BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


ポーランド ヴロツワフ市 ~ 市内人口 65万人、 一人当たり GDP 17,500 USD(全国)


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  ドイツ・ベルリン から 都市間バスで、ヴロツワフ 入りする(4時間、35ズロチ)
  110年の歴史を誇る、老舗の 名門「ホテル・ポローニア」に 投宿(朝食付、164ズロチ)
  スタロミエイスキ公園 と コシチュシュキ広場 ~ 市内ビジネス区、高級ショッピング地区
  気さくで親切だった 地元ポーランド人たちとの エピソード ~ ボレスワフ 1世騎馬像前で
  近世期の 城郭都市ヴロツワフ 全景図Ⅰ ~ 内外二重の堀で 囲まれていた
  内堀跡(シェンナ・オワバ)と 聖クリストファー教会(ドイツ系コミュニティ本部)の 今昔
  外堀跡(オワバ・ミエイスカ)と 巨大ショッピングモール Galeria Dominikanska
  【豆知識】中世期からの 内堀・外堀整備 と ナポレオン軍による 埋め立て ■■■
  ドラキュラ屋敷のような ヴロツワフ国立博物館と、その 140年の歴史
  ポーランドの丘 ~ 稜堡ツェグラルスキ跡地 と オーデル川の眺め
  ラツワヴィツェの戦い全景博物館 ~ 圧巻の布地絵 と ポーランド人の愛国教育施設
  【豆知識】語り継がれる、元将軍コシチュシュコの 民衆蜂起 と 対ロシア戦勝利の記憶 ■■■
  クラインスキエゴ通り ~ 内堀を守った市城壁跡 と 櫓塔跡を発見
  全盛期の 城郭都市ヴロツワフ 全景図Ⅱ
  歴史地区「砂の島」に上陸! 聖アンナ教会 と 聖キュリロス&聖メトディオス教会
  城郭都市ヴロツワフ と オデール川に無数に 点在する中州群
  市内最古の「マリア水車小屋」~ プロイセン王国(ドイツ帝国)支配の シンボル
  ヴロツワフ発祥の地「オストルフ島」 ~ 聖ペトロ&聖パウル教会 と 聖ヨハネ大聖堂
  新旧の融合が見事だった、屋内市場「ヴロツワフ市場会館」
  中心部最古を誇る、聖アーダルベルト教会&修道院 と 歩行者天国「オワフスカ通り」
  5つ星ホテル Altus Palace Hotel ~ かつての 高級邸宅「ライプツィガー宮殿」
  パルチザン(愛国戦士)の丘 ~ 荷馬車主の稜堡跡 と 植民地紀念碑の記憶
  古城デザインの ヴロツワフ駅、市内コンビニで購入した 寿司弁当
  【豆知識】ヴロツワフの 歴史 ■■■



ドイツ・ベルリンから、都市間バスでヴロツワフに到着した(8:30発 → 12:40着)事前に ネット予約しており、35ズロチ(約 1,120円)。内訳は、バス代金 29 + 座席指定 5 + カード手数料 1 というものだった。

ヴロツワフ

ヴロツワフ・バスターミナル(Wrocław Dworzec Autobusowy)の発着スペースは地下 2階にあり、ここからエスカレーターで地上階まで上がると、すぐにトイレがあった。ドイツのバスターミナルでは有料だったが、ここヴロツワフは無料だった。

ついでに、トイレ正面の 待合スペース(下写真左)にあったチケット販売窓口で、「明日、レグニツァ へ行きたい」と伝えると、バスはないので列車で行くように助言される。
翌日の交通手段が明らかになったところで、バスターミナルの建物を後にすることにした。このバスターミナルは最近オープンしたばかりのようで、待合スぺースの外はピカピカのショッピングモールが広がっていた(下写真右)。外観は近未来風の宇宙船のような、だ円形の巨大建造物だった。

ヴロツワフ ヴロツワフ

そして、バスターミナルと道を挟んで、ヴロツワフ鉄道駅が立地していた。ちょうど駅の南面に相当し、裏口であった。そのまま駅を迂回し北面に回ってみると、古城をイメージしたおしゃれな駅舎を見ることができる(夜はライトアップされ、全く違う雰囲気を醸し出していた。末尾参照)。


ドイツ首都ベルリン では早朝出発のバスだったので、 バスターミナル(Berlin ZOB : Zentraler Omnibusbahnhof)から徒歩 3分ぐらいのホテルに投宿した。 8:15過ぎにホテルをチェックアウトし、すぐにバスターミナルに到着すると、待合センターみたいな場所の電光掲示板で(下写真左)、バス発車ホームを確認する。

都市名が英語表記とポーランド語で異なるので、最初は戸惑ったが、総合時刻表に両方の文字が書かれていたので、20番ホームから 8:30発のバスを発見できた(下写真右)。

ヴロツワフ ヴロツワフ

筆者がバス乗り場に到着すると、他の乗客たちは皆、寒い中、列を成してバス運転手の遅い采配を待っていた(上写真右)。どうやら下車ポイントごとに保管荷物のトランクルームが異なる仕組みのようだった。「ヴロツワフ」と伝えると、一番広いトランクルームを指さされた。
そして、非効率なことに各乗客の レシート(プリントアウトした紙、もしくは携帯電話画面)を確認しながら、巨漢の運転手が一人一人に乗車を促していた。筆者は 2ヵ月前に、ポーランドのバス予約サイト からネット約しており、出力した用紙を提示した。ドイツ平原とポーランド国境をしっかり目に焼き付けたかったので、オンライン予約の際、座席指定で No.1 の席をとっていた(2階先頭)。ワクワクしながら 2階先頭に着席すると、正面のフロントガラスにあったワイパーには雪の塊がひかかっており、また窓も汚れたままだった。。。。

とりあえず、8:33にバスが発車し出す。ちょうど 9:00 に ベルリン・シェーネフェルト空港に到着する。ここの端っこにあったバス発着所で追加の乗客を乗せ、9:13 に再び発車する。そのまま高速道路に乗って、ドレスデン方面へぶっ飛ばすこととなった。
ちょうど、この空港で停車中に、筆者は 1階部分に下りてバス車内のトイレで用を足した。トイレ室内はかなり狭く、水も流れない。ドイツやポーランド地元の巨漢の男たちは、こんな小さなトイレスペースで大丈夫なのだろうか。。。と心配になってしまった。

以後の高速道路は、ひたすら台地と平原を突っ走るだけの直線道だった。「ドイツと言えば、アウトバーン」と指摘されるだけあって、ドイツの車はガンガン、スピードを出して追い越していった。筆者はそんな車窓の風景を眺めながら、先頭座席でパソコン作業をしていた。
しかし、あるサービスエリアを越えた辺りから、高速道路が明らかにガタガタ道になった(10:45ごろ)。思わず、寝ている乗客も目を覚まし、筆者も PC作業を止めざるを得なくなる。きちんと舗装された側がドイツで、ここからがポーランドとなったようだった。道路標識から、だいたい Zaryという町の付近だった。この Zaryは、翌日朝に列車で レグニツァへ行く際、終点駅ともなっていたので、おそらく、ポーランド西端の町の名前なんだろう。
それから永遠に揺られ続けて 2時間ほど経つと、12:40に ヴロツワフ・バスターミナル(Wrocław Dworzec Autobusowy)に到着する。 8割ぐらいの乗客が下車し、残りはさらに先まで移動する様子だった。下車した乗客らは、個々で荷物をトランクルームから出していた。運転手はトランクルームの開閉のみを担当していた。



さて、とりあえず荷物を預けようと、ネットで予約していた ポローニア・ホテル(Hotel Polonia)まで徒歩で移動する。駅舎横の陸橋下をくぐり、駅前のピウスツキエゴ通りを左折して西進すると、一つ目の交差点前にそのホテルはあった。

チェックイン時、164ズロチ(朝食付)を支払う。シングルで 5,100円ぐらいだった。オンライン予約した アゴダ・サイトのレシートが出力されており、これにサインして、カード決済を完成させるスタイルだった。
まだ 13:00過ぎだったが、そのまま部屋に入れてもらえた。バス車内で PCの電力を使い果たしていたので、その充電時間も兼ねて 30分ほど休憩しつつ、ネットで本日の視察場所を予習する。


このホテル・ポローニアは、かなり年季の入った洋館で、廊下や室内の床は歩く度にミシミシ鳴る。また、エレベーターは冷戦時代を彷彿とさせる、扉のないタイプだった。50年ぐらい前にタイムスリップした印象を受ける。
ただ、部屋は相当に広く、シンプルな家具だったが、値段の割に十分だった。朝食は、1階ロビー外の中庭にあるエレガントな レストラン「Galicja ガリシア」で供される、とのこと(7:00~10:00)。ちなみに、このレストランは、ガリシア州地元料理やポーランド料理、各国欧州料理が ランチ、ディナーでも食べられるという。

ヴロツワフ ヴロツワフ

この古い洋館ホテルは、1911年に建築家 パウル・ローターによって設計された 四季ホテル(VIER JAHRESZEITEN)時代から続く、100年以上もの間、ホテル一筋の建物として維持されてきたという。開業当時、ヴロツワフ市内で最も大きく、壮麗な高級ホテルの一つに数えられていたらしい。
建設当初より中央部に中庭を有する四面体型で設計され、通り側の外面はバロック様式の宮殿風にデザインされていた。特に 1階と 2階部分の大きなガラス窓が特徴であったという。1920年代と 1930年代、さらなる機能改善のために改装工事が手掛けられる一方、ホテル裏手にあった広場の敷地も購入したため、これを合体させる増築工事も進められたようである。
ナチスドイツによってポーランドが併合されていた時代の 1939年、ナチス・ドイツの気風に合致するよう、質素なイメージのデザインへ全面改装される。この時、それまでのアールヌーボー風バロック様式の豪華なイメージが消失されることとなった。

