BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月上旬 『大陸西遊記』~
ジョホール王国、その苦節 200年の歴史



マレーシア ジョホール・バル 特別市(ストュラン・ロー 地区)~ 市内人口 93万人


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  ジョホール・バル鉄道駅の 新旧駅舎と 路線バス・ターミナル JB Sentral
  Stulang Laut(ストュラン・ロー)地区への P102路線バスは、現地人専用だった。。。
  ド派手な 123番路線バスで、ストュラン・ロー地区へ移動する(10分、1.3 リンギット)
  マレー半島南端から、海峡対岸のシンガポールを一望する
  免税区・ベルジャヤ・ウォーターフロント と 国際フェリーターミナル
  【豆知識】ストュラン・ロー(Stulang Laut)= 中国語名:新甘光の 今昔 ■■■
  【豆知識】ジョホール王室の 郊外邸宅「Istana Pasir Pelangi(虹の砂 宮殿)」■■■
  ストュラン・ローの海峡沿岸を歩く ー マレーシア海軍の駐屯基地 と ケンタッキー店
  【豆知識】ジョホール・バルの 潮州同郷会の総本部「潮州八邑会館」と 華僑移民史 ■■■
  Stulang Laut(ストュラン・ロー)地図



この日は午後遅くに、ジョホール・バル中心部から東へ 4~5 kmに立地する ストュラン・ロー(Stulang Laut)地区を目指した。ここは、かつて海峡沿いの小さな漁村に過 ぎなかったわけだが(中国語で「新甘光」と通称された)、1900~1910年頃、その河口部に ジョホール王国 によって離宮や モスク(Pasir Pelangi Royal Mosque)、庭園など広大な宮廷施設が造営される。今日では土地を切り売りして宅地開発が進み、皇室庭園は大幅に縮小されているが、それでもまだ王室の権威を示すには十分に巨大な敷地が残る。

出発前ジョホール・バル中心部 にひっそりと立つ鉄道駅の旧駅舎前を通ったので写真撮影してみた(下写真)。中央時計台の塔に KTM MUZIUMと書いてあったが、誰も入場している様子はなかった。1909年に ジョホール・バルで路線が開通すると、 1932年にこの駅舎が建設され、2010年まで使用されていたという。現在は、 2列あった駅ホームのうち、片側に展示物が陳列されているらしい。

ジョホール・バル特別市

現在、この旧駅舎の北隣に鉄筋コンクリートのモダンな新鉄道駅ができており、その中はチケットカウンターと 改札口(建物の南端。下写真左)、両替屋やケンタッキーなどのファ―ストフード店が軒を連ね、にぎやかな空間となっていた。
ちなみに、この駅構内の北東入口近くにあった 両替屋(写真右)が、ジョホール・バル市内で最も交換レートが良かった。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

鉄道駅のモールを通過すると、その横は JB Sentral(ジョホールバル・セントラル・バスターミナル)、シンガポールへのイミグレ国境へと続く。ちょうど、この建物の間に鉄道線路が見下ろせた(下写真)。この先に、先ほどの旧駅舎が立地し、さらに遠方の対岸にシンガポールが見渡せる。

ジョホール・バル特別市

さてバスターミナル(JB Sentral)の建物を 1Fへ下りると、たくさんのバスが発着する乗り場に行き着く。事前調査していた P102 路線バス(黄色い車体)に乗車すべく、案内人に聞きまくって、ターミナルの一番奥の乗り場に到達できた(下写真)。外国人などの素人をここまで移動させるのは都度、案内も大変だろうし、もしかして、ストュラン・ロー(Stulang Laut)とは、地元民しか行かない場所なのだろうか??とやや不審に思ってしまった。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

そして案の定、その悪い予感は的中する。せっかく到着した P102路線バスだが(下写真)、バス・カードがないと乗車できない、という。現金は拒否された。

ジョホール・バル特別市

こんな長時間、排気ガスを吸わされながら待ったあげくに、目的地に到達できないのは癪だったので、意地でも バス・カードを購入しようと、バスターミナル建物に戻り、1F入り口脇にあった小さなチケット売り場で買い求めると、バス・カードはマレーシア国籍の人専用で外国人は購入できない、と言われてしまった。。。

