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台湾 地図
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新竹県 新竹市
訪問日:2016年12月中旬
台湾 新竹市 新竹県 ~ 県内人口 57万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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台湾国立清華大学 と 北京清華大学
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二代目・竹塹城の 東門(迎曦門)跡
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外堀公園
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影像博物館(旧新竹有楽館)
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日本植民地時代から継承された 新竹市庁舎、消防署、警察署
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新竹城隍廟(1748年創建)
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北門跡エリア と 外媽祖廟(新竹長和宮)
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進士第、台湾生まれで 最初の科挙合格者となった 鄭用錫の邸宅跡
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かつての城壁上に相当する勝利路 と 南門公園
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新竹市の 歴史
新竹市
は台湾第 7位の人口都市で、首都
台北
に隣接する ITハイテク工業地帯 (台湾のシリコンバレー、との異名を持つ)を形成している。
また、当地が有する国立清華大学は、 その前身が清末の 1911年に北京で開設された 清華学堂(当時、北京旧城の北西側にあった、清華園にて開学)で、 1925年に大学へと改編された清華大学である。日中戦争時代、
北京
から
昆明
へ移転され、 国立北京大学と 私立南開大学と共に、国立西南連合大学へと 統合(1938年)された、当時の大陸中国の最高峰の大学を担った名門であった。
戦後の国共内戦時代、清華大学は二分割され、この 新竹市(1955年~)と北京市に存続することとなる。 現在、国立清華大学は台湾第 2位の難関大学に位置付けられている。
なお、新竹市は、毎年冬の季節風が非常に強いため、風城とも別称される。 2016年10月に、資生堂が完成させた新竹工場の建物が、「風」をテーマにデザインされたことが、ちょうどニュースになっていた。
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交通アクセス
台北
駅の北側に隣接する、Qスクエア内のバスターミナル 1Fのチケットカウンターで、14:30発の 国光バス(新竹市行)の乗車券を購入した(120 TWD)。
15:40ごろ、新竹鉄道駅の南側に隣接する、新竹市バスターミナルに到着する(下写真左)。
バス下車後は、線路下を通る地下通路から、反対側の駅前ロータリーへ出られる。
街歩き前に、新竹鉄道駅(下写真右)内の観光案内センターで、旧市街地の地図をもらってきた。
なお上写真右は、駅前ロータリーから、新竹鉄道駅の駅舎を撮影したもの。 皇室出身の日本人 建築家・松ヶ崎万長(1858~1921年)により、ゴシック様式と バロック様式の合成でデザインされたものという(1913年完成)。 台湾で現存する最古の駅舎らしい。
ここから、5分ぐらい先にある
東門広場
まで歩く。
上写真は、当地を象徴する歴史遺産、 旧竹塹(ツーチェン)城の 東門(迎曦門。1829年建造)である。 城壁上には、 矢狭間を有するレンガ積みの凹凸壁が残り、見応え抜群だった。なお、城門台座の石材は、 唐山石(泥土が長年、圧縮されて石化したもの)と 花崗石が用いられているという。 いずれも強度が高い一方で、加工しやすいのが特徴である。