第二次大戦末期の 1945年3~5月に行われた都市防衛戦では、ソ連軍の砲撃によりヴロツワフ市全域が壊滅的な被害を受けるも、このホテル建物は軽微な被害で済んだため、戦後間もなく補修されてホテル営業が再開される。このときに、ホテル・ポローニアと改称されたという。ソ連占領から共産時代初期にかけて、市内でも貴重な駐車スペースを有するホテルとして重宝がられたという。
1960年代には 54の シングル・ルームと、35のアパートメントタイプの大部屋を装備していたが、現在は時代にあわせ、シングル、ダブル、家族ルーム、アパートタイプの部屋それぞれを有し、合計 123室(5階建て)で運営されているという。


さて、キーをフロントに預け、ホテルを出る(13:45)。
脇の 道路(シフィドニツカ通り)を北上し、一路、旧市街地を目指すことにした。この大通りは路面電車も運行されており、市内の南北を貫通する主要幹線道路のようだった。ここを直進すれば、古城エリアに到着できるという、シンプルな都市設計で助かる。ドイツと異なり、ポーランドの地方都市ではまだまだ東洋人が珍しいようで、すれ違う度にいろんな人の視線を感じる。

下写真左は、南北のシフィドニツカ通りと、東西のコシチュシュキ通りとの交差点。コシチュシュキ広場という場所だった。交通の大動脈のようで、路面電車がひっきりなしに交差していた。この周辺はビジネス街のようで、たくさんの銀行が軒を連ねていた。BNP Pariba、スペイン系の Standaerなど。特に、地元ポーランド最大の銀行 PKOバンク・ポルスキ(Bank Polski)の支店はいくつも目にし、さすが地場銀行の意地を見せつけられる。

ヴロツワフ ヴロツワフ

そして、ポドバレ通りを挟んで 緑地公園「スタロミエイスキ公園」が広がっていた。かつての外堀跡である。上写真右。

なお、その南向かいには、巨大デパート&ショッピングモール「レノマ Renoma」があり、ピカピカの ブランド・ショップ群が、外からでも見えた。上写真右 の右端の建物。

ヴロツワフ ヴロツワフ

上写真左は、この 緑地公園「スタロミエイスキ公園」に設置されていた、ポーランド王国の初代国王ボレスワフ 1世(966?~1025年)の騎馬像。群雄割拠のポーランド諸邦を統一し、欧州の一大強国へと飛躍させた英雄として、ポーランド人の祖先の誇りとなっている。軍馬にまたがって前進するイメージは、ポーランド統一戦争を突き進んだ彼の偉業を暗示するものという(2007年制作)。

この騎馬像を写真撮影していると、20~30代ぐらいの二人組の地元男性が「これは誰か知っているか?」「彼の銅像は近くに他にもあるよ」などと話しかけてきた。筆者が日本人で観光していると伝えると、日本のゲームや文化は好きだ、と大はしゃぎしていた。あまりにノリノリの二人組に対し対応に困惑していると、たまたま脇を通過した二人組の若い母親女性が「Do you need help ??」と声をかけてくる。「大丈夫です」と言ってやり過ごすと、二人組の男が「こんな美人のオファーを断るなんて!」とか言うので、「イヤイヤ、俺は君たちを選んだんだよ」と返しておいた。ちょうどいいタイミングだったので、話を切り上げて「先へ急ぐから」と伝える。
ポーランド人はその苦難と忍耐の長い歴史から、外来者には同情的で友好的な印象を受けた瞬間だった。

そのまま教会脇の ボジェコ・チャワ通りを北上する(上写真右)。途中、Bankとだけ書かれた建物を見つけたが、バーの店内に ATM機を設置しているという意味だったのだろうか??
ちょうどこの界隈には、オペラ座や当地の 最高級ホテル「ホテル・モノポル」が立地する。このホテルは戦前~戦時中、アドルフ・ヒットラー(1889~1945年)ご用達の宿舎であり、また演説会場であったという。今でも、その演説に供されたバルコニーが現存する。

ヴロツワフ

さらに 路面電車沿いを北上すると、正面に大通りが出現する。 4車線もある幹線道路で、カジミエジャ・ビエルキエド通り(途中で、オワフスカ通りへ改称)だった。下写真左。
かつての内堀の跡地に相当する(上古絵図)。

この道路脇に、古そうな聖クリストファー教会がぽつんと建っていたのが印象的だった(下写真右)。閉館しており、中には入れない様子だった。上古絵図にも、その存在が確認できる。

ヴロツワフ ヴロツワフ



 聖クリストファー教会

1267年、わずかな敷地に墓地用の小さな 聖マリ・マドレーヌ礼拝所が建立される。当時の ヴワディスワフ王子(1260?~1333年。カジミェシュ 1世の三男で、後にヴワディスワフ 1世として国王即位)のために建設されたという。
1343年には、現在のオワフスカ通りに集積していた毛皮商人組合が、礼拝所の 経済的支援(仏教寺院の檀家、に相当)を担うようになる。
1410年、建築家兼石工家 ヘンリク(ゾンプコビツェ出身)の設計の下、礼拝堂はゴシック様式の教会へ全面改装される。この時、伝説上の人物、聖人クリストファー(クリストフォロス)に捧げる形で礎石されたため、聖クリストフォロス教会と改名されたのだった。また、遅くとも 1416年ごろには、ヴロツワフ市内の教会各地でポーランド人宣教師が司祭に就任するようになっていた、と考えられている。
15世紀中葉、教会が正式に聖クリストフォロス正教会に所轄されると、ローマ教皇によりさまざまな特権が付与されることとなった。これに伴い、1461年には頂上部が尖がった円形の尖塔が増築され、また塔への時計の 付設(1539年)、先の円形尖塔や天井部分のルネッサンス様式への 改装(1575年)、聖具室の 増築(1602年)などが順次、着手されていく。
他方、16世紀初頭にヴロツワフにも宗教改革が伝播されると、瞬く間に新教徒派が勢力を伸ばし、この教会も新教徒派へ改宗され、ポーランド人専用の地区教会となる(当時、すでにドイツ系住民が多数派であった)。同時にポーランド人新教徒派のための学校も併設されるも、1829年まではドイツ語とポーランド語の両言語で、ミサ活動などが展開されていたという。
しかし 18世紀に至り、新教徒派のプロイセン王国の圧力が強まり、さらに ナポレオンの台頭による欧州戦争の結果、フランス軍がヴロツワフを支配すると、教会勢力が有したさまざまな特権が廃止され、宗教の世俗化が進められる。 1809年には ポーランド、チェコ、ソルブ地方(ドイツ東端)における、宗教団体の組織的な 活動(布教、説法)が全面的に禁止されるまでに強化されたという。しかし実際の現場では 1888年まで、各地で布教活動が普通に継続されていたらしい。

第二次大戦末期の 1945年4月、ヴロツワフ(当時のドイツ語名は、ブレスラウ)包囲戦の最中、ソ連軍との砲撃戦により教会建物は大きく損壊してしまう。戦後になり、 1947~1949年と 1957~1958年の二回に分けて、現在に見られる後期ゴシック様式の教会へ大規模に復旧、再建される。建築上の詳細や内装の家具などは、シレジア地方でこれまで破壊や放棄されてきた多くの教会施設から取り寄せたものが使用されたという。
なお、この戦争直後の混乱期、聖エリザベート教会をはじめ市内の多くの教会群がカトリック派へ移籍される中、この教会と古くから新教徒派に属してきたコート教会の 2つのみ、引き続き、ヴロツワフ市内で新教徒派の教会として存続されることとなる。以後、現在に至るまで、ヴロツワフ市内に残る少数のドイツ系の新教徒派メンバーが集う施設として機能し、特に 1989年の冷戦終結以降は、新規に当地へ移住してきたドイツ人らも集会に加わるようになり、 1993年、第二次大戦後初めて、ドイツ語話者のための新教徒コミュニティ団体が創設されることとなる。この教会が本部を兼ね(現在、市内では 3箇所の教会を束ねる)、以降、毎週日曜日朝 10時から、ドイツ語による週末ミサが行われているという。
午後には、韓国系のキリスト教福音浸礼会のミサ集会場としても、間貸しされているという。



さて、カジミエジャ・ビエルキエド通り(途中で、オワフスカ通りと改名)と、ピョトラ・スカルギの巨大交差点を渡る。地元の人達は地下通路へ進んでいたので、筆者も地下に入ってみた(下写真左)。
と、その地下道路の中央部に両替ショップが見えたので、ポーランド・ズロチ通貨へ両替することにした。これから 3日間、ポーランドに滞在するので、100 EUR札を両替し 407ズロチになった。

この地下道は、道路向かいの巨大ショッピングモール Galeria Dominikanska に直結されていたが(下写真左)、その入口を通り過ぎて、地下道の反対側に出てみる。すると、巨大モールの東面に、巨大な 外堀跡(Fosa Miejska)が姿を現す(下写真右)。

ヴロツワフ ヴロツワフ


かつて 城郭都市ヴロツワフは、オーデル川を基点とする内堀と外堀の、二重の堀で取り囲まれていた。
現在でも、旧市街地を包囲するように 東面、南面、西面に水堀跡がかなり残存する。現在、それらは緑地公園として整備され、オーデル川までの一周を巡れる「旧市街地散歩道」として市民に親しまれている。

内堀(シェンナ・オワバ)は、すでに 13世紀にモンゴル軍が襲来した当時には存在していたが、モンゴル軍の攻撃で無力さを露呈したことから、戦役後の間もなく、さらに外周に防衛ラインが整備されることとなり、これに合わせて、内堀から 300 m離れた距離に 外堀(オワバ・ミエイスカ)が掘削されたのだった。
最初に掘削された外堀は、城郭都市の南面ちょうど中央部にあった 南門(シフィドニツァへの城門)周辺であった。当時、この門外には聖ヨハネ騎士団の教会や修道院などが立地しており、それらを堀で取り囲む形で設計されたのだった。こうして順次、外堀工事が進められ、市街地は大きく南方向へ拡張されることとなる。
また、同時に建造された二重の市城壁沿いには、複数の櫓塔が増設され、さらに複数の稜堡までもが補完的に配置されていたという。稜堡の増築にともない、17世紀に入ると外堀の形状にも変化が加えられ、直線型から幾何学的な設計に再整備されていくこととなる。

