BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年2月中旬 『大陸西遊記』~


スロバキア 首都 ブラチスラヴァ市 ~ 市内人口 66万人、 一人当たり GDP 24,000 USD (全国)


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  ウィーン中央駅から ブラチスラヴァまで 在来線で電車移動する(1時間強、13 EUR)
  市内マップ ~ 鉄道駅から UFO展望橋を経由し 旧市街地へ バス移動(5分、0.9 EUR)
  スロバキア大統領官邸 ~ 元々、ハンガリー人 グラサルコビッチ伯爵の別荘だった洋館
  北門「聖ミハエル門」から 旧市街地を散策 ~ イハエル通り、ロランド噴水、日本大使館
  Most SNP 橋(UFO 展望橋)下の ウィーン往復バス発着所(2時間強、5 EUR)
  【豆知識】ブラチスラヴァ 城塞化の 歴史 ■■■
  【豆知識】城郭都市時代の 中世ブラチスラヴァ 地図 ■■■
  【豆知識】丘上の ブラチスラヴァ城館 ■■■




滞在先の オーストリア首都・ウィーンから、鉄道でブラチスラヴァに到着した(下路線図)。普通に、ウィーンから郊外列車に乗っているだけで着く、あまりに気軽過ぎる国境移動だった(60 km、1時間強、片道 13 EUR)。

ブラチスラヴァ

しかし、ブラチスラヴァ鉄道駅(Bratislava Petržalka。上路線図)は、旧市街地からドナウ川を挟んだ郊外に立地しており、ここから路線バスに乗り換えての移動が必要だった(下地図)。鉄道駅から出た乗客が大挙して進む方向に一緒に移動し、駅前の バス停「ŽST Petržalka」に到達する。

最初、筆者は現在地が分からず、地図を見ながら呆然としていると、地元の若者が地図を指して場所を教えてくれた。そして、ようやくドナウ川の南岸エリアにいることが分かった。他の乗客を見習いながら、バスに乗車する(0.9 EUR)。

ブラチスラヴァ

Most SNP 橋(新橋)を渡る手前に、UFO展望台があった(このタワーに絡み、UFO橋と地元で通称されているらしい)。橋を渡り終えると、一つ目の バス停「Zochova」でたくさんの人が下車するので、これと混ざって降りてみる。ここから南側の坂を登っていくと、すぐに路面電車が走る カプツィンスカー通り(Kapucinska)に至る。
まずは、当地での宿泊ホテルを探すことにした。このカプツィンスカー通りを東西に歩いてみたが、事前の下調べなしで現地入りしたこともあり、とりあえず、 一番、無難そうな 国際ホテル・チェーン「イビス・ブラティスラバ」に宿を取ることにした(上地図)。ちょうど、ブラチスラヴァ城の真下にある好立地と、あまりホテル探しに動き回る気力が保てなかったのが理由だった。

あとで分かったが、旧市街地区の主たるショッピングエリアや安宿は、カプツィンスカー通りをもう少し東へ移動し(途中、Namestie SNPへ名前が変わる)、交差点を渡った ドゥナイスカー(Dunajska)通り沿いに集中して立地していた(上地図)。路面電車に乗ることなく徒歩で往復し、初日夜はこのエリアで食事を取った

ブラチスラヴァ

翌朝、旧市街地を散策する前に、少し大通りを北上し、スロバキア大統領官邸(上写真)を見学してみた。結構、普通に街中にあってビックリした。。。


この バロック&ロココ様式の見事な 洋館「大統領官邸」は元々、ハンガリー人 アントン・グラサルコヴィッチ伯爵(1694~1771年)のために、建築家 アンドラス・メイヤーホッファー(1690~1771年)がバロック様式で設計した邸宅だったことから(1760年)、グラサルコビッチ伯爵宮殿と通称されてきた。

当時、エステルゴム(ハンガリー北部の都市)のカトリック司教が有していた、夏の別荘邸宅の真横に建設されたという。また、その前には「グラサルコビッチ広場」と呼ばれる広場があったが、今日では ホジョヴォ広場(Hodžovo Namestie)と通称されている。これは、1840年代に活躍したスラブ民族運動の活動家 ミハル・ミロスラウ・ホジャ (Michal Miloslav Hodåa、1811~1870年)を顕彰して命名されているらしい。

