BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬
海賊王・蔡牽






台湾 新北市 金山区 ~ 区内人口 2.6万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  清代から続く、金山老街(金包里街)メイン・ストリート
  水尾漁港、金山海浜公園、磺港山、磺港漁港、新金山ビーチ、魚路古道起点
  テレサ・テン 墓所(鄧麗君墓園)と 記念公園(筠園)
  金山旧機場遺跡(旧日本軍 小型機専用飛行場)
  魚路古道(金包里大路)と 街道守備隊・河南営(番仔営)の 駐屯基地跡「擎天崗城門」
  栄潤古道




金山区へは、台北駅 北のバスターミナルから、20分に一本、国光客運系の中距離バスが運行されている(乗車時間約 90分)。
もしくは、基隆経由で金山区訪問も可能だ。基隆市から北回りに国道 2号線沿いを走る、 862番路線バス(淡水行)に乗車する。 風光明媚な海岸線と、のどかな田舎町を愛でながら、くつろいだ旅愁に浸れるルートである

さて、金山区 中心部(バス停「金山郵局」で下車。道路向かいに、マクドナルドあり)では、 まず、当地 No.1の繁華街で、清代から継承される メイン・ストリート「金山老街(金包里街)」を散策する。 続いて金山岬まで歩き、金山遊客中心、水尾漁港、金山海浜公園、磺港山、磺港漁港、新金山ビーチ、そして魚路古道起点を身て回る。 余力があれば、タクシーをチャーターし、やや北の三世壇路沿いにある、金山旧機場遺跡(日本統治時代に小型機専用の空港として整備されるも、 開港直後に飛行機事故が発生し、そのまま閉鎖された。現在、その用地はほとんどが農地に代わり、一部に記念碑が残るのみ)と、 テレサ・テン記念公園(筠園。テレサ・テン鄧麗君の墓園。1953~1995年)も、同時訪問したい。

金山区

続いて、金山区中心部より路線バスに乗り、陽明山国立公園 へ進む。ちょうど東へと流れる 河川「磺渓」を遡るようにして、陽金公路を西進していくことになる。 そして、バス停「上磺溪橋(魚路古道)」で下車する。
なお、「磺」とは、硫黄のことで、当地の山岳地帯は硫黄の産地として古くから有名であった。 また、この硫黄を含む温泉も出ており、特に金山区中心部の漁港近くにある、舊金山総督温泉(日本統治時代から続く 温泉旅館)は有名という。

さて、バス停「上磺溪橋(魚路古道)」からすぐ南へと続く山道が、魚路古道(金包里大路)である。陽明山国立公園 の東端を南北に貫通しており(下地図)、その全長は約 30 kmで、清代に開通されたという古道という。当時、金山(かつては 金包里と呼ばれていた)の磺港魚村から、台北市士林区 まで通じており、漁港から水揚げされた魚類の運搬に使用されていたことに由来する(金包里大路 とも通称されていた)。下地図。
道中の主な見どころは、北から 打石場遺跡、許顏橋、涓絲瀑布(滝)などがあり、 また道中の所々に清代の建物遺構が残っているという。その代表的なものは、街道の 守備隊・河南営(番仔営)の 駐屯基地跡「擎天崗城門」というわけである。 この魚路古道の中でも、特に保存状態の良い区画は、八煙から 山仔后(河南勇路と 日人路との間)とされる。

金山区


 【 金山区の 歴史 】

多くの考古学調査により、金山区では、 4500年前には既に人類の生息があったことが確認されている。その元祖の民は、海洋文化を特色とする バサイ(馬賽)族で、 現在の磺港漁港辺りに集落群を形成していたと考えられている。

その後、大屯山の麓で硫磺産出がスタートすると、平埔族ケタガラン族が侵入して、 バサイ(馬賽)族の テリトリーを占領してしまう。以後、ケタガラン族によって、キッタパリ地区と通称される。 これが、清代に中国語音訳されて、「金包里社」という漢字を当てられることとなるわけである。
この時代、「金包里社」と「毛少翁社(今の 台北市士林区)」とを結ぶ主要ルートとして、 初期レベルの金包里大路が形成され(下地図)、この山道上で、狩猟活動、婚姻などの文化交流、物々交換取引が行われてきた。 なお、この過程で、山中で 硫黄(火薬の原料)も発見され、西洋人や中華系移民らとの主要な交易商品となっていくわけである。

