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嘉義市
訪問日:2015年6月中旬
台湾 嘉義市 ~ 市内人口 27万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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嘉義県城(諸羅県城)
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北門エリア
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南門エリア
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城皇廟 と 蘭井街
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東門エリア
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西門エリア
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日射塔 と 嘉義公園
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嘉義市遺跡資料館 と 嘉義市博物館
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獄政博物館
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獄政博物館入り口の モニュメントが。。。これ要らないでしょ。。。
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嘉義市の 歴史
【 嘉義県城(諸羅県城) 】
嘉義県の旧市街地にあった嘉義県城は、元々は諸羅県城と呼称されていた。 1787年、清朝 6代目皇帝の 乾隆帝(在位:1735~1796年)から直々に、改名を下賜された地として、台湾島では唯一の例となっている。
本城は清代に 3回にわたって拡張工事が進められている。 上地図で、黄色線が初期の植林防柵時代、 オレンジ色線は次代の植林と 土塁混合時代、そして赤色線が最後の石積み城壁時代を表している。 その変遷史を俯瞰してみると、南城門は常に不動だったようで、 すなわち、この周辺が古くからの旧市街地の発祥ポイントだったと類推できる。
下の写真は、諸羅県から嘉義県へ改名された直後の、オレンジ色線当時の模型である。
その 100年後の
1878年
、 石積み城壁が建造されるも、日本植民地時代の 1906年に嘉義大地震が発生し、西門、北門、南門と 城壁のほとんどが倒壊してしまうのだった。 このとき、東門だけは難を逃れたものの、後に撤去され、その台座は嘉義市公園へ移設されたというが。。。公園内にはそれらしい遺構は見つけられなかった。
下写真は、石積み城壁時代の北門跡付近。 それぞれの城門があった場所は、円形広場になっており、分かりやすい。
ちなみに、下写真右は、北門付近にあった嘉義市の市役所庁舎。 市街地のほぼすべてが渋い古民家の雰囲気を醸し出す中で、この建物だけが 1世紀未来を進んでいるかのようなデザインだった。
下写真
は、南門跡の一帯。 やはり円形サークル状の路地となっていた。
なお、この嘉義市の特徴は、各城門跡の一つ外側の路地名が、それぞれ 南門街、北門街、西門街、東門街などと 命名されていた点だった。かつて外堀が掘削されていた跡地と考えられる。また、古城内の路地名には一切、 往時を偲ばせる通り名を発見できなかった点も、他にない特徴だった(県衛街、廟前路など、、、)。
南門外にあった 崇陽古道(下写真)。 風鈴がビンで自家製されていた。こういう生活の知恵的なもの、筆者は大好きである。
この街の
城隍廟
は相当に大きかった(下写真左)。門前町もしっかり発達しており、地元社会のつながりの深さが感じられた。
この裏手に蘭井街という路地があり、オランダ人が開拓時に掘削したという 井戸跡が残っていた(下写真右)。 なんかお店の軒下にギリギリある、という印象。
下写真左は
東門跡
。 やはり円形サークルの広場となっていた。
また、下写真右は、道中に発見した慈覚寺の廟。古い日本家屋が改造されて現役で使用されていた。
下写真左は、
西門跡
付近にあった、 奇抜な銀行ビル。思わずシャッターを切ってしまった。
下写真右は、地元の人々が「桃尻」と呼ぶ交差点。 かつての古城が桃の形をしていたことから、桃城と別称されており、その名残となっている。
どうやら、嘉義市は台湾島での野球の発祥の地らしい。 「桃尻」交差点中央に、野球投手の記念像が立っていた(上写真右)。
ここから鉄道駅まで歩いて帰る。だいたい 10~15分。
下写真は、
射日塔
から古城地区を臨んだもの。
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交通アクセス
台北市
からバスで 350 TWD。4時間強。
筆者は、
彰化鉄道駅
から列車で嘉義市に入った。 142 TWD。所要時間 1時間15分。指定席だったが、車内はガラガラなので、実質的に自由にどこでも座れる。
嘉義鉄道駅は、ちょうど古城地区の西郊外に位置し、古城地区までは徒歩 10~15分程度だった。
【 日射塔 と 嘉義公園 】
この嘉義公園一帯には、かつて、原住民の集落があり、 また丘の上には祭壇が設けられていた、という。明末にオランダが台湾島へ上陸し、この集落地を攻撃、占拠する。 その後、東側の王田里一帯に農園開拓が進められたという。その跡地が、下写真の一帯。
原住民集落の祭壇があった跡地には、今日、日射塔が立つ(下写真左)。 嘉義市は北回帰線上に位置しており、夏至の 日(毎年 6月23日前後)の正午、太陽がこの真下に入るように 設計されているという。実際にはもう少し南側に、本当の天体観測所が設けられており、そこが北回帰線の真下となっている。 ちょうど、
台南
へ向かう鉄道線路上の進行方向右手に見えてくる。
日射塔へ登ってみた(上写真左)。50 TWD。エレベーターで 10F。 11Fにカフェ、12Fは 屋上庭園&展望台となっていた。
上写真右は、嘉義公園内にあった孔子廟。もともとは旧市街地区にあったが、移築されたという。
なお、この嘉義公園自体は日本統治時代に造成されたもので、 主に日本人向けの憩いの場所とされていたらしい。 当時は、児童公園、嘉義神社、斎館、社務所 などが要所要所に配置されていたという。
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交通アクセス
嘉義鉄道駅からタクシーで 125 TWD。 路線バスでは、24 TWD(だいたい 1時間に一本の割合で運行)。 規模の小さな町なので、バス運行数が少ない。 ちょうど嘉義公園の正面入り口が、バス停となっており、嘉義鉄道駅 ⇔ 嘉義公園 との間を往来している
(24 TWD ← それにしても、中途半端な数字だ!!)