ブラチスラヴァ

なお、このグラサルコヴィッチ伯爵であるが、当時、ハンガリー議会の議長を務めており、このため、ハンガリー王国(ハプスブルク家が国王を兼務)首都である ポジョニ(ハンガリー語名。今のブラチスラヴァを指す)にも、一時滞在用の居所が必要だったことから建造させたものであった。この時代、伯爵が個人的にパトロンをしていたオーケストラ団体を邸宅内に集めて、度々、演奏会を催し、ブラチスラヴァにおけるバロック音楽の中心地となっていたという。邸宅の内外に配された壮麗な装飾も来訪者の目を楽しませたそうだ。彼個人は女帝 マリア・テレジア(1717~1780年)の相談役にもなるなど、政界で大いに活躍したわけであるが、後にグラサルコヴィッチ伯爵一家は多額の負債を抱えることとなり、1841年には邸宅の維持に行き詰まり、以後、複数の所有者の手に渡っていくこととなる。この邸宅の最後の所有者となったのは、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊の直前期、ハプスブルク皇族家であった オーストリア大公 フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン(1856~1936年)と 妻イザベル・ド・クロイ(1856~1931年)、その七女の イザベラ・フォン・エスターライヒ (1888~1973年)であった。しかし、彼らも 1905年に皇帝 フランツ・ヨーゼフ 1世(1830~1916年)の要請で、王都ウィーンに移住することとなり、一家そろって邸宅から退去したため、その後、何年もの間、無人となってしまうのだった。
この大公フリードリヒは第一次大戦中、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍の最高司令官を務めるなど政権の中枢で活躍するも、帝国の敗戦にともない、この邸宅を含む、オーストリアと チェコスロバキア領内の財産は全て没収されてしまうのだった。

ブラチスラヴァ

そしてハンガリー王国は 350年間にも及んだハプスブルク家の支配から独立し、ハンガリー民主共和国やチェコスロヴァキア共和国として独立するわけだが、第二次大戦(1939~1945年)中、ナチス・ドイツの進駐を受けて傀儡政権が樹立され、スロヴァキア共和国大統領として ヨゼフ・ティソ(1887~1947年)が擁立されると、その邸宅として全面改修されることとなった。
1945年からの共産主義時代、邸宅はスロヴァキア共産党幹部らの本部となるも、1950年以降、建物は無管理で放置され、地元の学生や若者らの無法な遊び場と化してしまう。この 40年もの間、一切の補修工事も手掛けられず建物は大きく傷んでしまうのだった。

チェコスロヴァキアが民主化されると、1989年末から 1990年代初期にかけて、建物は大規模に補修工事が加えられる。そして 3年後の 1993年1月1日、チェコ(人口 1000万。首都・プラハ)と分裂したスロヴァキア共和国(人口 560万)が樹立されると、邸宅は初代大統領 ミハル・コヴァーチ(1930~2016年)の官邸に定められ(1996年9月30日転入)、以後、歴代大統領の公邸として継承されることとなる。
宮殿後方に広がる広大なフランス式庭園は、現在、一般公開されており、多くの彫刻が訪問者の目を楽しませてくれる。この公園は目下、ブラチスラヴァ市民らにとって、人気の待ち合わせスポットとなっているという。



下写真は、その大統領官邸前の 交差点(ホジョヴォ広場)から見た、ブラチスラヴァ城館。

ブラチスラヴァ

下写真は大統領官邸の東に連なる官庁、ビジネス街。スロバキア首都の中枢部にあたる。日本と同様、電線がたくさん空中を並走していた。

ブラチスラヴァ

大統領官邸(下写真左)前の 交差点(ホジョヴォ広場)から南へ戻り、旧市街地に至る。
旧市街地に入る前に、現存する唯一の 城門「ミハエル門」をくぐることになる。前面には、小規模ながら堀跡や市城壁が復元されており、古城内に入る雰囲気を醸し出していた。そのまま高級ブティックやレストランが軒を連ねる、ハイ・センスな 路地「イハエル通り」を南下していると、ロランド噴水(下写真右の石塔)がある中央広場に行き着く。

下写真右は、この中央広場の一等地に入居していた日本大使館。ちょうど、ブラチスラヴァ市観光案内所の向かいにあり、大きな国旗がとても目立っていた。

ブラチスラヴァ ブラチスラヴァ


現在、この 聖ミハエル門(Michalská brána)は、中世期に建造されていた市城壁に付随する 4城門(東門、西門、南門、北門)のうち、唯一現存するもので、ブラチスラヴァ市に残る最古の建造物と考えられている。