金山区

台湾島南部を占領したオランダ人勢力に対抗すべく(1624年)、 スペイン人が植民地フィリピンから北上し、台湾島北部を占領すると(1626年)、以後、16年間、台湾北部はスペイン人のコロニーとなる。 この時代、淡水省区(大雞籠・金包里地区、及び、淡水地区)、噶瑪蘭省区、哆囉滿省区という、3つの行政区に分けて統括されていた。 この金包里地区は、2~3か所の集落があり、彼らの主要産業は硫磺採掘で、人々は採掘や精錬作業に長けており、 それらを淡水河口に持ち込んで商売していた、という記録が残されている。また、スペイン人は一商船あたり、14,000 kgもの硫黄を積込み、交易商品として各地に売りさばいた、との記録が残されている。 この時代、中華系商人は、硫黄 285 kgあたり、絹一巻と交換しており、これを大陸中国に持ち込んで、50 kgあたり銀 5~17両で売却していたという。

しかし、フィリピン本島で原住民反乱が勃発し、スペイン勢力が弱体化すると、 1642年8月21日、すかさず台湾島南部のオランダ人勢力が北上し、スペインの 拠点・雞籠要塞を攻撃する。 同月 25日、スペイン守備隊は降伏し、城塞を明け渡すと、9月22日にはその他の スペイン人 コロニー(北濱の 大雞籠社、金包里社、三貂社など)の支配権も、 すべてオランダ東インド会社へ譲渡されることとなった。 こうしてスペイン人を追放したオランダ人は、自国旗をこれらの各集落地へ配布し、自身のコロニーに併合する。この時に行われた人口調査で、金包里社には 84戸、288人の住民が記録されている(1647年。1655年の調査時には 48戸、157人にまで減少していた)。その後、1661年に鄭成功の率いる南明軍がオランダ人勢力を駆逐し、 台湾島を占領するも、20年後の 1683年に清朝に併合されると、台湾島は 1894年まで清朝の領土となった。

1684年、清朝支配下で福建省 台湾府 が開設されると、諸羅県 が新設され、台湾島北部全域を統括する。1723年に 淡水庁(今の 新竹市)が新設されると、この管轄域となる。 1875年には基隆庁が新設され、台湾島北端が東西に分離統括されると、金包里社は基隆庁側へ移籍される。

1696年末、福州城 内の軍火局が失火により、保管しておいた 25万キロ余りもの火薬を焼失してしまう事件が発生する。翌 1697年早々、福州府長官の命により、秘書官だった 郁永河(1645年~?)が同量の硫黄や 硝石を弁償する任務を負い、 台湾島北部の 硫黄鉱山(草山地区、今の 陽明山国立公園 一帯)へ派遣される。台南 に着岸後、陸路を移動して、北投地区 で鉱夫や技術者、原住民らを調達し、半年にわたる採掘、精錬作業を行うこととなる。 最終的に硫黄採掘を成功させ、同年 11月、無事に福州へ帰任する。その翌年、この台湾北部で見聞した体験談を、 紀行文『裨海紀遊』として執筆するわけだが、その中で『金包里は淡水にある小さな集落地で、硫黄を豊富に産出し、 住民らはとても商売上手で賢い』と言及することとなる。 なお、「金包里社」の地名であるが、平埔族ケタガラン族のキッタパリ村を中国語訳したものだが、この周辺では一度も金が採掘されたことはない。 一時期、東へ流れる 河川「磺溪」で砂金が発見された、という伝説があり、この漢字を当てたと考えられている。


 郁永河(1645年~?)

浙江省杭州市 北部の仁和県出身で、科挙一次試験に合格し(秀才、生員と呼ばれた)、下級役人に仕官して、それなりに出世する。 1691年、福州府 長官・王仲千の幕閣秘書官に従事していた際、長官に随行する形で、福建省各地を周遊する。生来の旅好きであったという。
1696年末、福州府城(榕城)の 火薬庫(軍火局)が失火により焼失し、内に保存していた 25万キロ余りの硫黄と 硝石(火薬の原料)がすべて灰燼に帰してしまう。当時の規定では、 火薬庫の管理責任者である福州府長官が全額弁償する義務を負っており、王仲千は困惑してしまうのだった。福建省内では硫黄は産出できず、 台湾島北部の硫黄鉱山から調達する方針を固めると、その現地責任者に自ら志願したのが、郁永河であった。 こうして郁永河は、公費出張の形で台湾島へ渡海する。

