BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2014年6月中旬 / 2016年12月中旬 / 2018年12月上旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 基隆市 ~ 市内人口 38万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  台北から 基隆(キールン)への バス移動 40分(200円!)、基隆駅前の 海洋広場にて下車
  近代歴史遺産の 宝庫「基隆」が誇る、充実した 地元路線バス網(運賃一律 50円!)
  最も見どころ 遺跡が集うルート 101番路線バス ~ 海門天険(二沙湾砲台)で 下車する
  1885年の 清仏戦争遺跡 ~ フランス公墓(清法戦争紀念園区)
  【豆知識】清法戦争紀念園区 ■■■
  和平島に 上陸 ~ 社寮東砲台遺跡へ
  社寮東砲台から 東シナ海を一望する ~ この先に 沖縄県石垣島がある
  和平島の 今昔 ~ 漢人集落地から 造船の町へ
  和平島公園 ~ サン・サルバドル城(スペイン時代)/ 北オランダ城(オランダ時代)
  アヘン戦争前に建造されていた 古株の 砲台陣地、二沙湾砲台(海門天険公園)
  中正公園から 基隆の町を見渡す ~ 境内に自動車で 乗り入れられる!
  白米甕砲台遺跡Ⅰ ~ これまた山道が急だった。路線バスでは 訪問不能。。。
  白米甕砲台遺跡Ⅱ ~ 日露戦争前夜に 日本軍が大増強工事したままの姿が 残されていた
  基隆市の 歴史Ⅰ ~ 清末、鶏籠港 と 欧米列強
  基隆市の 歴史Ⅱ ~ 日本統治時代の基隆港 と 旧日本海軍基地、旧日本人町




台北 鉄道駅の東側にある 国光バスターミナル(桃園空港行バス発着所の横)から 基隆(キールン)行のバスに乗車する。 筆者は現地の交通カードを持っていなかったので、運賃は現金で支払いたいと申し出ると、下車時に 57 TWDを支払えばいいと言われた。

約 40分ほどのドライブ後、基隆駅前の海洋広場でバスを降ろされる。
海洋広場前に広がる港湾エリアには、巨大クルージング船や 台湾海軍の艦船が停泊していた。

基隆市 基隆市

そのまま海沿いに西進すると、地元の路線バスターミナル があった。ここで、当地の路線網を確認する(上写真)。

基隆市

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上の 501番路線バスのように、基隆駅裏手の山間部にある、獅球嶺砲台や 獅球嶺(劉銘伝)トンネル遺跡などを訪問できるバスルートもあったが、 これらは他の遺跡群からあまりに離れ過ぎているので、 とりあえず、今回は和平島と基隆駅前を往復する、101番路線バスを乗りこなすのが、最大公約数的に理想だと判断した(運賃は一律 15 TWD)。

基隆市

このルート上に、北白川宮能久親王紀念碑、台湾海軍基地、コンテナ・ターミナル(台湾では高雄に次ぎ、台湾第二位の取扱高を誇る)、 海門天険(二沙湾砲台遺跡)、要塞司令官邸、フランス公墓、頂石閣砲台遺跡、旧日本家屋(市長官邸【松浦社宅】)、槓子寮砲台遺跡、 そして和平島内の社寮東砲台遺跡と 造船所跡、和平島公園などが立地している。
なお、101番路線バス車内 は老人ホームの送迎バスのごとく、高齢者ばかりが乗客だった。



  北白川宮能久親王紀念碑

日清戦争(1894~95年)が終結すると、下関条約により台湾島を割譲した日本軍が上陸してくる。 その際、この台湾支配の 全権代表&初代台湾総督として 樺山資紀(1837~1922年)の現地入りが決定されると、 台湾島現地での民衆反乱や 治安維持を任されたのが、北白川宮能久親王の率いる近衛師団というわけであった。すでに皇国の一部となった台湾島に対し、 天皇直轄の近衛師団が威光堅持も兼ねて派遣されたわけである。こうして台湾島内の各地を転戦する過程で、 この基隆も制圧すると(6月3日)、翌 6月4~9日の間、 能久親王も自ら現地入りし、清朝の基隆税関長官のための官舎に投宿したという。 その跡地に設置された紀念碑、というわけだった。

なお、そもそも、この近衛師団であるが、その結成の始まりは、薩摩、長州、土佐三藩による軍事同盟軍であった。 1868年に 明治天皇(1852~1912年)を擁して王政復古大号令を発布し、徳川家に領地返上を命じると、 15目代将軍・徳川慶喜(1837~1913年)が 大阪へ出兵してくる。 明治天皇を囲った三藩は勤王を掲げ、京都近くの 鳥羽、伏見 で幕府軍を撃破すると、 そのまま錦の御旗を掲げて江戸へ東征することとなる。その後、江戸 を占領し、幕府を正式に倒壊させた後も、 各地の反政府勢力を駆逐すべく、この三藩は御親兵として転戦したのだった。

