BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年3月下旬 『大陸西遊記』~


フィリピン セブ州 セブ市 ~ 市内人口 95万人、 一人当たり GDP 4,000 USD(全国)


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  マクタン・シュライン公園の マゼラン記念碑 と ラプラプ像
  サンペドロ要塞
  セブ歴史博物館(スクボ博物館)



マクタン・セブ国際空港の到着ロビーから外に出ると、暖かく乾燥した南国の空気に全身を洗われた。筆者はちょうどベストシーズンに訪問できたようで、東南アジアらしい湿度 100%のような灼熱の気温ではなく、米国カリフォルニアや 欧州地中海のような、爽やかな第一印象だった。

ドア外には、たくさん人々が 知人、客人を待って人だかりを作っていた。そこに、長身の警察官がだるそうに通路整理を行っていた。

この到着ロビーのドアを出て、右手 100~200 m(セブンイレブン店と逆方向) ほど進んだところにあるタクシー乗り場方面へ歩いてみた。 ターンテーブル状にタクシー乗り場が整備されており、市街地まで値段交渉して乗車する仕組み。

セブ市

その向かいには、セブ市の中心部にある 巨大ショッピングモール「SM Cebu City」までの 空港バス(My Bus)発着所があった。
簡易デスクで運賃を支払って(25ペソ)、順次、バスに乗車して発車を待つ仕組み。上写真はデスク裏に掲示されていた時刻表。だいたい 1時間に 3本の運行らしい。

今回の滞在で筆者は、まだオープンしたばかりという日系ホテルの東横インに宿泊してみた。このホテルの特徴は、空港までの無料送迎バスがあり、タクシーとの余計な値段交渉が不要であること、朝食が食べ放題であること、そして、ホテルが清潔ということだった。そして、極めつけはホテルがショッピングモールと隣接しているため、プールや 食事(日本食を含む)、両替、マッサージには全く困らない、ということも附記しておかねばなるまい。ホテル入り口前には、コンビニ「セブンイレブン」も 24時間営業していた。

ホテルフロントは、常に客でごった返しており、いつも列ができていた。宿泊人口とフロント要員の数が比例できていないのだと思う。

下写真は、ホテルの上層階からの眺め。海峡を挟んで向こうにマクタン島が見える。マクタン・セブ国際空港がある島だ。
この海峡にかけられている第 1マクタン橋と第 2マクタン橋はともに、日本の ODAで敷設されたという。 1本目は 1973年、2本目は 1999年に開通したとのこと。

セブ市

下写真は、Parkmall あたりを臨んだもの。

セブ市

下写真は、セブ市旧市街地の方角を眺めたもの。空港バスの終点である SM Cebu City が見える。

セブ市

下写真は、セブ本島とマクタン島間の海峡にかかる第 2マクタン橋を移動中に車上から撮影したもの。

左側がマクタン島。この島の海岸部分にはマングローブの木々が迫り、水上生活者の家が立ち並ぶ風景が見える。かなり遠浅の海なのだろうと推察できた。

セブ市

セブ市

空港からの往路は、東横インの無料送迎バスで 40分ぐらいかかったが、最終日に空港へ戻る際は、スムーズに移動でき 20分ほどで到着できた。
空港内は無料 Wifi(登録から 24時間限定)があり、非常に便利だった。

さて、このセブ本島側の見どころは、上写真のセブ港のさらに南にある 旧市街地(ダウンタウン)に集約されている。訪問ターゲットは、マゼランの十字架、サン・ペドロ要塞、セブ歴史博物館(スクボ博物館)ぐらいだろう。

セブ市

サン・ペドロ要塞(Fort San Pedro、上写真)は、本国スペインから派遣された 初代フィリピン総督レガスピが 1565年5月8日より自ら陣頭指揮を執って建設を進めた要塞で、最初は木造の簡易なものだったという。しかし、フィリピン諸島群で併合が難航していたイスラム勢力からの度重なる攻撃に対抗すべく、1738年にサンゴ石を利用した堅固な城壁へ整備されたという。