翌 1697年2月早々、福州を出発し 厦門 を経由して、金門から船に乗り込み、 澎湖諸島 に立ち寄って、台南の安平港 に至る。しかし、水深が浅過ぎたため、小船でも入港できず、最終的に小船を牛車に引かせて、ようやく上陸に成功したという。 2月25日、台南府城 に至ると、ここで 1~2カ月間、滞在し、城下町で採掘用の道具一式を調達する。総額 980金両(現在価値で、約 1億円弱)を費やしたという。
4月7日、いよいよ台南を出発するわけだが、府城内で仲良くなった人から、 海路での移動を勧められたにもかかわらず、好奇心旺盛な郁永河はわざわざ陸路移動を選択する。 こうして、牛車に乗り、陸路で淡水まで北上する旅路が始まるのだった。なお、島内の移動は、通事の張大が現地手配を支援しており、 非常に快適な公費出張だったようである。

金山区

まず、大洲溪の大河を渡河し、新港社、嘉溜湾社、麻豆社の集落地を経て、 さらに過茅港や 尾溪、鐵線橋溪を渡河し、咯國社に到達する。夜には、さらに水流の激しい八掌溪を渡河し、諸羅山に至る。 続いて、牛跳溪を渡河し、打貓社、他里霧社、柴里社を経由する。また、虎尾溪、西螺溪、東螺溪の三河川を渡り、 大武郡社、半線社、啞束社、大肚社、沙轆社、牛罵社を通過し、さらに 大甲、吞霄、新港仔、 後々、中港、竹塹、南嵌、八里分社 に至った。ここから、莽葛(原住民の船)に乗り換えて、ようやく 淡水庁城(今の 新竹市)に到着したという。この時、すでに 4月27日となっていた。
海路ならば 2日程度の行程を、郁永河は 20日もかけて悠々と陸路移動したわけが、そのおかげで、好奇心の強い郁永河は道中、 様々な人、文化、集落、自然を目にすることとなり、前述の紀行文のネタが集められて行ったわけである。なお、この紀行文の中で、郁永河は『竹塹から南崁までの 40~50 kmは人も民家も全くない荒野が広がっていた』と記録している。ようやく 4月末、北投社に至り、ここで原住民や鉱山技師ら 47名の人夫を雇い、採掘作業をスタートするのだった。半年後の 10月20日に台南に戻り、11月、採掘した硫黄を持って、無事、福州城に帰還する。 なお、台湾を出航後、海上で台風が接近したため、 澎湖諸島 へ寄港し、この一時滞在期間中に澎湖水仙宮を参拝して、航行の無事を祈願している。

翌 1698年、郁永河はこの 9か月に及ぶ旅路の見聞録を、『裨海紀遊(別称:採硫日記)』という紀行文にまとめる。 17世紀末期の台湾島、特に未知の空間であった台湾島北部における、多くの 番社(原住民の集落地)の文化、習俗、 生活に関する詳細な記述が残されており、中国人の視点から見た、台湾北部初の 文化人類学的資料、歴史資料として、後世、重宝がられることとなる。 特に、台湾西部を移動中に通過した、新港、大武郡、大度、沙鹿、牛罵、通宵などの平埔族の集落地の他、 澎湖諸島やその 海域(黒水溝)での航海上の体験談にも言及しており、非常に詳細にわたる旅行日誌記録となっている。




1735~1796年、金包里、北投士林 を結ぶ重要山道となっていた「金包里大路」沿いに、中華系移民らが移住するようになり、 北東端の金包里地区まで土地や集落の開墾を進めてられていく。一方で、清朝廷は治安維持、及び軍事上の目的から、 硫黄採掘を厳禁していたが、この山道を使って不法採掘に従事する者や交易に携わる者が後を絶たなかったという。 このため 1828~1861年、清朝はこの山道沿いに監視所を配置し、定期的な巡回を実施するようになる。 ここで配置されたのが、湘軍(河南義勇軍と俗称されていた)を主力とする部隊で、この山道を含む、台湾島北部の守備全体を司っていた。 その一部隊が、雞心崙(擎天崗エリア)に駐屯したため、現在も 河南営(番仔営)遺跡として城門跡が残っているわけである。 この施設は、駐屯基地と練兵場を兼ねた施設だったと考えられている。

1858年6月の天津条約締結により、台湾島の 4港が開港させられると、 すぐに外国人が台湾島へ流入してくることとなった。そのうちの一人だった英国人 ロバート・スウィンホーがこの金包里大路を歩き(6月23日)、 後に紀行文を発表することとなる。引き続き、清朝は硫黄採掘を厳禁にしていたが、それでも違法な採掘従事者らは多数いたようで、 フランス生まれの米国軍人 チャールズ・ルジャンドル(1830~1899年)が開港間もない台湾島へ上陸し、後にその体験記を執筆した際、 大油坑(下地図)という最大の鉱山では、大規模な集落が形成されていた、と言及することとなる。

