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城郭都市 概説
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城壁都市 概説
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1、城郭都市とは
四方全てを城壁で取り囲んで、都市や集落、王宮、役所などを内部に有した城塞都市は、欧州や大陸中国、中央アジア、朝鮮半島などでよく目にされるものです。日本でも、戦国期の小田原城や
大坂城
、
姫路城
、
江戸城
、
大垣城
などの 総構え(惣構【そうがまえ】、総曲輪【そうぐるわ】、総郭【そうぐるわ】)による城下町の囲い込みが有名です。しかし、大陸中国(韓国を含む)のそれはスケールが圧倒的で、城壁に囲まれた内部には、時に 田畑、河川、池、山、広大な庭園なども内抱されていました。
中国では、この都市を取り囲む城壁のことを「羅城」、またこれに設置された城門のことを「羅城門」と総称されてきました。そもそも、中国語で「羅」は、整然と家屋や街並みが並んだ状態のことを指し、皇帝が居住する王都に建設された、計画都市のことを言い表した言葉ですが、時代とともに、地方の城郭都市へも転用される用語となっていったようです。
中国の王城(都城)はなぜ整然たるものであったのか?
特に、南北朝時代において、華北を占領した北方系民族の諸王朝は、地場の漢民族や、自身が伴ってきた北方地域の諸民族らをまとめて 管理・統治する必要がありました。その縮図となっていた王城内にはさまざまな職種や人種、民族、身分の人々が同時に居を構えており、こうした複雑な構成員らを整然と統括すべく、碁盤の目のような都市設計が進められ、そしてその区画ごとに決まった集団が居住することとされます。区域内は塀で囲まれており、出入りや夜間移動などは厳しく管理・制限されていました。これらの区画は、最初、「里」と呼称され、後に「坊」と呼ばれるようになります。つまり、王権側から住民管理に都合のよい都市設計がなされた結果として、整然たる街並みが設置されていったというわけです。
明治期に日本の作家・芥川龍之介による『羅生門』の短編小説が書き上げられますが、ここでは平安末期の混乱する世の中にあって、
平安京に設けられていた「羅城門」一帯は貧民街と化し、暴力の渦巻く地区として、特に夜間は誰も近づくことのない一帯に代わりは果てていました
。また、これに拍車をかけたのが、身寄りのない死体をこの羅城門の二階の楼閣内に遺棄するという慣習の横行でした。こうした背景から、当時、羅城門は幽霊屋敷と化し、化け物が住むとさえ言われた城門でした。この不法地帯での「生き残りの戦い」を描いたものが芥川の小説の題材だったわけです。
なお、当時の日本の
平城京
や
平安京
、藤原京にも、大陸中国のような「羅城門」が設置されていましたが、これに付随する 城壁(つまり羅城)はついに建設されることなく、単に外周を道路で取り囲んで内と外を洛中、洛外と呼称して区別しただけだったと言います。日本で羅城形式の城壁が設置されていたのは、大陸中国に近い日本の玄関口であった「大宰府」のみであったとされています。
2、城郭都市に住む人々の生活とは
清代の中国各地方都市では、「○ 坊 ○ 巷」といった形式で、街の規模を表現することが一般的でした。 ○ には数字が入ります。
ここで、「坊」は役人や、文化人、富裕層らが住むエリアを指し、「巷」は庶民が住む下町を指したわけで、つまり、城内には ○ つの上流階層エリアと ○ つの下流階層地区から構成される 中規模(大小など)スケールの都市だ、という形容になっていました。
そもそも、中国にあった城壁都市の中は、行政官吏や 役人、商人、工芸職人の他に、周囲の田畑を耕す農民らも居住し、城内だけでも貧富の格差が歴然とある状態でした。特に、城壁のため日陰となり、日照に問題のある城壁沿いは貧しい人々の居住区となっていたようです。
それでも、城内に居住することで外敵から生活の安全をある程度守ることができ、また洪水や砂埃などの自然の脅威からも回避することが可能でした。こうした直接的な防衛機能を有した城壁と外堀に対する土着信仰も自然と発生するわけで、守り神として祈念をささげるべき対象とみなされていきます。その結集体が「城隍廟」と呼ばれる、どの城郭都市にも設置されていた神廟です。要は、各城壁都市の守り神なのですが、その化身が城壁であり、城門であり、堀川であったわけです。
中国の民間信仰として浸透していた道教の教えに基づき、城隍廟内には地元出身の英雄や、三国志の登場人物、その他、物語の中の守護神や、他宗教の イエス・キリストなども合わせて祀られることとなりました。
また、城壁都市は安全を担保するために、一定の時間しか 城門(羅城門)は開かれず、夜になれば問答無用に閉鎖されていました。このため、行商や農民らは特に開閉時間に気を使っていたといいます。中国の小説では、よく閉門後に城壁外で一夜を明かす人々のエピソードが言及されています。特に、意気投合し、一晩中、語り明かしたというケースや、大金や商品を運搬中の商人らの危険な一夜などの話が触れられています。
なお、大都市を除けば、地方の城郭都市は小規模なもので、行政機関と 寺社、神廟と官吏らの居住区がメインであり、庶民の居住空間は、街路沿いの細い地区や一定の区画内に偏在することが一般的でした。その庶民空間に市場が設けられ、一定の時間帯、店々が営業する、というパターンでした。
こうして手狭な城郭都市の場合、多くの庶民は城外に住居を構え出し、城門を出たところの道路脇に次々に寄り添うように商店や住宅が形成されていったようです。こうした城外エリアは城内のように門の開閉時間や営業時間の制限が設けられず、かなり自由な生活が営まれていたようで、城内が閉門された後は宿場町、夜の街としてにぎわいを見せたといいます。こうして庶民の市場も城外に開設されるようになっていきます。
また、城内に住居を構えていた農民らも数多くいました。彼らにとって城壁から自分たちの耕作地までの距離は非常に重要でした。城壁から近い田畑を持つ者は早い帰宅や外敵からの逃走が容易でしたが、遠いロケーションにあった田畑の農民らは日々の生活や農作業に大きな負担が生じてきます。このため、こうした移動時間や負担度合い、総合的な安全性の差異は、数か月、数年を経て、大きく貧富の格差を生じさせていくこととなります。
この原理は今日にも言えることではないでしょうか??