この時、初代近衛師団長となったのが、小松宮彰仁親王(1846~1903年。仁孝天皇の養子)であった。
彼はこの戊辰戦争時、奥羽征討総督として官軍を指揮し、1872年に 官軍(御親兵)が近衛兵へ改称されると、 その団長に就任する。この時、近衛兵団は 東京 に本部を置き、本郷、宇都宮、佐倉、水戸に支部を開設し、 四個連隊区が定められて、首都・東京の防衛軍とされたのだった。 以後、佐賀の乱(1874年)、西南戦争(1877年)にも出征し、1880年に近衛都督に任じられる。 1891年12月14日に近衛兵が近衛師団へ再編されるとそのまま同団長となり、1894年に日清戦争が勃発すると、 征清大総督に任じられ、近衛師団を率いて旅順に進駐する。 翌 1895年1月28日、大本営参謀総長となると、北白川宮能久親王が近衛師団長を継承する。

北白川宮能久親王は 1847年に 京都 で生まれ、 同じく 仁孝天皇(1800~1846年。120代目天皇)の養子となって、 北白川宮家 2代目当主を継承する。もともとは伏見宮邦家の第九子で、 明治天皇の叔父にあたり、皇位継承権は第二位であった。その高貴な立場から、 幕府派により奧羽越列藩同盟軍が結成されると、東武天皇として東北諸藩に擁立され、 現地入りする(一時的に、”東西朝時代”が成立していた)。 しかし、間もなく薩長連合軍によって敗れると、拘束されて京都で 出家・謹慎を命じられる。 1870年に特赦が出ると、そのまま陸軍に加わり、プロイセン へ留学した。
帰国後、步兵第 1~第 4連隊と、近衛野砲連隊の師団長を務める。間もなく日清戦争が始まると、 近衛師団長で征清大総督に任じられた小松宮彰仁親王に従って、旅順 へ進駐するも、 基本的には皇居守衛を専門とする近衛兵団は前線には出ることはなかった。そして下関条約締結後、 いよいよ近衛兵団の出番となり、台湾島の接収が委ねられたのだった。 こうして、2代目近衛師団長を継承した北白川宮能久親王が 台湾進駐軍の司令総監として、5月27日、旅順から台湾島へ出航するわけである。
5月29日に澳底から上陸後、近衛師団は破竹の勢いで進軍し、6月3日に基隆を占領、6月7日に 台北城 に入る。 この間に、北白川宮能久親王が一週間ほど、基隆に滞在したわけである(6月4~9日)。
6月17日、台北で台湾総督府が開設されると、さらに台湾南部の平定戦が着手され、6月22日に 新竹城、 8月26日に台中、8月29日に 彰化県城、10月5日に斗六、10月9日に 嘉義県城 を順次、攻略する。 10月19日、台湾民主国の軍事司令官に就任していた 劉永福(1837~1917年)も、 敗戦を悟って、夜間のうちに 安平港 から大陸側へ脱出すると、無抵抗となった 台南府城 は 10月21日、 乃木希典の率いる第二師団によって無血入城される(10月11日に先に屏東枋寮から上陸後、東港、鳳山県城 を占領しつつ、北上していた)。 こうして 149日間、存在した台湾民主国も滅亡に至るのだった。 乃木希典は以後、翌 1896年4月まで台南府城にとどまり、 台湾南部の守備司令官として現地統治を司っている。

10月27日、台湾総督の樺山資紀が「台湾全島の平定完了」を宣言するも、翌 10月28日、 北白川宮能久親王が現地伝染病により死去する。彼の死は、11月5日、日本軍によって正式発表される運びとなった。 悲嘆にくれる近衛師団であったが、11月より順次、日本への帰国の途に就くこととなる。 この一連の台湾平定戦において、日本軍の損害は戦死者 164人、負傷者 515人、疫病死者 4,642人で、 日本へ帰国してから回復した病床者 21,748人、台湾島内で回復した病床者 5,246人という結果であった。 日本軍は台湾島を割譲し統治を開始する際、台湾島内での現地部隊や住民らの武装蜂起が予測されていたため、 新団長になったばかりだった 北白川宮能久親王の率いる近衛師団を派遣し、早々の鎮圧を期待したわけだったが、 戦闘そのものよりも、台湾島の過酷な”夏”により、病気や 疲労に苦しめられたわけである。

そして、この現地感染病蔓延の犠牲者の一人として、近衛師団長・北白川宮能久親王も加えられたわけであるが、 その死因について、台湾島を中心に民間では多くの疑念が持たれていた。 新竹での牛埔山の戦いで、手近にあった武器だけを装備し傘下していた地元義勇軍伏兵によって狙撃された、もしくは 彰化県城脇の 八卦山・定軍要塞の伏兵に狙撃された、 と言われ、その傷がもとで戦争終結前に死去していた、とも指摘されていた。 しかし、日本軍上層部は能久親王の死を隠蔽し、 台南府城 を攻略して 1週間後、 かつ台湾平定が植民地政府によって宣言された翌 10月28日に病死した、と報じたという説である。 確かに、あまりにタイミングが良すぎる、とも言えなくもない。