では、ストュラン・ロー(Stulang Laut)に行くバスは??と問うと、他の路線バス便もある、と助言されたので、再度、バス発着所で案内人たちに聞きまくる。
ネットで事前調査したときは、P102便だけを見ていたので、30分ほどロスしてしまった。

P102路線バス ルートマップ  https://landtransportguru.net/jbbusp102/

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最終的に、123番路線バスという選択肢もあり、 このバスターミナル 1Fのすぐ正面が発着ポイントだと判明する。
ちょうど コタ・ティンギ 行の路線バスの後方に位置して、⑫⑪⑩⑨⑧。。。。。番乗り場 からでは見えない、逆サイド側であった。下写真。

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しばらくすると、123番路線バスが到着する!
乗客が降りると同時に、新たな乗客が乗り込んでいく(上写真の左から 2台目の白色バス)。
バス車体には「Permas Jaya Bus Terminal」行とあり、末尾に「Stulang Laut」の文字が!下写真左。 バス・ルートマップ https://landtransportguru.net/jbbus123/

乗車時に運転手に手渡しで運賃を支払う仕組みで、現金で 1.3リンギット。都度、釣銭を返してくれた。乗客が適度に座ると自動的に発車するようだった。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

10分弱のドライブで ストュラン・ロー(Stulang Laut)に到着する。
バスを下車すると海峡沿いの道路だったため、前面に ジョホール水道(海峡)が広がり、そして、進行方向に巨大な白亜のホテル建物がそびえ立っていた。上写真右。
上写真右の反対車線に停車中のバスが、123番路線バスとその下車ポイント。

なお、この路線バスの車内はド派手なデザインで、この行きに乗ったバスは後方がパーティー仕様の「コの字型」で、ビックリした。元は、貸し切り パーティー・バス用でデザインされていたのだろうか??。。。下写真。
ちなみに、帰路の路線バスは通常設計だった。両者、混用されているらしかった。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

バス下車後、まずは海峡沿いを散歩してみた。
シンガポール 側を見てみると、Jetty 波止場や ウォーターフロント公園、石油備蓄施設、海軍施設などが見渡せた。下写真。

ジョホール・バル特別市

下写真は、シンガポール国境の コーズウェイベイ方向 を眺めたもの

ジョホール・バル特別市

さて、そのまま海沿いに東へ歩みを進めると、白亜の ベルジャヤ・ウォーターフロント・ホテル(Berjaya Waterfront Hotel)前に到達する。こんな豪奢なホテルに似つかわしくない、ド派手な海鮮料理屋の看板が脇にあり、「太子海鮮免税区」と付記されていた。下写真。

ジョホール・バル特別市

この敷地は、国際フェリーターミナルも兼ねており、免税エリアに指定されている。試しに、敷地内に入ってみた(下写真左)が、何も注意されなかった。

とりあえず、人々がたむろする ショッピングモール入り口を目指した。どうやら、インドネシアへ帰国すると思わしきスカーフ姿の女性の一群が集まっていた(下写真右)。

ジョホール・バル特別市 ジョホール・バル特別市

ショッピングモールの中に入ってみると、ピカピカの建物だったが、中に客の姿は見当たらず、殺風景な印象だった。スターバックスやコンビニも入居していた。

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とりあえず写真撮影だけして、再び、歩いて来た入口から敷地を出ようとすると警備員が声をかけてくる。別ルートを指さしてくるので、出入口が別なのだと了解できた。
そこには、税関ゲートがあった。下写真。

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この免税区内では、アルコールとタバコが非課税で市街地より値段が安いのだろう。
しかし、この保税区内で購入したタバコやアルコールをマレーシアに持ち込む際、税金が課されるので、ここに税関検査場が設けられているという仕組みだった。この時に思った、「先ほどのモール内にあったスターバックスなどの飲食店はもともと非課税で値段も安めなのだろうか??」と。



 ストュラン・ロー(Stulang Laut)

