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新北市 淡水区
訪問日:2014年6月中旬 / 2018年12月中旬
台湾 新北市 淡水区 ~ 区内人口 17.5万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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台湾の地下鉄 や 駅構内は きれいだけど、危険!?
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軍事史から見る 淡水 ~ スペイン時代、オランダ時代、鄭氏政権時代、清代 ~
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清末~現代、治外法権テリトリーだった「紅毛城」跡地 ~ 英国、豪州、米国 領事館時代
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小白宮 Little White House(清代の 旧税関長官公邸跡)と 異国情緒あふれる 学園街
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台湾島 交易航路をめぐる 日英バトル ~ ダグラス社(本社・英領香港)事務所跡
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淡水河の 今昔 ~ 台湾島北部の大動脈 と 巨大中州
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滬尾砲台遺跡への 訪問 ~ 淡水駅前バスターミナルから 紅 26番路線バス(15 TWD、10分)
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【豆知識】台湾島北部の歴史を 総なめしてきた、滬尾砲台遺跡 ■■■
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台湾島の北岸線の 862路線バス・ドライブ(2時間15分、120 TWD) 淡水 ~ 基隆 ルート
台北
駅から地下鉄 一本で、淡水駅まで行きつく(約30分、50 TWD)。台湾の
地下鉄駅
構内は広いし、清潔だった。
特に驚かされた点は、駅のホームに、「身の危険を感じた婦女が集うポイント & 警報機」が設置されていたことである(下写真右)。そんなに危ないのか、台湾の電車???
下写真左が淡水駅の全景。駅ホームからの景色もすばらしい。 このホームから見える対岸の山が、観音山(下写真右)。観音様が横になっているように見える、という由来。
さてさて
、ここ淡水地区の歴史はとりわけ複雑だ。
16世紀半ばまで、 大航海時代の先駆者たるポルトガルと スペイン(カトリック)が東南アジア交易市場を独占していたが、 航海術を発達させた 英国、オランダのプロテスタント勢力も新規参入を試みるようになる。
1622年6月22日、 オランダ艦隊が英国海軍の支援を得てマカオの ポルトガル拠点(ギア要塞)を攻撃するも失敗し
、
代わりに同年 7月11日、 澎湖諸島を占拠する(下古絵図は澎湖諸島の住民らと オランダ軍との抗争を描いたもの)
。
これに激怒した明朝は 1622年2月、 商周祚を罷免し、新たに 南居益(1565~1644年。陕西渭南出身。1601年に科挙合格後、 刑部主事、広平府長官、山西提学副使、雁門参政、按察使、左右布政使、太仆寺卿、 右副都御史 などを歴任していた)を福建巡撫に任命して、 オランダ勢の強制排除を厳命する
。2年ごしの交渉と武力衝突を経て 1624年、オランダ勢力を 台湾島南部(今の
台南市
)へ退去させることに成功する。 この功績により、南居益は翌 1625年、中央朝廷に復帰し、工部右侍郎、総督河道へ昇進することとなる。
こうしてオランダが台湾島南部に拠点を確保すると、中国(福建)ー 東南アジア貿易(マニラ)の交易独占体制が脅かされることを恐れたスペインが、 同年中に台湾島北部に上陸し実効支配を強行する。
1626年には基隆に軍事要塞を築き
、2年後の 1628年、 交易の利便性からこの淡水の地にも要塞を建造するのだった。
このとき、淡水に建設された軍事要塞は サン・ドミンゴ要塞と名付けられ、 当初は土と 竹、木で組み立てられた簡易なものであったらしい。1636年に地元原住民によって焼打ちに遭って以降、 大砲を備えた石壁による軍事要塞へ、大規模改修が加えられることとなった。 これらを足場に、スペイン勢は一時期、台湾島北西部の