当時、北門は 聖ミハエル門(かつて城門外の真正面に聖ミハエル教会が立地していたことに由来。この教会は後に破却され、その部材は城壁の強化工事に転用されることとなる)、東門は 聖ラウリンカ門(キリスト教の聖人ローレンスに由来)、南門は 漁夫の門(4城門のうち、最も後世に増設された規模の小さい門で、魚類をドナウ川から直接、城内へ持ち込む漁夫らが主に使用したことに由来)、 西門は ヴィドリカ門(トンネルのように長く、薄暗かったため、暗黒門とも別称された)と命名されていた。下地図。

ブラチスラヴァ

この 北門(聖ミハエル門)は 1300年前後に建造されており、1411年に初めてその存在が史書に言及されている。当時、城門前には水堀が掘削され、その上にはね橋が設けられて、上げ下げする仕組みであった。後に、橋は石積みに改修され、途中から木製のつるし門を上下させるスタイルに変更される。この石積みの橋が、現在、市内で最古の橋となっている「聖ミハエル橋」である(1727年建設)。
なお、1529~34年にかけて、城門上の楼閣はいったん破却されるも、 1753~58年に現在に残るバロック様式の石積み 楼閣塔(高さ 51 m)へ再建されるに至る。この時、聖ミハエル像と龍の彫像が塔の頂上部に設置され、今に残っているわけである。また塔の表面には、1758年にブラチスラヴァ市議会と市民によって修築された旨の文言が刻印されているという。
オスマン・トルコ帝国の 脅威(1529年、1683年の 2回、ウィーン包囲戦を展開した)にさらされたハンガリー王国は、 1563~1830年の間、王都をブラチスラヴァに遷都しており、この時代に 19名の国王が即位している。その戴冠式に際し、新国王は 西門(ヴィドリカ門)から城内に入城し、そして聖マルティン教会で戴冠の儀式が執り行われてきた。その一連の儀式の際、新国王一行が立ち寄った場所に、この聖ミハエル門も含まれていたのだった。ここで、新国王は司教の手をとって自身の誓約を唱和する習わしであったという。

現在、この聖ミハエル門の内部は、ブラチスラヴァ市中世博物館となっており(2006年開館)、城塞都市の建設初期から 18世紀の城壁撤去までの各種遺物や武具が陳列されているという。また、城門周辺の市城壁や水堀も復元されており、周囲の住宅街にあって、ちょっとした水辺公園の風情を作り出している。
なお、6F部分にはテラスがあり、旧市街地や周囲を一望できる仕掛けとなっている。この城門下から旧市街地へと続く街道は、往時のままのカーブを描く路地として継承されており、これを上から眺められる絶好のスポットという。



そのまま中央広場を通過し、かつて南面城壁があった フヴイエズドスラボボ広場(Hviezdoslavovo nam)や スロバキア国立劇場(Slovak National Theatre)辺りまで散策したのだが(上地図)、非常に残念なことに、当地で撮影した写真を全て消去してしまい、ここに掲載できない。。。

午後 からウィーンに戻るべく、先程の旧市街地の観光案内所でバス乗り場と時刻を教えてもらった。
どうやら、ドナウ川沿いの Razusovo 通りと、対岸へ渡る 新橋(Most SNP 橋)との交差点、ちょうど新橋の陸橋下にバスターミナルがあった(下写真)。ウィーンへの都市間バスが 1時間に一本、運行されていた(5 EUR)。旧市街地や筆者の投宿したホテルにも近く、非常に便利な立地だった(上地図参照)。昨日の鉄道移動と比較すると、間違いなくウィーン往復は、この都市間バスが絶対的にオススメだと思う。
筆者が乗車したバスはガラガラで、当日、予約なしですぐに乗車できた。
ブラチスラヴァ

なお、この橋下のバスターミナルは、ウィーン便以外にも、地元の近郊バスも発着しており、乗車場所を数名の地元民に確認し、ようやく理解できた。かなり分かりにくい構造だったと思う。

さてバス乗車後、2時間ぐらいでウィーン南側の地下鉄駅に到着したが、途中、オーストリアの国境に入った直後から、車窓にはひたすら風力発電用の風車が延々と続いていたのが印象的だった(下写真)。