ジョホール国境バスターミナルから 4~5 kmほど東にある Stulang Laut 地区は海峡沿いの郊外地区で、今日、地元マレー人やシンガポール人らにとってマレーシア料理 トムヤム・レストランや 中華海鮮料理屋が多いことで人気スポットとなっている。
マレーシア政府により、この海岸部に国際フェリーターミナル The Zon Ferry Terminal (TZFT) が開港されると、のどかだった 漁村(中国語で「新甘光」と通称された)は一変し宅地開発が急ピッチで進むこととなった。
そして 2013年3月、マレーシア国内で マクドナルド、セブンイレブンやスタバの独占事業展開、および航空会社、不動産開発等を手掛ける同国トップレベルの コングロマリット企業 BERJAYA Group(華僑系資本として 1984年創業、マレーシア証券取引所上場銘柄 : 3395)がこの国際フェリーターミナルの敷地一帯を買収すると、Berjaya Waterfront Ferry Terminal(BWFT)へ改称される。同時に、併設のホテルとショッピングモールの近代化も図られ、今日のピカピカの姿となった、というわけだった。現在、この 4F建てショッピング・モール The ZON Duty Free Shopping Centreはマレーシア最大の免税ショッピングセンターで、衣料品から酒、生活雑貨まで幅広く販売されているという(営業時間 10:00~22:00、年中無休)。この上階に 5つ星クラスのラグジュアリーなホテル Berjaya Waterfront Hotelを併設する。

また、これらの施設と直結された Berjaya Waterfront Ferry Terminalからは、インドネシア・ビンタン島の バタム中心部(Batam Center、片道 69 リンギット、往復 110 リンギット。片道 1時間半)と、タンジュン・ピナン(Tg. Pinang、片道 86 リンギット、往復 144 リンギット。片道 3時間)への国際フェリーが運行されている。運賃には、さらに片道あたり 21 リンギットの税・施設使用料等が課されるという。
なお、BERJAYA Group による買収&新開発後も、地元政府の道路標識は Terminal Ferry Stulang Laut のまま表示されているが、両者は同じものを指す。

そして、この ストュラン・ロー(Stulang Laut)の次のバス停が「Istana Pasir Pelangi(イスタナ・パシル・ピランギ)」で、ジョホール王室の宮廷がある場所である。
1900~10年代にジョホール王国が造営した離宮や 庭園、モスク(Pasir Pelangi Royal Mosque。 スルタン・アブ・バカール・モスクと同じ建築デザイン にて、1920年代に完成)が立地しており、「Istana Pasir Pelangi」を日本語訳すると「虹の砂 宮殿」という意味である。もともとは 22代目国王 スルタン・イブラヒム(在位:1895~1959年。「近代ジョホールの父」と称される アブ・ バカール の子)がその 皇太子(Tunku Mahkota)のために整備した邸宅敷地で、何もなかった緑地帯を開墾して建造されたという。ただし、王室一家は年間のほとんどを英国で生活しており、この王宮はほぼ使用されていないのが実情という。



やる気のない検査官が一人座っている通関ゲートを徒歩で素通りして行くと、免税区の敷地から出られた。
再び海沿いの駐車場を抜けて、眼前の バス停「ストュラン・ロー(Stulang Laut)」で 123番路線バスを待つ。20分に一本運行されているようだった。
なお、バス時刻表も何もないので、ただ待つばかりの時間となる。この ストュラン・ロー(Stulang Laut)一帯は、たくさんのタクシーが往来し、また客引きしており、筆者も度々、声をかけられた。
このバス停にもタクシーが陣取り、度々、目配せしてくる。下写真。

ジョホール・バル特別市

下写真は、このバス停から ジョホール・バル中心部への復路方向を眺めたもの。

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すると、10分弱で 123番路線バスがやってきた。バスに乗りこむと、現金 2リンギを運転手に手渡す。ここでも、釣銭はその場でもらえた(運賃 1.3リンギット)。

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次の バス停「KFC Stulang / Jalan Ibrahim Sultan」では、ケンタッキーとマクドナルドが道路両側に陣取る、ちょっとおしゃれなゾーンになっていた。面白そうなので、すぐにバスを下車してみる。
上写真は、この バス停「KFC Stulang / Jalan Ibrahim Sultan」から、先ほどの免税地区を振り返ったもの。

下写真は、海峡側にそりだす形で立地するケンタッキー店。対岸にはシンガポールが一望できる。

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ここから ジョホール・バル中心部に向かって、しばらく散歩してみることにした。
先ほどのケンタッキー店を通過すると、銃をもった軍人が警備するマレーシア海軍の小さな施設があった。水上艦艇も一隻、駐留していた。下写真。