近衛師団長であった期間はわずかに 10ヵ月で、そのうち、台湾にいた時間は 5カ月に満たなかったが、 海外へ出征中に初めて現地死亡した皇族となった北白川宮能久親王は、死後、 敘功三級の授勳章を受け、陸軍大将へ昇格されると同時に、 その遺体は豊島岡墓地に移送されて国葬されることとなった。
以後、台湾植民地政府により、彼の神格化が推し進められることとなる。

能久親王の死後、彼を祀る神社開設論がすぐに巻き起こり、ついに 1901年10月27日、 台北 の 剣潭山(円山)の山頂に、 台湾総鎮守台湾神社が創建され主神として祀られる。また、一般参拝用として、その神殿前に明治橋が架橋されたのだった。 同時に、毎日 10月27日が鎮座日、 10月28日が親王祭を催す例祭日と定められ、台湾全島で一日、 祝日となり、台湾神社へ参拝する日に定められる。
第二次大戦後、神社は抗日烈士のための忠烈祠となり、北白川宮能久親王の神位は、北投にある善光寺へ移設される。 なお、能久親王は現在、日本の靖国神社にも合祀されている。

また、能久親王の死去した場所は、接収した 台南 地元豪商・呉汝祥の宅邸であったというが、 1920年、この邸宅が取り壊され、能久親王を主神とする台南神社が建立されることとなる。 1930年以降になると、ますます神格化が進められ、能久親王が移動したり、休憩したり、 投宿しただけの場所であっても、日本当局は最高レベルの史蹟紀念物に定め、その保護を厳命していくこととなった。 こうして、全台湾中に久能親王を祀る神社や記念碑が 60以上も建立される。
現存する史跡で言えば、日本軍が澳底塩寮から台湾島に上陸した翌日、北白川宮能久親王は海岸沿いの陣地に赴く際、 船上から椅子に座ったまま下船したという。その陸上に樺山資紀らが待ち構え、 日本軍の両巨頭が着陣したわけだが、後になってその陣地跡に木製の「日本軍澳底上陸紀念碑」が設置されることとなり、 翌 1896年4月には、花崗石で彫られた「北白川宮征討紀念碑」が設置されたのだった。 その上半部は、清軍から押収した砲弾を改鋳した鉄で作られていたという。

この一環で、基隆進駐の際に投宿した当地にも、能久親王の戦功を称える記念碑が建立された、というわけであった。 当時、ここは清朝の基隆税関長官の官舎があり、その建物を接収し、 6月4~9日の一週間ほど滞在していたわけだが、そのエピソードを神聖化し、1933年9月18日、 基隆市連合青年団団長だった桑原正夫が発起人となって資金集めが開始され、紀念碑の建立が進められたのだった。 これは、1935年10月に開催予定となっていた台湾博覧会の準備のため、前年の 1934年から元清朝税関長の官舎が郷土資料館へ建て替えされる工事にあわせて、 記念碑設置運動がスタートされていた。 最終的に、資料館内には多くの基隆に関係する歴史史料や 民俗文物などが展示されることとなり、 その庭先にコンクリ-ト製の記念碑が設けられ、正面に「北白川宮能久親王御遺蹟地」、 背面には台北帝国大学初代学長の 幣原坦(1870~1953年)の直筆で「仰皇猷」の三文字が刻まれたという。 さらに、紀念碑の後方にある山の壁面にも文言が刻まれ、 設置と同時に、政府指定史跡とされたのだった。

戦後になり、これらの展示物は国民党傘下の基隆税関が接収し、長い間、管理者も無く、 そのまま放置されたため、内部は荒廃し、多くの貴重な文物は破壊され、紛失されてしまっていた。
20世紀末、基隆市政府が建物自体を撤去することとなり、現在の復興館としてリニューアルされる。この工事の際、敷地内の建築物や古跡を調査していると、 土黄色に変色した北白川宮能親王紀念碑の上半分が発見され(下半分は土中と 瓦礫に埋もれた状態だった)、 一部は破損されていたものの、そのまま元の場所に再安置されることとなる。すぐに掘り出し作業が進められ、記念碑自体は無事に掘り出せたものの、 碑文はとうに破壊されてしまっており、回復不可能な状態であった。2002年、 地元政府より歴史遺産指定を受け、さらに 2005年5月に記念碑の修築が完成されると、 今日、その高さ 3 mのコンクリート記念碑が、我々の眼前に復活された、というわけだった。



まず最初に、海門天険のバス停で下車してみた。
ここから山道を 20分ほど登ったところに二沙湾砲台遺跡があるらしかったが、 ちょうど山道が 工事期間中(2019年2月まで)ということで、登山口が閉鎖されていた。この道が、後に山頂の海門天険広場とつながる登り階段となっているはずだった。。。。

初っ端から出足をくじかれたわけだが、その中正路沿いに要塞司令官邸跡と フランス公墓があったので、訪問してみる。

前者の司令官邸は今日、 何かの工場用地に代わり果てており、この壁面の案内板がなかったら(下写真左)、絶対にそれと判別できないほど周囲の住宅地に同化してしまっていた。