職住近接とは理想的な生活パターンとしてよく語られるわけですが、自宅と職場が近い方が、移動の時間や手間、体力をセーブでき、かつ道中で事故に遭うリスクも必然的に減らすこととなり、これが長時間にわたって少しずつ小さな差を生じさせます。ちりも積もれば山となるで、最終的な家庭間の経済格差や精神面での幸福度に反映されていくように感じます。
また、城内に流れる河川ですが、これは主に下水道の役割を担っていたようです。
所謂、上水道にあたる水は井戸に頼っており、この水で炊事洗濯を済ませ、河川へ垂れ流す、というパターンになっていました。トイレに関しても、ここに垂れ流しが基本でした。
また、上の写真にもある通り、城の内外への水運交通ルートも担っていたようです。陸路の場合、人の足で時速 4 kmが基本でしたが、船を使うことで時速 8~9 kmの移動が可能で、しかも同時にたくさんの物資を比較的安全に運ぶことができました。
地方や中央を問わず、かつての 城郭都市(羅城)には、必ず外周に堀川を巡らせていました。そして、基本的には、その堀は付近の河川から土木工事で水が引かれたもので、上記のような水路を通じて、城内にもつながっていました。これらの水脈は、防衛上の観点以外にも、日常の水上交通、下水、そして漁業に役立っていたわけです。
3、攻城戦と籠城戦
こうした人々の日常も、戦時には大きな変化が求められました。
日常生活では城壁都市の厳格な管理の下で、人々の日常が守られていた反面、戦時には住民総出で籠城戦が展開されたようです。男性の場合、15~60歳が夫役の任を担い、籠城戦の準備に駆り出されました。
言い換えるならば、都市を囲む城壁とは、その中に住む人々の安全を保障する反面、戸籍で居住者を管理し、日々の徴税対象を監督しやすくするとともに、戦争の際には、その労働力を兵士へと転化させるための檻のような装置ともなり得たわけです。
当時の徴税方法は、人頭税方式でした。このため、州城、郡城、県城、鎮城などの上下関係は、管轄する区域内の戸数の大小に応じて、その上下関係が決定されました。抱える人口規模が大きいほど(または、交通面や防衛面で要衝であればあるほど)、州城、郡城、府城へと昇格され、それだけ城郭都市も巨大化されていくことになったわけです。
戸数(登録住民数)の 多寡=税収入の高低となって反映されたため、戦乱期には多くの占領地の住民らを奴隷として自領へ連れ去ることが頻発しました。住民こそが、財産であり、夫役の労働力であり、兵力という重要資産となり得たわけです。
反対に、敵軍が自領内に侵入してきたとき、敵方の手に渡らないように、まず城外にある田畑や家屋が破却されます。同時に、城壁や堀の外側には何重にも防衛柵が臨時設置されました(普段は常備されていなかった)。
城内からの弓矢の射程距離は、150 m前後とされており、だいたいこの範囲より内側にさまざま障害物を設けて、迫りくる敵の足を止めて、弓矢の雨を降らせたことでしょう。
対する攻城側は、まず城攻めの準備を開始します。それは大規模な土木工事でした。
1、下の絵に描かれているような攻城用具の組み立て
2、堀の埋め立て用の 土砂準備(河川から堀川へ水をひく地点をせき止め)
3、城内侵入のためのトンネル堀り
なお、攻城側、守城側ともに、主な兵役の担い手となったのは、遊手、無頼といった都市部の下層出身者らでした。彼らは日銭で動く請負業者として、さまざまな 稼業(賭博、護衛、殺し屋、運び屋など)にも手を出していたと考えられており、こうした集団を束ねる棟梁や商家が地方官吏と癒着し、実質的にその城郭都市の命運を握っていたと指摘されています。
これら地方の有力者らはそれぞれの同郷同業団体を結成し、流通・金融ネットワークを構築して、その都市内の経済を寡占的に牛耳っていたようです。
清朝末期に、欧米列強の商人が中国内地への進出を図り、湾岸エリアの卸業者らの寡占的な商慣習を打破しようとするも、結局、中国人らの構成する同郷同業団体ネットワークの網の目を突破できず、最終的には港湾地帯の卸業者からの供給に依存せざるを得なかったという話は有名ですが、この中国人独特の商慣習は、こうした城壁都市という閉じられた空間と広大な中国大陸内でのサバイバル術が、長い年月をかけて育んできた生活文化要素の一つと考えても良いでしょう。
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