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ここからは、きれいに整備された海峡沿いの遊歩道公園が続いていた。
ちょうどいい機会だからと、何度か立ち止まって対岸のシンガポール側を写真撮影していると、地元の若者が「むこうの工事現場がある岬から撮影するときれいだよ」とアドバイスしてくれた。でも、どう見ても部外者立ち入り禁止地区でしょうと言い返すと、今は工事関係者の 臨時社宅(下写真の右端、岬に立つ建物群)だから誰でも入れるよ。。。と言ってくれる。。。しかし、止めておいた。。。
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ちなみに、上写真の臨時社宅の 対岸シンガポール側に見える波止場が、現在、ウォーターフロント公園内にある Refurbished Jetty である

そして、この遊歩道沿いに「潮州八邑会館」があった。

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 ジョホール・バル 潮州八邑会館 の歩み

明朝の滅亡後、漢民族は全国で 秘密組織「義興会」を結成し、清軍との長い抗争を戦い抜いていた。しかし、大陸中国での拠点がせん滅されると、義興会の残党勢力らは海路、東南アジアへ逃亡する。特に マレーシア・ペナン島、 シンガポール、ジョホール・バル へ逃れたものが多かったという。

清朝後期の 1844年、陳開順がこの義興会メンバーの子孫らを引き連れてマレー半島南岸の海岸地帯に移住すると、プランテーション 農園「陳厝港」を開拓する
この時代、陳開順は ジョホール王国 スルタン・アブ・バカール(Sultan Abu Bakar。1833~1895年) が直面していた内部抗争の解決に協力し、その貢献を大いに賞賛されると、彼の義興会は合法組織として公認され、その活動は国王からバックアップされることとなった。

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19世紀前半を通じ、マレー半島南岸、現在の ジョホール・バル市域に住み着いた中華系移民らは 潮州エリア の出身者が多く、ジョホール・バルは「小汕頭」という異名もとるほどであったという。
ジョホール州内での開拓活動に際し、この文化的同質性が高かったという点が大きな団結心と統率効果を発揮し、安定的な社会発展と農地開拓をスムーズに進展させ、現在の市域開発に多大なる功績を残し得たわけである。

しかし、陳開順以外にも潮州出身者らによる秘密結社組織は乱立されており、アヘン密貿易など無法ビジネスも手掛けた関係上、度々、内部抗争なども勃発して社会不安を巻き起こしていた。今の日本で表現するなら、半グレ集団、やくざ組織といった団体も多かったわけで、 ついに 1919年、英国当局よりこれら義興会は一律に解散命令を受けることとなる
その後、非合法化された義興会に代わり、華僑移民らは同郷会と称して「華僑公所」を再結成する。 これが今の「中華公会」の発祥であり(下写真)、そのまま義興会の内実は継承され、 ジョホール・バル市における華僑社会の団結を象徴する互助組織として存続し続けるのだった。

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なお、義興会の諸団体が解散した際、それぞれの団体が保持していた古株メンバー 108体の祖先位牌がまとめて合葬されることとなり、明墓と命名される。この合葬地には位牌の他、当時の諸団体の帳簿や五尊香炉なども含まれていた、と考えられている。この五尊香炉とは、五帮(より上部の 5団体 ー 広東帮、福建帮、客家帮、潮汕帮、海南帮。上写真)を象徴する位牌であった。
同時に、解散した義興諸団体は 2万元もの大金を、中華系私立(寛柔)学校(現在の寛柔中學、Foon Yew High School。1913年5月創立。ストュラン・ロー地区の高台に立地)に寄贈する。以降、寛柔学校の校長は每年初めに必ず明墓を詣で、移民祖先を参拝する習わしが定着することとなった。今日でも每年春秋の 2回、寛柔中学と ジョホール・バル中華公会の役員メンバーらはまず、この明墓へ出向き参拜する習慣が根付いている。

さて義興会に代わり、華僑公所が各地で結成される中、姚逸斋らが中心となって組織したのが潮州社であった(1930年12月)。他団体から明墓が立地する綿裕亭義山の管理を全面受託されることとなる。
潮州社代表となっていた姚逸斋が吉品公司の主催したジョホール市内の潮州各団体代表会合の席上、 全体を束ねる総合団体として潮州八邑会館の新設を主張すると(1933年5月)、多くの賛同を得る。そして同年 8月に正式に第一回メンバー会議が開催され、団体役員が選出されると、翌 1934年1月からその活動を正式スタ―トする。
当初、八邑会館は事務所住所が定まっておらず、暫定的に吉品公司の事務所に間借りしていたが、間もなく羅咪街 36号に場所を賃貸して移転し、ここで 2月23日、開幕式典が執り行われることとなった。その際、各地の華僑移民代表らも集い、全会一致で八邑会館の成立記念日を 10月10日に決定したのだった。

