、年中、風雨にさらされる土地柄が稲作に適さず、人々はさらに台湾本島へ渡河し、 ここで農地を開墾して稲作生活圏の確立に成功したというわけだろう。
この事実は、澎湖列島には台湾本島の原住民とされる高山族や平埔族の存在が一切、確認されていない、という点にも現われており、 人・文明の流れは 大陸 → 澎湖諸島 → 台湾本島 の一方通行であった可能性が高い。
こうして無人島となって以降、福建省近海の住民らのみに知られた島嶼エリアであり続け、島夷や 方壷、西瀛、澶洲、平湖 などと呼称されていくこととなる。
史書の記録に残る最古のものは、隋代の 607~610年、2代目皇帝・煬帝が派遣した 朱寛、何蛮らの 琉球王国、東南アジア方面への使者一行に関する記述で、 その航路は未だ不明だが、おそらく古代人の移住ルートに沿って、澎湖諸島から台湾を経由して、南北いずれかへ移動したと考えられている。
以後も、唐代、宋代を通じ、漁民中心の短期滞在用の施設が中心となるも、次第に小規模な定住集落が形成され出したと推定されている。 特に、唐末や五代十国時代の戦乱を避け、漁民以外に、家畜や農業従事者らも移住してくると、集落地の住民は一気に拡大されたはずで、 南宋時代には複数の集落の存在が記録されているという。
さらに時は下って
1279年
、南宋政権を滅ぼした モンゴル帝国(元朝)が、 1274年の文永の役に続く、二度目の 日本遠征(弘安の役)の準備に取り掛かると、 南宋政権下にあった多くの残存兵力を再集結させ、日本渡河の軍船建造を急ピッチで進めることとなる。
そして 1281年、モンゴル軍は
寧波港
からの日本遠征に際し、 その中継拠点となる澎湖諸島に 澎湖寨巡検司(県役所の 下部組織)を開設する。これは現地統治を目的とした常設行政機関ではなく、 あくまでも遠征軍の駐留拠点網の一つに過ぎなかった(
福建省泉州府
の管轄)わけだが、 結果的にこれが正式に澎湖諸島が中華帝国の版図に組み込まれた最初の史実となり、台湾本島よりも実に 400年以上も早い歴史を刻むこととなるのだった。
この軍事遠征の拠点整備にともない、福建
泉州市
エリアを 中心にまとまった数の住民らも移住を開始し、以降、元代を通じて 澎湖諸島の各地に集落地が誕生していく。その最大集落地となったのが、媽宮湾に包まれる形で立地した
娘媽宮(町の名称で、清代中期に暗澳へ改名。今の 文澳地区
)であった。
元代の 民間航海家であった 汪大淵(1311~ ?。東洋のマルコ・ポーロ と称される)が、 1349年に記した東南アジア、西アジア航路の 見聞録『島夷志略』にもこの澎湖諸島の様子が言及されており、この列島には当時、 相当数の
泉州(当時、泉州は世界最大の貿易港として君臨した)
出身の移住者らが 7ヵ所ほどの集落地を形成し、大陸や台湾本島との交易生活を営んでいたという。下地図。
しかし、明末から清代を通じて急ピッチで開発された台湾本島とは異なり、 澎湖列島の発展は非常に緩慢なもので、住民らの生活も質素なままだったようである。
さらに時代は進み、元朝を滅ぼした明朝が海禁政策を導入すると(
1384年
)、 島上の行政機関は閉鎖され、島民らは本土へ強制移住させられることとなった。澎湖列島内で放棄された集落跡地には、 逆に福建省エリアからの無法な流民らが移住するようになり、密貿易や脱走絡みの亡命者らが コミュニティを形成していく。
また、元代中期より、朝鮮半島や中国北部の沿岸地帯を襲撃してきた前期倭寇は、 主に日本人が主体となって鎌倉時代の元寇報復を目的とする 海賊行為が横行されていたが、この明代に入ると、 その倭寇の活動範囲は南へ南へと拡大し、ついに
広東省
や
海南島
の沿岸部にまで 被害が及ぶこととなる。この後期倭寇の主たる構成員は 中国福建省・浙江省出身の漁民らと考えられており、「假倭(偽の倭寇)」と区別される。 その彼らの 根城&補給基地となったのが
舟山諸島
であり、この澎湖諸島なのであった。下地図。
ここに至り、明朝政府は澎湖諸島を倭寇征伐の ターゲットとみなすようになり、浙直総督に就任した 胡宗憲(1512~1565年。
安徽省宣城市
績溪県出身。 1538年に科挙合格後、山東・益都県長官【1540年・
山東省濰坊市
】や 浙江餘姚県長官【1547年・
浙江省寧波市余姚市
】などを 務めて、山賊討伐や治安向上に手腕を発揮する。1549年以降は北方の 長城管理の文官トップとして手腕を振るい、 当時、賄賂政治で再建を牛耳っていた 厳嵩【1480~1567年】の目に留まり、大いに出世を遂げることとなる。1556年に浙直総督へ大抜擢され、 東シナ海方面の倭寇退治で戦功を重ねた)の主導の下、 倭寇の代表的頭目の一人だった汪直を 逮捕・処刑する(1559年12月)など、鎮圧戦を展開し、 そのまま澎湖諸島の直接統治が再開されることとなる。 台湾海峡と中国沿岸の安定には、この澎湖諸島の実効支配が必須と認識されたためであった。その後、胡宗憲はこの倭寇征伐の功績により、 1560年に太子太保へ大出世する(最終的に、1565年に内閣首輔の厳嵩が政界を追放されると、 これに連座して胡宗憲も投獄され、そこで自殺して果てることとなる)。
こうして、
1563年に澎湖寨巡検司が娘媽宮の 港町(今の 文澳地区) に再設置され