ナポレオン戦争時、プロイセン王国を破ったフランス軍 により当地も占領されると、城郭都市の武装解除が命じられ、内外の堀、および市城壁、稜堡などの防衛施設群が撤去されることとなる(1807~1810年)。これにより、堀の強制埋め戻し工事がスタートされるも、相当に時間がかかったようで、 1869年ごろ、ようやく内堀の完全埋め立てが完了したという。結局、外堀の工事は断片的に着手されただけで停止され、それらはオーデル川との接続を失い、溜め池的に生き残ったわけだった。以後、周囲は緑地化され、水辺のリクリエーション空間へと変貌を遂げることとなる。
上写真の ユリウシャ・スウォバツキエゴ公園一体は、早くも 1870年~1880年代に整備され公園化されたエリアという。ここから南に続くのが、「パルチザン(愛国戦士)の丘」という、外堀沿いに建造されていた稜堡なのであった。詳細は後述する。

なお、残存した外堀部分に関しても、19世紀を通じて、ヴロツワフ市議会は少なくとも 2回、完全な埋め戻し工事について審議を重ねており、その都度、結論が出ずに持ち越されたという。第二次大戦終結後、再び堀跡の撤去議案が再燃される。当時、市内のごみ問題が深刻化し、このゴミ捨て場として埋め立てスペースを有効活用することが(1800万 cm3)、最もエコノミーな解決策として提起されたのだった。しかし、ヴロツワフ地元紙『スウォヴァツキ』の 編集者 ヴァツワフ・ドロズドブスキらを始めとする地元ジャーナリストらの反対キャンペーンもあり、審議は再び可決されずに廃案とされる。そのまま放置された外堀跡であったが、1965年になってようやく本格的な公園化整備が着手されることとなった。この過程で、第二次大戦時の不発弾が多数、発見され、都度、適切に処理されたという。その作業途上で、多くの歴史的遺構も無駄に破壊されたと考えられている。



そのまま 堀跡を北上し、ユウリシャ・スウォバツキエゴ公園を通過して、オーデル川沿いに至ると、ヴロツワフ国立博物館前に到着した(下写真左)。映画『ハリーポッター』に使えそうな、シダが連なる古い洋館だった。

中に入ると、チケットを買うべく、一人分と伝える。全展示スペース見学用ですか??と聞き返されるので、「市の歴史展示だけです」と答えると、ここは美術館だという。歴史博物館はもっと南側にあると伝えらた。仕方ないので、そのまま退去する。ちょうど、その西隣に巨大な土盛りの丘があり、その位置関係から稜堡跡だと容易に推察できた。下写真右。

ヴロツワフ ヴロツワフ


ヴロツワフ国立博物館は現在、上記の本館と三つの別館で構成される。主にシレジア地方全体の芸術分野全般にわたる絵画と彫刻を収集、展示している。

もともとは 1880年に開設された王立古美術骨董博物館で、1899年に開設されていたシレジア美術博物館と 装飾芸術品骨董博物館を統合する形で拡張され、ドイツ支配下の 1945年まで王立古美術骨董博物館と通称されていた。
第二次大戦中、戦火を避けるべく、いくつかの収蔵品はヴロツワフ市内から運び出され、別に大切に保管されて生き残るも、その他の多くの収蔵品は戦火の中で破壊され、また散逸してしまったという。特に、進駐したソ連兵などが戦後に持ち去ってしまったケースもあったという。
大戦後、ポーランドが再建国されると、1947年1月1日、ポーランド政府により新博物館として整備が進められる。往時にあった数棟の博物館建物はことごとく破壊されたか、深刻な被害を受けており、まずはその再建工事から着手されることとなった。この時、現在のオーデル川沿いの建物が本館に定められ、翌 1948年6月11日から一般公開が再開される。1950年に州立博物館へ移籍され、シレジア博物館へ改称されるも、1970年に中央政府直轄へ戻されて、国立博物館に復帰し今日に至る。



さっそく、稜堡跡の丘に行ってみる。ここは、稜堡ツェグラルスキ(Bastion Ceglarski)の跡地といい、盛り土の丘は高さが優に 10 m以上はありそうだった。下写真。

ヴロツワフ

すぐ外にはオーデル川が流れ、川中には 中州(砂の島など)が見渡せる。下写真。
このまま川沿いに、散歩道が整備されていた。

ヴロツワフ


ここは、かつて「ツェグラルスキの稜堡(Bastion Ceglarski)」だった場所で、 1585年にリンダウ出身の建築家 ハンス・シュナイダーによってイタリア様式の新築城スタイルに基づき、設計&建造されたものという。当時、この脇に立地していた レンガ門(Brick Gate)という城門を守備する出丸として、オーデル川沿いに配備された。城郭都市ヴロツワフの四方にはこのような稜堡が複数、整備されて防備を固めており、その一角を担うものであった。

なお、建築家 ハンス・シュナイダーは、このヴロツワフの近代城塞都市化を総合プロデュースした人物でもあり、後述する「荷馬車主の 稜堡(Sakwowy Bastion、Pannier Bastion)」の設計、建造も手掛けている。この他、ポメラニア地方(現ポーランド北西部からドイツ北東部のエリア)や、シレジア地方の各都市の近代城塞化も担い、この地方の城塞建築に大きく貢献した築城家であった。
後世に至り、これらの近代稜堡には、前衛となる ラヴリン堡塁(日本の城郭で言う、馬出し出丸)も増築されることとなる。
しかし、1807年にプロイセン王国を屈服させた ナポレオン・フランス軍が当地に進駐すると、その命により城郭都市の武装解除が進められる。四方に配されていた稜堡跡は市民公園化され、その展望丘へと改修される。特にこの「ツェグラルスキの 稜堡(Bastion Ceglarski)」跡はオーデル川沿いに立地したこともあり、散歩道を兼ねたスペースへと整備されたのだった。これに合わせ、砲台陣地に配備されていた軍需倉庫もすべて閉鎖される。
市民公園へと整備された小高い丘は、当時、欧州で人気を博したドイツ系の文化人 カール・ホルタイ(1798~1880年。詩人、劇作家、小説家、俳優)の名にちなみ、「ホルタイの丘」と命名され、彼の胸像なども設置されていたという。第二次大戦後には「ポーランドの丘」へ改名され、今日に至る。



堡塁跡の丘の内面には、弾薬庫か兵舎があったらしく、その施設遺構のレンガ積み建物が保存されていた。下写真。

ヴロツワフ ヴロツワフ

この稜堡ツェグラルスキ跡の南面に、 ラツワヴィツェの戦い全景博物館(Muzeum Panorama Racławicka) があったので中に入ってみる(上写真右の、王冠型の建物)。
14:30過ぎに到着したが、30分に一回ずつの上映らしかった。 14:30は小学生の団体の授業で使用されていたらしく、一般客は 15:00~の部からと言われる(下写真左)。とりあえず、待つことにした。チケット代 30ズロチ。
後で調べてみると、英語のテープを借りられるようだったが、この時、筆者は知らなかったので申し出るのを忘れた。

荷物をクラークにあずけ、カメラだけ持って内部に入る。地下洞窟をイメージした通路を、グルグルと円型上に上がっていくと、パノラマ・スペースにたどりつく。すぐにスタッフがポーランド語のテープを流す。

ヴロツワフ ヴロツワフ

訪問客は 30分弱ほどの時間、ゆっくりと一周まわりながら、解説を聞いていた。ポーランド語が聞き取れない筆者は、ひたすら絵画鑑賞となった。

ヴロツワフ

特に軍馬の描写は素晴らしく、正面から見ると分からないが、やや斜めから軍馬に対すると、浮き出て見える仕組みに工夫されていた。実に巧妙な画法だった。

ヴロツワフ

終了後、そのまま洞窟通路をロビーまで戻り、荷物を回収し自由解散となる。

そのロビー奥にはトイレがあった。このロビーは館内を見学しなくても、立ち入ることができるスペースで、トイレ使用も無料だった。そのトイレ前に、この ラツワヴィツェの戦い(1794年4月4日)が行われた戦地模型や(下写真)、コサック兵、騎馬兵などの ロシア軍、ポーランド民衆兵などの軍旗やミニチュアが展示されていた。

ヴロツワフ

ヴロツワフ



 ラツワヴィツェの戦い 全景博物館(Muzeum Panorama Racławicka)

ポーランド、バルト三国では知らぬ国民はいないという、ラツワヴィツカの戦い(1794年4月4日)に関する博物館で、特に 360度大パノラマ絵画が見どころとなっている。
この戦闘は、第二次ポーランド分割(1793年)に反対する、ポーランド・リトアニア共和国の正規軍と民衆部隊が決起したもので、初期のころにロシア軍と対峙した会戦であった。ポーランド・マウォポルスカのラツワヴィツェ村に展開中であったロシア軍の将軍 アレキサンダー・トルマソフ(1752~1819年)の率いた 正規軍(騎兵隊やコサック兵らも動員されていた)に対し、 ポーランド・リトアニア共和国の元将軍 タデウシュ・コシチュシュコ(1746~1817年)が率いた 民衆蜂起軍(農耕具の大鎌などで武装した一般の小作人や都市民ら)が襲撃し大勝を収めた様子を描いている。この後もしばらくはロシア軍相手に善戦した元軍人コシチュシュコらであったが、次々に援軍を増派してくるロシア軍、さらにこれに協力したプロイセン王国軍によって鎮圧されていき、最終的に負傷したコシチュシュコはロシア軍の捕虜となり、また敗残兵をまとめた政権も崩壊してしまうのだった。直後に、列強による 第三次ポ-ランド分割(1795年)を受け、ポーランド・リトアニア共和国は地上から完全消滅することとなる。