城門手前に見える、コンクリート残骸と 鉄骨片は(上写真)、 日本統治時代の 1910~1920年に実施された、東門橋と 外堀川(護城河)の拡張工事の際 (外堀川の中央部に橋脚を一つ増設した)、外堀川の水流を弱める目的で、 橋脚の土台石として配されたものの残骸という。
清代、外堀川は川幅 15 m程度の狭いものであったが、水流が激しかったようで、 船首のような突起状に切り出された石材が(下写真左)、水流による橋桁土台部分の浸食を防ぐ目的で、縦、横 45度に組み合わせて配置されていた。この同じ工法が、 日本の統治時代に行われた架橋工事でも採用されており、鉄骨入りのコンクリート片がわざわざ造られて、川底に沈められていたという。 1999年4月の公園整備工事の過程でたまたま発見されると、清代の工法と同じ設計で陸橋の強化工事を施していた、 日本統治時代の遺物として脚光を浴びることとなったわけである。
現在、人通りの少ないこの東門前の展示スペースで、若者たちがストリートダンスの練習に励んでいた。
この東門と 河濱(護城河:かつての
外堀跡
)公園の一帯は、 文字通り、市民の憩いの空間となっていた(勝利路と 文化街との間)。東面以外の外堀は埋め立てられ、 現在は、東門付近を南北に流れるように整備されている。 その川幅は 6 mほどに縮小され、かつ水深も驚くほど浅かった。下写真。
東門から、そのまま中正路を北上したみた。かつて東面城壁が連なっていた通りである。下地図。
途中、左手に洋館が見えてきた。
影像博物館
である(下写真左)。当初は新竹市営有楽館と命名され(1933年開設)、 台湾初の冷房付き洋風建築の劇場であったという。1946年以降、国民大劇院と改名されるも、1991年に営業赤字から閉館に追い込まれたという。
また、そのすぐ隣に、公営アーケード市場「東門市場」があった。 こんなアーケート路地でも、普通にスクターが往来していた(下写真)。
昭和の香りがするアーケード通りで、八百屋さんから衣服店までひと通り、 揃っていた。日本人として、非常に懐かしさを感じる空間だった。 台湾には、現代日本が忘れた「古き良き日本」が残っている点に、度々、感動させられる。
その横道の
大同路
からさらに北上を続け、中央路を横切る。 そして、中山路との交差点で、東側へ移動してみた。
その先に、いかつい威容の新竹市庁舎が、 鎮座していた(下写真左)。日本統治時代の 1925年に建設された、 木造、瓦葺き屋根を基調とする、和風アレンジが加わった近代洋館という。
道路向かい側には、ゴイい昭和の香り漂う、消防博物館と 警察署が立地していた(上写真右)。
消防署ではちょうど救助訓練の真っ最中だった。 先輩消防士がマイクで後輩に指示を出していた。
それにしても、消防車自体が軽トラックを改造したもので、 街の消防団みたいな印象だった。。。上写真。
そのまま中山路を西進し、竹塹城(新竹古城)の 守護神(鎮守神 City God)「
城隍廟
(下写真)」を訪問する。 1748年、淡水同知職にあった曽日瑛の提唱により、地元名士らが寄付し合って創建されたもので、 その後も、度重なる拡張工事が進められ、今日の姿に至ったという。
下写真右に見る通り、本体部分は三殿式で構成されており、正殿に掲げられている「金門保障」の額縁は、 清朝第 11代皇帝の 光緖帝(在位:1875~1908年)の直筆文で、 1891年に下賜されたものという。このため、当地の城隍廟は台湾最大級のスケールを誇り、 台湾島内の全城隍廟の最高位に位置する威霊都城隍が祀られている。
ここの門前町として発達した屋台市場は、 これぞ アジア!という雰囲気を醸し出していた(下写真左)。
また、城隍廟内に公共トイレがあったので、使わせてもらった。トイレはかなり奥の方にあり、 図らずも、城隍廟の奥行きに圧倒された(下写真右)。
続いて、さらに中山路を西進すると、西大路に突き当たる。
もう少し先の 石坊街(この路地沿いには、1824年に建てられたという、 新竹市最古の 古民家「楊氏旧家」が立地する)との交差点あたりに、 かつて西門があった。特に現存していないので、跡地の訪問はスキップし、 そのまま西大路を北上してみる。
その途上、怪しい SPAを発見した(下写真左)。
外観には、湯船とかサウナ施設の写真は皆無で、 あやしいカプセル個室の写真のみが、電光看板にデカデカと映し出されていた。 これはテレビで見たことがある、ゲイたちが相手を見つけるために集うっていう、場所なのだろうか!?