、 島嶼部の実効支配が復活したわけだが、倭寇の脅威はその後も続き、明朝は着実にその国力を削がれていった。
それから 40年後、この澎湖諸島に激震が走ることとなる。
すでに前世紀末から
大航海時代
がスタートしていた欧州では
1553年にポルトガルがマカオに
、
1565年にスペイン人が フィリピンに拠点を設けるなど
、活発な海外進出を続けており、 後発組のイギリスやオランダも、遅れまじと東アジア方面への拠点確保に乗り出していた。
そうした最中、1602年に東インド会社を設立したばかりのオランダ人が、 澎湖諸島に拠点開設を求めて上陸してくる(1604年8月7日)。
その寄港のきっかけは、司令官 Wybrand van Waerwijck 率いる 商船艦隊(1600年の難破船救出事件から 既に通商関係が始まっていた)が、 日本へ向けて航行中に台風の直撃を受け、その避難先として 媽宮湾に逃げ込み、
娘媽宮の町
の西端にあった、半島部の丘上の
廟所(現在の天后宮)
内で 休息させたもらったというものだった。
ちょうど日本との交易ルート上に位置する澎湖諸島の立地条件は、オランダ商船団にとっては 喉から手が出るほど欲しいロケーションで、 ポルトガル人がマカオで取った手口で、担当役人への賄賂を送るなど、何とか平和裏にコロニー開設の許可を取り付けようと合策する。
しかし、福建(
泉州
)都司の 沈有容(1557~1627年。
安徽省宣城市
宣州区洪林鎮出身。 1579に武官試験に合格後、各地の戦地で功績を挙げた武闘派の将軍。 最終的に都督同知まで出世し、1624年に隠居)は強硬姿勢を取り、軍船 50隻を率いて オランダ人に退去を要求すると、同年 12月15日、オランダ商船団はすごすごと撤退させられることとなる。
この事の顛末を記した 石碑「沈有容諭退紅毛番韋麻郎等」が 1919年、 天后宮の修築工事中に出土し、当地がオランダ人らの一時滞在所に当てがわれていたことが判明する。 以後、その出土品は天后宮の清風閣の右壁に安置されているという。
以後も世界情勢はますます激変し、ポルトガル・スペインの旧勢力と イギリス・オランダの新興勢力との間、 すなわちカトリック勢力と プロテスタント勢力との対立は激化の一途をたどり、世界の各地で両者の抗争が激しさを増していく。
ついに 1622年6月22日、英国軍艦 4隻を含めた英蘭 12隻の連合艦隊が、 Cornelis Rijersz Schoonhoffman に率いられ、マカオの ポルトガル拠点(ギア要塞)を攻撃する。 しかし、事前準備が万全だったポルトガル軍の迎撃により、3分の1の兵員を失うという大惨敗を喫してしまう。 直後に、英国軍はオランダ側からの 情報漏れを疑い、双方は険悪ムードのまま連合解消となってしまう。 以後、英蘭関係も悪化の一途をたどり、1623年のアンボイナ事件へとつながるのだった(オランダが英国人らをインドネシアから追放する)
。
しかし
、
マカオ
攻略失敗により、東アジア進出計画がとん挫することを恐れた オランダ艦隊司令官 Cornelis Reijersz 提督は、副将の Kobenloet の提案を受け、 オランダ海軍の残存兵力だけで 澎湖諸島の強行占領を企図する。艦隊は同年 7月11日、20年前にオランダ船員らが一時滞在した、 澎湖本島の西側の半島部の丘上に上陸する。即効で全島支配と地形調査を完了し、8月1日、
媽宮湾の対岸部にある風櫃尾に 城塞 (中国人から紅毛城と総称された)の建造をスタートし
、実効支配を強行するのだった(この時、明朝は財政難もあり、列島に駐留軍を配置していなかった)。 同時に、明朝へ長期の土地貸借を願い出て、通商関係の確立を図ることとなる。
しかし、当時の 福建巡撫・商周祚(生没年不詳。
紹興
会稽県出身。1601年に科挙に合格後、 邵武県長官などを歴任し、その政治手腕を高く評価され、朝廷内で太仆寺少卿へと出世する。 1620年に都察院右僉都御史を経て、福建巡撫に着任していた。海賊退治など治安回復で功績を挙げていた)は許可を与えず、澎湖諸島から立ち退き、 台湾島へ移った後に、交易交渉を再開するようにという一方的な回答を繰り返すのみであった。ついに痺れを切らしたオランダ方は自軍の軍事力を誇示すべく、 同年 10月中旬、
アモイ港
に 停泊していた明朝の軍船 70~80隻を砲撃して破壊し、
漳州
の水軍基地を封鎖して、 海上部隊の動きを封じ込める強硬作戦に打って出る。こうしたオランダ方の素早い作戦行動と圧倒的な軍事力に対し、明朝は単に口頭で抗議する他なかった。
11月1日、福建省の密貿易商人を通じた裏工作により、明側とオランダ側との接触が急速に進むこととなる。11月15日、オランダ艦隊の司令官 Krystian Frans の率いる 2隻の軍艦が
アモイ港
に上陸し、 直接交渉をスタートするも、会議後の酒宴の場で総兵の謝弘儀が毒をもって司令官 Krystian Frans らを捕縛すると、 同時に 守備・王夢熊が入港中のオランダ軍船に火船を突入させる。1隻はそのまま延焼、沈没してしまうも、もう 1隻はかろうじてアモイ港から離脱することに成功する。 そのまま拘束された司令官 Krystian Frans は、 最終的に
北京
へ連行され、 西市で処刑されることとなった。
