BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年2月上旬 『大陸西遊記』~


シンガポール共和国 ① ~ 人口 550万人、 一人当たり GDP 55,000 USD


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  呉の孫権 と シンガポール
  太平洋戦争中の シンガポール占領
  シンガポール国旗の シンボル
  フォ―ト・カンニングの 軍事砦跡
  シンガポールの 日本人館(クラーキーベイ)
  シンガポール川の 今と昔
  シンガポール湾岸エリアの 開発計画
  シンガポール・チャンギ空港に 深夜到着したら、 路線バス 36A で 市街地へ(2.5 SGD)



【 シンガポールの 歴史 】

シンガポール島に関する最も古い文献は、中国の三国時代に遡る。
当時、タイ、カンボジアや マレー半島付近に勢力を拡張中であった、扶南王国の 国王・范旃が呉へ使節を派遣してくる(225年。下地図の大回りルートだった)。
このとき、水晶でできた贈答品が呉へ献上されたという。

シンガポール

この時代、扶南王国はインドへも使節団を派遣するなど(240年)、活発な海外進出を行っていた。それは国内事情に起因していた。
先代の 国王・范蔓が死去した際、范旃はクーデターで王権を奪取しており、 国内外にその継承を承認してもらう必要があったと考えられる。 しかし、范蔓の実子で幼児だった范長は、逃亡先で旧臣らに匿われて成長し、20歳のときに反乱を起こして 范旃を殺害することに成功する(243年)。しかし、 范旃の有力武将であった范尋によって范長も殺されると、范尋が自ら国王に即位する。彼の 在位時代(243~287年ごろ)も、引き続き、 対外交流が図られ、ちょうどこのタイミングで、呉の 孫権(下絵図)が返礼の使者を扶南国に派遣したのである。

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孫権は広州刺史の 呂岱(161~256年)に命じ、この 243年に 朱応(宣化従事の職)と 康泰(中郎の職)の両名を責任者とし、 扶南国へ返礼使節団を派遣する。 一行はベトナムを経て、マレー半島近くまで航海し、帰国後に、 朱応は『扶南異物志』を、康泰は『呉時外国伝』をそれぞれ紀行文として記したのだった。 これが扶南の歴史に関する世界最古の史書とされる。

両著書はすでに散逸してしまい現存していないが、 康泰の『呉時外国伝』が一部のみが現在に伝わっており、その中で百数十か所にも及ぶ 歴訪見聞録が言及されていたのだった。この一つに「蒲羅中」の記述があり、 今のシンガポール島を指した、と考えられている。マレー語の「Pulau Ujong(”マレー半島の最末端の島”の意)」の中国語表記と考えられているという。

この文献で、当時すでにシンガポール島の海岸地域に人が住んでいたことが言及されており、その風貌は 15~18 cmほどのシッポを有し、 人肉を食する風習を持っていたという。原始的な伝統文化をもった原住民らが生息していたようである。 なお、別の調査で、古代のマレー半島には食人文化をもった種族がいたことが分かっており(シンガポール国立博物館にも捕食された人の骨が化石として保存されている)、 この種族がシンガポール島にも生息していたことになるだろう。
以後も、呉と扶南国双方の間では交易や使節船の往来が続いたという。

下地図は、西晋朝により呉も滅ぼされた直後の 280年当時のアジア情勢。


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時は下って 1320年、元王朝はイスラム系商人に「龍牙門」という場所で、 巨大な象を発注したという記述が史書に残されているという。その「龍牙門」という場所が、 現在のシンガポール西部の港湾地帯である 吉宝湾(Keppel Bay)を指したのではないかと考えられている。

また、同じく元代の 1330年ごろ、 汪大渊という中国人の探検家がその 紀行文『島夷誌略』の中で、 このシンガポール島にあった居留地を「Pancur(龍頭の意味)」と呼称しており、すでにこの島に中華系移民らが居住していた証拠とされる。

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明代初期の 1365年に出版された『爪哇史頌』には、シンガポール島は「淡馬鈴(もしくは海城)」と言及されているという。

1377年、 インドネシア・ジャワ島中東部を中心に勢力を拡大させていたヒンドゥー教国の マジャパヒト王国(1293年~1478年)が、 古くから東南アジア一帯を支配下に置いていた シュリーヴィジャヤ王国(スマトラ島)を滅す。 この時、シュリーヴィジャヤ王国の王子であったパラメスワラが難逃れてマレー半島へ落ち延び、 1402年、マラッカ王国を建国して、シンガポール島を含む一帯を支配下に治める。
シンガポール