新竹
まで勢力を拡大する。
しかし、フィリピンのマニラで反スペイン暴動が勃発し、スペインに台湾経営の余力がなくなると、
1642年、その隙をついてオランダが基隆砦へ進出し、 駐留スペイン軍は無血開城に追い込まれる
。と同時に、修築工事途上の淡水砦も放棄の上、 すべてのスペイン勢力が台湾島から撤退すると、オランダによる東アジア貿易の覇権が確立する。 オランダ人は、スペイン人によって破却された淡水砦の再建を進め、1644年に石材と 煉瓦で積み上げられた、 二層構造の 要塞「アントニオ城」を完成させるのだった(下絵図)。 地上部分は貨物と 大砲、兵員のためのスペースで、地下には食糧、弾薬などが保管されていたという。
しかし、1661年の鄭成功による台南のオランダ拠点への侵攻直前、南明軍に焚きつけられた 台湾原住民の襲撃を受け、 要塞「アントニオ城」の放棄が決定される。オランダ軍の手によって要塞施設が破却され、大砲などの武器類はすべて
台南
へ運び出されることとなった。
鄭成功はオランダ勢力の駆逐後、 この淡水砦を修築し、防衛拠点の一つに定めるも、間もなく
基隆
の防備に注力するようになり、淡水の拠点は放棄される。
その後、
1683年に鄭氏政権が清朝に降伏すると、 台湾島も清朝の版図下に組み込まれる
。
しかし、清朝の台湾統治は過酷を極め、 本土の 2倍以上の重税や 様々な制限に大いに苦しめられた台湾住民らは、数年ごとに大小の民衆反乱を起こすようになる。 この中でも、特に最大規模を誇ったのが、朱一貴(1690~1722年)の乱であった。一時期は、台湾島のほぼ全土を占領するも、 反乱軍を構成した台湾住民らは、そもそもが烏合の衆で、広東省、福建省移民らの積年の抗争から内部瓦解し、 同時に渡海してきた清朝援軍に圧倒され鎮圧されてしまうのだった。
清朝はこの大規模な民衆反乱を受け、台湾本島内の各防衛拠点の増強工事に着手する。 この一環として、1724年、淡水砦の大規模改修が実施され、東西の大門と 南北の小門を増築して「砲城」が完成される。地元民の間では、引き続き、 「紅毛城(欧州人が建造した城塞、という意味)」と通称され続けることとなった。
時は下って清末の
1858年
、天津条約によって淡水港の開港が決定され、 さらに追加締結された 1860年の北京条約を待って、 その翌年 1861年、英国が淡水港に台湾副領事館を開設する(正領事館は
台南
に開設されていた)。続いて、1863年、英国は淡水のこの 旧オランダ城塞(砲城。紅毛城)を租借し、 在淡水英国副領事館として正式に使用し始め、 1878年には台湾島における正規の領事館へ昇格させる(当時すでに、
高雄
、
安平
、
基隆
にも副領事館が開設されていた)。この後、城塞施設は改築され続け、 領事施設以外にも居住区も増設される。 現在、目にする城塞の遺構は、このとき英国により改修された当時のものとなっている。城塞の 1階部分は炊事場と 牢屋で構成され、領事事務所は 2階部分にあった(下写真)。
城塞施設は空堀を有し(下写真の右)、 さらに厚さ 1.9 mもある分厚い外壁で囲まれていた。本来は正方形の要塞だったが、 屋根付き廊下やテラスなどが追加され、徐々に軍事目的としての体裁が失われていったようである。下写真左。
下写真中央の大砲は、 ここに居住したイギリス人らの趣味によるデコレーションだそうだ。時代遅れで使用不向きとなった大砲類が、 こうして飾りに使われたようである。下写真の右は、清代に設置された石積み門で、現在でも正門として現役で使用されていた。
日清戦争を経て、台湾の統治権が清国から日本へ移った後も、 この城塞施設は英国が租借し続けた。太平洋戦争中は閉鎖されていたが、1948年から再び、英国がここに入居する。 1972年の英国ー台湾の国交断絶により、豪州、つづいて米国へと管理者が移り、1980年にようやく台湾に返還される。まさに台湾島にあって、
長らく
治外法権テリトリーだった、と言える。
その東に広がる山の斜面上には(上写真左)、 カナダ系の 真理大学(1882年建学)内にある オックスフォード・カレッジ(上写真中央)を筆頭に、 クリスチャン系の幼稚園、私立の小中学一貫校、台湾国立小学校や中学校などなど、 たくさんの教育施設が集まる、閑静な学園街が広がっていた。 その一角地に、Little White House(小白宮)と言われる、清代の旧税関長官公邸跡が残されていた(上写真右)。 清代には、同じ敷地に税関職員らの宿舎や 廟所も立地していたが、戦火により現存していないという。