こうして対立が決定となった明朝、オランダ双方であったが、 それぞれ臨戦態勢をとりつつも、オランダ方は密貿易業者を通じて、引き続き、 明朝や日本との貿易を継続していた。
オランダの実効支配や 通商関係の既成事実化を恐れた明朝廷は、福建巡撫・商周祚に完全排除を厳命するも、明朝も末期に至り、 中央も地方も財政事情は最悪であった。商周祚はとりあえず、福建南路副総兵の張嘉策へそのまま朝廷命令を丸投げするも、 武器や食料、兵士も全く手配されない中、現場は機能不全に陥ってしまう。 一連の対応を監督していた、南京湖広道御史の游鳳翔が「外国船の取締りは未徹底、 オランダ人の城塞もそのまま放置、ますます不法上陸する外国人の数が増えている」と痛烈に批判して朝廷に伝えると、現場指揮官の張嘉策は罷免され、 代わりに、名将・俞大猷(1503~1579年。倭寇討伐で名を馳せた)の子である 俞咨皋 (生没年不詳。
福建省泉州市
晋江市出身。父から文武両道を叩き込まれ、1602年に武挙に合格後、父の功績もあり、指揮僉事、福建海壇参将などを歴任)が、福浙副総兵に指名される。
さらに翌 1623年2月、商周祚に代わり、 南居益(下絵図。1565~1644年。
陝西省渭南市
出身。進士・南憲仲の子として生まれ、 自身も 1601年に科挙に合格すると、刑部主事、広平府長官、山西提学副使、 雁門参政、按察使、左右布政使などを歴任し、1622年に太仆寺卿、翌 1623年には 右副都御史へ昇進したばかりであった)が、福建巡撫に指名され、赴任してくることとなった。
南居益は当時、福建省沿岸で勢力を張っていた 武装密貿易集団・顔思斉や 鄭芝龍(1604~1661年。鄭成功の父)らの協力を取り付け、 強力なオランダ勢力に対抗する。鄭芝龍はオランダ人が澎湖諸島に拠点を構えた直後、 配下の二隻の商船をオランダ方に拿捕されたままとなっており、明朝と組んで共通の 敵・オランダ人の排除に協力したのだった。
澎湖諸島の戦い
1624年2月、福建巡撫・南居益は最前線基地の金門にまで移動し、 明軍(総兵力 1万人余、兵船 200隻 ー 輸送船、大砲船を含む)を集結させる。
2月8日、鄭芝龍らの明朝方の武装海賊商人らにオランダ方をけん制させる間に、 福建総兵の俞咨皋、守備の王梦熊らが大船団を率いて金門を出航し、
澎湖諸島の白沙島東部にある鎮海港
への上陸に成功する。
当時、オランダ占領軍は、最初に上陸した西側半島(現在の 大城北砲台【別名:拱北砲台】遺跡のあたり。澎湖本島で最も標高が高い丘で、 戦後、紅毛と呼ばれたオランダ人の城塞跡地という意味で、紅木埕や紅火埕 と称されるようになっていた)と、嵵裡(今の 嵵里にある紗帽山上)、そして、
風櫃尾
の三か所に城塞を建造しており、水兵 900余名と軍艦 13隻 たらずで守備していたわけであるが、明軍の二面攻撃で不意を突かれたオランダ守備軍は戦線を縮小させるべく、二か所の城塞を放棄して、風櫃尾の城塞まで撤退し、 防衛戦に徹することとなった。このオランダ方の城塞は堅牢で、かつ戦艦らも加わって応戦されたため、明軍はその火力の前に、なかなか攻略することがかなわなかった。
7月、南居益はさらなる援軍を派遣し、大砲部隊の支援の下、明軍は総攻撃を展開する。
風櫃尾にあったオランダ城塞側も果敢に応戦を繰り返し、 両者一歩も引かない消耗戦の局面が続く
。
8月、明軍はさらに増派部隊を派遣し、兵を三路に分けて進軍する。 無尽蔵に押し寄せる明軍に対し、オランダ軍はいよいよ孤立してしまい、 度々、バタビア(インドネシア)の 東インド会社本部に救援を要請するも、 明朝との交戦を望まない本部から一切の援軍は見込めない状態にあり、双方は苦しい我慢比べを強いられることとなる。
明側も、戦線の膠着状態が続く中、この 8月までの戦闘でその軍事費は総額 17万7000両(銀貨)あまりにも達しており、 ただでさえ、火の車の国家財政にその負担はかなり重荷となっていた。 澎湖諸島の前線を指揮した俞咨皋も、南居益に軍費の催促を度々打診しており、 明軍も戦争続行が困難となっていく。
あわせて、明朝とオランダ軍は台湾海峡を軍事封鎖しており、 中国福建省や台湾から日本への交易取引にも悪影響を及ぼしており、 これに絡む商人らを困惑させていた。
この封鎖をやめさせたい、泉州に根城を構える最大の 武装商船団リーダー李旦が裏工作を進め、明とオランダとの再交渉の場が設定される。 オランダ方の新任司令官であった Martinus Sonck は澎湖諸島からの撤退に同意し、 代わりに台湾本島南部への移転で合意を勝ち取る。
こうしてオランダ軍は残余艦隊と兵士らを連れて、 8月26日に澎湖諸島を出航し、台湾島へ撤退することとなる(自軍の城塞は完全に破却し、 その資材ごと台湾へ移送した)。 2年間の澎湖諸島での実効占領と引き換えに、オランダが得たものは台湾本島と中国との正式通商という本望であり、 以後、オランダは本格的な台湾統治に注力するようになる
。
明朝という国家と東インド会社という一多国籍企業との戦争は、 最終的に違法な海賊集団により調停が成立し得たことは、皮肉な結果と言えよう。
