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マレーシア ジョホール州 ジョホール・ラマ村
訪問日:2017年3月上旬 『大陸西遊記』~
マレーシア ジョホール・ラマ村 ~ 州内人口 380万人、 一人当たり GDP 11,000 USD(全国)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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コタ・ティンギ町から、ジョホール・ラマ博物館へ 往復 80~100リンギット
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ワニ園で有名な トゥルク・スンガ村(Teluk Sengat)を経由して。。。
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王都城塞 ジョホール・ラマの周辺に残る 墓標遺跡
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ラマ城塞の 地形 ~ 広いジョホール川沿いの 急峻な高台上に建造されていた
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ラマ城塞の 発掘現場 ~ 長方形型に加工された石材が見応えあり!
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ラマ城塞の高台広場 と 土塁跡
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後期ジョホール王国の 王城建築様式 ~ 石材とサンゴ石を内部に埋め込んだ 強化土塁
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【豆知識】王都城塞ジョホール・ラマの歴史 と 王国最大の交易港 ■■■
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城塞の土塁は、現在でも高さ 2~3 mはあり、圧巻!
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王都城塞ジョホール・ラマ遺跡の 空撮地図
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ラマ博物館の 展示スペース ~ かつての皇族や重臣らの屋敷を模した 高床式邸宅スタイル
前日
から宿泊していた、
コタ・ティンギ町
中心部の メイヤーホテル(Mayres Hotel)をチェックアウトして、そのまま バス・ターミナルへ移動し、ジョホール・ラマ博物館への 移動(直線距離 27 km)をタクシー運転手と交渉してみる。
昨日も、バス・ターミナル内の仲介人に質問し、往復 100リンギットと言われていたので、だいたいの相場観を理解した上で、直接、タクシー車内で客待ち中のドライバーと交渉すると、往復 80リンギットで OKとのこと。
コタ・ティンギ中心部を出発したタクシーは、コタティンギ博物館の角を曲がって、国道(ハイウェイ) 92号線をひたすら南下していく。
国道沿いには丁寧に、Johor Lama Fort まで ○○ km と標識が順次、設置されており、これに従っていけば、初めての訪問者でも難なく到着できるようになっていた
。
アブラヤシの木(パーム油の原料)が続くプランテーション農園の中央に敷設された国道 92号線を、タクシーで 35分ほどぶっ飛ばすと、右折の標識がある(下地図)。ここから 12.5 kmとのこと。
続いて、国道 J222線を西へ進む(上地図)。ちょうど、この道路脇には未舗装の土の道路が路肩に並行して走っており、ドライバー曰く、かつて、この国道 J222の舗装道路ができる前には、その土の道路を走ってラマ博物館へ行っていたと話していた。
このタクシー運転手は非常に協力的な好々爺で、1980年代からずっと自由業で タクシー・ドライバーに従事しているとのこと。かつては
シンガポール
まで自由に乗り入れできていたが、もう今は厳しいので、マレーシア国内のみで運転しており、首都クアラルンプールなどへもよく行ったと話してくれた。
また、一度、タクシー免許を取得すれば、マレーシアでは更新の必要はなく、辞めたいときまで永遠に保持できるとのことだった。この職種は自由の効く、ラクな仕事だよと言っていた。一日、ある程度稼いだら、勝手に帰宅する、とのこと。今日は筆者に会えたので、
コタ・ティンギ
