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訪問日:2014年10月中旬
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大韓民国 ソウル市 ② ~ 市内人口 1014万人、一人当たり GDP 35,000 USD (ソウル市 全体)
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~ ソウル城壁を 歩く ~
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歴代大王を祭る 宗廟(26人中 19名の Best of the Best Kings)
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漢城(ソウル)城壁の 歴史 ~ その築造から 修築、破壊、復元へ
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東大門 と 城壁、その後の 近代化圧力
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漢城の 中央部を流れる 渓川
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漢城の正門であった 南大門
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北門 と 北山城壁
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西門 と 西側城壁の跡地
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山岳部に 予備城「北漢山城」を 築城
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朝鮮城郭における 城壁強化の歩み
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冬季用のオンドル(温突)部屋 と 夏季用の木製部屋、二つを 使い分けていた!
昌徳宮とともにユネスコ世界文化遺産に登録されている
宗廟
。
ここは、李氏朝鮮王朝の初代皇帝である李成桂が王都を、高麗時代の開城から 漢城(ソウル)へ遷都する際、早々に築造させた先祖を祀る廟所である。1394年12月に着工され、早くも翌年 9月に完成されたという。
朝鮮の役以降、大王の御所となった昌徳宮と庭園でつながっていたが、朝鮮戦争後の都市開発で両者の間に自動車道路が開通し、今日現在、両者の庭園はつながっていない。
下の正殿が最も有名。
時の大王の死後、家臣らが議論の末に選んだ徳の高かった大王らの遺拝を各室内に祀っている。李氏朝鮮時代、全部で 26人の大王が即位したが、最初の正殿がどんどん増築されて現在の姿に至ったという。 釘を一本も使用しない木造建築であるため、容易に増改築が可能であったらしい。 なお、それでもスペース的に 19室しか増築できなかったため、後世からより徳の高いと認定された大王が死去する度に、先代のやや成果の見劣りする大王の遺拝が、隣接する 別殿(16室、下地図 ⑪)へと転出されていったという。
つまり、現在、正殿(下地図⑧)で祭られている大王らは、Best of the Best Kingsといえよう。左から 1室目は 初代大王・李成桂(1335~1408年)、3室目はハングル文字開発や倭寇の本拠地・対馬への遠征を強行した 4代目・世宗大王(1397~1450年)、 7室目は秀吉の朝鮮出兵の折、最悪の国難を乗り切った 14代目・宣祖大王(1552~1608年)の廟所という。各室には、歴代の大王と共に后妃も祀られている。
なお、宗廟への見学は、必ずツアー参加が必須らしい(下写真右上)。でも、毎週土曜日は完全フリー開放されるようで、ツアー時間を待つ必要はない。観覧時間上、日本語が分からないけど参加していた白人や東南アジア系訪問客らも混ざっていた。おかげで広々と構内を見て回れるが、入場時間が制限されているのは、下調べが不十分な個人訪問客には運命の分かれ道かも。