その後、オランダ人排除の功績を称えられた 南居益は、翌 1625年に中央朝廷へ復帰し、 工部右侍郎、総督河道に昇進する。しかし、魏忠賢、黄承昊から政治的讒言を受け、 すぐに罷免されてしまうのだった。1628年に再度、朝廷に復職すると、 戸部右侍郎に就任し、朝廷に対し、さらなる軍備増強を提起する。 工部尚書の張鳳翔が兵器入手に不手際があり投獄されると、 南居益が代理で工部尚書をも兼務した。しかし間もなく、 兵部尚書の梁廷棟の弾劾により、郎中の王守履が失脚させられると、南居益もその政党一味と 目されたため、再び、朝廷から追放される。そのまま 故郷・
陕西省渭南市
に 戻るも、間もなく、渭南城が反乱軍の攻撃を受ける。この防衛戦に協力したことから、 官職への復帰を許される。しかし、1643年に農民反乱を指揮した李自成が 自ら渭南城を攻撃し占領すると、南居益に投降を打診するも拒絶し、 翌年 1月、一族の南居業とともに絶食して自宅で死亡したのだった。著書も多く残した文化人でもあった。 『晋政略』、『年譜』、『致爽堂詩』、『青箱堂集』など。
他方、前福建巡撫だった商周祚は、1625年に再び兵部右侍郎として登用され、 両広総督に着任する。翌 1626年、兵部尚書へ昇進するも、年老いた母の介抱のため帰郷を願い出て、10年ほど政界から離れることとなる。 1637年、再び都察院右僉都御史として復職し、朝廷内で手腕を発揮した。質素倹約家で、趣味の書道に没頭し、自宅には何も高価なものがなかったという。
こうして明朝は威信を示し、
澎湖諸島
の支配を世界に明示することに成功するも、 代わりに台湾島はオランダの実効支配が黙認されることとなった。
その後、オランダは台湾南部に拠点を開設し直し、 北部を占領中だったスペイン勢力を駆逐して、台湾全土の支配を確立させる
。
台南エリアに移転した後も、オランダ東インド会社は澎湖諸島が東アジア交易で重要拠点である、という認識を持ち続けており、現地の官吏に賄賂を渡して、 澎湖諸島の媽宮港での交易活動を継続していくこととなる。当時、オランダ商船は台湾本島から 鹿肉、砂糖、塩、酒をなどを持ち込み、 澎湖諸島から 豚、牛、羊などの家畜を購入していたという。特にこの通商の過程で、オランダ人によって台湾本島に持ち込まれた黄牛は、 後世、台湾での農地開墾で非常に重宝されていくこととなる。 また、オランダの台湾移転後、福建省最大の武装船団を率いた 鄭芝龍も急接近することとなり、 両者はこの国際的な東シナ海交易で莫大な利益を手にしたという。
しかし、明朝、オランダ方ともに、そんな平和な日々を長くは維持できなかった。
1644年に明王朝が滅亡し、満州族によって中国全土が戦火に巻き込まれると、 1661年、南明政権から延平郡王に任じられていた 鄭成功(1624~1662年)が台湾島に上陸してくる。 当地の支配権をめぐってオランダ勢力と 1年にも及ぶ激戦の末、 台湾島を接収した鄭成功が鄭氏政権を樹立すると、 その王都を旧オランダ方の城塞が立地した
承天府(今の 台南市内に残る赤崁楼)
に定める。
このとき、大陸中国との中継地点としての役割を期待された澎湖諸島には、澎湖安撫司が設置される(下地図)。
この台湾島をめぐる戦いでも バタビア(インドネシア)の オランダ東インド会社本部は一切、現地軍へ援軍を派遣せず、傍観するのみであった。
その後
、鄭氏政権の 二代目頭領(延平郡王)を継承した鄭経は、
1674年の三藩の乱に乗じて 福建や広東省沿岸を占領し勢力を拡大するも、 1676年10月に 靖南王・耿精忠との連携を失い、そのまま大陸側の 全勢力圏(アモイ、金門島を含む)を喪失して、 本拠地の台湾へ撤退する(1680年)
。 翌年 2月に 40歳の若さで病死すると(中風が原因)、三代目頭領として幼い 鄭克塽(12歳)が擁立される。
1681年に呉三桂の 孫・呉世璠の残存勢力を壊滅させ、 三藩の乱を平定した清朝は
、いよいよ鄭氏政権の籠る台湾への遠征準備にとりかかる。
清朝廷より総大将に任じられた福建水師提督の 施琅(1621~1696年。もともと鄭成功の部下だったが、清軍に投降したため、 鄭成功によって家族全員が処刑され、鄭氏政権に恨みを抱いていた)に 1683年6月17日、いよいよ朝廷より渡海作戦の勅令が下る。
他方で、大陸側の拠点をすべて喪失していた鄭氏政権側は、最前線基地となっていた澎整諸島の防備を強化すべく、最高軍事司令官・劉国軒(1629~1693年)の率いる 主力軍を配置する。清軍の上陸を阻止すべく、
娘媽宮(今の文澳地区)
、
風櫃尾(蛇頭山)
、
四角嶼島
、
鷄籠嶼島
の 4箇所に城塞が、 東蒔、西蒔、内塹、外塹、西嶼頭、牛心山の 6箇所に砲台陣地が、 その他 2箇所に火器を配備した防壁が建造される(下地図)。
その主力陣地を担ったのが、 旧オランダ城塞跡を修築した 風櫃尾(蛇頭山)の砲台陣地であった
(
当時の最大集落地で、澎湖安撫司が開設されていた 娘媽宮
が立地する媽宮湾の入り口を守備した)。
澎湖海戦
1683年に入って、清軍の侵攻準備が進められていることを察知した鄭氏政権側の 軍事司令官・劉国軒は、台湾本島で予備兵らの招集と 民間船の徴用を行い、 大小 200隻の艦船と 総員 13,000名の兵士らを澎湖諸島に集結させる。
1683年7月8日、清軍側の施琅が、前線基地の 東山島、銅山エリアから、238隻の軍船と総勢 24,000名の兵員を率いて出発すると