。
【 嘉義市遺跡資料館 】
日本統治時代、嘉義公園内に設置されていた嘉義神社の、 社務所として併設されていた建物。純日本風家屋である。なんか広間は武道の道場みたいな造りだった。
戦時中の 1943年に建設されたという。
【 嘉義市博物館 】
台湾の地質や 地震、太古の化石に関する展示がメイン。 原住民文化や中華系移民らに関する情報はわずかだった。
台湾島自体が地震によって形成されてきた様子が、詳しく解説されており、非常に勉強になった。 今日、台湾島南端の半島に連なる山々は、海岸線ギリギリまで張りだした地形をしているが、 あと数万年もすれば、その西側は現在の
台中市
や
台南市
のような平野地帯を形成し、 台湾島は南西側へ大きく拡大されている、という。 台湾島はプレートに乗っかって、東側から自然に山脈が作りだされ、長期間かけて風雨に晒されて山脈が削られ、西側へと平野部を拡張させてきたわけである。
【 獄政博物館 】
12:00~13:30 は昼休憩で閉まっている。
解説員が同伴する グループ・ツアー形式のみで(約 45分)、単独での自由視察は不可だった。
下は監獄全体のミニチュア模型。一番下の中央にある白い屋根の建物が正面入り口。 そこから上に 面会所、監獄長室などの基幹的な建物があり、放射線状に 3つの牢屋棟が続く(最大収容人数は 700人)。 後方の別棟の建物群が作業場となっている。
下写真は、牢屋棟の中と その個室。
下写真左は、刑罰板。むち打ち刑の際に固定したという。 下写真右は、面会室の上にあった神棚。
この建物は、日本統治時代の 1919年に着工、 1922年から運用が開始された監獄という。台湾独立後も 1994年まで使用されていた。冬の風呂は寒かったと解説員が話していた。
下写真左は作業場内のトイレ。男女それぞれ作業場所は分けられており、ニーハオ便所でも問題なかったみたいだ。
下写真右は、作業場の横にあった簡易な防空壕。到底、全囚人が避難できる広さではない。
監獄内には、丁寧にも
3歳
以下の幼児を持つ、 女性監獄囚専用の部屋や 作業所があった。
ここで、45分のツアーは終わり。グループツアーを構成していた我々は皆、汗びしょびしょで、 早く終わってほしい雰囲気が充満していた。。。。
最後に上写真は、獄政博物館の正面入り口前の駐車場にあった 囚人人形たち。
いや、こういうモニュメント、特に求めてないんだけど。。。。と一人突込みしてしまった。
なお、嘉義市のような地方都市でも、日本食レストランは非常に多かった。 また、街中では若者がとても多く、少子化の激しい台湾にあって、この若者たちはいったいどこから出現したのか、少し不思議に思った。
【
嘉義市の 歴史
】
嘉義市のもともとの 地名「諸羅県」は、 古くから当地に生息していた平埔族の 集落地「Tirosen」社を、 中華系移民が「諸羅山」社と翻訳したことに由来する。 東方に山々が連なる(諸山が羅列する)地形、という意味と 発音から漢字名が当てられている。
1661年、鄭成功がオランダ勢力を駆逐し、台湾に独立政権を打ち立てると、主に台湾島南部を支配拠点とした。
かつてのオランダ人の
プロヴィンティア城塞(現在の台南市内に残る赤崁楼)跡に承天府を開設して最高行政府とし
、 その下に 万年県(1664年に万年州へ改編)と 天興県(1664年に天興州へ改編)の 2県を設置する。 天興県と 万年県は、新港溪(今の 塩水溪)を県境として南北に分けられており、今の嘉義市一帯は天興県に属した。
しかし、
1683年に清朝の大船団が澎湖諸島に襲来すると、鄭氏政権は戦わずして降伏を選択する
。
翌 1684年、清朝は承天府跡に台湾府を設置し
、引き続き、台南城が台湾島の首都に定められる(
福建省
に帰属)。その下に、諸羅県(鄭氏時代の 天興州:今の台南市佳里鎮内に開設)、台湾県(今の台南市中西区内に開設)、
鳳山県(今の高雄市左営旧城内に開設)
の 3県が配された。 後者の 2県は、鄭氏政権時代の 万年県(万年州)が分割されたものである。 この時、諸羅県の管轄区域は広大で、現在の嘉義市から北側すべて、すなわち、台湾島の北半分すべてに及んでいた。
1704年、
諸羅県