しかし、 そのマラッカ王国も 1511年、ポルトガルの攻撃を受け滅亡すると、一部の有力者や王族らはさらに南のシンガポール島へと避難し存続を図るも、 1513年、シンガポール島に上陸したポルトガル軍により集落は徹底的に破壊され、以降、2世紀もの間、シンガポール島は歴史から忘れ去られた地となる。
ジョホール王国、その苦節 200年の歴史


なお、この戦いでも生き残ったマラッカ王国の王族らによりジョホール王国が建国され、細々とその命脈が保れることとなった。後に、このジョホール王国に目をつけたオランダが接近し、 1641年、共同でポルトガル領マラッカを攻撃し、これを占領することに成功する。
オランダはそのままマラッカ海峡の香辛料貿易を独占することとなり、 またこのジョホール王国は欧米列強に取り入ることで、その命脈を保ち、王室は現在も存続されるに至っている。

1819年、当時は寂れた漁村に落ちていたシンガポール島に、 イギリス東インド会社の トーマス・ラッフルズが上陸する。すぐにジョホール王国より商館と 要塞建設の許可を得、港湾都市建設を進める。
1824年には、植民地としてジョホール王国から正式に英国領として割譲される。 同年、マレーシアの海上交通の要衝であったマラッカも割譲している。こうしてシンガポールの開発が急速に進められ、人口は急増していく。

1832年、ペナン、マラッカと合わせた海峡植民地の首都に選定される。
1858年、海峡植民地がイギリス政府直轄となる。

このころ、シンガポールでも人力車は大繁盛の乗り物であったらしく、 最盛期には 2万台もの人力車が街を走っていた。それぞれの人力車にはランク付けがされており、白人専用などの区別があったという。「Jinrichshaw」という英語の単語にもなっていた。直接的には上海から輸入された乗り物だという。

1942年、日本軍がシンガポール島を占領する(下地図。昭南島へ改名)。~ 1945年。

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シンガポール国立博物館では、 特に日本軍の占領時代の展示が結構なスペースを割当てられていた。 日本軍の快進撃の様子、中国旧正月の 2月15日にイギリス軍が降伏したこと、昭和島と改名され、 軍票の発行によるインフレと物資不足が深刻化したこと、捕虜の残忍な取扱いなどなどが見られる。 また、日本式教育が強制された学校の現場の復元や疑似体験コーナーも設置されていた。

シンガポール シンガポール

1959年、選挙により、完全自治 に移行。
1963年、マラヤ連邦(マレーシア連邦)に加入。

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現在のシンガポール国旗であるが、 これはマラヤ連邦に残る意思を示す国民投票により決定されたデザインという。 すなわち、月はイスラムを示し、その横の星 5つはマレー連邦を構成する ブルネイ、シンガポールを含めた 5州を示している(上地図の赤色の 5カ所)。

1965年、マレーシア連邦より追放される形で、シンガポール共和国 が成立する。


 フォ―ト・カンニングの軍事砦跡

植民地初期より要塞が建設され、その後も駐イギリス軍本部として活用されてきた場所であるが、実際に登ってみると、 結構、急斜面な丘であったようである。ここに大砲を有した砦があったのだ。 現在、丘上には要塞の 正門(下写真左)と 裏門(下写真右:弾薬や食糧などの搬入口)が残されている。

今日では、市民の憩いの公園となっており、ピクニックや学生団体の演技練習などが行われていた。

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なお、植民地初期、ここは Government Hill(政府の丘)と命名されており、 政府関連の施設が最初に建てられていたようであるが、後年に官庁は麓の平地部分に移転され、軍事要塞に特化した丘になっていったようである(下写真右)。

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また、その麓にある、クラーキー・ベイの ショッピング・モール群のうち、Novotel が入るリバーゲート(下写真左)には、 多くの 日本食レストラン、本屋(紀伊国屋)、雑貨屋が入っており、所謂、世界各都市で見られる日本人街の ショッピング・モール版と言えた。 ここの地下 1階にあるスーパーマーケットの 明治屋(Meidi-Ya)には、日本食材やシンガポール土産物なども置いてあった。 店舗の中には、お子様向けのテレビコーナーまであり、『ドラエもん』が放映されていた(下写真右)。