この元将軍コシチュシュコが率いた民衆蜂起は、その後も旧ポーランド共和国や 旧リトアニア共和国(現在のバルト三国)の人々によって語り継がれ、ラツワヴィツェの会戦での劇的な勝利から 100周年を記念し、リヴィウ市(ウクライナ西端の最大都市)出身の画家ヤン・スティカが発案して博物館の建設プロジェクトが進められることとなる。愛国主義的な精神から実行された本プロジェクトの目玉は、この巨大な絵画の制作で、 1893年8月~1894年5月までの、実に 9ヵ月間もの時間が費やされたという。
ブリュッセルへ特別発注にて制作された布キャンバスと、ウィーンで特別に制作された鉄骨の円形ドームの建物が設営されるなど、周辺諸国の技術なども動員される巨大プロジェクトで、最終的にリヴィウ市にあった国立博物館の分館としてストリスキー公園内に開設され、1894年6月5日に一般公開されることとなる。
その後、 ラツワヴィツェの円形ドーム博物館は多くの人々の来訪を受け、リヴィウの名物として、観光客らの必須の訪問地に挙げられるほどであった。毎年平均で 75,000人もの訪問者を記録したという。

第二次世界大戦後、この 360度の巨大絵画はソ連領が西進されるにあわせて、ポーランド人、リトアニア人らの有志によってヴロツワフ市のオソリンスキ研究所に運び込まれ、しばらく収蔵保管されることとなる。共産主義体制下にあって、この対ロシア戦争に関するテーマは非常に政治的に敏感な内容であったため、自主的なボランティアたちによって保存が続けられ、1980年8月にようやく、布画の修復と展示がスタートされていくのだった。19世紀のポーランドにおける、大衆文化芸術の数少ない現存作品の一つとして、その復旧作業には膨大な時間と手間がかけられたという。

こうして 1985年6月14日、それまでリヴィウ市の主たる観光資源だった絵画が、ヴロツワフ市の主要な目玉博物館として再開される運びとなったわけである。
円形劇場スタイルで、円形ドームの壁面にラツワヴィツェの戦いの模様を模写した絵画がぐるりと貼られており、訪問者はまさにその戦場の中心に立って、戦場のさまざま場面を一気に見通せる仕掛けになっている。照明や地形模型なども効果的に使用され、臨場感の演出が図られており、手品のような奇跡の作品として高く評価されているという。



博物館 を後にすると、その正面の ヤナ・エバンジェリスティ・プルニキニィエゴ通りを西へ進む。小学校の校舎を通り過ぎた次の 道路「クラインスキエゴ通り」沿いに、古い城壁跡を発見した(下写真)。実際にはかなり修復されており、あまり古さは感じなかったが、内堀を守備した市城壁が、往時からこの同じ場所にそのまま現存する、という点に価値がある。

ヴロツワフ

この古城壁沿いを北上していると、北端に小さな櫓塔らしき建物が見えてくる(下写真右)。
櫓塔の周囲をうろうろしていると、ちょうど停車中の自動車の中にいた地元女性を見つけたので、「この塔には上がれますか?」と質問すると、わざわざ車から降りて説明してくれた。「中はレストランになっているで、聞いてみては??」とのことだった。

城壁の裏手に回って、櫓塔のドアを開けてみると、なんとキッチンがあった。出てきたスタッフ女性に「上に上がっていいですか??」と聞くと、「どうぞ、どうぞ」と言う。「ここはバーです」と。「塔に上がりたい」というと、「あまり見どころはないけど。。。」と言うので、内装は完全に飲み屋になっているのだろうと推察し、止めておいた。

ヴロツワフ ヴロツワフ

下古絵図でも、内堀沿いの市城壁が確認できる。

ヴロツワフ

そのままクラインスキエゴ通りを北上すると、オーデル川に到着した。
このオーデル川沿いに整備された公園は、ポルツキ広場というらしい。一部に城壁か稜堡跡の盛り土が所々に残されていた(下写真)。ここの散歩道は、先程の稜堡ツェグラルスキから川沿いに延々と続く、長いリクリエーション空間になっており、何組ものカップルが二人の時間を楽しんでいた。

遊歩道沿いには、「ハラ・タルゴワ市場(Hala Targowa)」という巨大屋内マーケットと、ヴロツワフ大学(Uniwersytet Wrocławski)の校舎があった(下写真右の奥側)。

ヴロツワフ ヴロツワフ

さて、いよいよ「砂の橋(Piaskowy Bridge)」を渡って、中州エリアを散策してみる。こんな細い橋上にも、路面電車、自動車道、歩行者通路が並行して敷設されていた(下写真左)。

下写真右は、そのまま線路沿いに島内の中央部に至ったところ。この最初の島は「砂の島(Wyspa Piasek)」といい、総面積約 5ヘクタールしかない中州で、中央部にある 聖ヤドヴィガ通り(下写真右)のみが唯一の街道となっている。

ヴロツワフ ヴロツワフ

この狭い中州地区であるが、大学図書館、神学校、法律専門学校、病院、教会、修道院などの歴史的建造物がぎっしり詰まったエリアらしく、各建物に解説板が掲示されていた。
特に図書館建物は、かつてアウグスティヌス修道院だった施設で、市内に複数に分かれて立地する大学図書館分館の一つとなっている。

基本的には、聖アンナ教会(上写真左の右手に見える、高い方の茶色屋根。ゴシック様式)と、聖キュリロス&聖メトディオス教会(上写真左の左手に見える、低い方の茶色屋根。バロック様式)の 2大教会だけで、ほぼ中州全域の敷地が占められている。
かつて、中州内にはその他、多くの建物が密集して存在していたが、第二次大戦末期のソ連軍の包囲戦により、ほとんどの建物が損壊してしまうこととなった。


上写真左の右手に見える、高い方の茶色屋根の「聖マリア教会」であるが、現在、ゴシック様式の建物となっている。

その起源は 11世紀末、ポーランド王国の宮廷で権勢をふるっていた高官 ピヨトル・ヴオストヴィチ(1080~1153年。Piotr Włostowic)の命により、この小さな中州にロマネスク様式の教会建立が着手されたことに遡る。 12世紀初頭に完成すると、現在のポーランドにおいて最古級のゴシック様式の建造物となる。
14世紀に至り、ロマネスク様式の教会からゴシック様式の教会へ全面改装される。こうして、1334~1430年にかけての長い工期を経て、レンガ積みの堅牢な巨大建造物が誕生したのだった。内部は縦 78 mもあり、ゴシック様式のアーチ形天井は高さ 24 mにもなった。当初の予定は、南北に 2本の尖塔も増設されるはずであったが、結局、北側の尖塔は建設されることはなかったという。

なお、30年戦争期の 1632年、当地を占領したスウェーデン軍によって、カトリック派に属した当教会はいったん破壊されるも、戦後すぐに復旧工事がスタートし、その過程で建築家 アントニオ・コルディンの設計により、ホーリークロス・チャペルも増築されている(1666年)。しかし、1世紀後には南側の尖塔上に落雷があり、屋根が全焼する。 ちょうど数日前に、新しい 4.7トンの鐘が教会に納品された直後の出来事であったという。
オーストリア帝国と プロイセン王国がシレジア地方の領有をめぐって争った 7年戦争の 期間中(1754~1763年)、当地に進駐したプロイセン軍は教会施設を接収し、砲弾庫に転用していた。ナポレオン戦争期間中、当地に進駐したフランス占領軍により、1810年、この建物全体が病院施設へ転用されることとなると、 聖マリア教会は道路向かいの 修道院施設(現在の聖キュリロス&聖メトディオス教)へ強制引っ越しされることとなった。

さらに時は下って、第二次世界大戦末期の 1945年、ソ連軍が当地に侵攻してくると、 オデール川の中州の島々にあった教会や周辺の建物は、ドイツ守備隊の本部として接収される。前年のヒトラーの命令を受けた守備隊は、最後の一兵まで都市を死守する防衛体制を構築し、ソ連軍を迎え撃つこととなる。このため、司令本部となった中州エリアの建物はソ連軍の集中砲火を浴びてほぼ全壊し、教会群もことごとく倒壊したという。この聖マリア教会も例外ではなく、それまで保存されてきたバロック様式の内装や 演壇、オルガン、中世の名画家 ミカエル・ウィルマン(1630~1706年)の絵画など、貴重な歴史遺産がすべて灰燼に帰すこととなった。
戦後の翌 1946年、ただ壁だけが残る状態だった聖マリア教会の再建工事が、ようやくスタートする。往時の姿でアーチ形天井や洗礼施設のみゼロから復旧され、その他の内装の家具などは、市内で破壊された他の教会施設や教会関係の博物館から、いくつか使えるものを寄せ集めて搬入されたという。16世紀に彫像された聖母マリア像は、ベッサラビアの マリウポリ(現在のウクライナ)にあったカトリック教会から、新移民らによって持ち込まれ、ここに安置されている。


また、上写真左の左手に見える、低い方の茶色屋根の「聖クレメンス&聖クレメンス教会」であるが、ここが 1945年までは、本来の聖アンナ教会と命名されていた建物である。
もともと、この敷地には聖ヨーゼフ礼拝堂が立地していたが、17世紀初頭にいったん破却され後、再び 1686~1690年にかけて、聖アウグスチノ女子修道会によってバロック様式の聖アンナ教会が新築されたものであった。しかし、ナポレオン戦争期間中の 1810年、宗教勢力の特権がはく奪され、宗教の世俗化がスタートすると、フランス占領軍によって道路向かいの聖アンナ教会が病院施設へ転用され、この修道院の建物に聖アンナ教会が引っ越しされてくる。以後、教会と修道院、カトリック系の神学校を兼ねる建物となった。