下写真右は、ゲームセンター。中には、カジノのバカラ機まで置いてあった。
続いて、
北大路
の十字路から東側へ右折する(下写真左)。
そして、 巨大な カールトンホテル(明らかに国際大手ブランドの、リッツカールトン・ホテルをイメージした命名)が目印となっていた、 北門路との交差点に出くわす。
まさに、この交差点こそが、かつて北門があった場所だ(下写真右)。
そのまま旧北門の城外、北門街を北上してみた。
間もなく、水仙宮、長和宮が目に飛び込んでくる(下写真左)。 1742年創建で、旧竹塹城の外側に位置したため、 外媽祖廟や 外天后宮とも通称されてきたという(城内には、別に天后宮が建立されていた)。
台湾の人々は、 祖先が守ってきた廟所や 祠堂を大事にして、本当に感心ものだと思ったのも束の間、 その北門街の通り沿いに突如現れた、
進士第
の姿に幻滅してしまった。。。下写真。
その姿はあまりに無残だった。。。廟所を雨風から守ってきた鉄筋屋根は、 鉄板がはがれ鉄骨だけとなっており、その塀は草が生い茂り、崩落しかけているで はないか。。。。このままでは、ますます痛みも早まってしまうことだろうに。。。下写真。
これが、台湾生まれで史上初の 科挙合格者(1823年)となった、 鄭用錫(1788~1858年)を祀る廟所なのだろうか。。。その横の 鄭氏家廟(1853年創建。下写真右)は、きれいに保存されていたが。。。 なお、この鄭氏廟所は、もともと進士第の正面向かいにあったが、鄭氏邸宅の門の一部を改修した際、隣に移築されたという。
進士第の内部が気になったので、北門街から裏通りへ回り、路地へ入ってみた。
かつては鄭氏一族の大邸宅であった敷地は、 すでに多くの民家に分割、占有されていた。下写真。
草むらと化している部分もあり、かつての豪邸跡の一部なんだろうが。。。完全放置状態だった。。。。 下写真。
竹塹城の石積み城壁への全面改修を清朝廷へ上奏し、 地元の人々の意見と募金を集めるべく奔走した、地元出身の 進士(国家試験の 科挙最終合格者)・ 鄭用錫は、自らの 自宅(現在の 進士第付近)が、新規築城される城郭都市の城外に立地してしまうこともいとわなかった、 献身的な人物なのだが。。。
さらに驚いたことに、 駅構内の観光案内センターでもらってきた地図にも、全く観光名所として掲載されていなかった。。。筆者は、 事前にネット上から予習していたので、たまたま訪問できたわけである。 祖先や故人を大事にする台湾諸氏の皆さん、この偉人の足跡を忘れてしまってはいけないのではないだろうか。。。。
鄭用錫(1788~1858年)
鄭用錫の祖先は、明代末期の混乱の時代、福建
漳州府下の漳浦県
から
泉州府
同安県下の 金門島(浯江)へ 移住してきた一族だった。それから三代目に相当した 鄭国唐(鄭用錫の祖父)が、 長男・鄭崇吉、次男・鄭崇和(1756~1827年。5歳の時、母が死去していた)、 兄弟の鄭国慶、その子の鄭崇科を伴って台湾島へ移住し、淡水庁下の 後龍洲(今の 苗栗県後龍鎮)に住み着くこととなる(1774~75年)。
鄭用錫の父にあたる鄭崇和は、幼少期から勉学を好み、科挙試験に何度も挑戦するも、 悉く落第していた。その後、多額の寄付金献上により、 国子監生となる(国家官僚養成機関に入門後、これを成績上位で卒業すると、役人へ登用される資格を得た)。以後、 自宅のあった後龍洲で私塾を開設して講師を務めた。1780年に集落内の 客家人・陳武生の 娘である陳素と結婚し、1788年に鄭用錫を授かることとなる。
1805年、海賊王・蔡牽が台湾島に上陸し、各地を席巻すると、自ら民兵を募って官軍を支援し、 さらに直後に発生した福建省移民と 広東省移民らとの内輪揉めでも仲裁に手腕を発揮することとなる。そして、翌 1806年、父の鄭国唐を含む、 全家族を伴って竹塹城内へ移住する。その場所が、今の北門大街で、店舗を伴う商家を営むこととなる。1815年に台湾島で食糧危機が発生すると、 鄭崇和は食料を自前で供給して物価安定に努め、1820年に疫病が大流行すると、 薬や死者のための棺桶などを数多く寄贈する。また、竹塹城内に孔廟が建立される際には、 多額の献金を行っている。1827年に死去すると、地元社会に貢献したことを顕彰され、1832年に郷賢祠に合祀されることとなった。 その後、子の鄭用錫が二品銜の爵位を下賜された際(1854年)、「中憲大夫」と「通奉大夫」の称号を付与された。