シンガポール シンガポール

なお、シンガポールの日本人居住者は相当にハイクラスの方々が多いと見え、 本屋の充実ぶりと、毎年度版の タウンページ(下写真左)まで発行されているのには驚いた。

また、B1にあるスーパーの 明治屋(Meidi-Ya)のレジ横には、 週刊の無料マガジンや情報誌があり、自由に持っていける。筆者も一部ずつ、もらってみた(下写真右)。 内容を拝見するに、シンガポール当地の日本人コミュニティの所得層と規模が、相当な厚みも持っていることが雑誌の内容から読み取れた。 香港、中国、フィリピンなどで発行されているフリー雑誌と比べても、シンガポール発行版の内容と質は圧倒的である。

シンガポール シンガポール

以下は、そのクラーキーベイ地区を流れる シンガポール川 沿いの今と昔、未来のイメージである。
20世紀初頭のシンガポール川付近。丘の上には フォ―ト・カンニングがあった。 現在、この河口部分の旧市街地は保存が進められており、今ではバー街になっている。

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未来のシンガポールの湾岸エリアの開発イメージ。 もちろん、河口部より先はすべて埋め立て地だ。ちなみに手前右側の平地部分一帯には、イギリス植民地時代、空港があった。

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現在のクラーキーベイ地区は、 おしゃれなショッピングモールと ショップが立ち並ぶエリアだ。
下写真の後方に見える丘が フォ―ト・カンニング要塞跡地。

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シンガポール シンガポール

シンガポールはグローバリゼーションの 最前線「実験国家」といった印象を持った。

世界中から最高の ヒト・モノ・カネ、そして最新の情報や 技術、制度、知識を導入し、 それを超エリート集団である政府が非常に巧妙に社会へはめ込んでいく手腕は、実にすばらしい。 他方で、多様な 民族・宗教集団からなる自国民や 歴史、風習などを博物館や 建築物、文化教育などを通じて積極的に保護しており、 グローバリゼーションと ロ-カルの舵取りをうまく実践しているように見えた。
地元の人から聞いた話では、しかし、若者世代については、 父母以前の世代が有した 中国語方言(広東語や福建語など)の伝承がなされず、北京語しか離せない層も増えてきているらしい。 もう 50年もすれば、シンガポールにおける中国語方言は絶滅し、博物館に並ぶ言語となるかもしれない。

下の写真は、未来のシンガポール都市計画 模型 である。シンガポール政府は全く経済開発と グローバリゼーションのアクセルを緩める気配はなく、 次々にイニシアティブをとって、国民全体の意識の鼓舞と「発展」へのリーダーシップに燃えている様子であった。 白色のビル群は現存するもの、木製のビル模型が未来の開発計画を示している。

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湾岸エリアを望む。新年にはここで花火が打ち上げられるそうだ。

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シンガポールの金融街を望む。One Raffles Placeの屋上にプールが見える。

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シンガポール人の給与だが、大卒で上場会社に勤務している人の場合、 新卒の 初任給(英語&北京語 話者)は毎月 2,500 SGDぐらい、また 30歳ぐらいになれば毎月 6,000 SGD、これに ボーナス(半年以上)も給付されるという。 高い所得税が課される日本人から見れば、手取りは圧倒的にシンガポール人の方が大きいことになるだろう。 日本語話者の場合は、さらに 1,000 SGDの上乗せが相場だそうだ。

最後に、シンガポールのマクドナルドは究極にまずい。 あれは、セルフサービスのケチャップと チリ・ソースで味をごまかすことが前提で調理されていると感じる。 大陸中国のマクドナルドの方が味は何倍もマシだ(セルフサービスのソース類がない分、味付けで勝負されている)



 シンガポール・チャンギ空港に深夜到着したら、路線バス 36A で市街地へ(運賃 2.5 SGD 一律)

通常の旅行者は、チャンギ空港に到着すると、地下鉄 MRT(中心部まで 2.4 SGD)か、 タクシー(同距離 24 SGD)の二択が思い浮かぶだろうが、地下鉄 MRT は空港発の最終列車が 23:18 で終了してしまい、 これ以降はタクシーしか選択肢がない、というケースに直面されることもあるだろう。

シンガポール内の路線バスは 24時間運行されており、もちろん、 チャンギ空港と 市中心部(オーチャード地区)間も路線バス 36A(日中は 36番バスだが、空港発 23:00~6:00 が 36A となる)が 24時間で結ばれている。 チャンギ空港の地下に路線バスのバス停留所が設けられており、他にジョホール国境 Woodland までも運行されている(53番バス)。

筆者はクラークキー地区に投宿すべく、路線バス 36A にてバス停 Capitol Building(地下鉄 City Hall 駅近く)で下車した(下写真)。 ここから徒歩 10分ほどで到着できる。

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