に戻ったら、帰宅する、とか話していた。 40代の娘が三人いて、もう 4歳ぐらいの孫もいるとのこと。
何度かコタ・ティンギに来た日本人を、蛍の鑑賞ポイントまで乗せたこともある、という。
三菱、シャープ、ホンダなど、日本発の技術を大変に褒めてくれ、非常に親日的な方だった。これまでの日本人乗客もいい方が多かった影響だろう。自身が運転しているタクシーは、マレーシア国産車で最も大衆的なプロドゥア車製という。
しかし不幸なことに、筆者は乗車直前に、このドライバーに非常に迷惑をかけてしまっていた。 値段交渉が 80リンギで成立して安心しタクシーに乗車しようとすると、乗り場にたむろする仲介人の男が声をかけてきて。。。。「どこに行くのか」と。筆者が「ジョホール・ラマ」と正直に回答してしまったのがまずかった。
同時に、国道 92号線沿いの
AIR TAWAR 1
にはタクシーがあるのか?などと追加質問してしまい、結局、同じタクシーにそのまま乗って、往復するように指示される。
できれば筆者は、ラマ博物館の訪問後に、
AIR TAWAR 1
辺りでタクシーを下車して、そのまま路線バス 272か、P3で、さらに南方の
デサル
方面へ行ってみたかったのだが、その追加質問がトドメだった。。。
すると、仲介人は交渉成立済みだった筆者の乗るタクシー運転手に手配料 20リンギを要求していた。運転手も抗議していたが、仕方なく払わされていた。筆者の無知で、交渉成立済みのドライバーに余計な負担を強いてしまったと申し訳ない気がした。
往復の道中も気を使って積極的に話かけてくれ、度々の筆者のわがままな途中下車リクエストにも非常に協力的だったので、最終的に、その仲介人手数料の負担分 20リンギを含んだ、往復 100リンギをあげることにした。
ほとんど交通量のない道路をぶっ飛ばし、集落地からやや離れた位置にある道路脇の
小学校
(Sekolah Kebangsaan Telok Sengat)横を抜けて行く。看板には、中国語名で「国民学校」と併記されていたのが印象的だった。
こんなローカルなエリアにわずかに住む中華系住民らのために、漢字表記も怠らずに記しているのだろうか。
それとも、ラマ博物館を訪問する観光客に、ここは学校であることが分かるように英語名、中国語名を併記しているのだろうか。
小学校脇の国道 J174の入り口に、ラマ博物館まで残り 2.6 kmの道路標識があった。そのまま北上すると、左に入る狭い山道が見えてくる。その脇に、ラマ博物館の表札案内があった(下写真)。
ここの 山道沿い(上写真のタクシー後方の道路)の右手に、小さな
墓標遺跡
が保存されていた。
解説板によると、16世紀に設置されたもので、ジョホール王国の王都がここ コタ・バトゥ(現在のジョホールラマ博物館の一帯)にあった時代に相当し、 当時の身分の高い 軍総司令官(Temenggung)か、その 第二妻(Bidan)の墓と考えられているという。
上下一対の墓標で、一人分の墓石を示すそうだ。
さらに
5~10分ほど先へ進むと、四つ角を抜けて、ジョホール川を右手に一本道の細い道路を直進し(下写真左。奥にジョホール川が見渡せる)、ラマ博物館に到着した(下写真右)。
途中から、やや登り道になっており、この城塞部分が河川から結構な高度に位置している様子が感じ取れた。
下の古地図からも分かる通り、城塞中央部にかけて急に標高が上昇し、盛り上がった地形となっていた。城塞の最高地点は標高 70 mという。急斜面が河川に突起しているポイントに建造されているようだった。
今日、河川側の斜面には樹木や草が生い茂り、その高度を正確に視認できないのが残念だ。
しかし、ジョホール川の川幅がかなり広いことは十分に伝わってくる(下写真)。
なお
、この博物館までの細い直線道路の脇に、発掘調査の跡が展示されていた。
何らの解説板もなく、具体的な内容が確かめられなかったが、下記の王都 コタ・バトゥ時代の古地図から推察するに、城壁端に位置した何かの建物の基礎部分かと推察される。
垣根がないので、屋根の中まで入ることができる。人工的に長方形に加工された石材やサンゴ石が整然と組み上げられていた様子が見えてくる。
ようやく
、ラマ博物館の敷地内に入ってみる(訪問無料)。
日曜日の午後 13:00 過ぎのタイミングで、筆者以外、訪問者はいなかった。貸し切り状態の遺跡スペースに興奮して、40分ほど視察して回った。
王都城塞 ジョホール・ラマ遺跡の最大の見どころとなっている土塁スペースだが、所々に掘削されている場所は、小さな 大砲(展示館に実物あり)の台座跡かと思われる。
城塞は川に突き出た急好配の高台上に建造されており、その土壌は滑りやすく、敵の侵入を妨げる効果が期待されていたという。