鄭用錫は幼少期より総明で、神童の誉れを一身に受け成長しており、 竹塹城内にあった 明志書院(当時、台湾北部の最高学府だった)で主席となり、 その期待通り、1810年、22歳で科挙一次試験に一発合格し、そのまま彰化県学附生となる。 1818年には二次試験、1823年には三次試験に合格して、ついに進士となる(109名中の第三位の上位合格者だった)。
台湾が清朝に併合された 100年余りの期間、 すでに 陳夢球、王克捷、莊文進の三名が進士として輩出されていたが、 いずれも生後に台湾へ移住した人物で、鄭用錫が史上初、生粋の台湾生まれの進士となったわけである。 こうした背景から、彼は「開台進士」または「開台黄甲」として、 地元台湾の誇りと崇められることとなる。
合格後、自身が学んだ明志書院で 8年間、教鞭を執る。その傍ら、自宅のある竹塹城内の自治組織にも積極的に参加した。 その過程で、1816年に 文廟(現在の孔子廟)建設を建議し、父と共に多額の寄付を行って、建設を主導した。 また 1826年には、淡水撫民同知の李慎彝らと協議し、淡水庁が入居する竹塹城の城壁整備を朝廷へ上奏する。
翌 1827年、朝廷から許可が下りると、林国華、林祥麟などと共に工事責任者として、 経済面、人員動員面でも全面的に協力し、台湾道道員の孔昭虔から基礎設計の協力も得て、 2年後、ついに竹塹城の城壁が完成する。 それまでの土壁スタイルから、本格的な石積み城壁へと生まれ変わることとなった。 この城壁建設の功により、鄭用錫は「淡水同知銜」の称号を下賜される。
1834年、いよいよ中央朝廷への出仕を志し、
王都・北京
へ移住して兵部武選司」に 任じられ、翌 1835年には「礼部鋳印局員外郎」となるも、1837年、 慣れない宮遣いに疲れ果てた鄭用錫は、老いた母親の世話を理由に中央官職を辞し、故郷の 竹塹城(新竹)へ戻り、翌 1838年、 北門の外側に 邸宅(今の進士第)を建て、読書と著作による悠々自適の生活を送るようになる。
1842年にアヘン戦争が勃発し、英国艦船が大安港を脅かすようになると、 鄭用錫は民兵を組織して官軍を支援するなど、国難には積極的に協力したことから、戦後、 クジャク羽冠”花翎”と 四品銜の官位を授与される。
竹塹城の北側に、3年前より造園を開始していた北郭園が完成する(1851年)。 以後、鄭用錫は接客と憩いの場としてここを活用し、潜園と並んで竹塹の二大名園となる。
1852年より勃発していた台湾北部での福建系移民と 広東系移民との間で暴力紛争に際し、 翌 1853年、台北の 地元名士・陳維英と共に、仲裁に加わる。この抗争を最小限に抑えたことで、犠牲者の増加を防いだとされる。 同時期、鄭用錫は「勧和論」を著し、和を持って最上とする旨を説き、動乱の鎮静に努めている。
翌 1854年、進士の 施瓊芳(1815~1867年。台湾台南市出身。 次男の施士洁も科挙に合格しており、清代の台湾にあって稀有な父子として有名。次男は内閣中書にまで出世した)らと共に、
天津
の食糧不足に対応し糧食を寄付した功績により、 二品銜の官位を賜り、さらに、すでに亡くなっていた父にも追加で爵位を賜わることとなり、鄭用錫は 地元・竹塹城の誇りとして、厚い信頼を集めたという。 1858年、鄭用錫は享年 70歳で人生を終える(1869年に郷賢祠に合祀された)。
さて、日も暮れてきたので、あまり長く失意に浸ってもいられず、 そのまま北門街を南下し、城隍廟広場へと戻る。なお、 この北門街は古城時代、最も繁華街だったエリアというが、現在は駅前から最も離れた場所に位置し、その寂れ様は明らかだった。