第一次大戦直後の 1919~1921年にかけて、教会は引き続き、カトリック系の施設として、ヴロツワフ市内のポーランド人マイノリティ修道会によって運営される。その後、再び 地区教会(カトリック派)へ転用されるも、第二次大戦中には、この教会建物はヴロツワフ大学図書館の蔵書 50万書近い蔵書を保管する倉庫として代用されることとなった。しかし、軍司令部が置かれた中州エリアはソ連軍の猛攻のターゲットとされたため、聖アンナ教会は保管中の蔵書ともども全焼してしまうのだった。
戦争後に至り、残存物をあさる窃盗が横行したため、すぐに警備体制が導入されるも、建物の復興は後回しとなり、1970年に至ってようやく ギリシャ正教(東方正教会)の管理下で再建され、1976年から教会施設として再始動を始めたのだった。以後、ギリシャ正教(東方正教会)に帰属する教会となっている


ヴロツワフ

下写真左は、川の 上流側(西方向)を眺めたもの。たくさんの中州が連なり、それらが遊歩道で連結され、市民の居住空間であり、リクリエーション空間となっていることが分かる。

ムウィンスキ橋から別の 中州(水車小屋の島:Wyspa Mlynska)へ移動する。その橋上で、異様な建物を見つけた(下写真右)。最初は、単に水門上のスぺースを有効活用した住居棟か、事務所棟なのだろうかと思った程度だったが、調べてみると結構、歴史的遺産だった。今は、完全に廃墟と化していた。
ヴロツワフ ヴロツワフ


右上写真の、3階建ての橋上の建物は マリア水車小屋(Maria Mill)といい、ヴロツワフ市に残る最古の水車小屋という。その設置は、モンゴル軍の襲撃を受けた、翌 1242年と記録される。以後、アーノルド、クララ、マティアス、聖体祭、不死鳥など、さまざまに名称を変えながら、かつ、諸々の所有者の手を経て、今日まで継承されてきという。時に宗教勢力に属し、特に火災被害に遭ったりと、その紆余曲折の変遷史は市内随一となっている。
この二つの水車を有した水車小屋は、最終的にプロイセン王国の国有下に置かれる(1810年)。古い水車小屋はプロイセンによって古典主義スタイルへ全面改修され、さらにその上階には穀物貯蔵所を兼ねる倉庫が増築されると、ヴロツワフ市内にあって最もモダンな建造物に生まれ変わることとなった。第三次ポーランド分割が終結し、前世紀後半の国内争乱から晴れて、プロイセン王国下で 100年の平和を謳歌することとなったシレジア地方は、大いに経済発展を遂げる。その繁栄の象徴とみなされたのが、このモダンな水車小屋だったわけである。

プロイセン王国によって改装された水車小屋は、第二次大戦の戦火を免れて存続し続けたが、 1960年代、ヴロツワフ市でも水車小屋の時代が終焉を迎えると、ヴロツワフ市の象徴だったマリア水車小屋の水車機能も例外にもれず、停止されてしまうのだった。以後、電気式による水門管理システムが導入されると同時に、歴史的建造物の有効活用が議論され、とりあえず、住居棟へと改修されることとなる。非常に残念ながら、この過程で歴史的な水車部分も撤去され、現在のようなアーチ状の橋だけが残されることとなったわけである。これは、停止した水車部分に川からの浮遊物がひっかかり、建物への負荷やダメージが懸念されての最終判断だったという。実際、1000年に一度と言われる 1997年のオデール川の大洪水に際し、河川に大量の瓦礫が流れ出し、市街地がマヒ状態に陥ったことが記録されている。
大洪水から 20年後の最近になって、この旧水車小屋の建物は投資家グループに買収され、建物全体を全面改修し、下層階は商業スペース、上階はそのまま住居スペースとする複合コンプレックスへの開発計画が進んでおり、2020年完成予定という。



そのまま前進するとオーデル川を完全に渡り切ってしまうことになる。遮断物が多い街中と違い、さすがに河川沿いは冷たい風が突き付けていた。

先ほどの「砂の島(Wyspa Piasek)」へ戻り、川を下る形で東進して(下写真左)、先端部分にあった「島の橋(Tumski Bridge)」を渡ってみる(下写真右)。ここには恋人の鉄鍵がたくさん吊りかけられていた。パリのセーヌ川に架かる ポン・ヌフ橋と同様、カップルの願いの橋のようだった。
ちょうど、この「島の橋」を一台の馬車が通り過ぎていった。

ヴロツワフ ヴロツワフ

この「島の橋(Tumski Bridge)」の先にある「オストルフの島(Ostrów Tumski。上写真)」は、もともとオーデル川の中州の島であったが、現在は河川左岸と陸続きになっている。この島がヴロツワフの発祥の地であり、オーデル川沿いの河川交易のための集落が最初に形成されたエリアであった。以後、「砂の島」など周囲の中州へ集落が拡大し、オーデル川右岸へと都市が「上陸」していったわけである。

「島の橋」はそのまま旧中州地区のメインストリートへとつながっており、その前後には 聖ペトロ&聖パウル教会(下写真の中央、1塔を有する教会)や、聖ヨハネ大聖堂(下写真の右端、2塔を有する教会)が立地する。

ヴロツワフ


上写真の中央に見える、1つの尖塔を有する 聖ペトロ&聖パウル教会は、「島の橋」を渡っていくと、オストルフ島内で最初に行き当たる教会である。
最初にゴシック様式によるレンガ積みの教会施設が建立されたのは、1404~1452年で実に 50年を有したという。その後、二回もの大火災で全焼するも、都度、再建されてきた。しかし、第二次世界大戦末期のソ連軍による ブレスラウ(ヴロツワフのドイツ語旧名)包囲戦で都市の大部分が破壊された時、この教会も 40%近くが倒壊したという。戦後に至り、 1950年代にようやく再建工事が着手される。内装の復元作業に際しては、度々、議論を呼ぶこととなったという。
今日、一般人でも内部見学は可能となっているが、開館時間は司祭のその日の気分次第となっており、だいたい月曜から金曜日の 8:00-16:00 ぐらいとされるも、全く保証はないという。

ヴロツワフ

この同じ「オストルフの島」にある、もう一つの教会、それが上写真の中央に写る 2本の尖塔を有する、聖ヨハネ大聖堂である。この施設は現在、カトリック派のヴロツワフ本部を成し、またヴロツワフ市のシンボル的建物となっている。

ここに最初に教会を建立されたのは 10世紀中葉で、当地を支配していたボヘミアのプシェミスル王家の手によるものであった。当時、自然石を積み上げて建設され、縦 25 mもの巨大さを誇ったという。さらに左右には屋根付きの通路も敷設され、壮麗な宗教施設だったとされる。しかし、間もなくの 1000年ごろ、ピャスト朝の ポーランド王ボレスワフ 1世がシレジア地方を征服すると、当地に王家直轄のキリスト教司祭が派遣されてくる。同時に、このボヘミア王家が建立した教会は、ポーランド古来のバシリカ様式へ全面改修されることとなる(この時、地下室や東面に複数の尖塔が増設される)。

しかし、この本格的にバシリカ様式へ改宗された教会建物も間もなく、破却されるてしまう。1039年ごろに ボヘミア王ブジェチスラフ 1世がシレジア地方へ再侵攻し、ポーランド軍を追い出して再占領した際、この教会も破壊されたと考えられている。
再び、ポーランド王カジミェシュ 1世(1016~1058年)が反撃しボヘミア軍を追い出すと、より巨大なロマネスク様式の教会が再建される。

1158年、マロンヌ地方のヴァルター司祭の命により、ポーランド王国中央部の都市プウォツクにあった大聖堂に匹敵する規模へ、教会施設が大拡張されるも、 1241年のモンゴル軍の襲来に際し、灰燼に帰してしまう。
直後より都市の復興工事は進められる中、教会もより巨大なスケールで再建されることとなる。この時に建立されたものが、今日の原型となったゴシック様式のレンガ積み教会であった。これは、ヴロツワフ市内でも最初にレンガ積みで建造された建物として記録されることとなる(それまでは木造か、石積みの建物が一般的であった)。この時の再建で、聖歌隊用の演壇と歩行廊下も増設される(1244年)。

以後も増改築工事は繰り返され、1341年には内装部分に改修工事が大規模に手掛けられた記録が残る。しかし、1540年6月19日、火災により天井部分が焼け落ちてしまうと、再び、修復工事に膨大な 時間(16年間)が費やされることとなった。この再建工事の際、ルネサンス様式へ改装される。
さらに 1759年6月9日に大火災が発生し、複数の尖塔や屋根、内部屋や内装などが消失されてしまうと、再び続く 150年間かけて、緩慢なペースで再建、修復工事が進められるのだった。この再建工事の過程で内装と教会西面が改修され、ネオゴシック様式に生まれ変わる(1873~75年)。 20世紀初頭に至り、ようやく先の大火で消失された尖塔部分が復興されて完成を見るのだった。

しかし、第二次大戦末期のソ連軍による包囲戦により、この大聖堂も 70%が倒壊するという、甚大な被害を被ってしまうのだった。焼け残った内装の一部が現在、ワルシャワにある国立博物館で保存、展示されている。
戦後すぐに復興工事が着手され、1951年までに外観の再建が完成する。その後も、長い年月をかけて部分的な修復が進められ、1991年に至り、ようやく元来あった円錐形の尖塔が再建されて、復旧作業が完遂されたのだった。このため、初期から数えて 4代目となった現在の教会施設は、基本はゴシック様式であるが、所々に ネオ・ゴシック様式で増改築が施された跡がみられるという。
なお、教会内は現在、ポーランド最大のパイプオルガンを有することでも有名である。このオルガンは 1913年に制作されたもので、かつては世界最大のパイプオルガンであった(現在は、ドイツ・レーゲンスブルクの大聖堂が 世界最大を記録中)。