高台は長方形型に設計され、意図的に角面を多く創り出すことで、ジョホール川沿いにできるだけ多数の大砲配備を可能にできるよう、設計されていた。
城塞の城壁は、単なる土塁を積み上げたものではなく、
石材
やサンゴ石を長方形に加工したものを整然と積み上げて、その上に土壌をかぶせており、敵軍の大砲射撃の衝撃に対応できるように強化されていたという。
土塁の内側から強化部材である石材が露出していた(下写真)。
城塞下は急斜面で、ジョホール川につながっている(下写真)。
ジョホール川
沿いに建造された複数の防衛陣地群の中でも最大規模を誇り、この高台部分に王宮を有する王城が開設されていたことも納得できる。
さらに、川沿いには港湾エリアも備えていたという。
ジョホール王国は、明朝との間で朝貢関係を構築しており、中国方面やインド方面からの交易拠点として栄えたという。
ジョホール・ラマ博物館の 歴史
初代国王 スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー 二世
の 治世時代(1528~1564年)の 1535年、ポルトガル軍の攻撃で壊滅した王都 コタ・カラ(Kota Kara)から退避していた滞在先の サヨン・ピナン(Sayong Pinang)において、ジョホール川流域の防衛網の再構築が勅命される。
この一環で、ジョホール川中流域でひと際、高台となっていた、この タンジュン・バトゥ(Tanjung Batu:バトゥ岬の意)の上に防衛陣地の構築が進められることとなる。
もともと、この河川沿いには 1400年のマラッカ王国建国以前から一定の交易拠点 ジョホール・ラマ村(Kampung Johor Lama)が存在したと考えられており、その集落地に隣接する形で陣地の建設が着手されたのだった。
翌 1536年にポルトガルとの間で、暫定的な和平協定が締結されると、バトゥ岬での防衛陣地の建設は、やがて新交易拠点の開設へと形を変え、5年後の 1540年に完成すると、王都自体がこの地に遷都され、コタ・バトゥ(Kota Batu)へ改称されることとなる。
川に突出した高台のロケーションからの見通しは非常に良く、ジョホール川流域で前後に建設された数ある防衛陣地の中でも最も堅固なものであったと指摘される。
さらに、川幅の広いジョホール川の中流域に位置したことから、王都 コタ・バトゥは 中国、インド、アラブ商人らの香辛料貿易港として栄え、ポルトガル占領下の商業都市マラッカをも凌駕するまでに繁栄を謳歌することとなった。
この立場逆転に業を煮やしたポルトガルとの対立が深刻化し、束の間の和平協定は破棄され、再び、王国各地で両者の局地戦が行われることとなった。
ポルトガルはスマトラ島北部の海洋民族集団のアチェ王国をけしかけ、ジョホール王国の周辺の属領を攻撃させ、ジョホール王国の勢力分断を図る。
そして 1564年、ついに Alauddin Riayat Shah Al-Qahhar の率いるアチェ王国軍はジョホール王国の王都 コタ・バトゥにまで侵攻し、河川流域の防衛陣地網を蹂躙して、王都が占領されるに至る。このとき、
初代国王 スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー 二世
や皇室家族、重臣一同ら王権の中枢が一網打尽に拉致されてしまう。
ジョホール王国の残党勢力は、アチェ王国の占領軍に傀儡政権として擁立されていた皇太子 ムザッファル・シャー(Muzaffar Shah)を離反させ、新たに
ムザッファル・シャー 二世
として 2代目国王に即位させて、王都 コタ・バトゥを放棄し、 より上流域の ブキット・セルユ(Bukit Seluyut)へ退去する。ここに改めて新王都を開設し、王権の復興に務めたのだった。
しかし、ジョホール川の上流域に位置し過ぎたため、交易活動に支障をきたしたことは明確で、わずか 9年後の 1573年、
国王 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世(Ali Jalla Abdul Jalil Shah Ⅱ)
の治世時代に、再び中流域の旧王都 コタ・バトゥの地に戻り、王都の再建工事が進められることとなる。このとき、王城はさらに巨大化され、防衛力の強化が図られている。
間もなく、多くの外国商人らが当地に戻るようになり、すぐにかつての栄華を取り戻すことに成功したのだった。
ここで勢力を完全復活させたジョホール国は、ポルトガル勢力の駆逐という歴代 ジョホール国王の悲願成就に乗り出す。1587年1月、周辺の属国、および、オランダ勢力の援軍を得て、大艦隊を組み、ポルトガル軍の籠るマラッカを完全包囲し陥落寸前にまで追い込むも、インド・ゴアからの援軍を受けたポルトガル軍により包囲網は突破され、マラッカ攻略作戦は失敗に終わってしまうのだった。