、翌 9日、台湾側の偵察船が 澎湖列島南端の花嶼島と 猫嶼島一帯に清軍が出現したことを発見し、 大至急、劉国軒ら本部に伝達される。同日夜、清軍は 八単島(今の 望安島)に停泊し、拠点を構える(下地図)。
翌 7月10日、清軍は台湾側の本陣が開設されていた娘媽宮への攻撃を開始し、まずは軽装備で小回りの利く 鳥船(木造帆船タイプ)を先方隊として派遣する。 しかし、向かい風のあおりを受け、戦列が乱れて、台湾側に各個撃破されてしまう。
清側は続いて第二軍を派遣するも、交戦中に満潮が始まると、清側の艦船が海岸線へと流される事態となり、 台湾方は艦隊を二手に分けて両面から挟み撃ちにする作戦をとる。この第二軍の危機を救出すべく、総司令官・施琅自らが本隊を率いて台湾軍に襲い掛かると、 その戦闘の最中に施琅が右眼を狙撃されるまでに手痛い敗北を喫する(失明には至らず)。
台湾方も前線の水軍部隊を率いた林升が負傷するに至り、攻勢の勢いが弱まると、清軍はいったん媽宮湾入口を離れ、西嶼島あたりまで退却することとなる。
翌 7月11日、清艦隊は再び 八単島(今の 望安島)の臨時本営へ帰還するも、八単島は大量の艦船が安全に停泊できるような地形に恵まれず、 長期停泊には不向きな場所であった。
本来ならば、夏季シーズンには台風襲来が重なるものだったが、 清軍は幸いにもその直撃を受けることなく、ここから一週間の休息を取ることとなる。
同日、台湾方の 総司令官・劉国軒自らが船団を率いて、 八単島にある清方の本陣を攻撃するも撃退される。
翌12日、清軍は澎湖本島のすぐ外側に立地した 虎井嶼島と桶盤嶼島を占領する。
いよいよ 7月16日早朝 7時、清軍は軍を 3方面に分けて総攻撃を決行する。
総司令官・施琅が自ら本隊を率いて 娘媽宮への正面攻撃を行う一方で、 右軍は澎湖本島の東側にある 東蒔、
四角嶼島
、
鷄籠嶼島
などを 攻め、本軍と媽宮湾で合流することとされる。また、左軍は澎湖本島の西側の内塹と 牛心湾の防衛拠点を攻撃し、清軍の陽動部隊を構成した。下地図。
当時、すでに前夜から台風が接近しており、早朝にはすでに北西の風が吹き荒れていたという。
戦闘当初には、台湾方はこの風に乗って清軍本隊と優勢に渡り合い、清方の 将軍・朱天貴を射殺するなど、戦功を重ねていた。
しかし、正午を過ぎ、風向きが南風に変わると、これを背にした清軍が優勢となる。施琅は全軍に総攻撃を明じ、 数隻で台湾方の艦船を取り囲んで大砲で沈めるという手堅い作戦を展開すると、間もなく台湾艦隊は崩壊し、 その配下の 12,000名が死傷し、5,000余名が捕虜となる大損害を受ける。破損、沈没に追い込まれた艦船は 190隻余りにも達したという。
最高司令官の劉国軒は戦列を離れ、残余部隊を引き連れて北側の吼門から台湾本島へ脱出し、澎湖諸島内の各防衛陣地も清軍に投降することとなった。 この戦いで、清方の死者は 329名で、負傷兵は 1,800名余り、沈没船はゼロという圧勝だったとされる。
施琅は澎湖諸島を占領後、そのまま台湾水道を渡海して台湾本島に上陸するのは退路の問題など、リスクが高いと判断する。
時間をかけて台湾政権の内部崩壊を誘導すべく、 巧みな心理作戦を採用する。施琅は占領軍に対し、澎湖諸島内での殺傷を禁止し、住民らの治安を回復させる一方で、 台湾方の降将であった曾蜚を台湾へ送り込み、平和的解決策を説得させる。 さらに、台湾方の負傷兵らに治療を施し、衣服や食料などを与えて、台湾本島への帰還を許可する。
こうして台湾政権への間接的な圧迫は功を奏し、淡水防衛司令官の何佑が内通してくるなど、台湾方の分断に成功する。
鄭氏政権は フィリピン・ルソン島への逃亡で再起を図る案など、 議論が大紛糾するも、敗走してきた最高軍事司令官の劉国軒が「これ以上戦闘の続行は不可能」と強く主張し、ついに 9月5日、 鄭克塽以下、政権首脳は降伏を決意する。降伏の書状を携えた台湾方の使者が、澎湖諸島の施琅の本陣へ派遣される。
そして、9月3日、施琅の率いる清軍が台湾本島に上陸し、台湾住民ら一同が、10月8日までに辮髪して清朝に完全に服従する道を選ぶこととなった。 ここに鄭氏台湾は 22年の歴史に幕を閉じる。
当時すでに台湾側の経済・統治体制は崩壊しており、国力も下降の一途をたどっていたとされる。
長年の長期大陸遠征で政権内の国庫は底をついており、財政難に陥っていた最中、 1680年より連続で自然災害が発生し、租税である米生産高が激減してしまい、 台湾本島で食料価格が高騰していた。さらに大陸の勢力圏を喪失した打撃は大きく、 清朝が 1661年から導入していた遷界令により、大陸貿易が断絶し、台湾本島の日用品などの物価不足は ますます深刻化することとなった。
鄭氏政権は税収を上げて軍備強化を図るべく、台湾本島内の住民らに増税をかけるとともに、山間部の原住民らの平定、 彼らからの徴税と徴兵を強化する政策を推し進めると、ますます 民衆(当時の総人口は 5万人余り)の支持を失うこととなり、 台湾本島各地で民族対立、反政権抗争が頻発するようになる。 この時代、すでに鄭氏政権も末期状態に陥っていたというのが現実だった。
鄭氏政権