さて、夕方 16:30になったので、気温もかなり下がってきた。再び、「砂の島」を通過し右岸へ移動する。この道をまっすぐ南進すれば、鉄道駅につながるわけだった。

途中、川沿いに見えていた 屋内市場「ヴロツワフ市場会館」に入ってみた(下写真左)。入り口に営業時間 9:00~20:30 までと、デカデカと張り紙があった。屋内は暖かかった。中は 雑貨屋、喫茶店、電器店、八百屋、果物、野菜店、レストラン、両替店など、あらゆる地元民経営のショップが軒を連ねていた。煌々と明かりもたかれ、清潔感あふれる屋内市場だった。下写真右。

ヴロツワフ ヴロツワフ


上写真右に見える、樹木の枝のようなコンクリート製の支柱が特徴的な ヴロツワフ市場会館(Wrocław Market Hall)は、建築家 リカルド・プリューデマンの設計の下、1906~08年に建設されたものである。 当時、同じデザインで設計された大小 2つの市場会館が建設されていた。それぞれ Hala Targowa と、Ulica Kolejowa と命名される。

これらは、ドイツ帝国支配下の当局により、旧市街地で行われていた野外市場を一か所に集めるため施設として整備されたもので、完成後、すべての路上屋台商人らが入居させられたという。
第二次世界大戦の戦時下にあって、 Hala Targowa の方はほとんど無傷で生き延びるも、Ulica Kolejowa の方は大きく損壊してしまう。前者は軽い修復工事を経て、再び屋内市場として再スタートを切るも、後者は戦後期もほぼ廃墟のまま放置されることとなり、最終的に 1973年に全面取り壊し処分となってしまう。このため、現存する Hala Targowa =ヴロツワフ市場会館(Wrocław Market Hall)のみが稼働中というわけだった。この市場会館も、1980~83年、および 2018~19年に全面改修が手掛けられ、現在のような様相に落ち着いたという。



市場会館を後にすると、さらに一直線にピアスコバ通りを南進する。この日、ノビタルク広場は工事中で、市庁舎は見えなかった。

その向かいに、由緒ある 聖アーダルベルト教会&修道院があった。路面電話が縦横に行き交う交差点で、ドミニカンスキ広場という交差点らしい。脇には、往路で現金両替した巨大ショッピングモール Galeria Dominikańska が立地していた。下写真。

ヴロツワフ


この場所に最初に教会が建立されたのは、1112年という。当時、ロマネスク様式で設計され、司教ジロスラウ 1世によって聖アーダルベルト教会と命名される。
当初、ヴロツワフの町は小さく、オーデル川の中州の島々に集落が建設されていただけで、河川両岸にはわずかな民家しか存在していない時代であったため、この教会は右岸側に最初に建立されたものとなる。以後、右岸側の集落地が急発展するようになったという。
ローマ教皇エウゲニウス 3世(?~1153年)の命により、1148年、この聖アーダルベルト教会は、郊外の町ソボトカから参入してきた聖アウグスチノ修道会へ譲渡され、当修道会の地区教会として稼働することとなる。1226年には、王都クラクフ から参入してきたドミニコ修道会へ移譲される。このタイミングで教会施設が拡張され、また内部の祭壇も本格的なロマネスク様式が導入されることとなる。1241年のモンゴル襲来に際し、ドミニコ修道会は早々に退去し、代わりに チェスワフ・オドロワーズ修道会が入居していたが、城内に乱入してきたモンゴル軍により右岸すべての市街地が破壊されると、この教会も例外とはならなかった。

モンゴル軍の撤退後、すぐに都市の再建工事が着手されるも、当教会に至っては、ようやく 1250年にゴシック様式で再建されたという(教会内の内装工事が完了するのは、さらに 1270年まで待たねばならなかった)。1300年代初頭には多角形型の閉鎖的な礼拝所が、 1359年には尖塔も増築される。
1487年までに教会建物はさらに拡張され、高さ 7 mの外壁も増築されたという。特に西面の外観は、壮麗なセラミック製の屋根瓦で覆われた切り妻屋根を有する圧巻の雄姿で、そのデザインは、同市内の聖ドロシー教会や聖コーパス・クリスティ教会のモデルとなっている。 1715~1730年には、バロック様式の聖チェスワ礼拝所が増築される。

ナポレオン戦争中、当地に進駐したフランス軍により、城郭都市の武装解除とともに、宗教勢力のさまざまな特権がはく奪され、政治や教育への介入が排除されることとなった。こうして宗教の世俗化が進められた結果、1810年に教会建物は地区教会へ転換され、修道院用の施設はしばらくの間、倉庫として転用されるも、1900年に解体されてしまうのだった。後には教会本館と別棟の食堂施設のみが残されるだけとなり、2008年についに旧食堂と教会本館とが連結されて、今日に至るという。
第二次大戦期間中の戦火により、教会施設は深刻な被害を受けるも、1953~1955年にようやく再建工事が着手されている。1981~1982年の追加工事の際には、教会建物にステンドグラス窓が増築され、同時にゴシック様式の尖がり屋根が完成されることで、復興工事がようやく完遂されたという。そのまま、レンガ積みのゴシック様式の建物(縦 72 m、横幅約 34 m)が今日まで継承されている、というわけであった。



珍しく賑やかなエリアだったので、周辺を散策してみることにした。ビタ・ストフォシャ通りを西へ入ってみる。石畳の道に中世のレンガ造りの建物群が連なる様は、映画のロケ地にピッタリだった。

そのまま路地を南へ入ると、歩行者天国ストリート「オワフスカ通り」に出た。さらに西進すると、旧市街地の中心部の中央広場に着くわけだが、もう薄暗くなっていたので帰路を急ぐことにした。東へ移動すると、往路に通過した内堀跡の カジミエジャ・ビエルキエド通り(オワフスカ通り)に出る。ここから銀行街の通りを南下し、 へ直進した。

ヴロツワフ ヴロツワフ

外堀跡に到達すると、東側に巨大な盛り土の丘が見えてくる。優に高さ 10 m以上はありそうな丘で、「パルチザン(愛国戦士)の丘」と命名されていた。かつての「荷馬車の稜堡(Pannier Bastion)」の跡地である。上写真左。

せっかくなので、丘上に上がってみた。上写真右は、南進してきたピョトラ・スカルギ通りを見返したもの。この道路向かいに立地する四面体の洋館は、最近まで ホテル・アトラス・パレスという 5つ星ホテルが入居していた、かつての 高級邸宅「ライプツィガー宮殿」跡である。


ライプツィガー宮殿(Pałac Leipzigera)は、1872~1874年にユダヤ人銀行家 イグナーツ・ライプツィガーによって建設された邸宅であった。1827年に開校されていた乗馬学校の跡地を買い取ったライプツィガーは、建築家 カール・シュミットに依頼し、宮殿風の豪奢な洋館を建てたのだった。
完成間もなくの 1878年、地元政府の事務所として売却され、以後は事務所棟として 1945年まで使用されて、さらに共産主義ポーランド時代も事務所棟として機能し続けたという。民主化が始まった 1980年代に国有企業 Proxima 社へ売却され、1997年に不動産開発会社 トーラス(Torus)社へ転売されて、引き続き、事務所テナントビルとして活用されていた。しかし、市街地に新ビルの建設が相次ぎ、近年では空き家同然となっていたという。そうした中、2018年にホテルへの全面改装が発表され、2019年前半にも 5つ星ホテル Altus Palace Hotel(客室 91室、レストラン、会議室、バー、サウナなどが入居予定。周囲にある外堀跡やスタロミエイスキ公園なども含め、総面積 2,500 m2の再開発を含む)の開業が予定されている。

当初、この洋館は長方形の本館をメインとし、その両脇を屈曲させたコの字型で全体が設計され、3階建てで構成されていた。その後、断続的に拡張工事が手掛けられ、現在に見られるような四面体の洋館になっている。しかし、現在でも大理石の部材や金箔が施された内装、古い家具類、1Fに入居する代表者室脇の階段などは、建設当初のデザインがそのまま保存、継承されているという



ヴロツワフ ヴロツワフ

そのまま「パルチザン(愛国戦士)の丘」を散策してみた。南側に面する外堀跡は市民公園の池となっており、寒さで凍結していた。。。上写真。


この「「パルチザン(愛国戦士)の丘」」は、かつて「荷馬車主の稜堡(Sakwowy Bastion、Pannier Bastion)」と通称され、城郭都市ヴロツワフの南東端を防備する拠点設備であった(下絵図)。かつては、もっと高度があったという(現在は、海抜 132 m)。
1571年、イタリア学派の築城術に基ずく稜堡の建造が決定され、建築家 ハンス・シュナイダーの設計に基づき、稜堡陣地が整備されたのだった。内部には 砲郭、倉庫、大砲などが配備され、稜堡脇にあった城門を防備する要とされる。城門が当時、市内で財力のあった有力商工組合から命名され、「Pannier Gate(荷馬車手の城門)」と呼ばれていたことから、「荷馬車主の稜堡(Pannier Bastion)」と命名されたのだった。
1593年には新たに火薬庫が増設され、また 18世紀に入ると、地下施設や巨大な砲床が設置される。

ヴロツワフ

ナポレオン戦争の勝利により、当地に進駐してきたフランス軍から城郭都市の武装解除が指示されると(1807年)、この「荷馬車主の稜堡」も破却されることが決定される。最初は、別の城塞への大改修計画が持ち上がるも(1813年)、最終的に稜堡敷地は市民らのための散歩公園へと改装されることとなった。このとき、「サクヴォヴェの丘(カバンの丘、の意)」と改称される。
半世紀後の 1867年、丘の上に展望台と天文学観測所の塔が建設されると、「リービッヒの丘(恋人たちの丘、の意)」へ変更される。