夜になると、城隍廟エリアではネオンがきらびやかに照り出し、歴史ある神殿施設から純然たるアジアン屋台街へと、 極端に変貌していた。そのまま左折し、東門街をしばらく南下する。途中、中央路から西へ移動し、南門街をさらに南下する。
この途中で
関帝廟
を見つけた。ここも門前町が発達したようで、屋台マーケットが集結していた(下写真)。
南門街をさらに進み、林森路との交差点の先に、南門公園があった。 かつて、南門が設置されていた場所である。 こじんまりした公園内には、地元の自警団と 集会所を兼ねた小屋が、ぽつんとたたずんでいた(下写真左)。
ちょうどこの前を通る勝利路上に(上写真右)、 かつて西面から東面へと連なる城壁が立地していたわけである。そのまま勝利路を東進すると、河濱公園(護城河沿いの河畔)の 南端に帰り着いた。 ここから駅前ローターリーへ直進する。駅前広場には、かつての線路がそのまま残されており、若者らがたむろする憩いの空間になっていた(下写真左)。
このすぐ向かいにあった、 複数の屋台が入居する フードコート内(上写真右)で安い飯を食べようと思ったが、 下校中の学生らが大量に並んでいるので、やめた。結局、中正路沿いの吉野家と Subwayをハシゴして空腹を満たした。
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交通アクセス(
台北駅
へ)
駅舎横の地下通路を通って、再び、反対側のバスターミナルヘ移動する。
トイレを使用すべく、探してみると、2Fにある表示が。台湾で新設されたバスターミナルは、 一様にして、重い荷物をもった乗客の利便性を完全に無視した 2階建て構造になっている。もちろん、階段を登らされることになる。
そんな理不尽な設計内容に疑問を感じながら、トイレから戻ると、 1F部分のカウンターで若いスタッフが大声で台北行きの客寄せしていたので、値段を聞いたら 79 TWD というではないか!すぐに購入して、飛び乗った。
バス会社の名前は、新竹客運社というローカルバス会社らしい。 新竹市内で何度か停車しつつ、先々で乗客をピックアップしていた。往路に利用した国光バスが 120 TWDだったことを勘案すると、この値段差はいったい何なんだろうか。。。 19:00にバスターミナルを出発後、20:10ごろに終点の台北駅北側の承徳路沿いで降ろされた。
【
新竹県新竹市の 歴史
】
新竹市の旧市街地エリアは、早くから平埔族系 タオカス族の集落地が形成されていた。後に入植してきた中華系移民により、 原住民語の発音を中国語訳されて、「竹塹(ツーチェン)社」と通称されることとなる。
1626年、オランダが台湾島の北部を占領すると
、 オランダ人たちは竹塹にも足を運び、初めてキリスト教を伝播している。 1647年のオランダ東インド会社が残す資料で、「Pocael社」とか「Pocaal社」という名称で、竹塹社の人口調査報告が残されている。
しかし、実際の当エリアの本格的な土地開墾は、1661年に鄭成功が台湾島を接収してから開始された。 中華系移民らは 蓬山、後龍(下地図の苗栗)地区へと入植を進め、その原住民のテリトリーを次々と飲み込んでいった。 間もなく、この平埔族系タオカス族の 集落地「竹塹社」をも併合し、鄭氏台湾政権の下、 天興県(今の 台南市佳里鎮内に開設)の管轄区に組み込み、竹塹(ツーチェン)番社内に役所支部を開設する。
しかし、1683年、その鄭氏台湾も清朝に降伏し、 台湾島が清朝に接収されると、竹塹社は
諸羅県(現在の 嘉義市)
の管轄下に組み込まれる。
清朝廷による海禁政策が一部、緩和されると、 1691年(一説に 1711年)、王世傑が故郷の福建省金門島から、一族、村民ら 180名余りを引き連れ、竹塹(ツーチェン)社内の 暗仔街(今の 新竹市東門街)に移住してくる。 すぐに役所の許可を得て、土地開発に着手する。
王世傑(1661~1721年)
本名を王公禄、字を元安としい、号して世傑と称したという。
福建泉州下の同安県金門城外東沙(今の
泉州市
金門県金城鎮珠沙里東沙)に生まれるも、 3歳の時(1663年)、鄭成功が支配していた 金門島、