の滅亡後、清朝廷内では絶海の孤島にあった台湾島の放棄も議論されるも、 最高司令官として現地に渡海した施琅が強硬にその重要性を主張したため、 最終的にその直轄統治が決定され、清朝の版図下に組み込まれることとなる。 翌 1684年9月、承天府跡に台湾府が開設され、朝廷より 初代長官(福建分巡台湾廈門道)として周昌が派遣される(在任中は教育政策に注力するも、1686年に離任。翌年、王效宗が赴任する)。
なお、当時すでに台湾本島は 100年もの開発の歴史を有し、自給自足の経済も成立しており、中央朝廷に経済的負担を強いる場所ではなかったことが重要ポイントと言えよう。 しかし、最後まで清朝に抵抗した台湾島の住民に対し、清朝は本土の 2倍もの重税を課し、徹底的に抑圧政策を敷くこととなる。
また同時に澎湖諸島の重要性も再確認され、巡検司(県役所の下部組織)と 通判(行政長官)が継続して設置されることとなる。
本島の中心集落地であった 娘媽宮(今の文澳地区)
に引き続き、各役所が開設され、また
文石書院
なども開設されることとなった。
以後、清朝は澎湖諸島の守備に、2,000名の 兵士(主に福建省、広東省の出身者ら)を 三年交代の「班制」で駐留させる。 兵士の中には現地で所帯をもって定住する者も現れ、清代を通じて安定的に人口が増えていくこととなった。 彼らは出身地ごとに地元神を祀る廟所やお堂を設置して、同郷会的なコミュニティーを形成し、今日、目にする街中の多くの廟所へとつながっていくわけである。
なお、澎湖諸島の人口は先の明末の混乱期にすでに激増しており、福建省沿岸の
泉州
、
漳州
から 多くの貧しい移民らが渡海し、列島の方々に出身地ごとに集落地を形成していた。特に大規模な移民となったのが、 1662年に鄭成功が大陸中国と台湾との両岸で 勢力圏を形成したときで、大陸側の窓口となった 金門や
銅山
エリアの住民らが多く渡海したと言われる。
また清朝は澎湖諸島の防衛ラインも再整理し、鄭氏政権により改修されていた 風櫃尾(蛇頭山)の砲台陣地も再利用することとなる。 同陣地は 1717年にさらに増強工事が施され、狼煙台と数棟の兵舎が増築される。そのまま清末まで重要拠点として使用され続けた。
清代を通じ、
元代から脈々と中心集落を担った 暗澳(清代に娘媽宮の町から改称。現在の 文澳地区)エリア
の 海岸部が土砂で埋まり、 船の接岸が困難となっていく。これに反比例して、西部の半島部にあった
天后宮(清代に媽祖宮から改称される)
の麓に形成されだした港湾地区が 新興エリアとして台頭することとなった。
清朝もこれを追認するがごとく、この新興地区に武官庁署や軍事施設などを開設すると、 その周囲の街並みは一気に拡大し、七街一市の市街地が誕生する。逆に旧市街地はますます寂れていった。 こうした斜陽の集落地を 人々は「暗澳」町と呼ぶようになったのかもしれない(下のフランス占領軍が作成した地図で AMO という地名で記されている)。
時は下って
1884年1月
、ベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が勃発すると、 フランスは陸軍をベトナムと中国国境へ、海軍を広東省、福建省沿岸へ派遣してくる。
フランス海軍の澎湖諸島占領
清国海軍を追撃して 馬江海戦(福建省福州市)で勝利した フランス艦隊は、
その残存兵力がこもる寧波近郊の鎮海まで北上してくるも、1885年3月3日、 必死で応戦する清方の砲撃でフランス艦隊も損害を受け
、有力な寄港地を求めて、いったん
台湾北部の基隆
へ移動することとなる。
中国側の記録では、この鎮海沖の戦いで フランス艦隊司令官の アメデ・クールベ中将が負傷したとされ、その療養先を探して台湾北部へ撤退したと解釈されている。
その真偽は不明だが、実際にクールベ中将は同年 6月11日に死去することとなる(享年 58歳)。
8か月にわたる戦闘を経て基隆を一時占領するも
、まだまだ陸上兵力を温存する清軍の奇襲リスクもあり、長期寄港には不向きと判断され、フランス海軍は防備が手薄となっている澎湖諸島へターゲットを変更する。
同月 29日朝 7時、突如、フランス艦隊一行が澎湖沖に出現し、 媽宮湾を守備した 風櫃尾(蛇頭山)砲台陣地に艦砲射撃を加えると、 兵器の性能差から守備隊らは全く歯が立たず、砲台陣地を放棄・潰走し、朝 8時ごろには占領されてしまう。
この戦いを皮切りに 3日間の戦いで圧勝したフランス軍は 31日、完全占領を宣言する。
これ以降、フランス海軍の動きは完全に休止し、澎湖諸島に停泊し続けることとなった。
下地図は、この占領戦の傍ら、フランス海軍が実地調査して作成した 澎湖諸島の詳細な地形図。
実際に、鎮海沖海戦や台湾島での戦闘で フランス海軍は多くの負傷兵を抱えていた可能性もあり、 また、十分な戦力を持ちながら、この不可解な長期停泊をした事実から、 やはりクールベ中将は 3月3日の鎮海沖の海戦で負傷を負っていた可能性も十分に考えられる。
その後の事実では、列島内の食事や水が船員らにあわずに疫病が蔓延し、 1000名近い兵士らがこの澎湖諸島内で死去したという。 その慰霊塔が、
風櫃尾(蛇頭山)にあるフランス軍兵士の 慰霊塔「萬人塚」
である。
また、
馬公市街残る、アメデ・クールベ中将と 二人の指揮官の墓碑は、 今も残されている(馬公市バスターミナル の向かい)
。