基隆市 基隆市


 基隆要塞司令官邸
要塞司令官邸は、もともと 基隆流水バス会社(1920年創業。 1936年、基隆乗合自動車会社へ改称)の社宅だった建物で、 当時の 社長・流水偉助が 1931年に建設していた。流水バスの事務所もこの北隣に立地していたという。
第二次大戦後、日本が撤収すると、大陸中国から国民党軍が上陸してくる。 その後、少将嶺(現在の 基隆市仁愛区愛四路あたりにある小山で、 日本統治時代にこう通称されていた。許梓桑古厝などの旧家屋が現存する)の麓に、 国民党進駐軍の司令官邸が建設されるも、1947年初春、台湾全土でニニ八事件に端を発する 民衆闘争が勃発すると、その戦火のあおりを受けて砲撃により大破されてしまう。 この代替施設として近隣で用地選定が行われ、白羽の矢が立ったのが、この流水社宅というわけだった。 騒動後、民家転用され李氏に賃貸されていた。 典型的な和洋折衷の日本式住宅で、近年まで日本式庭園を有する広大な戸建ての屋敷が残っていたという。



ちょうどその道路向かいに、フランス公墓(清法戦争紀念園区)があった。 この道路を渡るのが至難の業だったが、フランス国旗を彩る壁が特徴的だった。下写真。

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墓地内には、複数の記念碑や 墓標が立ち並んでいた。想像以上に広いスペースだった。
下写真左の石碑は、当時、澎湖諸島の 風櫃尾(蛇頭山)に建立された、 フランス墓地記念碑(現在の フランス軍萬人塚記念碑)と全く同型という。 この事実から、当地の石碑は日本統治時代に、澎湖諸島側と同時に建立された、と推定されている。

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下写真左は、1954年3月27日に 澎湖諸島のフランス人墓地 から移送された 2人の副官 ― 陸軍中尉 Louis Jehenne (享年 26歳)と事務官 Louis Dert(享年 35歳)の墓。

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一部には解説板が設置されていたが、解説がないものもあった。


 清法戦争紀念園区
1884~1885年に勃発した清仏戦争期間中、 10か月にわたって台湾北部で激戦が繰り広げられた。基隆港とその西部の山間エリアの五堵との間に構築された、清方の防衛陣地網をめぐり、 何度も砲撃戦が行われ、清仏双方ともに多くの戦死者を出したという。 台湾北部の占領を諦めたフランス軍は、そのまま澎湖諸島を急襲することとなる(1885年3月)。 その直前、基隆港から撤収する際、フランス軍はその戦死者をまとめて、海岸線沿いだった当地に埋葬したのだった。その敷地面積は 400坪以上もあったという。

基隆での攻防戦とは違い、 いとも簡単に澎湖諸島を占領したフランス艦隊は、ここで天津条約の和議が成立する 6月まで、長期停泊することとなる。 この澎湖諸島では傷病兵らを多数かかえていたため、軍中で疫病が蔓延し、 さらに 1,000名近い兵士らが死去したという。この遺体を合葬した記念碑が、澎湖諸島内の 風櫃尾(蛇頭山)に建立されたわけである。

それから 10年後の 日清戦争末期(1895年)、今度は日本軍が基隆港に上陸してくると、 フランス墓地内にあった多くの墓標などが大いに破壊され、わずかな痕跡のみを残すだけとなってしまう。そのまま放置された墓地は、 日本統治時代に波風で敷地がますます浸食され荒廃することとなった。
1909年に日仏両国が協議し、護岸工事や 墓碑、 記念塔などを整備する工事が着手される(現在、墓地内にこの当時建立された『フランス陸海軍人戦死者紀念碑』の石碑が残されている)。 現在も一部に見える破損した墓石などは、この日清戦争時代の痕跡という。

なお、清仏戦争の後、清朝方も自国の戦死者らをフランス墓地の傍らに合葬し、 清国人之墓(民族英雄墓)の記念碑を立て供養した。しかし、日本統治時代、現地漢人らのナショナリズム高揚を防ぐため、清国人之墓だけを撤去していたという。 中華民国時代に入って再建され、現在、両者あわせて「清法戦争紀念園区」として市指定の史跡保護を受けている。
1954年3月27日、フランス・台湾両政府の協力により、墓地再整備が行われる。このとき、 澎湖諸島にあった 海軍副官二名(陸軍中尉 Louis Jehenne と 事務官 Louis Dert)の遺骨も、 フランス海軍の手でこの地に移送され、合葬されたのだった。両名ともに澎湖諸島で息を引き取っていた



このまま再び、 101番路線バスに乗車して、5分ほど移動した先の「社寮里」バス停で下車する方法もあったが、時間短縮のためタクシーを拾う。 そして、和平島の東端にある社寮東砲台遺跡へ行ってもらうことにした。

結果的にこの選択は大正解だった。
バス停「社寮里」の東側にある 観光海鮮漁市場(週末ともなれば、多くの観光客で賑わう)を通過し、 社寮東砲台遺跡へと至るルートが、異様に奥まった山道となっており、野良犬がけだるそうに道中にねそべる、 薄暗い山中にあったので、タクシーで遺跡前にある駐車場まで登ってもらえたのが非常に助かった。 ここを一人で踏破するのは、きちんと事前準備をしていないと、駐車場(下写真)にすら行き着くことはできなかっただろう。