これが、現在も継承される ジョホール・バル潮州八邑会館の発祥となる。
今、 その事務所はマレー半島最南端の ジョホール・バル市 ストュラン・ロー(No.53, Jalan Ibrahim Sultan, 80300, Johor Bahru, Johor)地区にあり、その真正面にはジョホール海峡、その先にはシンガポールを臨む絶好のロケーションに立地する。

これら各華僑団体は日本軍占領期間中、さまざまな弾圧を受けるも、中心メンバーの一人だった姚逸斋は幸いにも難を逃れる。しかし、その長男は日本軍に惨殺されてしまうのだった。
大戦後、日本軍が撤退すると、姚逸齊は積極的に潮州八邑会館の復興に尽力しつつ、寛柔中学の 校長・黄継翔と協力し、ジョホール・バル市における潮安同郷会を新設する。
なお、この同郷会はあくまでも 潮安地区 出身者のネットワークを強化するために発足されたもので、陳旭年街にある雑貨店の一室を借りてその事務所としたが、ローカルな潮安地方出身者の数自体がそもそも少なかったため、同郷会は小規模 なもので、最盛期でも 100人余りしかいなかったという。

ジョホール・バル特別市

1950年、寛柔中学が寛柔中学(Foon Yew High School)へ改編され、ストュラン・ロー(中国語の地名は、新甘光)地区の東端で、王宮庭園のすぐ脇に新校舎が建設される。

この時代、Stulang Laut(ストュラン・ロー)地区はジョホール水道に面する小さな漁村のままであった。1960年代まで、中華系移民らは 海上住居(高脚屋)を建設し、多くが水上生活を営んでいたという。こうした熱帯性の土地では、海上での住居は非常に涼しい環境を保つことができたとされる。

ジョホール王宮の邸宅敷地があるといっても、肝心の王族らはほとんど英国に在住しており、王宮はほとんど留守のままであった。その英国滞在費を捻出するため、王室は邸宅敷地を切り売りしており、徐々に宅地開発が進んで、今では大きな郊外地区の一角を成すエリアとなっている。しかし、往時の中華系移民らの海上生活の記憶は未だ鮮明に残存しており、当地では今日でも多くの中華海鮮料理屋が軒を連ねる。

現在、ジョホール州内には他に 12箇所の潮州会館が開設されている。すなわち、Mersing、Kulai、Pontian、Batu Pahat、 Parit Jawa、Bandar Muar、Tangkak、Segamat、Kluang、Yong Peng、Kota Tinggi、 Teluk Sengatの各都市である。その中で最古かつ最大規模を誇るのが、ここ ストュラン・ロー地区にある潮州八邑会館というわけだった。


この海峡沿いの道路では、いくつか中華系の中学校や 小学校、レストランを目にしたが、中華系移民らが主導してコミュニティを形成した地区であることが伺い知れた。下写真。

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さて、そのまま進行方向を歩き続け、ちょうど国道188号線との T字交差点を過ぎた地点に、次の バス停「Jalan Tanjung Puteri」があった。

しばらくすると、黄色い車体の P102路線バス が猛スピードで通過するも、外国人はムリだし、そのまま見送る。そして 5分ほどで 123番路線バスがやって来た。ここから 3分弱で終点のバスターミナルに戻れた。実際はバス停一つ分だけで、徒歩でバスターミナルまで戻れることに気づいた。。。

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それにしても、この日の外歩きは相当に汗だくだった。。。
このまま ジョホール・バルからシンガポール中心部の クイーンズ・ロードまで 3.4リンギ(釣銭無し)で戻った。ジョホール・バルのイミグレ通過後、下のバスターミナルへ下るエスカレーターがあるが、遠い方の B出口エスカレーターを降りると、すぐ真下が クイーンズ・ロード行バスの列となっている。この日は、平日 18:00前の時間帯だったが、イミグレはスムーズに通過できた。ただ、コーズウェイの陸橋はいつも通り、大混雑していた。


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