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(慶尚南道)泗川市
訪問日:2014年10月中旬
大韓民国(慶尚南道)泗川市 ~ 市内人口 12万人、一人当たり GDP 39,000 USD(慶尚南道 全体)
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泗川市の 歴史 ~ 古代から 現代まで
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泗川古戦場碑、明・朝鮮連合軍の 首塚「唐兵墓」
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泗川船津里倭城
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【倭城ネタ】 泗川新城
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古戦場エリア と 鬼島津の猛追撃
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さらなる 島津軍の快進撃 と 露梁海戦
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泗川新城の戦いの 前哨戦で 猛攻を受けた 島津軍の支城「泗川邑城」
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泗川邑城の城壁跡 と 旧市街地
【
泗川市の 歴史
】
大陸中国が前漢王朝時代、朝鮮半島は三韓時代を迎えており、泗川市一帯には半島南部にあった弁辰 12カ国の一派の拠点が形成されていた
。これらがまとめ上げられていき、200年ごろ(大陸中国が 後漢末~三国志時代)には、浦上八国の一勢力である史勿国が建国されていたとされる。
これら小国群も百済と新羅による侵攻を受け、泗川市エリアは百済の勢力圏に組む込まれることになった。
新羅が百済を滅亡させたころ(660年)
、当地は史勿県と昆明県の東西二つの行政区にそれぞれ分割管理されていたという。
新羅によって全国統一された後、757年に唐王朝の統治制度が導入され、この地域は泗水県(県役所は、現在の泗川邑城跡内に開設された)となり、固城郡に属した。
高麗時代
の 940年、地名が昆明県へと改名される。 995年には、10道の 1つであった山南道の晋州牧の管轄下に帰属した。 1015年、泗洲県が新設される。なお、現在の泗川市西部一帯は、引き続き、昆明県に帰属され、1018年、同じく河東郡の晋州牧の管轄下に組み込まれる。 1172年に、この西部地域に最初の 監務(県監)が設置される。
高麗が滅亡して、
李氏朝鮮
が建国された後の 1413年、泗洲県が泗川県へ改名され、改めて 監務(県監)が設置される。 1415年、倭寇襲来対策もあり、泗川鎮鎮兵馬使兼判県使が新設される。
1419年、南海県と昆明県が合併され、昆南郡へ昇格される。
1423年、兵馬節制使が導入される。
1430年、昆陽県城に、1445年には 泗川県城(宣仁里)に、それぞれ土壁の城壁が建造される。新羅時代からあった 県役所(監務もしくは県監)と住民らの居住区を囲む形で城壁が設置され、朝鮮式邑城が誕生する。
1468年には、泗川鎮へ改編され、泗川邑城内に県監兵馬節制使兼県監が新設された。李朝末期の 1895年、八道制が廃止され、全国 23府制となり、昆陽郡と合併された泗川郡は、 晋州府の管轄下に帰属することになる。
その後も、固城郡や晋州郡との離合集散が繰り返され、最終的には 1995年5月10日、三千浦市と泗川郡が合併して、現在の泗川市制が開始された。
筆者は、
晋州市外バスターミナル
から、泗川方面行きのバスに 乗車(実際、このバスは泗川旧市街のバスタ―ミナルを経由して、さらに市内を南下し、そのまま三千浦港まで行きつく、超長距離バスである)して、当地入りした。2,300 won、乗車時間は 30分ぐらい。
このとき重要なのは、超長距離バスなので、目的地の下車位置がはっきり分からないということである。前日のうちに、観光案内所(
晋州 KTX駅
