BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月-旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 新北市 板橋区 ~ 区内人口 56万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  枋橋城(板橋古城)
  公館溝、林家花園、大観書院、慈惠宮(媽祖廟)、接雲寺
  西門街沿いに残る 城壁片




新北市の首都である板橋区は、多くのショッピングモ-ルで林立し、 非常に華やかな商業エリアを形成している。台北駅 からだと、地下鉄 MRT(板南線)一本を南下するだけでアクセスできる。

この板橋駅の次の 駅「府中駅」前に、板橋区の 旧市街地(古城地区)が残る。 府中駅の 1番出口を出ると、すぐ西側に広がる一帯である。下地図。

板橋区

当地にあった板橋城は、台北城 よりも 30年早い、1855年に築城されている。
今でも、この 古城地区(旧市街地)には 東門街、南門街、北門街、西門街などの地名が残る。 かつて、城壁外周を囲っていた外堀跡である。また、府中路、宮口街、大東街、倉後街などの街道は、 いずれも古城時代から継承されてきたもので、その路地沿いに残る、公館溝、林家花園、大観書院、慈恵宮(媽祖廟)、接雲寺などの古跡も、 往時からの遺産である。

西門街から公館街、そして智楽路へと続く直線上には、 かつて外堀があったわけだが、これが埋め立てられた後、外堀の一部は公館溝というどぶ川として、存続されることとなった。 かつて古城時代、この公館溝周辺が板橋城の主要な飲用水源場所となっており、人々は水を汲み、また洗濯をしていた、と考えられている。 ここに架橋されていた小さな木板の橋に由来し、集落一帯が「枋橋」と通称されるようになった、という。 その架橋ポイントは、板橋城西門から出て、外堀を越える地点であったと考えられており、だいたい現在の接雲寺附近か、大観路一帯の橋附近のようである。

また現在、林家花園の隣で、西門街沿いの 有料駐車場(入口に受付係の人あり)の一番奥の面に、 古城壁がそのまま残されている。150年前築城の板橋古城の残骸が唯一残るポイントで、砂岩を加工した石材を積み上げられている。 ちょうど、離接する林家花園の外壁と、全く同じ構造という。

決して壮観な城壁面ではないが、高さ約 2 m、長さ 15 mほどで、厚みは約 30 cmぐらいの一片となっている。本来は、石材面の内側に土塁もあり、城壁はもっとぶ厚かった。 今は、表面の石材部分のみが残されている、という形で、かつ全く 補強・保護手配が施されないまま風雨にさらされており、 今にも倒壊しそうな状態となっている。城壁片の右半分には、セメントを塗った痕跡が残り、すでに右上部分の石材は損壊しかかっている。

板橋区


1721年、頼氏の一族が移住し、現在の板橋区新埔エリアの土地開墾に着手する。 これが 板橋区(当時は「枋橋」)における、最初の中華系移民という。
続いて、この 1720年代、林成祖らがさらに一族を連れて入植し、土地の開墾を一気に進めると、今の 板橋、土城、 中和などの一面に灌漑施設が巡らされ、農地が広がるようになる。 1737年、楊氏の祖先も新埔エリアへ移住し、さらに土地開墾を進めるなど、1764年には複数の中華系集落が点在していたという(擺接、広福、新埔など)。

当地でも、漳州泉州 出身者どうしのグループ抗争が激化しており、 1855年に林氏一族の本家出身だった林国芳が、自らの集落を守るべく、多額の費用を負担しつつ、 その他の地元名士からも出資を募り、高さ約 5 mの大規模な城壁を建造することとなる。こうして、東門、南門、西門、北門、小東門の五城門を有する、 枋橋城が完成する。
枋橋城の誕生後、当初予定していた福建省グループ間の抗争対策を越えた効果を発揮することとなる。 多くの住民がこの城下町に集住し、目覚ましい商業発展が進んだのだった。こうして、今の板橋区の中心部が形成されたわけである。日本統治時代の 1903年、交通の妨げになるということで、古城壁が撤去されと、ますます都市空間が拡大されていった。



お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us