厦門
エリアが、南下する清軍に占領されてしまうと、 王世傑は 両親(王尚春と何媛娘)と二人の 兄(王世什、王世伝)と共に、他の村人らに紛れて海を渡り、 同安県城内へ避難するが、間もなく両親が相次いで他界してしまう。
1674年に三藩の乱が勃発し、鄭成功の後を継いで台湾島を支配していた鄭経が、 耿精忠の檄に呼応して福建省へ侵攻すると、土地を解放された 金門島、厦門エリアの住民らは、ようやくそれぞれの故郷へ戻ることが可能となった
。
この時、王世傑は鄭経の率いる台湾軍に加入する。 しかし、1680年に金門島が再び清軍に再占領されてしまうと、 王世傑はそのまま鄭経に従って台湾島へ避難することとなる。
鄭経が死去し、その子の鄭克塽が王位を継承するも、 台湾島北部の現住民らの反乱が度々勃発するようになり、王世傑は食糧調達官の立場で前線での鎮圧作戦に従軍することになる。
その時の手柄により、竹塹エリアの広大な土地の開墾権を下賜される。
しかし、
1683年、清朝から派遣された 総大将・施琅の遠征軍を前に、 鄭克爽が降伏し、鄭氏台湾が滅亡してしまうと
、清朝は台湾島で反乱が再発しないように、海禁政策を継続し、 王世傑は新移民の獲得が困難となり、残さた人員のみで少しずつ開発を継続せざるを得ない状況に追い込まれる。
ついに 1688年、王世傑は故郷の金門島へ戻り、兄二人とともに同安県城内にあった両親の墓を参拝する。 同年 11月12日、両親の遺骨を故郷の金門島の蘭厝山の麓へ移転した。以後、そのまま金門島に住み続ける。
清朝による海禁政策が緩和されると、1691年(一説に 1711年)、王世傑は再び、台湾島の竹塹エリアへ戻ることを決意する。このとき、一族や村人ら 180名余りを引き連れて、台湾海峡を渡り、早速、土地開墾を再開する。水田開発は順調に進み、 以後、大陸からの新移民もますます流入することとなった。
当初は、竹塹社内の 暗街仔(今の 東門街)を拠点とし、ここから 北西、 南西方面へと土地開発を進めたと言われる。順次増加した集落地は、それぞれ竹塹北庄や竹塹南庄などと命名されていった。
一方で、王世傑は故郷の金門島に残った一族に対しても配慮し続け、 彼の寄付金により金門島の海岸線に大きな祖先廟が建立されたという。また、土地の祭りも執り行い、毎年、 その収穫物の一部を故郷の金門島へ仕送りし続けたという(王世傑の死後も継続され、台湾島が日本に接収されるまで継続された)。
同時に、竹塹エリアに移住した一族の精神的支柱として、故郷の金門島から土地神を分納してもらい、 竹塹社内に廟所を建立する。それが、集落の中心地だった 暗街仔(今の 新竹市東門街)に現存する、東門堡福徳祠(俗称:東瀛福地)というわけである。 その他、多くの寄進を行い、新竹都城隍廟や 竹蓮寺などの建設にも尽力したとされる。 現在も、新竹城隍廟内に彼の禄位が安置されている。
1721年10月5日、地方の開拓地を視察中、土地を追われた原住民らに襲われ、首を切られることとなる。 一族らはその遺体に金属の頭部を繕って埋葬したという。遺体は金門島の蔡厝にある太武山の山裾に葬られ、 その 墓所(別称:金頭壳墓)は地元の史跡として、今でも保存されているという。 王世傑の直系子孫たちはそのまま台湾島に定住したため、彼の墓所は、 故郷の金門島に残った王世傑の長兄の子孫によって代々守られることとなった。
竹塹社に残った王世傑の家系は、その三代目の時代に法令違反をとがめられ、没落していったという。
その子孫で有名な人物としては、教育者の王士俊がいる。彼の教え子の一人が、 台湾島生まれで初の科挙試験合格者となった、鄭用錫である。
1725年には、広東省出身の徐立鵬が、同じく一族や村民らを引き連れ、 新竹、竹北、香山、新豊 一帯へ入植し、各地で農地開墾を進めていった。以後、中華系移民らの流入は加速度的に増大する。
こうした入植者の急増を受け、当時の台湾島北部の行政府であった
彰化県城