)か、ホテルなどスタッフの方に韓国語で「泗川船津里公園へ行きたい」というハングルをメモ書きしてもらっておくことが肝心だ。このメモ書きを、バス乗車時に運転手に見せておくと、下車すべきバス停で下してもらえる。
下車後
、まっすぐ西へ 2.7kmを歩く。上地図。
桜並木が永遠と続く、さわやかな 田舎道(下写真)。とてもすがすがしい気持ちになる。きっと春のシーズンにはさぞかし行楽客で賑わうことだろう。
そして、海岸線が近づいてくると、まず、朝鮮・明軍の首塚を祀った廟所が見えてくる(下写真左)。
その先、あと 5分で泗川新城だ。ちょうど、この歩いている一帯で、島津軍 7,000と明朝鮮連合軍 9万が激突したわけである。
ちなみに、ここで目にした首塚廟であるが、説明板によると、 1598年10月1日の戦闘終了後、島津隊はその戦果を本国に報告すべく、朝鮮・明軍の戦死者らの耳と鼻を切り落とし、それらを日本へと送る。その後、遺体の首を落として墓を作った(記録によれば 計 38,717の首級!)のが、この朝鮮・明軍の首塚という。しかし、最初は泗川城の前に設置されていたが、悪臭のため、さらに離れた現在の場所へと移設された、という。周囲 6 m × 6 m の正方形で造成され、唐兵墓と呼ばれたようである(上写真左の奥にある草に覆われた古墳のような小山部分)。
しかし、日本軍撤収後、管理人が不在となり、約 400年間、放置されたままであったが、1983年に地元民らによって整備が始まったとのことである(その後、毎年旧暦 10月1日に慰霊祭が行われているらしい)。
なお、この古戦場一帯は、せっかく広い自動車道路が開通しているのに、平時は交通量がほぼ皆無であるために、大通りは、近隣の農家が米を天日干しするための「アスファルト乾燥機」と化していた(上写真右)。
泗川新城(船津里公園)
さてさて、
島津義弘
が立てこもった泗川新城であるが、天守閣、本丸、二の丸郭はきれいに石垣や郭内部が整備されており、爽快な市民公園となっていた。
現時点において、この城跡の見どころは、整備された城内というよりも、他の倭城とは違って埋め立てがほとんど実施されていない、間近に迫る海岸線の眺めと(下写真左)、唯一陸地とつながっていた半島東側の防衛ライン跡と言える。
現在は、田んぼと畑だけになっており、防衛ラインの稜線はだいぶん変形されているが、しかし、はっきりと防塁壁跡、海水堀跡などの段差や広大さは伝わってくる。相当に広い堀であったことが推察される。下写真。
おそらく
、かつては地形を変えるまでに掘削工事を行い、海水をひいて水堀としていたのであろう。この写真では分かりにくいが、周辺の地形は異様にアップダウンの段差があり、人口的な加工を感じる。イメージとしては、
順天倭城
と同じような構造ではなかっただろうか。
【 倭城ネタ 】
泗川新城
朝鮮軍は日本軍が新築したこの倭城を、泗川新塞と称した。平山城で、本丸部分の標高は 40~50 mほどであった。北、西、南を海に囲まれた天然の要害で、そのすぐ下には数千もの船舶が停泊できた、とされる。陸続きの部分は、東面のみであった。石垣が積み上げられ、その外側には 3重の防護柵が建てられて、堀として海水が引かれていた。
城郭の郭は、本丸、二の丸、三の丸、外郭の 4重構造になっており、城内外に所狭しと兵士の住まいである家屋が建てられていたという。
長曾我部元親、
中川秀成
、池田秀氏、毛利吉成、伊東祐兵、秋月種長、高橋元種、相良頼房、島津豊久、そして軍監であった垣見一直らが築城を担当し、1597年10月29日に着工、12月27日に完成後、
島津義弘
がここの守備を担当した。
さて、城内を見学後、先ほどの桜並木を通って、例のバス停まで再び徒歩で戻る。バス停到着後、73番のローカル路線バスに乗って(1,200 Won)、泗川市街地の方面まで戻る。
なお
、古城跡および古戦場跡一帯は、かつての原風景が何となく偲ばれる田舎であるため、 1598年10月1日の決戦の日、島津が伏兵を城外に置いたとされる場所も、何となく勝手に妄想してみるのもおもしろい。筆者のカンでは、城外のさらに南の海岸線沿いに別働隊を隠したのではないかと思ってみた。
下の写真は、古戦場となったであろう一帯の風景。非常に広大な平野部が城郭の前面に広がっていたようだ。泗川新城に遠く向き合うように立つ正面の山頂にも、李氏朝鮮時代の狼煙台が現存するという(下写真の山)。時間があれば、この山頂から泗川の古戦場跡の全景も見てみたいものだ。