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さてさて、駐車場から続く登山口沿いに山を登ってみる(上写真)。
登山道はきれいに整備されており、 先ほどの廃屋や野良犬がいた山道とは全く異なる印象だった。本当にタクシー利用でよかったと痛感した訪問地だった。
5分もすると砲台遺跡が出現する(下写真)。

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さらに 1分ほどで頂上部に到達できた(下写真)。こじんまりした砲台陣地であったが、その眺めは最高だった。

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まさに 和平島の東端の岬部分に立地しており、和平島の東面の海峡を守る防衛拠点には絶好のポジションだった。 下写真は、和平島の東面と 台湾本島(基隆)の海岸沿い。この海面の先に、沖縄県石垣島がある。

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下写真は、和平島の西面を臨んだもの。東シナ海沿いに急斜面の絶壁が続いていた。

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 社寮東砲台遺跡
社寮東砲台は社寮島の東端にある山頂に建造され、基隆港の東面の海域監視と 防衛を兼ねる拠点とされた。 社寮島の西端にも当時、社寮西砲台陣地が設けられており、島の東西で湾岸入り口の防備を司ったわけである。 ただし、その規模は、数十名程度が配置される小施設だったという。
なお、社寮西砲台陣地は清代からある古い要塞だったが、この社寮東砲台は 1904年に日本軍により建造されたもので、日露戦争に備える一環だった。 また後日、日本軍により、さらに社寮砲台も建造されたため、これらと区別すべく、社寮東砲台と命名されたという。

日本統治終了後に国民党軍が接収すると、兵士を常駐させ港湾エリアの監視拠点として機能させるも、すぐに放棄され、そのまま荒廃が進むこととなった。目下、一部の砲座と 砲弾庫、臨時砲弾置き場、観測所、休憩所などの施設跡が残るのみとなっている。 また、南端山の谷間にも、兵舎や 貯水施設の遺構も残されているという。



続いて、そのままタクシーで和平島の先端部にある和平島公園へ移動してもらった。
和平島周辺はかつて造船所の町として繁栄したようで、日本統治時代から造船業が盛んとなり、 島内には一時期、3,000人ぐらいの労働者が働いていたというが、今日では主たる造船工場は南部の 高雄市 へ移転されてしまったという。
現在も和平島の海沿いには、国有の造船会社と、 小規模な個人経営の造船会社がいくつか残っており(下写真の和平島沿岸エリア)、わずかに 300名ほどの従業員が造船業に従事するだけという。

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なお、現在の和平島は、短い陸橋で接続され、完全に台湾島と陸続き同然になってしまっていた。

101番路線バスの停留所でいうと、「和平橋」が本島側、「社寮里」が和平島側に立地している。 後者で下車すると、古い昭和の商店街に急に足を踏み入れたような感覚にとらわれる(下写真)。

ここは、スペイン人の入植以来、漢人や原住民らが住み着いて集落地を形成したであろうエリアで、 和平島でも最も古い集落地だったと推察される。狭い路地のあちこちに、祠廟が設けられ、地元で厚い信仰を受け続けているようだった(下写真)。

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さて、そんな社寮里の旧市街地を後にしてから 2分ほどのドライブで、 和平島 の最北端にある和平島公園に行き着く。 かつてのスペイン人築城の 軍事要塞(その後、オランダ軍が転用した)があったと推定される場所らしいが、 今はその遺構の跡形もない。ただ、公園内にこれを模した紀念建築物が設置されているだけだった(下写真左の中央)。

この他、公園内には琉球漁民慰霊碑も建つという。1947年初春に勃発した二二八事件に際し、 この社寮島で犠牲になった琉球漁民ら 30名を慰霊したものという。
また、蕃字洞の洞窟群にはオランダ人らの名前が彫られているらしい。 オランダ統治時代に暇を持て余していた兵士の一部が、現地散策の折、落書きしたものと推察されている。

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なお、この和平島公園であるが、 2018年度から入場料が徴収されるようになったとかで、以前は無料開放されていたそうだ。
見学後そのままタクシーで和平島から出て、海洋大学前を通過し、 寂れたサッカースタジウムの脇を通り過ぎて山道を登り、10分弱で 海門天険公園(二沙湾砲台遺跡)に到着した。下写真。

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今では全く当時の遺構は残されていなかったが、ここから見える景色だけが、 当時と変わらない風景だった。公園内には砲座を模した空間が広々を整備されていた。数百人規模の兵士らが常駐できるスペースはあった。

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なお、本当の二沙湾砲台遺跡は、 この頂上広場から急な階段道を下って行った場所に立地するというが、後で知ることになった。筆者の下調べが足りず、見学を見逃してしまった。。。。