第二次大戦末期の 1945年、ソ連軍によって ブレスラウ(ヴロツワフのドイツ語名)が完全包囲され、壮絶な市街戦が繰り広げられた当時、このリービッヒの丘にあった砲郭部分に、ドイツ防衛軍の地下司令室が設置されていたという。
戦後になって「リービッヒの丘」は「愛の丘」へ改称され、1948年には「パルチザン(愛国戦士)の丘」へと変更されて、今日まで継承されることとなる。
これは、かつて 1932年に「リービッヒの丘」南西端の坂上に、植民地紀念碑が建立されていたことに由来している。ドイツ帝国に併合されていた当時、東アフリカ、トーゴ、中国、南洋諸島などの海外ドイツ領で、ドイツ軍として犠牲になった当地出身の兵士らを慰霊したものであったが、1945年に撤去されてしまう。しかし、人々はその存在を忘れることなく、戦後になって「パルチザン(愛国戦士)の丘」として公園名に刻み付けたのだった。

冷戦終結後の 1990年6月1日、自由主義経済の幕開けを象徴するかのように、市政府は地元建設会社 Retropol 社との間で、40年(2030年6月1日まで)の土地賃貸契約を締結する。
当初、この建設会社は大規模な商業施設を設置し、レストランなどを伴う結婚式会場へと大改修する計画を発表していたが、土地契約の締結後、計画はすぐに変更され、自社の本業であったクラブやレストラン事業の展開が予定されるも、企業側の経営陣やオーナーなどの変更もあり全く土地開発は進展を見ることは無かったという。それでも、天文学観測所の塔が撤去された後は、丘上にビジネスマン用のクラブが開業し、また、丘の入り口部分にはカジノ施設も開業されたが、数年で閉鎖されてしまう。その後、Reduta というナイトクラブになったり、レストランが開店されたり、ディスコが誘致されたり、屋外は音楽コンサートやダンススペースなどに活用されるなど、さまざまな努力が払われてきたが、いずれの事業も短命に終わり、そのまま丘の敷地はメンテナンスが行き届かなくなり、治安や衛生環境が悪化することとなる。この期間、市民活動家らが史跡保存や市民公園への整備を度々、市政府に請願するも、実現することはなかったという。
しかし、2014年7月19日、市政府はついに賃借契約の停止を求める裁判を、地区裁判所に提訴する。土地が未使用のまま長期間放置されていることは契約違反という市側の主張が認められ、2017年1月5日、土地の管理利用権は市政府へ強制返還されることとなり、今日に至る。



さらに ピョトラ・スカルギ通りを南下すると、外堀跡からコウォンタヤ通りと名前が変わっていた。そのまま駅正面に到着する(17:00ごろ)。
翌日に向かうレグニツァ行の列車チケットを購入することにした。駅構内にはなぜか、二つの駅窓口があったので、空いている方に並んでみた。こちらは、片方が暖房が効いた部屋で座ってチケットが買える場所だった。もう片方は、立ったまま購入するカウンター様式だった。
座席に着席し、「明日朝 8:00にレグニツァへ行きたい」と言うと、「7:42と 8:21があるがどっちがいいですか?」と聞かれたので、後者のチケットを購入した(15.6ズロチ)。乗車時間 50分という。とても対応のいいおばさんだった。


駅中には コスタ・カフエ、KFC、マクドナルドなどが入っていた。また駅ホーム地下にも、ケバブ店やサンドウィッチ店などが数軒あり、気さくに買い物して、そのまま電車に持ち込める仕組みだった。せっかくなので、軽く夕食を食べることにした。
ロッカー奥のあまり目立たない小さな サンドウィッチ店を選んで入ってみる。地元のおばさんが一人で営業している様子で、巨大なサラダサンドを作ってくれた(13ズロチ)。
こういう目立たず、一人で頑張るお店を応援したくなったわけだが、他の店は明らかに若い女性バイトを配置している感じだったので、同じサラダサンドでも 14~15ズロチしていた。頑張れ、おばさん!
駅チケット売り場の中央部に観光案内窓口もあったが、座っている窓口のおばさんが不愛想過ぎて、あまり機能していないようだった。

ヴロツワフ ヴロツワフ

駅舎を出た頃には、すでに 18時半を過ぎていた(上写真左)。
ホテル横の コンビニ(6:00~23:00、文字通り、セブンイレブン !!!)で追加食糧を調達しようと入ると、なんとスシ弁当が売っていた。大きい方 14.99ズトチと、小さい方 10.99ズロチ。二つ以上買うと 20%オフになるらしく、貧乏根性から両方購入した。これに ハム(ザラミ)を追加し、レジで精算した。
20:00前にホテルに戻り、早速、部屋で寿司を食べてみる。お米は、乾燥したモチのような代物で、ネタの味も最悪だった。地元の人には、これを寿司とは思ってほしくないな。。。と心配になった。いちおう、箸、紅ショウガ、醤油、ワサビも封入されており、この周辺装備は感心するものがあった。
21:00に早々と就寝し、翌朝 7時半にロビー階のレストランで朝食を食べる。かなり豪勢なものでビックリした。

この二日目は、郊外の町レーグニツァを散策した後、再び列車でヴロツワフ駅に戻ると(17時40分 !)、ダッシュでホテルまで戻り、荷物を回収後、さらに走って駅裏のバスターミナルに向かった。都市間バスに乗車できたのは 17:57分で、出発の 3分前ギリギリだった。。。。汗ダクで座席に座るはめになる。。。
ここからポーランド第二の都市、クラクフ(世界遺産都市)へ移動する。ネットで事前予約しており、18:00発 → 21:10 クラクフ着の便だった(26ズロチ)。バス車内ではトイレを使いたかったが、ここでも東洋系は筆者一人でやたら目立つので、座席から動かず寝て過ごした


 ヴロツワフ の歴史

古代より、ドイツ・ライプチッヒ、オポルスキ(ポーランド国内で最も豊かな都市)、 クラクフ、キエフへとつながる、オーデル川沿いに発達した河川交通ネットワーク上の交易都市として発展し、10世紀には川の中州エリアを中心に集落が形成されていたという。
当初はモラヴィア王国に、その後はボヘミア王国の版図下に属した。

990年代、ポーランド王国を軍事統一した ミェシュコ 1世(935?~992年)によって、シレジア地方にも派兵されると、ヴロツワフも占領される。しかし、間もなく ボヘミア王国 が再奪取するも、最終的に子の ボレスワフ 1世(966?~1025年)がシレジアを軍事征服し、ポーランド王国領として確定させることとなった。
1000年、ローマ法王によりヴロツワフ教区が新設されると、ポーランドの三つの司教拠点の一角に選定される。このとき大聖堂が建立され、またヴロツワフ防衛のための城塞も建造される。あわせて、低シレジア地方は農耕にも適した土地柄で経済都市としても繁栄し、ヴロツワフはシレジア地方の 政治、経済、宗教の中心地として君臨することとなった。

ヴロツワフ

その後も、ボヘミア軍 との一進一退の攻防戦は続き、ポーランド王国は防戦一方に追い込まれていく。しかし、ボレスワフ 3世(1085~1138年)の皇太子 ヴィグナニェツ(後のヴワディスワフ 2世。1105~1159年)が軍事的才能を発揮してボヘミア軍を撃退すると、そのまま シレジア(シロンスク)地方の防備を委ねられ、1138年にボレスワフ 3世が崩御した後、自身がポーランド王を継承し(ヴワディスワフ 2世として即位)、あわせて シレジア(シロンスク)公も兼務し、王都を自身のテリトリーであったヴロツワフに遷都することとなる(1139年)。

しかし、間もなく兄弟間で相続問題が勃発すると、ヴワディスワフ 2世はボヘミア、ドイツへの逃亡生活を余儀なくされ、実弟のボレスワフ 4世がシレジア地方を統治した。最終的に 1163年、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ 1世の支援により、ヴワディスワフ 2世の息子達がシロンスク地方の領有権を回復し、旧領に復帰すると、そのまま神聖ローマ帝国配下の一侯爵に成り下がることとなる。しかし、寄らば大樹の効果は大きく、以後、13世紀を通じて、シレジア地方の政治は比較的安定し、経済発展が大いに進むこととなった

ヴロツワフ

1241年2~5月にかけて、モンゴル軍がポーランド王国東部に侵攻してくると、王国の経済、統治系統はマヒする(上地図)。シレジア地方でも都市住民らは居住地を捨て郊外の山林地帯へ逃亡し、残った市民らは城内に立てこもって抵抗することとなる。城壁はモンゴル軍によって難なく突破され、城内では大殺戮が行われ、ことごとく灰燼に帰したのだった。モンゴル軍は各都市や集落を破壊、略奪後、すみやかに撤退することとなった。

モンゴルの脅威が去った直後より、都市ヴロツワフは再建工事が急ピッチで進められ、1262年にはマグデブルク権利を授与され、正式に市議会が成立する。あわせて、激減した人口を補填すべく、ドイツ西部から多くの移民らが迎え入れられていくこととなった。

ヴロツワフ

1327年、ポーランド王国の皇位継承問題により、ヴロツワフを含むシレジア地方は、隣国のボヘミア王国に完全併合される(上地図)。以降、ボヘミア国王は、シレジア公とポーランド国王を兼務することとなった

このボヘミア支配時代、幾度かの戦火に遭遇するも、基本的には平和な時代が続き、貿易都市ハンザ同盟に加盟するなど近隣との交易ネットワークも強化され(下地図)、経済的に大いに繁栄したという。市内には シレジア人、ボヘミア人、モラヴィア人、ポーランド人、ドイツ人らが混在で生活し、さまざまな言語が飛び交う国際的な土地柄となっていた。特に、主要な河川交易エリアであったオーデル川沿いは、ドイツ商人らの住居や店舗、倉庫が軒を連ね、一見するとドイツの都市のような雰囲気であったという。しかし、路地裏ではポーランド語が日常に話されている、という構図であった。