6月9日に天津条約が締結されたのを機に、フランス海軍は同月中に澎湖諸島から撤退している。
フランス軍撤退後
、清朝は再び澎湖諸島を接収し、その防衛力の再強化を図る。 当時、主力基地だった
風櫃尾(蛇頭山)砲台陣地
と
西嶼島の西砲台
が急ピッチで増強され、 さらに
西嶼島の東砲台
や
金亀山砲台
などが新たに設置されていった。
また、媽宮地区に開設していた軍司令部などの防衛力も増強すべく、 市街地全体を城壁で取り囲む大工事が着手される。ついに 1889年、媽宮城が完成すると、
暗澳の 旧市街地(今の 文澳地区)から 澎湖庁通判衛門(県役所の下部組織)の役所も城内へ移転されるに至り
、媽宮地区は澎湖諸島の 軍事、 経済、政治の中枢として名実ともにその地位を確立することとなる。 以後、日本植民地時代、中華民国時代を通じて、この媽宮城エリアが中心都市として君臨し続けた。
しかし
、その完成からわずか 6年後、日本軍が
媽宮城
を占領し、澎湖諸島一帯を占有することになるのだが。。。
日清戦争における日本軍の台湾攻略戦
1894年、李氏朝鮮の宗主権を巡り、日本と清朝の対立が決定的となると、 日清戦争が勃発する。大陸中国では 1894年で戦闘がほぼ集結したため「甲午戦争(干支の年号)」と通称されているが、 台湾では「乙未抗日の役」と呼ばれており、干支(六十甲子)の順番で次の年、 すなわち 1895年に日本軍の侵攻を受けたことが大きく影響されている。
日清戦争の経過
1894年
6月10日、日本軍が李氏朝鮮の 王都・漢城(ソウル市)に入城する
7月25日、日本、清朝の両海軍が 豊島の海戦で戦火を交える
7月29日、日本、清朝の両陸軍が ソウル郊外の成歓で激突する
8月1日、日清両国が 正式に宣戦布告する
9月15日、平壌の戦い
9月17日、黄海海戦
9月21日、清軍が 200 km戦線を下げ、国境線の鴨緑江まで撤退する
9月下旬~11月中旬、清軍の鴨緑江防衛ラインが突破され、遼東半島一帯に日本軍が侵入する
11月21日、旅順陥落
1895年
1月、日本軍が遼東半島の完全占領を宣言する
2月9日、日本軍、威海衛海戦で北洋艦隊をせん滅する
2月12日、清朝廷内が和議が決定され、外交官・張蔭桓と 湖南巡撫・邵友濂が 全権特使として来日するも、
全権委任状の不備のため日本側に拒否される
3月20日、続いて、李鴻章が全権特使として来日し、下関で終戦交渉がスタートする
3月24日、日本軍が澎湖諸島に上陸する
3月26日、日本軍が澎湖諸島を完全に占領する
3月下旬~4月中旬、日本首相・伊藤博文と 清朝全権の李鴻章が 5回にわたり直接交渉する
4月17日、下関条約(中国名は馬関条約)が締結される
5月8日、下関条約が発効する
1895年4月17日に下関条約が締結されると、その 2日後、台湾本島にその領土割譲の一報が届く。 島内は騒然となり、官僚や知識層らが朝廷へ抗議の上奏文を発するとともに、 4月20日には市民の抗議デモが決行されるも、その決定は覆ることはなかった。
条約上は台湾割譲が認められたとは言え、いまだ実効支配できたわけではなかった日本軍は、 台湾本島内の反日運動を警戒し、その上陸作戦を慎重に進めることとなる。
当初、日本軍は
淡水
か、
基隆
からの上陸を計画するも、 台北に近い淡水港はすでに土砂の堆積が続き艦船の 停泊、接岸が困難となっており、また 淡水、基隆共に清仏戦争を経て、清朝により強固な砲台陣地が建造されており、 日本軍の正面突破には困難が予想されていた。
このため、防備が手薄であった台湾東海岸の三貂湾にある 澳底(現在の 台湾新北市貢寮区三貂角)を上陸地点に定める。 5月29日、旅順と大連を出航し、琉球の中城湾を経て再編された 北白川宮能久親王の率いる近衛師団が、三貂湾から上陸し、 澳底にあった清軍の簡易な防衛施設を無血で占領し、上陸作戦を成功させる。
澳底上陸後、近衛師団はそのまま
基隆
へ陸軍を進軍させ、 また海上からは海軍が基隆港へ侵入する。途中、瑞芳など山間部で民兵らの抵抗に遭遇するも順当に制圧し、 6月3日に基隆への総攻撃を計画する。清兵らは砲台陣地に立てこもって抵抗を試みるも、 日本海軍の昼夜を問わない艦砲射撃と、基隆と台北間の交通の要衝だった 獅球嶺砲台陣地が陥落されると、 そのまま清兵らは 鉄道伝い(獅球嶺トンネル経由)に
台北城
まで 這う這うの体で逃げ帰ることとなる。
台湾民主国の樹立まで宣言していた 唐景崧(1841~1903年)も 6月4日に逃亡してしまい、台北城は無法地帯と化す。 城内の富裕市民らが治安の悪化を嘆き、日本軍の早期入城を望んだため、6月7日、 日本軍は台北城の無血入城に成功する。6月17日に樺山資紀が台湾総督に就任する。
続いて 6月19日、西に隣接する
新竹城
を武力制圧した日本軍は、 さらに南下して抵抗する地元集団を掃討しながら 占領地を拡大し、8月24日に
台中
も 平定する。8月28日に
彰化城
下で最大規模の抵抗を受けたため、急遽、 澎湖諸島に駐留中の軍も集結させて、台湾南部の平定戦を急ピッチで進める作戦へ変更される。
時間を少し遡ることおよそ半年前、下関条約交渉の真っただ中の 3月下旬、首相・伊藤博文は日本軍がすでに威海衛と 北洋艦隊を壊滅させており、 制海権を握ったまま台湾の実効支配を既成事実化させようと、急遽、遼東半島の諸軍から南征軍を組成し、 第一連隊長・比志島義輝 を司令官として澎湖諸島へ派兵していた。