とりあえず、整備された山頂広場を一周回った後、続いてタクシーで中正公園へと進む。


二沙湾砲台遺跡
当陣地が最初に建造されたのは 1840年で、アヘン戦争の前夜にあたる。 台湾兵備道の 姚瑩(1785~1853年)と、台湾鎮総兵の 達洪阿(?~1854年)らが海岸線の防備強化を図り、建造したものという。
清仏戦争期間中、 台湾島北部一帯を占領したフランス軍により基隆周辺の砲台陣地の多くが破壊されてしまうのだが、 この二沙湾砲台も例外ではなかった。1885年に停戦が成立すると、台湾省の初代巡撫に就任した 劉銘伝(1836~1896年)が軍を派遣し、 これらの破壊された陣地群の修築工事を進める。
この砲台陣地は、山頂の高度から眼下の海峡へ発砲できる地の利を生かした設計で、 また台湾島において アヘン戦争、清仏戦争の二大戦争を体験した数少ない遺跡として、注目される歴史遺産である。
山間部でやや窪地となっている部分に 兵舎、倉庫群が立地され、 また砲台陣地の周囲には簡単な城壁と 城門が設けられ、その城門上に「海門天険」の文字が付されたことから、当地の地名となったというわけだった。

姚瑩(1785~1853年)
安徽省桐城市出身。古文学の復興を目指す桐城派の第一人者である、姚鼐(1731~1815年)の孫にあたる。
1807年に科挙に合格すると、翌 1808年に進士となる。以降、朝廷に出仕し、 1819年に台湾島へ派遣され、海防同知に就任した。しかし、1821年、政治的讒言を受け、 噶瑪蘭(今の 宜蘭県)通判へ 降格・左遷されるも、 この 台南府城 から噶瑪蘭への異動の際に見聞した旅の話を、 後世、『台北道里記』という書にまとめ、現在に残すこととなる。
1832年、江蘇武進県長官、1837年に両淮塩運使に着任するも、翌 1838年、 按察使銜分巡台湾兵備道(最高軍政文官)へ昇格されて、再び台湾島に帰任する。 以降、姚瑩は台湾島の統治に辣腕を振るうこととなった。1840年にアヘン戦争が勃発すると、 朝廷より台湾死守を命じられる。
翌1841年、イギリス艦隊が本格的に 広州虎門厦門澎湖諸島 などを襲撃し、 清朝守備軍を各地で撃破していた。そして、いよいよイギリス艦隊が 天津 へ向けて北上を開始した矢先、その輸送船 ネルブッダ(Nerbudda。船員構成は、 イギリス人 3名、欧州人 6名、ネパール人5名、インド人240名)号が 台湾海峡を航行中に台風の直撃を受け、沈没寸前となる。 この時、イギリス人艦長や 欧州系水夫らは避難船で早々に脱出してしまい、傾く船に残された ネパール、インド人水夫らが必死の修理作業を行い、 何とか台湾北部の鶏籠沖に漂着するのだった。しかし、 敵国イギリスの輸送船は当然のごとく、清朝守備隊の砲撃の的となり、 生き残った水夫らは海へと飛び込んで、自力で岸へと流れ着いたのだった。 最終的に 133名となるも、上陸後、疲労のため 20名ほどが死亡し、残り 114名が清軍の捕虜とされる。 この敵船撃沈、および多数の敵兵捕縛の一報はすぐに 王都・北京 へ 上奏され、連戦連敗だった朝廷はその報復として、捕虜集団の上官 9名を除く生存者全員の処刑を命じる。 その直後に別の輸送船 アン号(怡和洋行、ジャーディン・マセソン所属)も難破し、 その生き残りの水夫らも捕縛すると、両船合計 197名を全員処刑してしまうのだった。
これら一連の戦果は、台湾兵備道の姚瑩與と、台湾鎮総兵の達洪阿の功績として朝廷に伝えられたが(大安之役)、 実際の顛末は難破船の撃沈と生存した漂着水夫らを処刑しただけにとどまり、 戦後にこの捕虜取扱いに関する清朝の対応が、英国側から非難されることとなる。 しかし、こうした反難破船への攻撃以外にも、姚瑩と達洪阿ら台湾守備隊は果敢にイギリス軍と交戦しており、 決して棚から牡丹餅の戦果に甘んじたわけでもなかったとされる。
2か月後、アヘン戦争に敗北した清朝はイギリスとの間で南京条約の締結を強制され、 上記の台湾島での捕虜処刑事件の責任も追究されることとなった。 こうして翌 1843年、イギリス側の要求に従い、姚瑩も逮捕され、 イギリス軍と清朝廷両方から尋問を受けるも、朝廷内では擁護論が強く、 わずか 12日間の拘束で釈放され、形式上、四川省南部の奥地へ左遷させることとなった。
1845年、四川省 南部、 雲南省 の山岳地帯に赴任期間中、現地での見聞や 考察した事柄をまとめ、『康輶紀行』を書き上げる。その内容は、 英国、フランス、ロシア、インドの歴史や地理に始まり、 インドや ネパールなどからの錫金の 輸入交通ルート、仏教、キリスト教、 イスラム教などに関する詳細な解説までも網羅していた。こうした業績から、 姚瑩は 史学家、文学家としても、高く評価されている。
1848年に病身となり、帰郷する。1850年に朝廷で文宗が即位すると、1851年、 姚瑩は再び徴用され、湖北武昌塩法道の協助陸建瀛主持塩務に着任し、 さらに 広西按察使、湖南按察使などを歴任していくこととなる。この過程で、 太平天国軍の鎮圧戦にも大いに尽力するも、1853年、その平定戦の軍務中に死去する。
その孫には、姚永樸(1861~1939年。歴史学者で、北京大学、国立東南大学、安徽大学 などで教授を務めた)がいる。