同年後半、勢力を盛り返したポルトガル軍が続いて反攻に出る。まず、ジョホール川の河口部を封鎖し、交易船の往来を遮断した上で、王国の経済圏を混乱させた後、王都 コタ・バトゥへ侵攻し、1ヵ月もの間、完全包囲し、絶え間ない艦砲射撃を浴びせ続けたのだった。
最終的に王都は落城し、王宮や邸宅、臣下の住居などがことごとく焼き払われてしまう。王城内にあった財宝や武器類もすべて略奪され、王権は壊滅的な打撃を受けてしまうのだった。
打倒ポルトガルを掲げて攻勢をかけた国王 アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャー 二世であったが、この戦いで失った代償はあまりに大きく、以後、ジョホール王国は コタ・バトゥの地に二度と王都を再建することができないほどに制海権を喪失してしまうのだった。
残党勢力は、ジョホール川の上流へのがれ、バトゥ・サワール(Batu Sawar)に新王都を開設する。
以後、コタ・バトゥは王都として使用されることは二度となく、簡単な要塞として再建されたようである。
この高台の要害の地は、川岸からの標高差から集落地開発に向かず、後に放棄されることとなり、平地の陣地群跡地は宅地開発の波に飲み込まれて、跡形もなっていく中、この コタ・バトゥ王城跡地だけは後世までその遺構を残すことに成功したのだった。
そして、1953年、1960年、2002年に大規模な発掘調査が行われ、当時の貴重な遺跡がそのままの形で出土することになる。展示館(2006年7月開館)にて閲覧できる大砲の砲弾も、このときに発掘されたもので、ポルトガル軍の艦砲射撃の苛烈さを示す証拠品となっている。ジョホール王国側の砲弾は一回りも小さいもので、その破壊力には大差があったという
。
現在でも、外面から見た土塁の高さは 2~3 mはあった。
下写真はいずれも、内面から土塁を撮影しているので、高さは 1 m程度しか見えないが。。。
土塁は博物館敷地の奥の方にまで続いており、その先まで行ってみると、かつての博物館入り口と駐車スペースが忽然と姿を現した(下写真左)。
博物館の入場門は土台が朽ちて倒壊しかかっていた。。。下写真右。
この入場門の後方にある、階段の隆起部分も土塁跡である。
この土塁列は、下地図のように、城塞(
王都
)一帯をぐるりと取り囲む長大なものであった。ラマ博物館の下の土塁沿いに見える空き地エリアが、この旧駐車場に相当する。
当時は、ジョホール川沿いに複数の防衛陣地が構築されていたわけだが、今日、明確な形状を残す場所は、この王都城塞の跡地である ジョホール・ラマ博物館だけという。
攻撃しにくい地形に建造されたということは、裏返せば、後世に人が住み着きにくい場所だったわけで、それが遺跡の破壊を免れさせたのだった。 その他の防衛陣地群や 王城(コタ・カラ、サヨン・ピナン、バトゥ・サワール など)の遺構は、住民らの集落地と一体化し、全く確認できなくなってしまっているという。
上地図の左上にある、ジョホール川と合流する ジョホール・ラマ川の合流ポイントにも軍事要塞が建造されていたそうだが、宅地開発され全く遺構は現存していないという。
この王都 コタ・バトゥは、アチェ王国やポルトガル軍から度々、攻撃をうけており、何度も占領、破壊されている。特に 1587年のポルトガル軍による本格的な侵攻では徹底に破壊的にされ(上絵図)、王城としての機能は停止されてしまったそうだが、以後も、防衛要塞として一部利用され続けたという
。
さて、いよいよ展示館スペースに入ってみる。伝統的な高床式邸宅スタイルの建物であった。当時、身分の高い皇族や家臣らは、こうした家屋に居住したという。
展示館へはクツを脱いで入る。いちおう、警備スタッフの人もいて、筆者が入館してくると、軒下の休憩スペースからはい出て、展示館内に入ってきた。電気と扇風機を付けてくれた。
館内には、土塁沿いに配備されていた小型大砲や(下写真左)、ポルトガル軍の艦砲射撃で発射された砲弾、交易された陶磁器類、墓石(アチェ・スタイル。下写真右)などが展示されていた。
見学後に、出身国と名前、訪問人数を記帳ノートに記すように言われた。本日の訪問者は、二人目だったようだ(13:30現在)。
そのまま再び、40~45分かけてタクシーで
コタ・ティンギ
のバス・ターミナルまで戻った。汗をかなりかいており、疲れた。筆者は、そのまま路線バス P3に再乗車して、再び、国道 92号線を南下し
デサル
へ向かうことになる。
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