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鹿港鎮
訪問日:20--年-月-旬
台湾 彰化県 鹿港鎮 ~ 鎮内人口 8.7万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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鹿港老街
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鹿港天后宮、城隍廟、興安宮、文武廟
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孔子廟
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鹿港民俗文物館
【 鹿港鎮の 外観 】
台中駅
前から「彰化客運(6933)」「中鹿客運(9018)」の 2つの路線バスが、鹿港まで運行されている(片道 2時間)
清代を通じ、鹿港は台湾島内で
台南府城
に次ぎ、第二の港湾都市として繁栄を謳歌してきた。当時、台湾島内では、一府(
台南
)、二鹿(鹿港)、三艋舺(
台北市万華区
)と並び称されており、 この「二鹿」こそが、港町・鹿港を指していた。下地図。
1784年、海禁政策の緩和にともない、福建省の 蚶江(上地図。今の
泉州市
石獅市。 南宋時代や元代より、海上シルクロード都市の一つを成す、泉州府下の最大港町)との間で、 公的な渡海ルートが確立されると(海禁政策下の清代にあって、最初の公認ルートとなる)、 鹿港は大陸中国との交易窓口として、大いに繁栄したという(上地図)。
また当時、
諸羅県
や
彰化県
下 から台湾島北部へ移動する際、陸上の街道利用よりも、鹿港から海路を移動するルートが一般的であった。
1683年に鄭氏政権を下し、台湾島を併合した清朝は
、 鹿仔港(鹿港)の重要性に目を付け、1695年、台湾水軍左営の一部隊を駐留させる。 すでに鄭氏政権~清朝併合直後にかけて、一定規模の港町が存在していたことが窺い知れる事実だろう。 以降、新設された彰化県の行政区に属した。
しかし、19世紀末になると、港湾地区が土砂の堆積で使用不能となり、巨大船舶が鹿港の西 4 kmにある冲西港へ迂回するようになると、その落日が始まる。 日本が植民地化した直後の 1898年には、冲西港も土砂堆積により使用不応となり、北西 6 kmにあった福隆港で小舟や 筏に積み荷が移されて、 引き続き、鹿港経由で台湾各地へ配送されていたのだった。 だが、
台中市
に鉄道が敷設され、 陸路交通が発展すると、鹿港の役割もついに終焉に追い込まれる。
なお、この「鹿」の漢字であるが、オランダ人が台湾島を領有していた時代、 台湾東部の平原地帯には平埔族系のバブザ族が生息し、彼らが鹿皮の交易に従事していたことに由来している。
当時、最大級集落の一つ、タウリナップ(今日の 彰化県福興郷番社村)には、200名ほどの住民がいたという。 オランダ人の記述によると、馬芝遴社内の習わしでは、婦人は頭上にニワトリの羽毛を刺して簪とし、これを美の象徴としていたという。 さらに周囲には、他にも大小さまざまな集落地が点在し、そのテリトリーは、今日の 鹿港鎮、福興郷、埔鹽郷の全域と 秀水郷の西部に及んでいた。 現在、菜園角遺跡群と総称される古代集落遺跡である。その中でも最大級だったウリナップ集落は、中国語で「馬芝遴社」と訳され、 鄭氏政権時代の地図にもしっかりと記載されている(上地図)。
清代の 1720年代、大量の中華系移民が
彰化県
エリアに移住し土地開墾に従事する。 その過程で、馬芝遴社の原住民が有した土地の一部も中華系によって購入されたり、 また一部の土地を中華系移民に貸し出して地代を取るなど、両者は共存する体制が整えられていく。しかし、原住民社会も徐々に中華文化に染まっていく中、 1850年後半、馬芝遴社の一部が洪水を受けて、集落の維持が困難となると、 多くの人々が埔里鎮の都市部へと移住してしまう。その後も馬芝遴社内に残留し続けた原住民系と 中華系移民との通婚はますます進み、 日本統治時代の 1909年に実施された人口統計では、両者の区別はつかなくなっていたという。
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