ブラチスラヴァ



ブラチスラヴァ 城塞化の歴史

中世期、ブラチスラヴァ市はハンガリー王国の東国境の重要拠点として、ポジョニ(ハンガリー語発音)、もしくは プレスブルク(ドイツ語発音)と通称されてきた。当初は、ドナウ川沿いの交易都市として、丘上(現在のブラチスラヴァ城館が立地する岩山)に城塞集落が形成されていたが、人口や経済規模の増大にともない、丘の東側に市街地が拡大されていく。そして 1291年、この丘下の市街地にハンガリー国王から都市特権が下賜され、石積みの 市城壁(厚さ 1.3~1.6 m)の建造が着手されるのだった。1300年ごろには防衛施設群が一定の完成を見ると、さらに増強工事が継続され、1300年代末までには 北門(聖ミハエル門)、西門(ヴィドリカ門)、東門(ラウリンカ門)の 3城門を擁する、強固な中世都市が誕生されていたという(下絵図)。また、市城壁の上部には 凹凸壁(胸壁)も増設されていた。
1400年代に入ると、もう一箇所、南面に小規模な城門が新設される。これが、ドナウ川沿いの 南門(漁夫の門)であった。下絵図。

ブラチスラヴァ

引き続き、都市は発展を続け、この市城壁の外周部にさらに郊外集落が形成されるようになる。 1419〜1436年のフス戦争でフス派の攻撃を受けて大被害を受けたことから、神聖ローマ皇帝を兼務していたポーランド王 ジギスムント(1368~1437年)の命により、北から東に広がる郊外集落にも城壁が整備されることとなる。この外周城壁には 5つの城門が設置され、それらは、現在の Gondova 通り、Suché mýto 通り、Špitálska 通り、 Dunajská 通り、Obchodná 通りに建造されていたという(下地図)。
ブラチスラヴァ

1526年8月29日にモハーチの戦いで オスマン・トルコ帝国軍に大敗したハンガリー王国側は、 領土蹂躙の危機に直面することとなり、当地でも急ピッチで稜堡建設が進められたのだった。 当時、すでに時代の主力は大砲戦に移行して久しく、かなり遅き咲きの要塞都市化となった。この一連の強化工事では、城郭専門のイタリア人建築家がその設計を主導したという。 17世紀には、追加的な改修工事が計画されるも、丘上にある城塞周辺のみが増強されるにとどまった。

1599年、丘上の城館の麓で、ドナウ川河畔エリア(現在の Schlossberg 地区)に設けられていた防衛施設群が、ユダヤ商人パルフィー家によって買い取られると、ユダヤ人らの入植地区として市街地が建設されていくこととなった。そもそも、ユダヤ人は 1526年に、一度、都市ブラチスラヴァから追放されていたわけだが、このときに復帰を許され、 Schlossberg 地区と、さらに西隣の Zuckermandel 地区へと集落を拡大させて、今日のユダヤ人居住区を形成していくのだった。

この時代、旧市街地側では都市と人口の成長は留まることを知らず、周囲を取り囲む城壁が障害とみなされるようになっていく。ついに、オーストリア帝国女帝 マリア・テレジア(1717~1780年)により 1775年、内外の市城壁のうち内城壁の撤去が許可される(1778年完了)。この時、堀も埋め立てられて、旧市街地は初めて郊外都市と直接、接続されることとなった。19世紀初期には、さらに郊外の外周城壁も撤去される。

ブラチスラヴァ

20世紀に入り、第一次世界大戦が勃発すると、市街地の各所にトーチカ群や 砲兵設備、塹壕などが整備されるも、オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦後、チェコスロヴァキア共和国が独立すると、この 戦間期(第一次大戦から第二次大戦の間)においても軍事設備のさらなる増強が実施されることとなった。第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツの占領を受け、街中にはさらに航空基地や防空壕などが建設されていく。
冷戦期にあっても、共産圏の最東端に位置したため、常時、軍都として機能し、 8,602 もの防空壕や 核シェルター(住民人口を超える 76万人規模を収容できる巨大さ)が整備されていく。この時期、市の最高峰である デヴィーンスカ・コビラの丘に、軍事ミサイル基地が新設されている。