以後、フィリピン植民地政府の最古の要塞として記憶され、その支配の象徴となっていたが、長い戦いを経てついに 1898年、セブ独立派が要塞を占拠するに至り、 スペイン人植民者らを駆逐し、その統治に終止符を打たせるのだった。
しかし、直後に新統治者として介入してきたアメリカがフィリピンを保護領とすると、その駐留軍の兵舎として利用される。第 2次世界大戦期にアメリカ軍を駆逐した日本軍は、当要塞を捕虜収容所と 軍駐屯基地に転用した。

現在、敷地内には緑豊かな広場と博物館が併設されており、沈没船から引き上げた歴史的な遺品類が閲覧できるという。また、要塞の正門前にある独立広場には、この建設を主導した 初代総督レガスピの銅像が立つ。


  【 セブ市の 歴史 】

セブ市は、フィリピン国内で首都マニラに次いで、第二の規模を誇る大都市である。

しかし、同国で最も早くにスペイン入植者による開拓が進められた地にもかからず、北部ルソン島のマニラに比べて、まだまだ未開発地区が広がり、発展余地が残されたままだった、という意味合いを込めて、1960年代に「南の 女王都市(「Queen City of the South」)」との異名を取るようになる。

フィリピン中央部に散らばる ビサヤ諸島(700あまりの島々)の中心に位置するセブ島では、現在、州全体で 180万人の人口を有し、 167の島嶼エリアを統括するという。なお、このセブ島は東南アジアでも屈指の生産量を誇る トレド銅山が立地する。

そもそも、スペイン人らが入植する以前から、すでにセブ市の旧市街地エリアは交易集落地としてある程度、栄えていた土地柄であったという。
当時、セブ島などの島嶼豪族国家と中国王朝、東南アジアの諸エリアは貿易関係がすでに完成されており、多くの人や物資が往来していた。
この島嶼エリアにも、すでの華人らが進出しており、コミュニティを形成して、道教廟なども多数、設置されていたと考えられている。

セブ市

そうした中に 1521年4月7日、スペイン艦隊を率いた フェルディナンド・マゼラン一行がセブ島に漂着したのだった。
マゼラン自身はポルトガル人探検家兼航海士で、優秀な傭兵軍人でもあったが、ポルトガル皇室の冷遇に耐えかね同国を出奔し、直後にスペイン皇室に雇われて、西回り航路でのインド交易ルートの探索を指示されていたのだった。

南米大陸の最南端を成すマゼラン海峡を通過後、太平洋を横断し、餓えと栄養失調の中でフィリピン諸島にたどり着いたわけである。

セブ市

地元の酋長 ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)とその妻ファナ女王、家族、及び 800名あまりの土着民らにより艦隊一行は盛大な歓迎を受け、船員らは多くのフルーツや野菜を与えられて、急速に体力を回復させたようである。
一週間後の4月14日には、船員一行に混じっていたスペイン人宣教師は、まずこの地の人々のキリスト教化に成功し、フィリピンの地での門徒誕生の一歩を踏み出している。

幸先良い布教成功と現地歓迎に気を良くしたマゼランは、セブの町を ビジャ・デ・サン・ミゲル(Villa de San Miguel、聖ミカエルの村)と命名したという。

セブ市

しかし、セブ集落地の向かいにあるマクタン島に勢力を張る豪族首長 ラプ=ラプはキリスト教への改宗を拒否し、マゼランら一行はついに武力制圧に乗り出すも、逆に大量の原住民らの猛攻撃を受け、マゼラン(42歳)ら兵士 50人弱が殺害されてしまう(4月27日)。当時、フィリピン諸島ではイスラム教がすでに十分に浸透されていたのだった。



 世界一周を成し遂げた男、マゼランの前歴とは

彼は若くして、航海士となり アジア、アフリカ航海を経験しており、マラッカ王国を滅ぼしたポルトガル艦隊にも一軍船の船長として従軍していた。マラッカ王国は、その後、ジョーホル川沿いに拠点を移転することになる。

マゼランは、ポルトガル人として同国の勢力や利権伸長に尽力してきたが、皇室との関係が悪化し、同国を出放してスペイン商人を通じて、スペイン王室に雇用され(1517年)、この西回り航路によるアジア交易ルートの開拓を託されたのだった。

当時のスペイン王はカルロス 1世(カール 1世、1500~1558年)の治世時代で、1519年には オーストリア・ハプスブルク家の領土を継承し、また翌 1520年には神聖ローマ皇帝にまで選出されるなど、欧州で最大勢力を誇る帝国を築き上げ(下地図)、さらに南北アメリア大陸へ軍隊を派遣し、アステカ文明やインカ帝国への侵略を開始し始めたタイミングにあった。