富察 達洪阿(?~1854年)
満州族出身。下級兵士から戦功を重ねて、朝廷より推薦を受け、台湾総兵官へ昇進した人物で(1835年)、 たたき上げの軍人であった。台湾任期中の 5年間に、嘉義県 下や、彰化県 下の山賊や無法者らの掃討で手腕を発揮する。
1840~42年のアヘン戦争に際し、イギリス軍と果敢に交戦する中で、英国船団の輸送船 ネルブッダ号と アン号が台風被害で座礁し、 水夫らが台湾へ漂着すると、一網打尽に捕縛し、全員を処刑してしまう。 この捕虜取扱いに対する罪を英国側から問われた清朝は、仕方なく、達洪阿を台湾総兵官から解任し、四川省 や ウイグル地方へ左遷することとなる。 その後、すぐに左遷が解かれ、中央朝廷に復帰すると、1854年に河北阜城で太平軍を撃破するなど功績を挙げるも、 間もなく、陣中で死去することとなる。



中正公園内には、台湾各地でよく見受けられる、巨大な大観音が安置されていた(下写真左)。

基隆市 基隆市

ここは、基隆の港町を一望できる展望広場を兼ねていた。

基隆市

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ただし、ここの本当の特徴は、自動車道路から境内まで、自動車が直接、 山門をくぐって乗り付けられる急斜面と言える!!写真撮影まではできなかったが、中正公園をタクシー訪問された際は、是非、トライされたし。

そして、タクシーで山裾まで下りて、モスバーガーでテイクアウトする。 車内で食べながら、続いて白米甕砲台遺跡へ向かった。タクシーは基隆駅前を通過し、基隆港の西対岸まで移動する。

この 白米甕砲台遺跡 下の登山道も異様な急斜面だった。
301番路線バスで途中まで訪問しても(太白荘で下車)、山頂まで徒歩で登るのも大変だろうし、 そもそも目的地までの案内板がなく、曲がりくねった道が続くだけなので、本当に方角が合っているのか、非常に不安になったに違いない。

この基隆市内の遺跡巡りは、その数と分布範囲が広大、かつ、 ほとんどが山間部に散らばる形で立地しているため、路線バス利用だけで制覇する場合、 二日ぐらいに分けて周遊しないと不可能だと思われる。 さらに、現在地確認ができるように、ネット接続された携帯電話などで地図確認できる装備も必須だろう。

さてさて、山頂部に設けられた白米甕砲台だが、海にそり立つ岸壁上に立地し、天然の城壁といった趣だった。 現在、4つの半円形の砲座が残る。ここからの射程距離は、最大 8.8 kmにも至ったという(日本が日露戦争前に増強工事した当時)。

基隆市

上写真は、砲台陣地の東側を臨んだもの。
奥の岩山上には当時、司令部が設置されていた。
せっかくなので、急な石階段を上ってみる(下写真左)。 休憩スペースもなく、一気に登頂せざるを得ない、過酷な登り階段だった。

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頂上部には、石造りの塹壕らしきスペースが残されていた(上写真右)。腰あたりの深さがあった。
なお、日露戦争前に日本軍により補強工事された砲座部分と材質と異なることから、 清代にすでに設置されていた見張り台の遺構が、そのまま利用されていたと考えられている。
司令部だけあって、頂上からの眺めは格別であった(下写真左)。

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再び砲座部分へ降りてみる。4箇所ある砲座の下には別の部屋があるようで、入り口が見られたが、中は確認できなかった(上写真右)。

下写真 は司令部山の崖下から、砲台陣地の西面を臨んだもの。写真中央に見える、 砲台陣地とつながった形で立地するトーチカが観測所跡であった。

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そのまま観測所まで接近してみる。中まで自由に入れるようになっていた(下写真)。
なお、下写真左にある 3本の柱は、三角測量用のポール台座跡という。生々しい遺構に興奮する。

基隆市 基隆市

ちょうど 12月中旬の 16:30過ぎの夕暮れ時で、いいアングルの写真が撮れたと思う。

基隆市


 白米甕砲台遺跡
当砲台陣地は基隆港西岸の入り口に立地し、東岸の 二沙湾砲台、北面(前面)の 社寮東砲台、 そして 南面(後方)の 獅球嶺砲台の 4主力拠点の一角を担うものだった。
清末の 1880年ごろに最初に建造され、清仏戦争前に大規模補強工事が施されて、 フランス艦隊との激しい攻防戦が繰り広げられた地である。最終的にフランス軍により占領されると、徹底的に破壊されたという。 戦後に再修築されるも、日清戦争を経て日本軍が接収した。
1904年の日露戦争前、日本軍により急ピッチで増強工事が施される。現存する遺構はこの当時のものという。