籠城戦の後、城外の別働隊と呼応して城内から討って出た島津兵らは、泗川市街地のすぐ南側を流れる 泗川川(旧南川)まで明・朝鮮連合軍を追い散らし、連合軍に「鬼島津」の強烈なイメージを焼き付けることになったという。
9月
下旬からはじまった島津軍の泗川一帯での激戦の最中、すぐ西隣の
順天城
に籠る小西行長軍にも 6万の明・朝鮮連合軍が迫っていた。そして、10月1日の泗川の大敗北を知らないまま、明・朝鮮連合軍は 10月2日に順天城への総攻撃を開始するも、大量の鉄砲による日本軍の迎撃を受け、ついに 5日間におよぶ、力ずくの攻城戦でも全く成果が得られないまま膠着状態に陥る。
こうしたにらみ合いの中、秀吉の死を知った双方は休戦協定を結んで、籠城する小西行長軍は撤退をはかるも、11月中旬になっても朝鮮、明水軍による海上封鎖は解除されず、日本軍は順天湾に閉じ込められる事態となり、巨済島にあった日本水軍は総力をあげて順天城守備軍の救出作戦を決行することになる(下地図)
。
このとき、「新城」と記載されている泗川新城より、
島津義弘
軍も援軍として順天へ向かっている(
この島津軍が李舜臣を討ち取ることになる
)。
ちなみに、下地図の「曳橋」と記載された箇所が、日本軍が籠る順天城のことである。
青色:日本水軍
赤色:明・朝鮮水軍
泗川邑城
73番バスにて泗川市街地に到着後、ここから歩いて 10分ほどの距離にある泗川邑城公園を見学する(下地図)。ここは島津軍の支城でもあった。
1598年9月27日、明・朝鮮軍の先方隊の急襲を受け、守将であった川上忠実ら守備軍数百人は、城内に備蓄していた 1万石の食糧の移動が間に合わず、無理な籠城戦を強いられることになる。攻め寄せる敵軍にも大打撃を与えるもの、多勢に無勢でいったん城と食料を捨てて、包囲網の突破を図る。
多くの戦死者を出して守備兵らは同日中に泗川新城へ撤退することに成功しているが、ここで明・朝鮮軍により島津兵数十名の捕虜が生け捕られ、戦後、彼らは全員、
明朝の王都「北京」
まで連行されて、見せしめ処刑されることになる。
城壁延長が 900 m強の狭い
朝鮮式邑城
は、この丘陵地帯にこじんまりとあったようで、数百人で防衛するにはちょうどいい規模であったのかもしれない。
現在は、城壁内の集落は、小学校や民家が立ち並び(下写真)、古城時代を偲ばせてくれるものは何も残されていない。
現在、丘の上には、一部、復元された泗川邑城の石垣がある。その連なりに土塁部分が残り、かつての邑城時代の状態がそのまま保存されていて、いちおうの見応えはある(下写真)。現存する城壁は 300 mほどだという。
この城壁は、
李氏朝鮮の第四代大王の 世宗(ハングル文字の制定など文化政策に注力した国王)の治世下
の 1445年に築造されたものである。
一般に、朝鮮式城壁都市である邑城スタイルは、
高麗王朝末期から李氏朝鮮建国期
に数多く築城されており、当時、倭寇の襲来が激しかった時代背景が反映されているらしい。
それから 50年近く経った第四代国王の世宗は、さらにこの防衛を徹底すべく、半島南部の邑城壁の修繕と強化を命令するとともに、対馬へ兵を送り倭寇の拠点を攻撃している(応永の外寇、結果としては失敗)。
この時代、泗川邑(宣仁里)の集落地に築城されたのが泗川邑城であるが、その城壁は高さ 3~3.5 m、総延長 913 mの円形で、3箇所に城門を有したという。城門の上にのみ、凹凸状の 矢座間垣(女壁)が設置されていた。また、城門には簡単な甕城も設置され、一般的な邑城スタイルを有する城郭集落であったらしい。城壁の外には堀も巡らされていたという。
ちなみに、これらの数多くの朝鮮式邑城は
日本が韓国併合した後
、その命令により、ほとんどが破却されてしまったという。
なお、朝鮮式邑城は、多くの場合、平地部分とちょっとした 丘陵(小山)部分の半分を切り取って、城壁で囲ってしまう習慣がある(上写真はイメージ)。朝鮮式城壁集落の様子は、
順天市の楽安邑城
の記事をご参考にされると、イメージを得られやすいので、是非、ご一読を。
ここから、筆者は泗川バスターミナルより、
固城郡
へ移動した(乗車時間 40分、3,700 won)。
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