は、1723年、この 竹塹(ツーチェン)社内に出先機関として、 淡水庁役所を開設する(下地図。初代・竹塹城)。以後、淡水庁城と通称され、台湾島北部の 政治、経済上の中核都市へと大変貌を遂げることとなる。
「淡水庁城」に指定後、行政府の守備として城壁の整備が進められるも、 竹とイバラを城壁代わりに植樹し防柵としただけの簡易なものしか許可されなかった(下写真はイメージ)。これは、台湾島内で再び、 鄭氏政権のような反清勢力の台頭を阻止すべく、台湾島内で一律に、石積み城壁の建造を禁止していたためであった。
この植林城壁で囲まれた旧市街地区こそが(上地図。初代・竹塹城)、現在の新竹市街地の心臓部そのものであり、 かつ当時、付近一帯には数多くの竹林が群生していたことから、「竹塹城」の異名をとることとなり、 現在の新竹市の由来につながっているわけである。
1733年に淡水庁役所が正式に
彰化県城
からこの竹塹城内へ移転されると、 淡水同知(現地行政官トップ)として、徐治民が着任する。徐治民は、竹塹城にさらなる強化工事を加え、 最終的に全長 1,408 mの植林城壁で庁役所と 集落を 4重に取り囲み、一番外に外堀を巡らせたのだった。 城内は 東・西・南・北の 4地区に区分され、それぞれ東門、西門、南門、北門の 4城門が設けられることとなる(下絵図)。
1756年、淡水庁役所の庁舎が、ようやく完成される。
しかし、1759年には外周の植林城壁のほとんどが枯死してしまっていたという。 以後も、植林城壁は何度も何度も、植え替えが進められるのだった。
1806年、蔡牽の海賊団が台湾島全土を蹂躙した際、竹塹城も 包囲されるも、何とか籠城戦に成功すると
、淡水同知(現地行政官トップ)の 胡應魁(?~1808年。
江蘇丹陽県【今の 江蘇省鎮江市】
出身。1784年、 科挙に合格すると、1797年1月に徳化県長官を皮切りに、台湾府下の
彰化県
長官、淡水撫民同知、
嘉義県
長官などを歴任後、1806年に淡水同知に 着任していた。1808年、任務中に病没する)は住民らと協力し、竹塹城の植林城壁を強化すべく、 土塁建設を進めることとなる。
1812年、淡水同知に着任したばかりだった査廷華も、土塁のさらなる強化工事を手掛け、 厚みも高さも 3 mずつ増強される。この時、土塁の全長は約 5,000 mに達しており、その外側にはさらに竹や イバラが植樹され、 その外側にようやく外堀が掘削されるという、入念な防衛システムが構築される。2年後の 1813に完成を見る。
1826年、竹塹在住の進士であった鄭用錫らが
台湾府(今の 台南市)
へ上奏し、 竹塹社に石積み城壁の建造を願い出る。
翌 1827年、鄭用錫らは、台湾島へ視察訪問に出向いていた、 閩浙総督の 孫爾準(1772~1832年。
常州府金匱県 ー 今の 江蘇省無錫市
出身。 広西巡撫にまで出世した孫永清の子で、1805年に科挙に合格し、進士となる。1814年より 福建汀州府長官、江西按察使、福建布政使、 広東布政使、安徽巡撫、福建巡撫【この時、初めて台湾島を視察】を歴任した後、 1825年に閩浙總督となり、台湾・彰化での反乱を平定する。 その後、台湾島各地の守備強化を進め、朝廷から太子少保の爵位を下賜される。 1831年に病気を理由に引退し、翌年に死去する。その際、太子太師の爵位を授与された)との会合の機会を得て、 石積み城壁と楼閣付の四城門の建設許可を陳情する。
初期のころの植林防柵は規模が小さ過ぎ、 近年に建造されたばかりだった土塁は巨大過ぎたため、 逆に人口比で防備が手薄になるリスクもあったわけである。
間もなく許可が下りると、すぐに工事が着手される(1827年6月)。
古い土塁はそのまま放置され、 新たに全長 約 2,752 m、高さ 4.8 m(城壁上の凹凸壁を含めると、高さは 5.76 m)、 厚さ 5 mで設計され、石積み城壁の建設が進められた。完成した城壁上には、 凹凸壁と 馬道(守備兵の待機空間)も整備される(下絵図。二代目・竹塹城)。