アジア各港の開港により海運交易が活発化すると、
蒸気機関船
を有する欧州勢がこの物流、貿易事業に積極的に関与するようになり、巨万の利益を上げていく。 こうした自由貿易時代が到来する中、 1860年、英領
香港
を拠点に、スコットランド人 ダグラスによって、Douglas Steamship Company が設立される(本社事務所は、現在の香港大学の位置にあった)。 最初は中国南部と 香港とを往来する船便会社であったが、後年、蒸気機関船を 香港 ー 中国(
厦門
、
沙頭
)ー 台湾(
安平
、淡水)間にも拡大し、特に台湾ルートは Douglas 社のみが蒸気船を就航する独占市場となり、莫大な利益を手にしたとされる(現在価格でいえば、香港~淡水間で 1トンあたり 7 USD、乗客は片道 45 USDぐらいであったようで、相当に高額な価格設定であったという)。当時、台湾からの輸出品トップは、ウーロン茶であった。
下の写真は、Douglas Steamship Company を設立した、Douglas Lapraik(1818~1869年)の肖像画と、同社の 事務所兼倉庫(Douglas Laprail & Co.)の跡。同社の淡水撤退後は、日本当局により消防局へと転用された。
なお、この Douglas Lapraik は、英領香港において最も成功した事業家の一人で、 東アジアの植民地ビジネスを支えるべく創立された、香港上海銀行(HSBC。1865年設立)の 創業者の一人に名を連ねる。 最終的に、Douglas Steamship Company は 1972年、事業上で大きな損害を被り、 経営が不安定化し、1987年に登記抹消されることとなった。
1895年に日本による植民地統治が開始された直後も、引き続き、 Douglas 社の蒸気機関船と帆船は、東アジア交易事業を継続する。 ちなみに、日本軍の入島までの 1週間ほど台湾独立を唱えていた、 台湾民主国の 総統・唐景崧(1841~1903年)は、この Douglas 社の蒸気機関船で大陸中国・
廈門
への脱出を試みている(6月4日。現場の混乱もあり、 翌 6月5日付で、ドイツ籍の輸送船 Arthur号に乗り込んで渡海に成功した)。
日本は進駐後すぐの 1896年4月、 大阪商船株式会社(1884年創業。1964年に商船三井と合併し、現在に至る)に、神戸 ー
基隆
間の定期航路開設を指示する(公的借款も与えられ、好待遇でスタートされた)。 英国資本による台湾航路支配に対抗するためであった。 さらに、大陸中国との交易ルート開拓も企図し、1899年3月に追加借款と指示書が、植民地政府より 日本大阪商船に発せられる。 翌 4月には早速、最初の大陸間航路便が就航された。 こうした政府の全面バックアップによるライバル出現により、暴利をむさぼってきた独占企業の Douglas 社も 1902年、台湾ルートからの撤退を決意し、本業であった 中国南東部 ー
香港
ルート事業に徹することとなる。
下古写真は、1930年代の淡水区街区。中央に、かつての Douglas Laprail & Co 社屋跡が見える。この当時は日本統治時代の真っただ中で、消防局に転用されていた。 現在、この建物は博物館となっている(中正路 316号)。地元役所がちょうど向かいに立地していた。
この眼前を上がれる
淡水河
であるが、
台北城
下まで遡る途中に、 かつて大きな中州があった。今ではそこも埋め立てられて、ほとんど陸続きとなっている。下の、古地図と現代地図を比較してみてほしい。
淡水河の上流域を望む(下写真左)。
台北
市街地へと続く。また下写真右は、逆方面の淡水河の河口付近を望んだもの。観音山の足の部分にあたる。
筆者は当地への
二回目訪問時
、紅毛城のさらに先にある、滬尾砲台遺跡を見学すべく(下地図)、 淡水駅前バスターミナルからのアクセスを試みた。
この淡水駅前バスターミナルには、複数の路線バスが発着しており、
台北市
内の板橋区行や、後述する
基隆
行などが運行されていた。
今回、紅 26番バスに乗り込み(下写真左。運賃 15 TWD)、10分弱の乗車後、滬尾砲台(Huwei Fort)バス停で下車してみた。下写真右。
下地図は、バス停前にあったもの。 このまま、緩やかな丘陵地帯を 5分ほど登ることになる。
下写真は、滬尾砲台遺跡の入り口。入場無料。
高さ 6.5 mを誇る防塁壁と 要塞門(初代台湾巡撫に就任し、 台湾島の防衛強化策に奔走した劉銘伝による、直筆の 銘板「北門鎖鑰」が右上に見える)が、出迎えてくれる。
こじんまりした砲台陣地だったが、保存状態は非常によかった。