役所が佳里里から 諸羅山(今の 嘉義市中心部の旧名称。もともと、平埔族の集落地があった)へ移転される。
なお当初、城壁の建造は許可されず、単にイバラや竹を植樹しただけの垣根が 集落地を取り囲んだものだったが、度々、原住民らの襲撃が続いたことから、 諸羅県長官に着任したばかりだった 宋永清(
山東省煙台市
萊陽市出身。高級軍事一家に誕生し、1704年に汀州府武平県長官から 台湾へ異動され、
鳳山県
長官に着任するも、同年秋に諸羅県長官へ変更されたばかりだった。 ここから1708年までの任期中、諸羅県内の教育行政に力を入れた。その後、延慶州【今の
北京市
延重県】長官へ昇進している。 生没年不詳)により、植林垣根とともに木柵も増設され、さらなる強化が図られることとなる(1704年。上絵図)。 あわせて、東門、西門、南門、北門の四城門が配置される。
この時代から、城郭の形状が桃の形に似ていたことから、「桃城」と通称されるようになったという。 その名残は今日も継承され、今の中央七彩噴水の一帯は地元で、「桃仔尾」と呼称されている。
1723年、諸羅県長官の 孫魯(生没年不詳。
河南省新郷市
出身。エリート家から 国家官僚に加わり、台湾府海防補盜同知や 台湾県長官などを歴任し、1722年から諸羅県長官に着任していた。 1726年には 台湾府長官、彰化県長官を兼務する。1731年に台湾を離れ、泉州府長官へ昇格した)により、城柵の外周部に外堀が掘削され、 その土を使って、木柵城壁が土塁で強化される。
1727年、諸羅県長官の 劉良璧(生没年不詳。
湖南省衡陽市
出身。1724年に科挙最終試験に合格すると、 連江県長官に任命された後、1727年に諸羅県長官へ異動してきたばかりのタイミングだった。 1731年に 龍溪県重役、漳州海防同知、1737年に台湾府長官、1739年に代理福建分巡台湾道、 翌 1740年に分巡台湾道、1747年に興泉永道の重役などを歴任し、退官後、 故郷で隠棲し死去した)の治世下、城門上に楼閣が設置され、 また外堀をさらに深くする工事が進められる。あわせて、東西南北に城門が建設され、 それぞれ 東門「襟山門」、西門「帯海門」、南門「崇陽門」、北門「拱辰門」と命名される。同時に、その城門上に砲台も設置された(上古絵図)。
1734年には、諸羅県長官の陸鴻が、土塁の外側にさらにイバラを植樹し、城壁強化を図っている。
1786年、林爽文の率いる民衆反乱軍により、諸羅城が包囲される。 地元住民らは清朝の官兵と共に籠城戦を戦い抜き、10カ月間、持ちこたえる。
清朝 6代目皇帝・乾隆帝はこの忠義と 功績を大いに称え、「嘉其死守城池之忠義(城を死守した忠義の魂)」の詔を発し、 翌 1787年に諸羅県から嘉義県へ改称されることとなる(下古絵図)。
翌 1787年、嘉義県長官に着任したばかりだった 単瑞龍(生没年不詳。
浙江省杭州市
銭塘県出身。1772年に科挙最終試験に合格し、 1787年に同安県長官に着任する。台湾島で林爽文の反乱が勃発した際、 同安県下の兵力動員で不手際を指摘されて、新疆へ左遷されかかるも、多くの民衆らから嘆願の声が上がり、左遷は撤回されることとなる。 この年、嘉義県長官に着任する)により、さらに城壁の補強工事が進められ、城郭の外周部に 3重の土塁が増設される。
1878年、いよいよ土塁城壁が石積み城壁へ改修される。あわせて、城門部分には甕城と 矢狭間付の凹凸壁が増築される。
1885年、台湾島自体が福建省から分離され、福建台湾省として独立行政区となる。 1887年には、台湾島に 3府(
台北府
、台湾府、
台南府
)が設置されるに及び、嘉義県は、今の
台中市
中心部に開設された台湾府の管轄下に組み込まれた。
日清戦争を経て 1895年、台湾島は日本に割譲され、日本統治下に置かれる。
1906年に嘉義大地震が発生し、嘉義の城壁都市は大被害に見舞われる。 このとき、東門を除く、すべての城壁や 城門類が倒壊してしまう。直後より、日本政府による 復興政策、都市計画が策定され、 市内開発、鉄道開通などが推し進められていくこととなる。
1930年、嘉義県は嘉義市へ昇格され、今日に至る。
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