ヴロツワフ

16世紀初頭の宗教改革の間、シレジア地方の大部分と同様に、ヴロツワフでも都市人口の大多数が新教徒派へ改宗することとなり、フス戦争期には新教徒派に組みして、オーストリア帝国などのカトリック派と対峙する

しかし 1526年以降、神聖ローマ皇帝を兼ねた オーストリア帝国ハプスブルク家がポーランド、およびボヘミア王を兼務することとなると、ポーランド語名のヴロツワフは、ドイツ語名「ブレスラウ」と改称され、オーストリア帝国の支配下に組み込まれることとなった。この間、カトリック派に属したハプスブルク家により、シレジア地方の新教徒派はその活動を大幅に制限されることとなった。
最終的に 1675年、ポーランド・ピャスト王朝の血縁が断絶すると、オーストリア・ハプスブルク帝国がヴロツワフを含む、シレジア地方を直轄する。同時に、さらにカトリック化政策が強化されたのだった。

1742年、オーストリア帝国皇室の後継者騒動のどさくさに乗じ、プロイセン王国がシレジア地方へ侵攻し、軍事併合してしまう(第一次シュレージエン戦争。下地図)これは 2世紀前のシレジア公ピャスト王家との 盟約(ピャスト王朝断絶の際には、遠縁にあたるプロイセン王国ホーエンツォレルン家がシレジア地方の一部を継承する、という遺言)を履行したもの、と プロイセン側(1806年にドイツ連邦に加入し、ますます強国化への道を突き進むこととなる)は主張し、自身の軍事征服を正当化したのだった。
1811年には、ヴロツワフ大学が新設される。

ヴロツワフ

ナポレオン戦争期間中、プロイセン王国が敗退すると、そのままフランス軍に占領される。しかし、ロシア遠征に失敗したフランス軍を追い込むべく、1813年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世(1770~1840年) はこのヴロツワフの地で、決起宣言を発することとなる。ここで、ロシアとの同盟が発表され、フランス・ナポレオンへと再度の宣戦布告が発せられたのだった。

1871年、ドイツ連邦は、プロイセン王国主導でドイツ帝国へと改編されると、急速にドイツ国内の統一政策が推し進められる。この過程で、ヴロツワフ(当時はドイツ語名で、ブレスラウ)は大いに発展し、ドイツ帝国内で第 6位の大都市に成長して(ベルリン、フランクフルト、ミュンヘン、ハンブルク・・・と同列視されていた)、巨大産業都市となっていくのだった。その中心は紡績業がけん引し、都市人口は 1840年に 10万を記録して以降も増加を続け、特に 1860~1910年の間に、3倍にも膨れ上がり、50万人を越えることとなる。自他ともにに認めるシレジア地方の 政治・文化・産業の中心都市となったブレスラウは、今日もしっかりその地位が継承されている。
当時、ドイツ人が 95.71%を占め、ポーランド人が 2.95%、ドイツ・ポーランド混血が 0.67%、チェコ人が 0.68%を占めていた。この栄光の時代を謳歌した 1913年、オーデル川の上流側にライプチッヒ戦役 100周年を紀念するホールが建設される(2006年に世界文化遺産となる)。

第一次世界大戦後、ポーランド共和国として独立するも、市内には圧倒的多数派としてドイツ系住民が残留されていた。彼らは、ヴェルサイユ条約における民族自決の原則に感化され、ドイツ復帰闘争を巻き起こすこととなる。
1920年8月、ドイツ人らはヴロツワフ市内のポーランド人学校や、ポーランド語の図書館などを破壊して回ったという。1923年にも、市内で大きな民族主義騒動が勃発している。

1933年にナチス党がドイツ政権を奪取すると、ドイツ国内に住むポーランド人やユダヤ人学生らの身分管理を強化し、公共の場でのポーランド語使用も禁止される。こうしてポーランドへの締め付けを強める中、 1939年9月にポーランドへ軍事侵攻を開始すると、ドイツ占領地となったヴロツワフ市内に残っていたユダヤ人らは、ことごとく ナチス・ドイツに収監されていくこととなる。こうした両国の不穏を察し、1920年代~1930年代にかけて、多くのポーランド人エリート層が母国を離れたわけだが、それでもポーランドに残ったリーダー層も多少なりとも残存しており、そのすべてが収容所へ送られたのだった。こうした民族浄化政策により、ドイツ占領下の 1939~1945年の間、ヴロツワフ市内は 100%ドイツ系住民だけの都市となる。

ヴロツワフ

しかし、ソ連との戦争で疲弊したドイツ軍が劣勢に追い込まれると、1945年1月12日、ソ連軍は弱体化したドイツ軍主力に対し猛攻を開始し、同月 17日までには、ほぼ壊滅状態に追い込まれる。 2月14日、都市ヴロツワフも イワン・コーネフ元帥率いる第 1ウクライナ戦線の第 6軍により完全に包囲される(1944年に一度、米英連合軍により初空爆を受けていた)。しかし、当初は犠牲を避けるため、積極的に攻撃をしかけることはなかったという。

これに対し、熱狂的なナチ党員であった当地の司令長官 カール・アウグスト・ハンケ(1903~1945年)は、ヴロツワフ死守を布告し、ヘルマン・フォン・ニーホフ将軍の率いるドイツ軍第 371歩兵師団に大防衛陣地の建造を指示していた。この大工事のため、都市周辺の住宅などは撤去され、完全に平地化されることとなった。さらに、軍用の飛行場を整備し、都市防衛に必要な物資の補給窓口としたのだった。
この建設工事の過程で、数えきれない数のドイツ人一般市民や囚人労働者らが死亡したという。工事参加を拒絶した多くの人々や逃亡者は容赦なく射殺され、また過酷な労役の中で命を失ったとされる。多くの不平不満が出た 3月初旬、カール・ハンケは強制労役を取り消し、婦女や子供の就労を禁止する。しかし、この労働現場からの帰路、18,000人もの人々が、マイナス 20℃の低温と吹雪の中の移動で凍死してしまったという(その大部分は、児童らであった)。
戦前には人口 60万を数えた大都市ヴロツワフであったが、戦争末期の時点でまだ 20万人が残留していたという。これは西の本国ドイツへ移動するための鉄道網が破壊され、人員の移送手段が不足していたためであった。

1945年5月7日、3ヵ月近い攻防戦の後、要塞都市ヴロツワフはついに投降する。これはドイツ東部戦線において、最後まで粘った都市となった。これより以前の 4月25日にソ連軍は 首都ベルリン を完全包囲し、4月30日にはヒットラーが自殺していた。そして後継政権により 5月8日、停戦協定が締結され、第二次大戦におけるヨーロッパ戦線は終結されるのだった。
ヴロツワフ戦役では徹底した市街戦が展開され、4万人もの一般市民が住宅や工場などの廃墟の中で死亡し、都市の 65%~80%が完全に破壊されたという。これはソ連軍により決行された無差別攻撃の結果であり、またナチス党の国家総動員令に基づく、Volkssturm「国民の嵐(国民突撃隊員)」という 臨時市民部隊(16~50歳の全男子を徴兵)による死闘の結果でもあった。総司令官の カール・ハンケは航空機でチェコへ逃亡していたが、間もなく捕縛されるも逃走を図ったため(6月8日)、その現場で射殺されることとなる。
ヴロツワフ

戦後になり、ドイツはオーデル川および、その支流であるナイセ川より東部の 11万 km2 もの領土を喪失し、ヴロツワフを含むシレジア地方は完全にポーランド領土に組み込まれる。ドイツ帝国が失った最大の大都市となったのだった。
大戦直後の 1945~1949年の間、ヴロツワフ市内を含むシレジア地方に住むドイツ系住民らは、ことごとく西のドイツ本国へと追放される。この過程で、ソ連軍によって集団強姦されたドイツ人女性も数百万にも上ったという。こうしたソ連軍による恐怖体験は、さらにドイツ人らの逃避行を掻き立てる効果を発揮し、多くのドイツ人らが本国へ急行したとされる。それでも、1950年代末には未だわずかなドイツ人らが居住を継続していたようで、ヴロツワフ市内で最後のドイツ系学校が閉鎖されるのは 1963年であった。

同時に、約 30万人ものポーランド人がヴロツワフへ移住されてくる。彼らは旧ポーランド東部の土地を追われた人々で、例えば、リヴィウ(今のウクライナ西部の都市)、 ヴィリニュス(今のリトアニア共和国の首都)、フロドナ(今のベラルーシ内の大都市)などの住民らであったという。これは、ポーランドに獲得させた旧ドイツ領 11万 km2の見返りとして、ソ連がポーランド東部 18万 m2もの土地を割譲した結果であった(上地図)。
ドイツ語名のブレスラウは、ポーランド語のヴロツワフへ改称され、 1948年には市内にすでに 30万余りのポーランド人住民が居住し、ドイツ人はわずかに 7,000名を残すのみとなっていたという。しかし、往時の都市の風景のまま復興されることとなり、旧市街の特色をできる限り保存する努力が積み重ねられたという。これに加え、東西冷戦が終結した 1990年以降、ドイツ人関連の文化遺産も見直しが進められ、遺産保護が行き渡るようになっているという。

1997年7月、オーデル川が大洪水を起こし、市街地が水没する被害に遭ってしまう。古代の人々の知恵からか、旧市街地の中心部は比較的標高が高い地点だったため水没を免れたが、新しく開発されたエリアや中州地帯の被害は深刻だったという。
2006年には、ヴロツワフ市内のやや東部にあった、百周年記念ホールが世界文化遺産に登録される快挙を成し遂げる。建設当時は、世界最大のコンクリート建造物だったという。


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