3月23日、日本軍艦と澎湖諸島の清軍守備隊との間で 砲撃戦がスタートし、 大武山の戦い、大城北の戦い、
媽宮城の戦い
、
西嶼の戦い
など 3日間の攻防戦を 経て、ついに清軍の守備隊の主だった司令官らは台湾本島へ逃亡してしまい、 残された兵士らは投降に追い込まれる。清軍の士気の低さと、各守備隊の連携不足、 訓練不足などが原因と指摘されており、3月26日、日本は澎湖列島を完全掌握に成功する。
引き続き、清朝との最前線地帯ということで、占領直後より、 清軍の放棄した砲台陣地群を修築し、補強工事を進めていたのだが、 下関条約で終戦が決定されると、そのまま占領を続行し、同年 10月には同島駐留軍も台湾本島へ出撃することとなる。
こうして増員された日本軍は続く一週間の間に 台湾島南部の諸勢力を鎮圧し、10月21日、 最後に残っていた
台南府城
への総攻撃を準備するも、 清朝の守備兵らは逃走してしまい、そのまま日本軍の無血入城が成る。
11月18日、台湾総督・樺山資紀(1837~1922年)が 台湾全島平定を宣言する。
日本軍
は澎湖諸島の占領直後より内政にも力を入れ、 未だ下関で講和会議中の 1895年3月、元海軍少将で退官中だった 田中綱常(1842~1903年)が澎湖列島行政庁長官に任命されるも、 同年 5月に台北県知事へ異動すると(彼は翌 1896年に本土へ戻り、同年 9月に貴族院議員に勅選され、そのまま余生を過ごすこととなった)、 直後の同年 6月、澎湖島庁が新設され、島司として宮内盛高が派遣されてくることとなった。 翌 9月に伊集院兼良が引き継ぐと、1897年5月に澎湖庁へ改編され、伊集院兼良がそのまま初代庁長に就任する。
以後、日本領域の最南西端という特異なロケーションと、天然の要害を方々に有する澎湖諸島は、 日本軍の前線基地として高度に開発が進められることとなった。
また、台湾や大陸中国との交易拠点としても重視し、媽宮古城エリアの港湾地区を大規模に開発することとなる。こうして城壁の撤去が早々に着手されると、 その石材類はそのまま海岸部の埋め立てに援用され、港湾地区の整備が急ピッチで進められた(当初は南面と東面の海外沿いの 城壁、城門だけが撤去されるも、 最終的に
北面城壁 や 北門【拱辰門】
も戦時中の 1939年に撤去される)。
新興開発エリアとなった港湾地区はにぎやかな商店街へと変貌し、 大久保百貨、大阪商船株式会社などが店舗や事務所を構えた。この地区は当時、「南町」「宮内町」と命名され、現在の 中央街、民族路、中山路、中正路の 一帯に相当する。日本式家屋が連なる歓楽街も形成され、馬公地区の中心部として名実ともにその地位を確立していく。
同時に旧市街地も大規模に改造され、日本海軍基地、陸軍司令部などの軍関連庁舎から、郵便局、水道局、病院、私立学校などが整備されていく。 この頃、媽宮地区は馬公地区へと改称されるに至る。
しかし、澎湖諸島の秋と冬の半年間は波風が強く、農作業や漁業活動も滞り、毎年、 品不足となって日常品が高騰することが 清代より常態化していた。このため、冬季の半年間は台湾南部や大陸中国の
潮州
方面へ出稼ぎに出る住民が多く、 また春先に諸島へ戻ってくるパターンが繰り返されてきた。
日清戦争後に台湾本島の産業開発が日本政府によりに着手されると、 その出稼ぎ労働はますます活発化し、1926年時点では全人口の 3分の1が、 昭和期には半分の島民が出稼ぎ労働を常とするようになる。特に、
高雄市
の都市開発には多くの澎湖島民らが関わったという。 このため、高雄市内で澎湖出身者の コミュニティ「澎湖社」が形成されるようになり、 その心理的拠り所として 澎湖廟という廟所まで開設されるに至る。
島内では、出稼ぎで離ればなれになる家族の悲哀を歌った民謡が語り継がれているという。
1937年
、日中戦争が勃発すると、日本海軍は澎湖諸島に艦隊基地を設け、 中国の
広東省
や
汕頭
への攻撃の前線基地として重視するようになる。
他方で住民らは食料増産を奨励され、また学校の生徒らは防空壕掘りなどに駆り出されるようになっていく。
1941年末に太平洋戦争が勃発すると、日本軍の戦況は日々に悪化し、1944年10月12日には澎湖諸島も初めて米軍の空襲を受けることになる。 以後も度々、単発的な空襲にさらされ続けた。
写真は 1945年4月8日の空襲時のもので、日本の最南西端の空軍基地であった 豬母水飛行場を中心に、米軍の攻撃を受けている様子(今の 山水ビーチあたり)。
同年 8月の日本の敗戦後、台湾本島と澎湖諸島が共に中華民国へ返還されると、 直後に澎湖県が新設され、県役所は馬公鎮内の旧澎湖庁舎に開設される。 澎湖諸島内にあった旧日本軍の防衛施設は放棄され、一部のみが中華民国軍により大規模改修され軍事基地として再利用されることとなった。
1981年に馬公鎮が馬公市へ改編される。現在、埋め立てなどにより全市域の総面積は約 127 m2に拡大しており、 その住民は 100%が漢族で、最も多い出身地は
福建省泉州
出身者となっている。
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