セブ市

皇帝にせかされるように出航した一行は、過酷な太平洋横断を経て、ようやく陸地に到着できたのが、フィリピン諸島だった。ここで、地元の豪族たちに歓待され、地元民らの改宗に成功する。しかし、これに従わないマクタン島の族長 ラプ=ラプの率いる原住民兵 1500名によりマゼラン兵 50人は包囲されて白兵戦を演じる。
西洋式の鎧を身にまとい、現住民らの竹やりを防ぎながら、鉄砲で応戦するも、鎧のない足が弱点とされ、足に負傷を負わされた船員らは戦闘力を失い、そのまま全滅を喫するのだった。

いったんスペイン艦隊の残党船員らはセブ本島へ撤退するも、ここの族長にも裏切られ、多くを暗殺されるに至る。こうして 4隻の艦船のうち、3隻のみに乗り込み、さらにインド経由で翌年秋にスペインに帰還したのだった。



1521年にマゼランの残党船員らが本国スペインに戻ると(1522年9月6日)、スペイン王はこの西回り航路による香料貿易ルートの確立を指示する。

この時代、スペインは大軍を南北アメリメ大陸に派遣し、アステカ文明、マヤ文明、インカ帝国を滅亡に追い込んでおり、生き残った先住民インディオらを ポトシ銀山(ボリビア)開発の強制労働に駆り立て、巨万の富を手に入れつつあった。先住民社会はこの労働力の強制徴用と伝染病により壊滅的な打撃を受け、後に不足労働力の充当としてアフリカから黒人奴隷が輸入される流れとなる。
南北アメリカの大半を植民地化したスペインは、いよいよ本格的に太平洋方面へ進出してくる。

ちょうど、1556年1月に父のカルロス 1世の退位により、その息子のフェリペ 二世が 国王に即位する(28歳)。彼は、スペイン帝国の最盛期に君臨することとなり、 ライバルだったポルトガル国王も兼ねることで、その海外植民地すべても継承し、彼の支配地は 「太陽の沈まぬ国」と形容されるに至るのであった。

セブ市

マゼランの死から 40年後、この皇帝フェリペ 二世の命を受け、ついにスペイン領メキシコから派遣された総督 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel López de Legazpi)に率いられた艦隊が太平洋を横断し、再び、フィリピン諸島、特に中心都市となっていたセブ島に再上陸を果たす(1565年4月27日)。今回は完全に現地の征服目的の航海であった。

このスペイン船団に乗船していた聖アウグスチノ修道会の修道士で航海士の アンドレス・デ・ウルダネータ(Andres de Urdaneta)が、現地の本格的なキリスト教化を担う最初の人物となった。

伝説によると 1565年4月、セブ島に上陸したスペイン艦隊の兵士らが征服地から金目のものと思わしき戦利品を収奪しているときに、たまたまキリストの木造を見つける。これは伝説に聞く、かつてマゼランが残したとされる少年時代のキリスト像だと、ウルダネータ修道士が判断し、レガスピ総督により、この発見の地に小さな教会の建設が許可される。これがフィリピン史上、最初のキリスト教会になったと言われる。

その後、瞬く間に、フィリピン諸島全域が占領され、ついに 1571年1月1日、マニラ市を首府とする、スペイン領フィリピンが誕生することとなり、以後の 300年に及ぶスペイン植民地支配がスタートされたのだった。
レガスピ総督が最初に上陸し、要塞を建造したセブ島は、マニラに首府が移転されるまでの 6年間、スペイン暫定植民地政府の首府が開設されていた。

セブ市

初代植民地総督となった レガスピ総督であるが、高齢を理由に、結局、一度もマニラの地を踏むことなく、セブ島に滞在し続け、植民地宣言後の 1571年1月に、マゼランの命名した サン・ミゲル(セブ市)を ビジャ・デル・サンティシモ・ノンブレ・デ・ヘスス(Villa del Santisimo Nombre de Jesús、イエスの最も聖なる御名の村)へ改称して、さらに 1年ほど、当地にとどまり、そのまま病死を迎えることとなった。

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