城隍廟を城内中央に配し、4城門が設置され、東門(迎曦門)、 西門(挹爽門)、南門(歌薫門)の 3城門には砲台が 1つ、北門(拱宸門)には 2つ配備される。 各城門内には、兵器庫、砲台、見張り台、貯水桶などが装備されていた。また、城壁の外には幅 2.6 m、深さ 2.4 mの外堀が掘削され、その上に 吊り橋(長さ 8.2 m、横幅 1.6 m)が 2か所に架橋される、 本格的な 城郭都市「二代目・竹塹城(淡水庁城)」が誕生することとなった。
それぞれの城門に通じるように 東門街、西門街、南門街、北門街が城外に配置され、 50年前に建造されていた土塁の一帯とあわせて、現在の新竹市中心部の原型が出来上がったわけである。2年の工事を経た 1829年秋に完成される。
しかし、城壁は以前の土塁よりも相当に小規模化されており、 もともと土塁内に位置した鄭用錫自身の 邸宅(北郭園)や、竹蓮聚などはすべて城外にはみ出す形になっていたという。下地図のうち、紫色の点線が土塁を表し、 赤色の点線が今回、整備された石積み城壁を表している。
こうした事情から、直後より、城外にはみ出された水田莊や 湳雅莊などの住民が抗議し、城壁のさらなる拡張嘆願が重ねられるようになる。 ついに 1839年、台湾兵備道の 姚瑩(1785~1853年)が、淡水撫民同知の 龍大惇(江西出身。1838年に婁雲の後任として、淡水同知に着任)に、 外周部分の土塁に関し、再整備が必要か否か、調査を命じたのだった。
3年後の 1842年にアヘン戦争が激化すると、英国軍艦が附近の大安港にまで姿を現すようになり、 1841年より淡水同知に任じられていた 曹謹(1787~1849年。
河南省焦作市
沁陽市出身。直隸省、福建省、台湾内の諸県で長官職を務めた)が、 地元名士らと協力し、もともと外周に残っていた土塁を再整備することを決定する(下地図の、紫色の点線)。
こうして、高さ 3.4 m、全長 4,985 mの大規模な土塁城壁が完成され、その外側にさらに竹林が植樹され、 そして 外堀(幅 6.7 m)が掘削される、という手の込みようであった。 新たに整備された土塁城壁には、大小 8か所の城門が設けられていた。すなわち、大東門(賓暘門)、大西門(告成門)、大南門(解阜門)、 大北門(承恩門)、小東門(卯耕門)、小西門(觀海門)、小南門(耀文門)、小北門(天樞門)である。 と同時に、民兵を募って、イギリス艦隊や上陸軍との小競り合いも行われた。戦後になって、 この台湾戦役でイギリス軍捕虜に対する取扱いを英国側から追究された清朝廷は、曹謹を罷免することとなる(その後、曹謹は 1845年10月、老齢を理由に隠居し、 故郷に戻って 63年の生涯を閉じる)。
清朝末期の 1875年、淡水庁が廃止されると、竹塹城は新竹城へと改称され、新竹県の県役所が新設される。
日清戦争後、新竹県城は、台湾島を接収した日本政府に頑強に抵抗するレジスタンスの重要拠点として機能した。 しかし、その反抗も鎮圧され、日本による統治が開始されると、新竹県は台北県に併合され、新竹支庁へ降格される。
1901年、北門大街の金徳美商店を発端に大火災が発生し、北門が全焼してしまう。
翌 1902年、日本政府は近代都市計画を策定し、東門を除く、すべての 城門、城壁、城楼などの完全撤去が決定される。 こうして、焼失した北門に続き、南門、西門も破却され、東門(迎曦門)のみ残されることとなったわけである(下写真)。
もともとあった外堀は、都市河川や用水路へ改修される。
現在、台湾島で残存が確認されている外堀跡としては、
鳳山県城(今の 高雄市左営区)の 南門~東門に連なる城壁沿いの 外堀跡
とあわせて、 この 2か所のみという。
1920年9月には、新竹支庁と 桃園支庁が合併され、新竹州へ改編される。そのまま州役所は、新竹城内に開設された。
1935年、東門(迎曦門)が 台湾総督府から史蹟指定を受け、文化保護を受ける。
1945年に日本軍が撤退すると、中国国民党が台湾島を接収し、同年 10月、新竹県へ改編される。
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