要塞内部の兵舎や倉庫部屋もきちんと整備され、 無料の観光地とは思えない手入れの行き届きようだった。旧兵舎などの屋内スペースは、各シーズンに応じて臨時展示会場になるらしく、 ちょうど筆者が訪問したタイミングは、南京大虐殺の特設ステージとなっていた。。。
下写真左は、砲台陣地の全景図。 四方の防塁壁内部が兵舎を兼ねており、その屋上部分には通気口がたくさん突き出ていた(下写真右)。 コンクリート屋根上に緑地帯が設けられた理由は、砲弾などのショック吸収目的という。壁面の最大幅は 4.2mもの分厚さを誇ったという。
中央の 緑地部分(上写真左 ⑧)には、 1991年の整備工事中に発掘された建物礎石が残されており、清代に司令部があったと推定されている。 日本軍の進駐後に撤去され、中庭の空間は射撃訓練広場に利用されていたという。
下写真右は、清代にあったと見られる、司令部建物の想像図。
見学後
、そのまま淡水河沿いに徒歩で駅前まで戻った。 だいたい 40分ぐらいだった。河口部を吹き抜ける海風の強い一日だった。
滬尾砲台( Hobe Fort )
当丘陵地帯には、 1628年にスペイン人が サン・ドミンゴ要塞を建造した当初から、小規模な砲台拠点が設けられ、 1642年にオランダ人がスペイン人を駆逐して台湾全島を掌握すると、 そのままオランダ軍の駐留基地として転用されたと考えられている
。
1661年、鄭成功が台湾への侵攻を開始し、オランダ勢力との間で戦争が勃発すると、台湾北部の淡水と
基隆
を守備していたオランダ方の守備兵らも
台南
へ集結することとなり、その際、オランダ軍はこれら台湾北岸の城塞群を破却し、 また、配備していた大砲類一式をそのまま台南へ移送する。
最終的にオランダ人駆逐に成功した鄭氏政権の 統治下(1661~1683年)、 その支配地は台湾南部と 基隆エリアに集中されたため、淡水は完全に放棄されていた
。
1683年に清朝により鄭氏政権も打倒され、 台湾島が併合されると
、過酷な重税政策が導入される。
1800年前後、蔡牽や朱濆に率いられた海賊集団らが度々、 淡水地方を襲撃したため、1808年、清朝は守備隊の配置を決定する
。 こうして 1813年、現在の滬尾砲台遺跡のあたりに最初の砲台陣地が設置され、 淡水河の河口エリアの守備を司ることとされた。 その建設地に、何らかのオランダ時代の拠点跡が残っており、その遺構が利用されたと推定されている。 現在、この清代以前の遺構は未だ発見されていない。
1884~85年の清仏戦争勃発の直前、 台湾事務大臣に大抜擢されて 劉銘伝(1836~1896年)が台湾島に赴任すると、淡水、 基隆をメインとする台湾島北部で フランス艦隊、及び、その上陸軍と死闘を演じる
。この戦功により、 1885年10月、台湾島が福建省の行政区より分離され、台湾省が新設されると、 劉銘伝はその軍事行政官トップである 初代台湾巡撫に任じられる。以後、その在任期間の 6年間、 精力的に台湾島の防衛力強化を図り、鉄道や電信インフラ整備とともに、 沿岸部に複数の砲台陣地を建設することとなる。 この一環で早速、翌 1886年、
基隆(劉銘伝トンネル など)
、滬尾、
安平(台南)
、
旗後(高雄)
、
澎湖諸島
などの 5箇所に、合計 10の砲台陣地が新設されるのだった。 この時、滬尾砲台陣地には四門の大砲が配備され、淡水港の守備陣地としての役割を期待されたのだった。
しかし、結局、一度も戦闘に使用されることはなく、 この滬尾砲台陣地は日本軍に接収され、以後、日本駐留軍の射撃練習場として利用されたという。 中華民国時代の初期、滬尾砲台陣地に軍隊が配置されるも、1985年に二級史跡に指定されて以降、 観光地として一般開放されることとなる。
なお
、初回訪問時に淡水駅前バスターミナルから
基隆(Keelung)
までの 826番路線バスに乗車してみた。2時間15分もの長丁場の移動ルートだった(片道 120 TWD)が、途中で目にする海岸線や 田舎町の風情は非常に見応えがあった。 ちょうどこの海の向こうに沖縄や 尖閣諸島があるわけだ。台湾北部のドライブコースになっているらしい。このルートをひたすらバスは走り続けていた。
基隆への最速アクセスは、淡水から地下鉄でいったん
台北駅
まで戻り、駅前バスターミナルから
基隆
へ向かった方が確実に手軽だろう。しかし、延々と続く海岸線の旅など、 田舎でノスタルジーを堪能されたい、という趣向の方であれば、是非、862番路線バスをお勧めしたい。
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