なお、オランダ方の文献によると、 もともと当地にはオランダ城砲台の名前が記されており、歴史学者によると和平島にあった旧スペイン時代の要塞とともに、 すでにスペインが当地に何らかの防衛施設を設置しており、その両者をオランダ方が占領し、そのまま使用していたと考えられている。



さて、 再びタクシーは急で狭い山道を降りて行った。
この細い急斜面の山道沿いの古民家は、どうやら港湾労働者らの密集住宅らしく、 現在は高齢者ばかりの居住区となっているという。

台湾でも年金問題は国の重要課題となっているそうで、現在の高齢者は 20,000~30,000 TWDぐらいの年金がもらえているが、運転手個人(当時 68歳)で支給額は 10,900 TWDとのこと。この金額は徐々にカットとされ、さらに支給年齢の引き上げも議論されているという。 日本と同じで、台湾政府も高齢化社会に直面し、財政的な余力をなくしているようだった。今後は、10,000 TWDドルを切った支給額へと 低下されていくだろう、と嘆いておられた。

最終的に基隆駅前でタクシーを下車した。上記すべてのルートを巡って、各所での待ち時間含めて、だいたい 2時間半ぐらい拘束し、1,000 TWDだった(メーターに準拠)。好々爺で非常に面倒見のいい、話好きな運転手さんだった。

夕方の時間、基隆駅裏にあった ハリウッド版 Keelung の 文字(虎仔山基隆地標)が、青くライトアップされている様子を目にできたのも、ちょうどいいタイミングだった。
まだまだ訪問したい遺跡が目白押しの「基隆」だったが、後ろ髪をひかれながら、 台北 行バスに乗り込んだ(10分に一本運行中)。筆者が乗車した便は乗車率 50~70%ぐらいだった(往路は 50%ぐらい)。広々とスペースを仕えて、所要時間 45分(運賃 57 TWD)。


 基隆市の 歴史

この地は元来、原住民の平埔族系ケタガラン族が生息したエリアであり、 この名称が台湾語の 鶏籠(ケーラン)に似ていたことから、長らく、鶏籠という地名で呼称されていた。 加えて、近隣の山の形状も「鶏籠(トリかご)」に似ているということもあり、容易に定着していったとされる。 清朝末期の 1875年、祝辞文句の「基地昌隆」から取って「基隆」と改名されて以降、今日に至る。

基隆市

1624年にオランダ勢力が台湾島南部に上陸したのに合わせて、 台湾島北部の占領を目論んだスペイン人らが 1626年、社寮島(現在の 和平島)に上陸し、その南西部の岸辺に西洋式の 城砦「サン・サルバドル城」を築城する。 これ以後、先住民や漢人らも移住して、集落地が形成されていくこととなった。

以後、台湾島の支配権をめぐって、オランダと スペインが競合することとなるも、 スペイン領下の フィリピン・マニラで地民反乱が勃発すると、余力を失ったスペイン勢の隙をつき、 1642年、オランダ人が北上し、スペイン側の 拠点・社寮島に上陸してくる。 サン・サルバドル城のスペイン軍は無血開城し、そのまま台湾島を放棄すると、オランダ人はこの地を北オランダと改名する。

1668年、大陸中国より鄭成功が台湾に渡り、この地のオランダ人拠点を駆逐して、台湾島全域を占領すると、この「鶏籠」の地も、鄭成功に併合される。その後、1683年に鄭氏台湾も清朝に降伏し、清朝の役人が台湾島へ派遣されてくる。

時は下って清朝末期の 1863年、欧米列強からの圧力により、鶏籠港が正式開港される。
ここは、北京条約により強制開港された台湾 4港の一つで、すぐに フランス、アメリカ、ロシア、イギリスの領事館が開設されることとなった。
こうした国際化の波に洗われた激動の時代、鶏籠から基隆へと改名されることとなる(1875年)。

基隆市

英国に触発され、領土的野心を前面にちらつかせたフランスは、 ベトナム領有権獲得を目指してしかけた清仏戦争の 最中(1884~85年)、極東艦隊を派遣し、福建省、浙江省沿岸や 台湾島の攻略を企図するも(上地図)、 清朝側の予想外の頑強な抵抗と、台湾民衆による石炭売りしぶり、またこれに同調した英国商社や 領事館の石炭売り渋りなどが重なり、 フランス軍は最終的に、台湾島北部の占領地の放棄を選択せざるを得なくなる。台湾島を離れたフランス艦隊は同年 3月、澎湖諸島を強襲し、 現地に終戦までの 3か月を駐留することになった

日清戦争後の 1895年、日本軍が 台湾島 を領有すると、1924~1931年、基隆は市制へと昇格され、当時の台湾島内でも第四番目の大都市として、 繁栄を謳歌することとなる(下古絵図)。

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市内には、日本統治時代の和式家屋などが今も現存する。 最盛期には 1万人以上の日本人が 居住し(日本往来便の寄港地でもあった)、また、日本海軍の重要拠点でもあった理由から、 第二次大戦中には米国軍の攻撃を度々受け、港湾エリアは徹底的に破壊されたという。


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