金山区

1887年、台湾省の初代巡撫に着任していた 劉銘伝(1836~1896年)により、 正式に硫黄採掘が解禁されると、新設された全台磺務総局が硫黄輸出のみを厳しく監督するスタイルに変更される。 特に、最大の鉱山地帯だった「大油坑」は政府直轄区に指定され、朝廷が独占的に硫黄の売買を管理することとされた。

間もなくの 1895年、日本が台湾島を接収すると、翌 1896年、台湾硫黄業規則を発布し、硫黄鉱山開発が完全自由化される。 しかし、日本政府が実地調査を行うと、大油坑の地上部分の良質な鉱脈はほとんどが採掘され切っており、 それでも地元鉱夫らは粗悪な岩石から精錬して、硫黄を絞りとっている状態だったという。
翌 1896年、石門地区で茶商を営んでいた許氏が、日本政府に自腹での橋の架橋を申請すると、工事が許可される。 この時、建設されたものが「許顔橋」である(上地図)。

金山区

しかし、同 1896年、簡大獅(1870~1900年。上写真。本名は簡忠誥で、台北滬尾【今の 新北市淡水区】出身)が義勇軍を率いて決起し、 北山(今の 陽明山の山岳地帯)に立てこもり、反日武装闘争を始める。翌 1897年にかけて大屯山、竹子湖一帯で、両軍は激しく激突するも、1898年9月10日、簡大獅は 士林芝山岩 で、400名の部下と共に日本軍に降伏する。その後、過酷な山道開発の労務に駆り出されるも、再び、秘密結社を結成し、 12月1日から日本軍へのゲリラ活動を再開する。その後、次第に追い込まれて大陸側の漳州へ落ち延びるも、 清朝役人に捕縛され、台北 の日本政府に引き渡されて処刑されたのだった(1900年3月29日)。

この戦時下にあった同じ 1897年、英国人 エルフィン・ストーンが設立した商社 タルト(徳記合名会社 Talt & Co.)が、大油坑での鉱山開発権を取得する。以後、半世紀間、第二次大戦へ向かう対日経済制裁の中で、 英米政府からの度重なる勧告を受け、台湾から退去するまで、当地で開発業務を担うこととなる。

1901年、先の簡大獅率いる抗日軍との戦闘で開墾された、日本軍の進軍ルート沿いに、「士林金山道」が建設される。軍馬が大砲を引いて運搬できる輸送目的の道路だったことから、「砲管道」や「日人路」と通称されることとある(上地図)。 最終的に、1903年、山仔后から 金包里(今の 金山区中心部)までの全長 30 kmの日本軍用道路が完成される(この途中に、草山温泉の源泉が発見されている。 1928年には、大屯山付近に日人行軍路上の名勝マップが掲示され、今も残る)。

金山区

なお、この日本統治期、当初は金包里堡と通称されるも、 1920年に台湾島で州郡制が導入されると、日本式の地名で「金山」と改名され、金山庄となる(台北州 基隆郡 に帰属)。

第二次大戦中、台湾島内でも食糧不足が深刻化し配給制が導入される中、 夜間に金包里大路上で闇取引による魚類の売買が横行するようになる。また、日本政府は 英系資本(英商社 タイト鉱山)によって採掘されていた、 6か所の硫黄採掘場を 没収・強制停止し、最大の採掘場だった 大油坑(上写真)のみ、継続稼働させていた。
1945年に日本に代わって中国国民党が台湾島を支配すると、台湾省台北県金山郷へ改編される。 この当時も、金包里大路沿いの家々を巡って、魚売りが行商を行っていたという。
1946年には、台湾省で磺業法が制定されると、鉱山開発は中国人に限定されることとなる。 戦後に再稼働していた英商社 タルト社の社長には、英国ー台湾人ハーフだった 林文仁が就任することとなった。 1951年には 大油坑鉱山(上写真)だけで 200~220トン、1954年には台湾島全体で 5,500トンの硫黄が生産されていたという。
1958年、陽金公路が開通すると、金包里大路を往来する魚行商は減少し、消滅していった。 1983年、金包里大路は「魚路古道」へ改称される。 1985年9月16日、ほとんど鉱山開発が終わり、山岳地帯を訪問する人々の目的がレジャーへ変わってくると、陽明山国立公園 として整備されることとなった。同年、英商社 タルトがついに鉱山開発業から撤退する。 2010年12月、新北市金山区となり、今日に至る。

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