また、正殿の前に、控えめに端っこに建てられた廟所がある(下写真右下、下地図⑨)。ここは、83人の活躍した家臣らが祀られているという。初代大王・李成桂(太祖高皇帝)の建国時、大いに尽力した義兄弟の仲であった 李之蘭(1331~1402年)が、ここに祭られた第一号とされる。両者は共にすぐれた弓の名手で、最強のコンビであったと評されている。
宗廟から、ソウル城壁の視察のため、東門側へ移動する。
ソウル城壁
高麗時代(首都は開城)、この地は漢陽府と呼ばれていたが、1392年に李氏朝鮮を建国した李成桂により、1394年、王都に定められ、漢城と改名される。
王城の都市設計は儒教的世界観を反映して実施された。王宮(景福宮)は、北山の白岳の麓の明堂に建設され、儒教の 経典『周礼』の「考工記」に則って、左側に宗廟を、右側には社謖が配置されている。
また、王宮の前の南北大通りには主要官庁が、東門から西門一帯には 市場(市塵)が開設された。
1395年により宮殿工事が着工され、翌 96年には王城防衛のため城壁の建造も開始される。 98日間かけて、全国から 20万人の国民が動員され、平野部は土壁、山間部分は石積みでの 18.6 kmに及ぶ城壁工事が敢行される。
さらに、4代目大王・世宗は 32万人の国民を動員して、平野部の土塀城壁を石積みへと改修工事を進めさせている。当時は小さな石を積み上げたスタイルで、風化しやすく、また崩落も度々あったという。以後、徐々に大きな石材が使われるようになり、最終的に 1700年代初期に最終形態へと到達したのでった。
しかし、李氏朝鮮末期以降、近代化と都市開発の影響で、多くの城壁が撤去されてしまうも、1975年~1982年にかけて、9.8 kmの城壁が復元され、現在は 12.8 km分、城壁時代の全長 70%が再建されているという(下地図)。
東大門
付近は、現在、多くの観光客が集うショッピングエリアとなっている。
日本が韓国を併合し、ソウルを京城と改名して、近代都市開発を進める中で、路面電車と自動車道路の 開通のため、この東門の左右の城壁を撤去している。現在でも、同じ位置に自動車道路が通る(下写真)。現在の東大門は、1869年に再建されたもの(鉄骨製)。
下写真は、かつての東門付近の様子。東西南北の城門のうち、甕城を有したのは東門だけであった。 古写真の城壁に記された赤い矢印は、城壁に付設されていた雛城を示す。
李氏朝鮮から大韓帝国になった近代初期、すでに路面電車は東門下を通るように設計されていたが(下写真は、1904年当時)、最終的に、日本植民地政府により城壁自体を撤去されて、線路を貼り変えられたわけである。
下写真左は、路面電車の線路が撤去されて、再整備された後の東大門の古写真。
下写真右
は、東門付近を流れる渓川の現在の様子。確か、李明博前韓国大統領が市長時代に河畔工事を進めて、かつてのドブ川が市民の憩いの場になったことで有名になった。
下写真
は南大門とその周辺の古写真。城壁そのすぐ外には、農民らの土壁、藁葺屋根の小さな民家が広がっていた。江戸時代の日本の城下町と比較すると、その社会的豊かさの差を感じる。しかも、王宮がある王城付近でもこの粗末な生活ぶりであった。。。
ちなみに、この南門は
李氏朝鮮時代の漢城
において、500年以上、正門の役割を果たしてきた。毎日 15:00~22:00まで城門が開けられ、それ以外は外出禁止令が敷かれていたという。
写真のものは、1447年に改築されたもので、日本軍の朝鮮侵略の中でも破却を免れていた。しかし、 2008年2月に放火により焼失し、2013年5月に復元されている。
1907年に日本の支援で設置された城壁処理委員会によって、ソウル漢城の城壁撤去計画が遂行され、最初にこの 南大門(崇礼門)の左右の城壁撤去が進められることになった。
下写真は、北山の山頂付近にある
北門(彰義門)
の古写真。1396年に最初に設置されたものの、すぐに恒久閉鎖され、300年以上、使用されることがなかったが、 1741年に改修の後、城門上に楼閣が増設された。
下は、ソウル城壁の北側にある山岳部分の遠景図。
現在、ここは市民のウォーキングコースとなっている。古くは、李氏朝鮮時代末期から市民らによる城壁散歩がレクリエーションの一つとされており、四季折々の王城の移ろいを愛でる人々で大流行したという。
しかし、朝鮮戦争後、南山は米軍、北山一帯は韓国軍が軍事基地を展開する中で、城壁散歩ルートは中断されるも、1993年、2007年と順次、市民に再開放され、現在では城壁巡りウォーキングが復活して、市民の健康維持に大いに貢献しているという。
下の写真は、北山城壁を西側から眺めたもの。
