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屏東県 恒春鎮
訪問日:2015年6月中旬
台湾 屏東県 恒春鎮 ~ 鎮内人口 3.2万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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恒春古城 マップ ~ 高雄駅前から 屏東行バスに 乗車する(299 TWD、2時間15分)
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南城門、南面城壁の 土台跡、東城門、東面城壁、出火
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北城門、楼閣台座跡、馬道、北面城壁
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ホワイト!な 城隍廟、西城門、広寧宮、猴洞山、福徳宮、天后宮
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屏東県恒春鎮の 歴史
【
恒春古城
】
高雄
→ 屏東行の中距離バスに乗車し(片道 299 TWD、2時間15分)、いよいよ恒春古城に入ると、 南門の正面向かいあったバスターミナルで、全員が下車した(上地図の中央部)。ここにはファミリーマートがあり、バス待合所と観光案内所が連結された、 憩いの(唯一の!)クーラー空間になっていた。トイレはバス待合室のものを使うことになる。
そのまま南側の直線道路に見えている、
南城門(別名:明都門)
を目指してみた。下写真左。
日本植民地時代には、この南城門脇から 南湾、墾丁方面へ、貨物列車の線路が敷設されていたという。
この南城門の左右にあった南面城壁は、現在、ほぼ撤去されてしまっている。 一部に城壁土台跡のみが残されていた(下写真右)。
下写真左は、東城門。この東城門を出て、徒歩 10分ぐらいのところに、 観光名所の「出火」がある。地面の岩盤から漏れ出す天然ガスが引火されたもので、 24時間365日、炎を絶やさないというスポット。しかも、その炎は少しずつ移動している。 夏秋期の雨季には、地下に火が隠れてしまって見えなくなるため、晴天の続く春冬期が見どころという。
下写真右は、東面城壁。このまま西門までずっと城壁上を歩ける。 現在の城壁の高さは約 3 m強。
下写真左は
北城門
。
この北城門の特徴は、脇に馬道があり、城壁上へ騎馬が直接、乗り入れられるように設計されている点だ(下写真右)。この特徴は台湾では、
高雄市にある鳳山県城の東門
と、この恒春古城 北門の 2箇所だけに 現存するという。
各城門上には楼閣が設置されていたようで、 その台座が保存されていた(下写真左)。
この日は真夏日で、炎天下での史跡巡りは、かなりきつかった。台湾出兵時の日本軍は、 5月に上陸すると、年末までかけてこの台湾島南端の山岳地帯を戦っていたわけで、 戦死者よりも病死者の方が多かった理由も簡単に推察できた(戦死者 6名、負傷者 30名、病死者 531名)。。。 筆者は、西城門や 西面城壁の散策を諦め、北城門から北門路を南下し、バスターミナルに戻ることした。。。
当地の城隍廟は、他の台湾内の古城とは比べ物にならないぐらいシンプルだった(
下写真右
)。 なぜか白色ベースでまとめられていた。。。 バス待合室のすぐ後ろにある。
それにしても、こんな台湾島南端の半島に位置した城郭であったが、 その城域は意外に広いのに驚かされた。なお、今回、訪問を断念した西城門エリアに、 往時の旧市街地の一部が残されている。広寧宮、猴洞山、福徳宮、天后宮など。
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交通アクセス
高雄
鉄道駅の東隣にあるバスターミナルより、屏東行のバスに乗車する(片道 299 TWD)。かなり距離があり、2時間15分ほどかかった。
途中、バスは台湾最南端の半島部分を通過していく。 それまでの平野地帯から山脈地帯が続く一帯へ突入する。
嘉義市内の地震博物館
の資料によると、台湾島は東部の海岸地帯での地震が最も活発で、 今日現在でも東側の海岸線沿いにどんどん新しい山脈が創造され、 数万年をかけてその山脈の西側が雨風で削られることで、台湾島の西部平原が形成されていったようである。
このように考えると、現在の台湾島の最南端の 半島部分(墾丁国立公園)も、 数百万年後には、台南市や 台中市一帯のような平野が形成されているのもしれない。
【
屏東県恒春鎮の 歴史
】
現在の恒春鎮一帯には元来、 台湾南部の原住民である高山族系の 集落・琅橋社(「社」は集落の単位)が存在していた。
清朝末期の 1874年5月、日本明治政府により台湾出兵が強行される (総司令官・西郷従道の率いる、5隻の戦艦、及び兵士 3,658名)。 ちょうど現在の射寮庄の海岸線より上陸した日本軍は(現在、日軍登陸紀念碑が設置されている)、 台湾南部の半島一帯に戦域を拡大していく(下地図参照)。 そして、半島中腹部の山岳地帯にテリトリーを築いていた、高山族系の集落群を攻撃したのだった。 特に、その 主力集落・牡丹社をめぐる戦いだったことから、牡丹社事件と通称されることとなる。
この戦役に対し、 清朝廷は沈葆楨を 欽差大臣(皇帝直属で、内乱鎮圧・対外重要問題処理などで都度、臨時設置された 全権委任担当者)に任命し、 台湾島へ派遣する。台湾島に領事館を開設していた欧米列強を介しつつ、 外交交渉にて日本軍撤退を模索するも遅々として進まず、最終的に日本政府も大久保利通を北京へ派遣して停戦交渉を進め、 ようやく同年 10月末に収束を見たのだった。
他方、沈葆楨が台湾に駐屯中、台湾島の防衛があまりに未整備であることに危機感を覚え、土地開墾、 原住民の 同化政策、砲台陣地の建造などを積極的に進めていった。 この一環で築城されたのが、恒春県城というわけであった
。
早速、同年中に、南端の内陸部に位置した 集落「琅橋社」に、 恒春県役所が開設される。その県名の由来は、「年中、春のように 温かい(暑い)気候の地」という意味であった。
1874年末に日本軍が全面撤退すると、翌 1875年11月より県城の城壁建造が着手される。 まる 4年がかりの工事を経て、1879年9月に完成すると、その城壁の全長は約 3 km、高さ 6.6 m、東西南北に 4つの城門を有し、それぞれの城門楼閣は高さ 5.6 m、 横幅は 23 mにも達する壮麗なものとなったという。
しかし、一度も戦火を被ることなく月日は過ぎ、日清戦争を経て日本が台湾島を併合すると、 恒春県は高雄州の行政区に帰属される。第二次大戦終了後に中国国民党が進駐してくると、 翌 1946年に恒春鎮が新設され、そのまま今日に至っている。 この古城エリアは、すでに日本の植民地時代から歴史地区に指定されており(1935年)、 現代台湾にあって、ほぼ完全な姿のまま残る城郭遺跡として、中央政府指定の古跡となっている。
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