冷戦終結後、これらの軍備は解除されると同時に、西側の資本が流入し、一気に経済開発が推し進められていった。ちょうどこの時期、現在、聖マルティン大聖堂近くに現存する、市城壁(内城壁)の修復工事が手掛けられることとなる(1975~1991年)。この城壁部分は 18世紀の内城壁の破却後、地中深くに埋もれていたが、Nový Most 新橋の架設と 幹線道路(Staromestská street)の敷設工事に際し、土台部分の遺構が出土したために、唯一の櫓塔である バックス塔(鳥の塔、とも別称)と共に復元されたものであった。 1993年のスロヴァキア共和国成立後、古城壁はブラチスラヴァ市の所有となるも、 2001年に立入禁止とされ、今日も城壁上に上ることは不可能である。しかし、近づいて観察することは可能だ(下写真)。

ブラチスラヴァ

目下、中世期の城郭都市遺構は、この 200 m 余りの城壁部分と(上写真)、先に見た 北門(聖ミハエル門)、その周辺の堀や市城壁の一部のみとなっている。また、かつて城門外を守った 外堡(馬蹄形の前哨要塞、日本の城郭で言う「馬出し」に相当)の遺構も、北門(聖ミハエル門)の近くの Michalská Street No. 25にある、民家の一部として現存されているという(なお、この民家は目下、欧州で最も細い建物に認定されている)。
また、16世紀に建造された巨大な馬蹄形の稜堡 2箇所であるが、ー それぞれ、火薬の稜堡 (Prašná bašta) と靴職人の 稜堡 (Obuvnícka bašta)と命名されていたー、その一部の遺構も現存するという。前者は、Zámočnícka Street No. 11 にある建物で、すでに民家へ全面改装されており、また後者は、Hviezdoslavovo námestie No. 11 にある 民家(内部には喫茶店が入居中)に浸食される形で残されているという。

かつて東門前には 外堡(城門外に設けられた前哨要塞)が 1箇所、建造されていたが、その遺構は全く残されていないという。南面は、ドナウ川という巨大河川の自然地形により十分に防備力が担保されており(その河畔は当時、無人で木も生えない無数の中州地帯であったという)、このため稜堡や外堡が増設されていなかったという。下絵図。

ブラチスラヴァ



 ブラチスラヴァ城館( Bratislava Castle ​)

欧州大陸で二番目の長さを誇るドナウ川を使った、河川交通上の要衝として集落が形成されることとなったわけだが、その最初の集落は川沿いの高さ 85 mの台地上に形成されていたことが発掘調査によって明らかにされている。
すでに石器時代~青銅器時代にかけて、この丘上に人類の初期集落が営まれており、後に流入してきたケルト人により、本格的な城塞集落が建造されたという(紀元前 125年)。
その後、ケルト人を駆逐したローマ帝国により 防砦システム「リメス」が整備され、さらにこれを追放したスラブ民族によって、より規模の大きな集落が建設されていったという。そして、スラブ民族を統一した大モラヴィア王国下にあって、東の国境地帯として軍事、宗教上の拠点都市が開設されることとなる。
その後、大モラヴィア王国もハンガリー人の大移動で滅ぼされると、 10世紀以降はこのハンガリー王国の版図下に組み込まれる。この時代に、丘上に石積みの城塞が建造されることとなった。

ハンガリー王であり、神聖ローマ皇帝となった ジギスムント(1368~1437年)により 1430年、さらなる強化工事が施され、ゴシック様式の城塞基地に全面改装される。これはフス派の攻撃に対抗するための防衛強化策の一環であった
時はさらに下って、オスマン帝国との戦火が絶えなかった 1562年、ルネッサンス様式の城塞へ、さらに 1649年にはバロック様式へと修築工事が手掛けられていくこととなる。

ブラチスラヴァ

その後、ハプスブルク家のオーストリア帝国の版図下に組み込まれ、女帝 マリア・テレジア(1717~1780年)によって丘上の城塞基地が大規模に改修され、壮麗な城館へと建て替えが進められたのだった。
しかし、ナポレオン戦争に際し、オーストリア帝国は降伏に追い込まれ、王都ウィーンをはじめ、このブラチスラヴァもフランス軍に占領されることとなる(1809年~)。この時、城館に進駐していたフランス占領軍の兵士らの失火により、丘上の城館は全焼してしまったという(1811年)。 以後、1950年代まで廃墟として放置された丘であったが、その後、共産党政権により マリア・テレジア時代の城館スタイルに再建され、今日に至るという。



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