ソウル城壁の西側登山は、5番路線バスで登山口まで行ける。もしくは、景福宮正門からでも徒歩 20分ほどだ。
下写真
は、この北山からの城壁が続いた西側城壁と西門跡の一帯。 現在は、交通の大要衝となっており、歴史的遺構は全く存在せず。
この 西門(敦義門)の城門下を通過する形で、韓国初の路面電車のレ-ルが敷設されていた(1899年、敦義門 ー 清涼里間)が、1915年に西門は完全撤去されるに至った。
また、
ソウル漢城
は、その周囲にいくつかの軍事要塞や狼煙台が配されていた。これらは 1704年~1712年の城壁大規模改修工事以降に築造されていったものである(それまでの城壁は小型の石材を積み上げられていたため、 容易に風化し崩落していた。この対策として、長方形に加工した巨大石材による石積みへと全面改修が進められた。また、東門側には雛城も増設された)。
下写真は、漢城周辺の古地図。赤色線は城壁を示す。
ソウル漢城のすぐ北側に城壁が連なる形で築城されていたのが、北漢山城(1711年完成)である。王都との連携防衛戦線であり、ソウル陥落の際は、この山城で籠城するための予備城でもあった。 また、附近には 藻春台城(1718年)も築城された。
下は、北漢山城の大成門の古写真。門前は、杏子村という有名な村落らしい。
全体的な印象としては、地方にある朝鮮式邑城の超巨大版がソウル漢城であり、その城壁外の様子は、地方と全く変わらぬ農村風景であったということである。 人々の生活スタイルや住居形態は、長い間、変化を止めていたと言える。
さて、下写真は、朝鮮時代の
石積み
城壁の変遷を表したものである。
初期のころは使いやすく、人力で積み上げやすい小さい石材を使用していたようだが、技術革新もあり、どんどんと大きな石材へと発展したいったようである。
かつての籠城戦においても、石積み城壁を敵軍にはがされて、城壁が一気に崩落するということがあったわけで(
第二次晋州城の戦い
)、なかなか人力では動かせない巨大な石材を積み上げることで、城壁自体を攻められる弱点を克服していったと言える。
城壁時代の最終段階では、長方形に石材自体を加工して積み上げていた。なお、この石積み城壁の変遷の様子は、漢城城壁の北山のハイキングコースの道中にはっきりと見てとることができる、という。
韓国の歴史解釈や考察において、その客観性が度々、疑問を呈されることがあるわけだが、ソウルの歴史や朝鮮半島自体の歴史を知れば知るほど、大国に翻弄されてきた中でも戦い抜いた殉国精神や、数少ない勝利のエピソードなどに大いにスポットライトを当て、 自民族や国家への愛着と自尊心を高めるための努力を必死で行ってこざるを得ない社会背景も分かるような気がしてきた。
ちょうど景福宮正門通りにある世宗大王や李舜臣の立像がある大通りの地下には、両雄の博物館が開館しているのだが、特に李舜臣の博物館では、日本水軍を銃で撃沈するゲームや、日本船団の間を潜り抜けていくゲームなど、生々しい対日本闘志をかきたてられるような細工がいろんな場所に散りばめられていて驚かされた。 さらに、この博物館へは、幼稚園児や小学生などなど多くの校外学習の訪問が実施されており、 韓国ナショナリズム教育の一環を目の当たりにできる。
上写真は、
李舜臣
展示館にあった亀甲船内の模型。将軍や指揮官は、船体の前方部に部屋を持っていた。そのすぐ裏手がトイレであったようである。
また、下写真は昌徳宮の正殿。壁画は、その当時の大王就任式典の様子を描いたもの。
家臣らはその身分的序列により、拝謁する位置が決められていた。
下の写真は、
オンドル(温突)部屋
の模型。床面は石造りとなっており、 その上に油紙を敷いていたらしい。奥側の部屋は木製の床で、ここは冬季以外で 生活する場所、オンドル部屋は冬場の生活空間と、二つに使い分けられていたそうだ。
このスタイルは、中国東北部から伝わり、朝鮮半島全土へと 伝播していったという。済州島には 19世紀にようやく広まったとされる(もともと罪人の流刑地であったため)。
2回目のソウル視察で、仁川空港から直接、仁華島へも出向こうとしたが、直通バスは存在していなかった。
モンゴル軍に首都の開城を占領された高麗王朝が 30年間、都を置いていた 場所(最終的には陥落することなく、降伏する形で開城し、元来の王都であった開城へ大王が戻ることになる)
で、次回のソウル訪問の機会には是非、足を運んでみたい。
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